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愛のない契約結婚は、世界一甘い罠でした。 2

第二話

 


「うう……お水、お水をちょうだい……」
「カサンドラ……あなたひどい臭いよ。一体どうしたっていうの」
 なごやかな空気の流れるティールームにゆらりと人影が入ってくる。
 ウェーブした赤い髪はボサボサで、服装は薄手のナイトドレスのまま。全身からは酒気が漂っている。
 どんよりと濁った目でこちらを眺めているのは、ロミクの妻であるカサンドラだ。
 朝から姿が見えないと思っていたが、今まで酒を飲んでいたらしい。飲み過ぎて吐き気をもよおしているのか、身体は前傾姿勢で、足元はふらふらとおぼつかない。
 酒の臭い以上に、彼女からは淀んだオーラがにじみ出ていた。
「いいわね、あんたたちは。姉弟揃っておやつの時間ですかあ? 子供って気楽だわね」
 へへへ、と力ない笑みを浮かべてカサンドラは前に進もうとする。しかし足首がぐにゃ
りと曲がって、脛をしたたかにテーブルにぶつけた。
「い、痛ったぁ……なんだっていうのよ。あたしがなにをしたっていうの?」
 衝撃の反動でその場にぺたんと座り込むと、カサンドラはおいおいと泣き始める。
「見ちゃダメ、ティモテ」
「酔ってる大人から学ぶものはなにもなし」
 サシャとミシャが片方ずつティモテの目を手で塞ぐ。
「哀れを通り越してみじめだわ」
 モニカが冷ややかな目でカサンドラを見下ろす。
 ルイーズも小さくため息をついた。
 ロミクと結婚した当時のカサンドラは、それは美しい女性だった。歳はロミクより一つ下で、華やかな赤い髪に劣らない派手な顔立ちが目を惹く。灰色の大きな瞳は人なつっこく、ルージュをひいた厚い唇が男性にはたまらないのだろうと感じた。
 酒場のマドンナなんだとロミクが紹介したときにはなんだか誇らしげで。平民出身の彼女が伯爵家の当主と結婚だなんて、今後の苦難に向けて緊張しているのでは、と思っていたルイーズは拍子抜けしてしまった。
 結婚生活が始まってからもカサンドラの自信は衰えず、ルイーズが仕事を肩代わりしているのを気にする素振りもなく、毎日着飾って楽しそうに暮らしていた。
 だから彼女のこんなぼろぼろの姿、結婚当初は想像もできなかった。
「なんであたしは一人なのよう」
 とうとう床に突っ伏して泣き始めた姿は悲愴感に満ちていた。
 カサンドラがこうなったのもしかたがない。なにせ、自分の夫がほかに愛人を作って駆け落ちしてしまったのだから。
 同時に、妹たちの突き放すような態度も理解できる。
 ロミクが失踪してからもう一ヶ月にもなるのだ。
 嘆き悲しんでいるだけではどうにもならない。解決に向けてそろそろ動き出さなければと、みなが思っている。
 はじめこそ彼女に同情し、そっとしておいてあげようと思っていたルイーズだが、いい加減ロミクを捜す手立てを一緒に考えてほしいと思うのも事実。
 彼女だって、ロミクに直接言いたいことがたくさんあるだろうに。
 ティールームでの騒動に、何事かとメイドが入り口から顔を覗かせる。
 子供たちの容赦ない白けた視線の先で泣く、よれよれの成人女性。そんな様子にぎょっとしたのが見て取れた。
「お嬢さま、これは……?」
「カサンドラにお水をあげてくれる? あと部屋まで連れて行ってあげて」
「しょ、承知いたしました。奥様、立ち上がれますか?」
「うう、きもちわるい……」
 メイドに肩を貸してもらい引きずられながら部屋を出て行く。
 使用人たちはルイーズをお嬢さまと呼びつつも、屋敷の女主人として接してくれる。
 信頼が嬉しくもあるが、同時に重荷に感じることもあった。
(兄さんがカサンドラと結婚したときには、女主人の役割をやっと誰かに譲れると思ったものだけれど……)
 それは儚い希望だった。
 メイドと入れ替わりに、屋敷の家令が入ってくる。家令を任せているのは、先代からこの屋敷で働いてくれている初老の男性だ。実直な働きぶりの彼には日頃より助けられてきた。
 大人同士の話が始まると察して、双子はティモテの手を引いて中庭へと行ってしまう。
「お嬢さま、来客でございます」
「来客? 誰かしら……今日はなにも予定はなかったと思うけれど」
「お見えになっているのは、ジスラン・ベルトワール公爵閣下でございます」
「は……今、なんて?」
「ジスランさまよ、姉さん」
 耳を疑って思わず問い返せば、その場に残っていたモニカが返答を寄越す。
「忘れてしまった? ロミク兄さんのご友人で──」
「そ、それはもちろん知っているけれど、どうして今さら訪ねて来るの? だって兄さんはジスランさまとは喧嘩したって」
 パブリックスクールのころからロミクとは深い友情で結ばれていたジスラン。毎年フェリヨン家の領地に遊びに来ていた彼とは二年前、ロミクが結婚したのをきっかけに疎遠になっていた。
