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明治艶恋浪漫譚
華族令嬢は焦がれるほどの愛を刻まれる

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書籍紹介

貴女の身体は随分と淫らになってきたな

復讐のため、豪商の御曹司・清秋と結婚した雪乃。「僕の腕の中に居る時は、全てを忘れていい」逞しい胸に身を委ね、蜜を垂らす下腹部を剛直で穿たれながらはしたなく喘ぐ。彼は両親の仇の息子だというのに――。目的を果たすまでの夫婦関係だったはずが、濃密な夜を過ごすたび、憎悪に染まった心は溶かされていく。「君を僕のものにしたい」想いを告げられれば幸せの絶頂に!

ジャンル:
和風
キャラ属性:
ワイルド・騎士・軍人
シチュエーション:
甘々・溺愛 | 新婚 | 年の差
登場人物紹介

鷹栖清秋(たかす せいしゅう)

豪商・鷹栖家の次男で軍人。父親の命を狙っていた雪乃を捕まえた際、真相を知りたければ妻になれと提案する。西洋人の血が入っている。

天方雪乃(あまかた ゆきの)

清秋の父・伊三郎に復讐を誓う元華族の令嬢。芯が強く、家族想いだが頑固な一面もある。清秋の提案で彼の妻になる。

立ち読み

 ちらちらと細雪が舞っている日だった。
 天方子爵家の長女、天方雪乃は妹の夏子の手を握って呆然と焼け跡を眺めていた。
 母方の実家へ遊びに行っていた二人は、火事で屋敷が全焼したという知らせを受けて朝一番の列車で帰ってきた。しかし、彼女たちを待ち受けていたのは残酷な現実だった。
 両親との思い出が残る屋敷は焼け落ち、色鮮やかに季節の移ろいを見せてくれた庭の草花や木々も、真っ黒な炭へと変わり果ててしまっている。
 庭には屋敷で発見された黒い亡骸が横たわっているが、白い布を被せられていた。
 雪乃は夏子を下がらせて、家令の袴田が止めるのも聞かずに、顔だけでも確認しようと布を捲る。そして、あまりにも凄惨な両親の亡骸を目にして吐きそうになった。
「うっ、ぐ……」
 目の前の現実を受け入れることができず、口元に手を当てて嘔吐感を堪える。
 すぐに遺体を隠して蹲っていたら、夏子に着物の袖を引っ張られた。
「お姉さま。お父さまと、お母さまは、死んじゃったの?」
「……ええ、そうよ」
「そんな……いやですっ……お父さま、お母さまぁっ……」
 雪乃は亡骸に駆け寄ろうとする妹を引き留めて、小さな手を優しく握りしめる。
「あなたは見ちゃ駄目よ、夏子」
 声を上げて激しく泣き出す夏子を抱きしめて、幾度も背中をさすってやった。
「私がいるから大丈夫。これからは、私があなたのことを守るわ」
 雪乃は涙を流す代わりに、夏子だけではなく、自分にも言い聞かせる。
 父と母は亡くなってしまった。だから、私が夏子を守らなくてはならない。
 全焼した屋敷。黒焦げた焼け跡には、薄らと積もった雪で白い斑模様ができていた。
 ──白と黒。十四歳だった雪乃の記憶に濃く焼きついている色だ。


 両親の葬儀は、街の小さな葬儀場で粛々と行なわれた。手配は全て家令の袴田がやってくれた。
 葬儀の参列者は、雪乃と夏子の前ではお悔やみを口にしたが、心中ではないかと囁いている声があちこちから聞こえてくる。
 火事の原因は火の不始末だと言われた。出火時刻は深夜で、袴田も住み込みではなかったので、おそらく両親の部屋で使用していたランプの火が何らかの理由で家具に燃え移ってしまって、両親も逃げ遅れたのだろうということだ。
 巷ではランプの油を零したことによる火災も多く、この火事も『子爵家全焼の原因は火の不始末か、心中か』という見出しで、新聞の紙面を賑わせていた。
 以前から天方子爵家は困窮しており、爵位を返上せざるを得ないほど借金が膨れ上がっていた。雪乃も経済的な理由から女学校を辞めることになっていて、そういった家の事情も鑑みて、両親が心中をしたという噂に拍車がかかっているようだった。
 そんな中でも、雪乃は気丈に振る舞った。物陰でこっそり泣くことはあれども、妹の夏子の前では涙を見せないようにしていたのだ。
 葬儀には母方の祖母である、向坂みつも訪れていた。
「おお、大変だったねぇ。なんと不憫な……一度に両親を失うとは」
 優しい祖母に抱きしめられた時は、それまで我慢していた雪乃も耐えきれず、夏子と一緒になって涙を零した。
「お祖母様。お父様と、お母様が、心中なんてするはずありませんよね……私たちを置いて逝ってしまうなんて、そんなこと信じられません」
 雪乃の訴えを聞いて、みつは少し黙りこむ。そして、ぽつりと呟いた。
「鷹栖伊三郎のせいじゃろう」
「鷹栖? 聞き覚えのある名前です」
「鷹栖は高利の金貸しだよ。実は、以前から夕子に相談を受けていてね。身に覚えのない借金をでっちあげられて、取り立てに遭っていると」
 祖母が重々しくそう語って胸元から一通の文を取り出す。目を通してみると、見慣れた母の筆跡で綴られていた。
「『また、鷹栖家から取り立てが来ました。どうしたらよいでしょう』……これは……」
 雪乃は読み上げながら顔を曇らせる。
 短い文だが、それは確かに、母が祖母に取り立ての件で相談している内容だった。
「お姉さま、どういうこと?」
「私も初めて知ったわ。お母様もお父様も、私には何も話してくださらなかった」
「子供たちには何も言わないようにしていたからね。でも、鷹栖は何度も取り立てに来ていたはずだよ。それも、お前たちは知らなかったのかい」
 雪乃は記憶を探り、鷹栖家からの代理人だという男が何度か父を訪ねていたことを思い出す。父は古い知己だと語っていたが、あれは高利貸の取り立てだったのだろう。
「お前たちの知らないところで、厳しく取り立てをしていたのだよ。もともと悪い噂のある高利貸だ。もしかしたら、この時期にお前たちを田舎へ送り出したのは、巻きこまないようにするためだったのかもしれん。借金をでっちあげられた挙げ句、追い詰められてどうしようもなくなったのだろう。鷹栖伊三郎に殺されたも同然じゃ」
 両親を亡くして深く傷ついた心に、信頼を寄せる優しい祖母の言葉は毒のように沁みわたっていく。
「そんな……では、お父様とお母様は、本当に心中をしたということですか?」
 祖母のみつは視線を伏せて黙してしまう。
 雪乃は唇を震わせると、不安そうな夏子の肩を抱き寄せた。
 そこへ、参列者の応対をしてくれていた袴田が小走りにやってくる。
「雪乃様。鷹栖家のご子息様がいらっしゃいました。鷹栖伊三郎殿の代理ということで、雪乃様とお会いしたいとのことです」
「……鷹栖、伊三郎……」
「ほれ、来たぞ。両親が死んだばかりだというのに、金を取り立てるつもりじゃ」
「みつ殿」
 袴田が控えめに窘めると、みつは肩を竦めて葬儀場の奥へと行ってしまった。
 雪乃は小刻みに震える手を握りしめて、夏子の肩を押す。
「あなたは、お祖母様のところへ行っていなさい」
「でも、お姉さま」
「いいから、行きなさい」
 夏子をみつのもとへ送り出し、雪乃は袴田に向き直った。
「雪乃様。私のほうから、お帰り頂くようにお伝えすることもできますが」
「会うわ」
 両親が亡くなった今、私がしっかりしなくてはいけない。
 雪乃は自分に言い聞かせると、しっかりとした声で応じて、袴田の案内で鷹栖伊三郎の子息のもとへ向かう。
 伊三郎の子息は二人で弔問に訪れていた。
 雪乃が近づくと、長男と思しき青年が頭を下げてくる。
「天方子爵の娘、雪乃です」
「鷹栖伊三郎の長男、鷹栖春信といいます。こちらは次男の清秋です。父、伊三郎は体調を崩しておりまして、本日は名代として参りました。このたびは、お悔やみを申し上げます」
「お帰りください」
 雪乃は淀みのない口調で告げた。
 春信が顔を伏せたまま動きを止める。隣に佇む次男の清秋は、頭を下げずに雪乃を見つめていたので目が合った。西洋人の血が混じっているのか、彼の瞳の色は青い。
 雪乃は凜と顔を上げて、もう一度、繰り返した。
「どうか、お帰りください。あなたがたにお焼香をしてもらうことを、両親は望んではいません」
 それだけ告げると、雪乃はくるりと踵を返してその場を後にする。
 袴田が深々と頭を下げ、二人に謝罪している声が聞こえてきた。感情のままに言葉をぶつけて去り、袴田に面倒事を押しつけてきたも同然だから、後できちんと謝らなくてはならないだろう。
 雪乃は拳を握りしめて葬儀場の裏手に行くと、今にも雪が降りそうな曇天を仰ぎ、声を殺して泣き始めた。
 頬を流れ落ちる涙の理由は悲しみだけではない。憎しみと、悔しさも交じっていた。
 ──借金をでっちあげられた挙げ句、追い詰められてどうしようもなくなったのだろう。鷹栖伊三郎に殺されたも同然じゃ。
 祖母の言葉を頭の中で反芻する。
 両親の無念を想像しただけでも、雪乃の胸は張り裂けそうになった。
「お父様……お母様……」
 もしも、両親の死が本当に鷹栖伊三郎のせいだったのなら、幼い妹と共に遺された雪乃にできることと言ったら、妹を守り、そして──。
「許せないわ……鷹栖、伊三郎……」
 無念の死を遂げた両親の仇を討つ。
 雪乃は涙の浮かぶ瞳に憤りの炎を宿し、爪が食いこむほど強く拳を握りしめていた。
 いつしか空から真っ白な雪が舞い始めていて、死を弔う喪服に薄らと積もっていった。