 ロミク曰く、勝手に結婚したのを怒られたのだと。「これ以上まわりに迷惑かけるなって言われちゃってさあ」とへらへら笑っている兄を見て、ルイーズは心底呆れたものだ。
 同時に、ジスランに感動すらした。彼のような真っ当な人間から見れば、ロミクの行いは十年来の友情に亀裂が入るほどの事態なのだ。
 そんなわけで二年前からジスランが屋敷を訪ねて来ることはなかった。
 それがなぜこのタイミングで訪問なんて。
「おそらく、ティモテの後見人になってくれるって話じゃないかしら」
「後見人? そんなのわたしは家族以外に一言も話してないのに」
「わたしが手紙を出したのよ。事情があって後見人を探しているって、兄さんの部屋にあった名簿の人宛に」
 今度こそ開いた口が塞がらない。
「名簿の人って、ぜ、全員……? 兄さんの知り合いみんなにうちの醜聞を暴露したの……?」
 さあっと血の気が引いていく。
「まずかった?」
「ま、まずいに決まってるじゃない! だってフェリヨン家は当主の素行に問題があるって宣言しているようなものよ!?」
「今さらよ。代々素行に問題があるって、社交界の誰でも知っているわ。それともほかに後見人を手っ取り早く見つける方法がある?」
「そ、それはこれから考えるところだったけど……だからって改めて知らせて回らなくてもいいって言ってるの! あなた、そのフェリヨン家の人間としてこれから社交界に出て、そういう目で見られるのが怖くないの!?」
「わたし?」
「モニカだけじゃない。サシャにミシャ、ティモテだって。あの子たちが社交界に出るのはまだ先だけど、それまでに噂って消えているもの? あの子たちにはなんの罪もないのに、まわりから白い目で見られるなんてわたし耐えられない……! 恋愛や友情の妨げにはならないのかしら。ああもう……」
 ぶつぶつつぶやいていると、モニカが深いため息をつく。
「その心配をするなら姉さんじゃないの? 社交界に出入りしているし、結婚だって順番でいうならまず姉さんよ」
「わたしはいいのよ! 別にどう見られたって構わないわ。それにわたしは恋愛するつもりなんてないもの。結婚の心配も必要ない」
 胸を張るルイーズをモニカがじろりと横目で見る。
「またそんなこと言って。わからないじゃない、好きな人ができるかも。そのときフェリヨン家の名前が邪魔になったら──」
「ううん、しないの。恋は絶対にしない。だってこんな家で育って素敵な恋に憧れる?」
「それは……同意だけれど」
 にっこり笑うと、モニカは渋々頷く。
 そう、恋愛なんて絶対にしない。
 恋がどれほど愚かな感情か、この家で育って嫌というほど理解した。
 するつもりもないし、しろと言われたってこの嫌悪感を抱いたままでは無理に決まっている。
(まあ、モニカたちみんなにメリットのある結婚ならしてもいいけれど。フェリヨン家を大富豪にしてくれる人だとか)
 余生を送る大金持ちとの愛人契約なんていいかもしれない。四人の弟妹を育てるには、フェリヨン家の財政状況は心許ないのだ。
 彼女たちには自由に生きてほしい。不自由なんてさせたくない。
 それが姉として当然の考えだ。
「お嬢さま、ベルトワール公爵閣下は応接室にてお待ちいただいております」
「そう……すぐ行くわ」
 これ以上待たせては失礼にあたると気づいて、ルイーズはティールームを出ると早足で応接室に向かった。
(それにしても、ジスランさまと再び会う日が来るなんて……)
 応接室の前で、ルイーズは深く息を吐いた。
 ロミクと喧嘩別れをしたと聞いて、もう二度と会うことはないと思っていたのに。
 ──同時に、彼への気持ちを胸の奥底へと捨てたはずだった。
(……いいえ、捨てたのよ。きっぱりとね。だからなにも問題はないわ)
 気を強く持つのよ、と自分に言い聞かせて、ルイーズは扉をノックする。
「失礼いたします。お待たせしてしまい申し訳──」 
「構わないよ。俺がいきなり押しかけたのが悪いんだ」
 謝りながら扉を開けると、ソファに座っていた男性が立ち上がる。
 二年ぶりに会うジスランの姿に、ルイーズは思わず見とれてしまった。
 ふわりとした黒髪は最後に会ったときより少しだけ伸びただろうか。
 切れ長の目が印象的な男性らしい精悍な顔つきだが、緑色の瞳はどこまでも優しい光をたたえていて、彼の穏やかな性格を表している。
 すらりと背が高くがっしりとした体鏸をしているが、不思議と威圧感を与えないのも、彼の柔和な表情が理由だろう。
 ルイーズを見て、わずかに首を傾げてにこりと微笑みかけてくれるその仕草は、はじめて会った幼少のころと変わらない。
 優しくて、頼りがいがあって、自分にとっては兄よりも兄らしい存在だったジスラン。
 その気持ちが恋に変わるのにそう時間はかからなくて──。
 ルイーズはばくばくとうるさく跳ねる心臓のあたりを、ぎゅっと握りしめた。
(そう、わたしはジスランさまが好きだったわ。『だった』のよ。それは過去の出来事!)