 

 

 

 天方子爵家の火災から、六年の月日が経過していた。
 時は明治、東京の街並みには西洋の文化を取り入れた煉瓦造り建造物が現れ、洋装で出歩く者が少しずつ目につくようになった。目抜き通りには人力車の他に、チンチンと音を鳴らしながら人を乗せる電車も走り始めており、人々の新たな足となりつつあった。
 そんな東京の街の一角、賑やかな大通りから一本脇に逸れて川沿いの街路を進むと、日本家屋が立ち並ぶ閑静な住宅街が広がっている。
 その片隅に佇む、古く小さな一戸建てで、雪乃は妹の夏子と共に暮らしていた。
 障子を開け放って身の回りの品を纏めていた雪乃は、憂いを帯びた吐息をつく。
 今年で二十歳になる雪乃は、豊かな髪を女性らしく束髪に結い上げており、黒い瞳を縁取る長い睫毛と桜色の薄い唇が、憂う横顔を儚げに見せていた。美女と謳われるほどの美貌の持ち主ではないが、上品で凜とした佇まいと所作の美しさは、街を歩くだけでも異性の目を惹く。
 ただ、この六年でその身に背負った苦労を示すように、質素な着物の袖から覗く白い手はほっそりとしていた。陰のある横顔から窺い知れる表情の暗さも、彼女が経験してきた苦悩が滲み出ているようだった。
 ふと、雪乃は視線を上げる。軒先に吊るした風鈴が涼やかな音を奏でていた。
 季節は夏の盛りを迎えており、もうすぐお盆の時期だ。
 その時、部屋の隅で正座をして黙りこくっていた夏子が口火を切った。
「わざわざ家を出て働く必要はないと思うのです」
「夏子。私が家を出ることには、納得してくれたはずでしょう」
「考え直したのです。私が病弱なせいで、お姉様にたくさん苦労をかけてきたことは自覚しています。それでも、私はもう子供ではないのですよ。働きに出ることもできます」
「確かに、あなたはもう十六歳になったわ。自分がこれからどう生きたいのか、考えることができる年齢よ」
「だから、私はお姉様と、ここで一緒に暮らしたいと言っているのです」
 夏子の大きな瞳には涙が浮かんでいる。
 雪乃は目尻を下げると、夏子を手招き、手拭いで妹の涙を拭ってあげた。
「あの人から届いた手紙を読んだでしょう。あなたが望むなら、よい嫁ぎ先を紹介してくれるって。袴田も料理屋が繁盛しているようだし、あなた一人なら、引き取って一緒に暮らすこともできると言っていたわ。好きなほうを選んでいいのよ」
「どちらも嫌です。お姉様がいません」
 雪乃は苦笑しながら両手で妹の頬を包みこんだ。幼い頃、夏子は泣くことが多かったから、そういう時はよくこうして顔を覗きこみ、目を見て話を聞いてあげたものだ。
 夏子と鼻の頭が触れ合うほど顔を近づけて、雪乃は声をひそめる。
「私はただ、働きに出るだけよ」
「いいえ。鷹栖家に行って、伊三郎の命を狙うおつもりなのでしょう」
 夏子が噛みつくような勢いで言い放った。
 妹に自分の本懐を告げたことはなかったので、雪乃は驚きで言葉を失う。
 鷹栖家で女中として働くことになった。そう告げた時から、雪乃の本心に夏子は気づいていたのかもしれない。
「お姉様は、お父様とお母様を死に追いやった伊三郎のことを、ずっと憎んでおいででしょう。だから、お一人で復讐を遂げられるつもりなのですよね」
「……何を言っているの、夏子。鷹栖家に働きに行くのはお給金がとてもいいからよ。住み込みになるけれど、あなたにも仕送りができるわ」
「だったら、ここから通えばいいではありませんか。わざわざ住み込みなんて……」
「手紙を書くし、休みの日には会いにくるわ。夏子は身体を壊しやすいから、見ていないと心配だもの」
 夏子は尚も言い募ろうとしていたが、にっこりと笑いかけたら黙ってしまった。
「だから、心配することはないのよ。私なら大丈夫」
「私を安心させようと嘘をついても無駄です。私には、お姉様の考えていることくらい分かっていますからね」
「夏子……」
「どうか、復讐なんておやめください。お父様も、お母様も、そんなことを望んではいないはずです」
 普段は溌剌としている妹が泣き始めたので、雪乃もつられて涙腺が緩みそうになったが、歯を食いしばって堪える。
 ごめんね、夏子。どうか、許してちょうだい。あなたを悲しませることになるかもしれないけれど、私はどうしても成し遂げなくてはならないの。
 雪乃は心の中で語りかけながら、夏子が泣きやむまで抱きしめていた。
 