 昔の思い出と、今の気持ちは切り離して考えないと。
 あれはただの憧れで、今はもうジスランのことなんてなんとも思っていない。
(お父さまやロミク兄さんを間近で見ておいて、恋愛をしようなんて発想、あるわけがないわ!)
 動悸が止まらないのは決して特別な感情を抱いているからではない。
 久々に男性と間近で話して緊張しているだけだ。それにあくまで一般論だが、ジスランがとても素敵な男性だから。
 長身の彼をちらりと見遣って、そのままルイーズは俯きがちになってしまう。
「ルイーズ? 大丈夫かい。顔が赤い」
「え?」
「まさか熱が? すまないな、忙しいときに。きみのことだからきっと無理をしているんだろう」
 ジスランが近づいてきて、おでこに手を伸ばされる。
「や……っ」
 心の中で警報がうるさく鳴って、ルイーズは後ずさりしながら自分の顔を腕で隠した。
「ああ、すまない。気安く触れてはいけないね。きみはもう立派なレディなんだから。出会ったころみたいなお嬢ちゃんじゃないものな」
 ジスランは申し訳なさそうに眉を下げる。
 触れられていたらまずかった……。軽率にときめいてしまいそうで。
(恋愛は嫌いだけれど、少し男性への免疫をつけないとまずいわね。こんな些細なやりとりくらいでどきどきしているなんて)
 ともすれば絆されそうになる自分に気づいて、ルイーズは自分の手の甲をぎゅっとつねる。
 ジスランは昔からこうなのだ。優しくて気さくで、彼を好きな女の子は自分以外にもたくさんいた。
 熱に浮かされた視線をジスランに送る女性たちを思い出して、ようやく冷静さが戻ってくる。自分はああはなりたくないものだ。あれはまわりが見えなくなっている人間の目だった。
「わたしの体調は心配していただかなくて結構ですわ。どうぞ、おかけになってください」
 ジスランにソファへ座るよう促して、自分はその向かいに腰掛ける。
「その……申し訳ありませんでした。モニカから手紙が届きましたよね? いきなり不躾なお願いをしてしまって……」
「俺は嬉しかったよ、手紙をくれて」
「嬉しい?」
「だって力になることができるからね。ぜひ俺にティモテの後見人を任せてほしい」
 あっさりそう言われて、ルイーズは目をしばたたかせた。
「ほ、本当にいいんですか? だってフェリヨン家と関わり合いを持つんですよ?」
 自分で言っていて悲しくなるが、男女関係にだらしないでおなじみなのがフェリヨン家だ。ジスランにとってメリットがあるとは思えない。
(むしろ不都合ばかりなんじゃ……)
 ジスランは現在二十六歳。三年前にベルトワール公爵家の爵位を継いだ当主である。
 ベルトワール家は由緒ある家柄で、フェリヨン家のような醜聞とは無縁の立派な一族だ。
 わざわざフェリヨン家当主の後見人になるメリットはどこにもない。
「俺じゃ力不足かい?」
「まさか……! ジスランさまに後見人になってもらえたらとても心強いですが……ご迷惑なんじゃ?」
「俺もね、一つきみにお願いしたいことがあったんだ」
「え?」
「俺と結婚してほしい」
 柔らかな口調はそのままに、しかし真っ直ぐな瞳で見据えられ、収まっていた動悸がまた激しくなる。
(結婚? い、今、結婚って言った……!?)
 あまりに脈絡がなさすぎて、自分の耳がおかしくなったのかと疑ってしまう。
「い、今なんとおっしゃいましたか……?」
「結婚してほしいと。ルイーズ、俺の生涯の伴侶になってくれないか?」
「な……」
 聞き間違いではなかった。ジスランは本当に、自分にプロポーズしているのだ。
 ──ありえない!