     ◇
 
 両親が亡くなってからの六年間は、雪乃にとって苦労の連続だった。
 経済的に困窮していた天方子爵家は、両親が亡くなる前から爵位を返上する手続きを取っており、葬儀が終わる頃には雪乃と夏子は子爵令嬢ではなくなっていた。
 鷹栖家への借金は、両親が生前に加入していた保険が下りたので完済することができ、使用人にも退職金を支払えた。手続きは全て袴田が手配してくれたが、保険金はほとんど無くなってしまった。
 その後、雪乃と夏子は地方の豪商である母の実家──向坂家に引き取られた。
 だが、祖母のみつが病で他界すると、雪乃たちは肩身の狭い思いをするようになる。
 毎日のように叔父夫婦による嫌味を受け、年の近い従兄は歪んだ欲望を雪乃に対して抱いており、彼女は自分と妹の身を守るだけで精一杯だった。
 そんな時に手を差し伸べてくれたのは、父の友人という人だ。
 顔も知らないその人は袴田を橋渡し役として、二人の身を案じる手紙をくれたのだ。
 窮状を訴えると、その人は焼け落ちた屋敷の近くで古い一軒家を借りて、最低限の生活費の援助をすると申し出てくれた。
 その連絡が届くやいなや、雪乃は夏子を連れて向坂家を飛び出した。
 厄介者が居なくなってせいせいするとばかりに、引き留められることはなかった。
 しかし、夏子と二人だけの生活が始まっても、平穏とは言いがたい暮らしだった。
 雪乃は世間知らずで、生活を成り立たせるまでは苦労した。そんな彼女に手を貸してくれたのは、子爵家がなくなった後に料理屋を開いた袴田と、その妻である楓だ。
 雪乃は食事の支度から掃除のやり方まで、身の回りの全てを一人でこなせるように楓から教わった。そのうち、袴田の料理屋で給仕の仕事をさせてもらうようになり、少しだけ給金をもらえるようになった。
 かつての家令が営む料理屋で給金をもらうなんて、立場が逆転していて傍から見ればさぞ滑稽だっただろう。
 それでも雪乃は泣き言一つ零さずに懸命に働いた。
 彼女を突き動かしていたのは、妹の夏子の存在だった。
 幼少期から夏子は持病を患っており、日頃から身体を壊すことが多く、だからこそ姉である自分が妹を守らなくてはならないと、雪乃はいつも自分を奮い立たせていた。
 とはいえ薬代は馬鹿にならなくて、援助金と給金で賄えない場合は、袴田の知人の料亭で下働きをする時もあった。
 そんな日々を送っているうちに、気づけば六年もの歳月が流れていて、雪乃は二十歳になっていた。時の移ろいと共に、乙女の花盛りの年齢も過ぎ去りつつある。
 夜になって寝床に入ると、雪乃はどうしようもなく泣きたくなる時があった。
 だから、苦しいと感じた時には両親を亡くした悲しみと悔しさを思い出した。
 声を上げて泣きたくなったら、両親が死ぬきっかけを作った鷹栖伊三郎に復讐することを考えた。
 彼女が生きる理由は、最愛の妹が無事に成長するまで見守ることと、両親の仇を討つという決意だけになっていたのだ。
 そうやって雪乃は己を殺し続けて生きてきた。
 そして、妹が十六を迎えたこの年、彼女は行動を起こすことに決めた。

    ◇

「雪乃さん。手が空いたら、打ち水をしておいてちょうだい」
「わかりました」
 雪乃は女中頭の指示に従って、水の入った桶を手に裏口を出た。彼女が鷹栖家の女中として働き始めて一週間が経過している。
 女中頭の面接で、雪乃は母方の名字を借りて『向坂雪乃』と名乗り、上品で整った顔立ちは濃い化粧をして誤魔化し、田舎から出てきたばかりの垢抜けない女を装った。
 炊事を始めとした家事は全てこなせる。料理屋で給仕をしていた経験もある。
 そう経歴を告げたら、住み込みで働くようにと言われた。
 例年、お盆になると使用人の半数ほどが藪入りで田舎に帰ってしまうため、手が足りなくなるらしい。だから、すぐに働ける女中を探していたのだとか。
 雪乃は門の前の乾いた地面に水を撒きながら、何げなく振り返る。視線の先には鷹栖家の大きな邸宅があり、瓦屋根の向こうには洋館の尖った屋根が見えた。
 鷹栖家の本宅は、広大な敷地の中に来客をもてなすための大きな洋館と、生活するための日本家屋が隣接した造りになっていた。
 初めてその洋館を見た時、雪乃は立ち竦んだ。
 かつて暮らしていた天方家の屋敷も立派だったが、それと比べても遥かに大きく、和と洋を取り入れた豪華な邸宅は、鷹栖家の財力を嫌というほど伝えてきたからだ。
 元は小さな呉服屋だった鷹栖家は、鷹栖伊三郎が家を継いでから、金融業を起こして資産を増やしていった。数年前には欧米諸国の『デパート』なるものを模した百貨店を開業し、今や東京において指折りの資産家となっている。
 雪乃は仕事を再開した。打ち水をしていると、通りの向こうからやって来た人力車が門の前で止まる。
 人力車には夫婦が乗っていた。長男の鷹栖春信と、妻の紀子だ。
 雪乃は門の脇に退くと、二人に頭を下げるふりをして様子を窺った。
 鷹栖家の現当主である春信は厳格で、いつも眉間に皺を寄せている。部下や使用人を叱りつけている場面にも出会う時があった。
 一方、妻の紀子は華族出身で物腰柔らかく、おっとりとした女性だった。
「大丈夫か、紀子。慌てるなよ」
「大丈夫ですよ。落ちたりしません」
 春信が紀子の手を取り、人力車から降りるのを手伝っている。
 紀子はお腹が大きい。春信の子供を身ごもっているのだ。
「転ばないようにな」
「こんな短い距離で転びませんわ。あなたは心配性ですこと」
 正反対に思える二人だが、仲睦まじく、よく二人で外出している。機嫌を損ねた春信を宥めることができるのも、紀子だけだった。
 雪乃は、寄り添いながら歩いていく夫婦の背中を見送る。
 もしも両親が亡くなることなく健在で、家が困窮していても、家族で支え合って暮らせていたのならば、あんなふうに自分も誰かと結婚し、子供を作って幸せな家庭を持つことができたのだろうか。
 手に入れることのできない幸福な未来を彼らの姿に重ねてしまい、雪乃は複雑な思いで顔を伏せていた。