 心の中の警報が最大音量で鳴り響く。
「っ、こ、困ります! わたしは今後、恋愛なんかするつもりがないんです! っ、そ、そそ、それならお引き取りください!!」
 顔は真っ赤になって握った拳がぶるぶると震える。
 声をひっくり返しながら、ルイーズはそれだけなんとか告げた。
 しばらくこちらをじっと見つめていたジスランは、ふうっと息をつくと苦笑する。
「勘違いさせてしまったかな」
「なっ、え……?」
「俺は結婚してほしいと言ったんだ。なにも恋愛してくれだなんて頼んでいないよ」
(……たしかに!?)
 先走ったと気づいて、恥ずかしさにだらだらと変な汗が流れてくる。
「当主を継いでから、早く結婚しろとまわりがうるさくてね。跡継ぎを残さないといけないから、周囲もやきもきしているんだ。だからといっておかしな女性と結婚したくはないし。きみなら昔から知っている分、安心だと思ったんだ。後見人だって、身内のほうが好都合だろう? その点でも利害が一致すると思ったんだけどな」
 後見人についてはたしかにそうだ。本来なら親族に頼むのが普通である。
「俺はきみを愛することは一生ないよ。これは単なる世間体のための結婚なんだ。そう反射的に断らず考えてみてほしい。ルイーズにとっても悪い話じゃないと思うよ」
 利害のみで結ばれる結婚。そういうものならしてもいいと、先ほど考えたばかりだ。
 いわゆる、契約結婚というやつである。
(ジスランさまはティモテの後見人として申し分なくて、親族になってくれるのならさらに条件はいい。わたしはジスランさまと結婚しなくちゃいけないけど、そこに恋とか愛とかは関係なくて……)
 こちらにとっては願ってもない好条件だ。
 では、ジスランにとってはどうなのだろう。
 契約結婚の相手が必要だとして、その相手になぜ自分を?
 わざわざ醜聞だらけのフェリヨン家の娘と結婚する意味があるのだろうか。
(……ううん、わたしにとっては好条件というだけで、そもそも普通の令嬢に気持ちの伴わない結婚を持ちかけること自体失礼にあたるわね)
 もしも結婚というものに微塵も興味がなくて、けれど妻という存在を速やかに手に入れなければならないとしたら。
 社交界では取るに足らない存在のフェリヨン家は格好の相手ともいえる。非礼を働いたところで誰の不興も買わないのだから。
(なんだか考えていて悲しくなってくるわ……)
 客観的に見れば、フェリヨン家はどうしようもない一族なのだ。思わずこめかみを押さえた。
「ルイーズ?」
「いえ……でも、わたしがいきなりベルトワール家の女主人だなんて、そんなの務まるでしょうか」
「きみはロミクが当主になってから、フェリヨン家でその役割をこなしてきたんだろう。手腕を買っているつもりなんだけれど」
「この家とベルトワール家では雲泥の差ですが……」
 ぎりぎりの生活を強いられているフェリヨンと、歴史のある名家のベルトワールでは振る舞いもずいぶん違ったものになるだろう。
 ジスランの瞳にはわずかに同情の色が浮かんだ。
「……なにが大変かは人によるだろうけれど、俺にはまともに仕事をしない伯爵夫妻のフォローをするほうが骨が折れそうな気がするな」
(そうだった、ジスランさまはロミク兄さんの性格を熟知しているんだったわ)
 兄が勤勉な当主でないことも、そのせいでルイーズが苦労していたことも、ある程度知ってくれているのだ。
 そのときの経験からこんな話になるなんて、人生なにが役に立つかわからないものである。
 ──きみを愛することは一生ない。
 ジスランの柔らかな声音で、天気の話をするような気安い口調で告げられた条件。
 互いに、恋愛を望んでいない結婚──。
(そもそもジスランさまがそういう結婚のかたちを求めているなんて意外だけれど……)
 彼を好きになる女性はたくさんいるのに。
 立場上結婚しないわけにもいかないのは理解するが、恋愛をして結婚にたどり着くという過程を選ばなかったのが少し驚きだった。
 なんにせよ、ルイーズならばその相手に足るとみなしたわけだ。
(この話は……きっとチャンスよね)
 これを逃せば、ほかにティモテの後見人に名乗り出てくれる人なんていない。
 ルイーズはそっと胸に手をあてた。
 大丈夫、もう全力疾走したあとみたいな鼓動は収まった。自分は冷静だ。初恋の記憶は過去の思い出になっている。
「その条件、お請けします」
「本当?」
「はい。ジスランさまと結婚します。代わりにどうぞティモテをよろしくお願いします」
 ルイーズは深々と頭を下げた。