 雪乃は住み込みの女中たちが暮らす大部屋の片隅で寝泊まりをし、目立たないように仕事をこなしながら伊三郎に近づく方法を探っていた。
 伊三郎は家督を春信に譲って隠居しており、邸宅の奥にある離れで暮らしていた。
 掃除のふりをして何度か離れの近くまで行ったことがある。
 離れの建物と邸宅は渡り廊下で繋がっており、人目が少ないので行き来はできる。
 縁側でお茶を飲んでいる伊三郎らしき姿を遠目に見かけた時もあった。
 しかし、伊三郎には必ず護衛代わりの側仕えが付いていて、離れに入ることができるのも肉親以外では女中頭だけだった。夜間、離れの戸は内側から施錠されており、簡単に忍びこむことはできない。
 一通りの状況を把握して、どうしたものかと考えていた時に好機が訪れた。
 親戚が集まってくる、お盆の期間である。
 伊三郎もその時期は離れを出て、親戚一同の前で挨拶するのだ。先祖の霊を祀ったあとは宴会になり、その夜は伊三郎も酒を飲み、本宅の客間で就寝するらしい。
 女中頭からお盆の段取りを聞いた夜、雪乃は疲れた身体を寝床に横たえながら、決行はその日にしようと心に決めた。
 枕の下に手を入れて、いつも隠し持っている小刀を握りしめる。
「お父様、お母様。雪乃は必ず仇を討ちます」
 誰にも聞こえないように口の中で呟き、雪乃は覚悟を決めた。
 翌日、彼女は空き時間を使って夏子宛ての手紙を投函しに行ったが、激しい通り雨に遭って近くの建物の軒先で雨宿りをした。
 手拭いで濡れた着物を払い、化粧が流れてしまうなと溜息をついていたら、道の向こうから長身の男性が走ってくる。
 男性は雪乃が雨宿りしている軒先に飛びこみ、濡れた着流しの袖を払った。
「参ったな、びしょ濡れだ……ああ、失礼。先客が居たとは」
 雪乃は軽く一礼すると、横目で男性の様子を窺う。
 おそらく二十代の青年だろう。背が高くて、がっしりとした身体つきをしている。吊り目で涼しげな目元に、高い鼻。横顔の輪郭もはっきりとしていて、日本人離れした顔立ちだ。髪は黒いが、西洋人の血を引いていることを裏づけるように、瞳は露草の花を連想する青色をしていて──。
 どこかで見た顔だと探っていた雪乃の脳裏に、父母の葬儀の記憶が蘇ってきた。
 あの時、鷹栖伊三郎の名代だと言って二人の息子が訪ねてきた……その次男だった。
 下の名前は、清秋だったか。別宅で生活しているらしく、鷹栖家では一度も見かけたことが無かった。
 雪乃は素早く俯いて、できるだけ端に寄った。
「きっと通り雨でしょう。貴女も災難でしたね」
「ええ」
「あ、手拭いが落ちましたよ」
 男性が身を屈めたので、慌てた雪乃は彼より先に拾おうとするが、その拍子に彼と目が合ってしまう。
 間近に迫った彼の青い瞳は、雪乃が胸に抱く秘密や感情の全てを、いとも簡単に暴いてしまいそうな澄んだ眼差しを送ってきた。
 なんて美しい瞳の持ち主だろう。雪乃はしばし状況を忘れて見惚れた。
「……綺麗な瞳」
 我知らず、天から降り注いでいる雨粒のように感嘆の呟きがぽつりと落ちる。
 同じく動きを止めた男性が、驚いたように目を瞬かせた。
「僕の瞳ですか。そんなことを言われたのは初めてです。ありがとう」
「っ!」
 一体、何を口走っているのだと、雪乃が口元を手で押さえていたら、清秋が目を細めながら手を伸ばしてくる。彼女の頬に触れて、濃い白粉を指の腹で拭う仕草をした。
「貴女には見覚えがあります。いや、しかし……こんなところに、居るはずは……」
「あっ……」
 我に返った雪乃は彼の手を払いのけると、手拭いを拾って雨の中へと走り出す。
「お嬢さん、待って……!」
 男の制止を振りきり、雪乃は土砂降りの道を駆けた。走りながら、指の背で男が触れた頬をなぞる。
 憎らしい伊三郎の息子に見惚れたなんて、あってはならないことだった。

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