新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円
新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円

明治大正艶奇譚
【完全版】義兄/なりかわり

本を購入

本価格:1000(税抜)

カートに追加しました
電子書籍を購入

電子書籍価格:1000円(税抜)

獲得ポイント:11pt
電子書籍を閲覧するにはビューアアプリ「book-in-the-box」(SHARP)をインストールしてください。
書籍紹介

『義兄』の特別書き下ろし番外編収録!

言葉責め、緊縛、刺青――義兄との淫らすぎる夜、
激しい執着愛のいきつく果ては……?
(『義兄』)

「男」として生きてきた矜恃を踏みにじり、
「女」の官能を刻み込まれ――
正章の剥き出しの独占欲に囚われた文子の運命は……。
(『なりかわり』)

丸木文華の伝説の名作、二つの背徳ラブストーリーに
書き下ろし番外編を加えた永久保存版!

★Contents★
『義兄 明治艶曼荼羅』
『大正艶異聞 なりかわり 華族家の秘めごと』
書き下ろし番外編「春泥」

ジャンル:
和風
キャラ属性:
クール
シチュエーション:
年の差 | 近親相姦 | SM・監禁・調教
登場人物紹介

村井章一郎(むらいしょういちろう)

村井家の長男。優等生の仮面で周りを欺きつつ、雪子に……。(『義兄』より)

村井雪子(むらいゆきこ)

母の連れ子として、会津から東京の名家村井家にやってきた少女。(『義兄』より)

立ち読み

 


 花開く
 その中央に咲いたあなたの瞳
 水鏡のように澄んだ濁りのない美しい眼
 その視線は花芯を細かに這い回る虫のように私の全てを舐め回す
 淫蕩な肉は躍り貪婪な血は沸き立つ
 爛れた悦楽に身を焦がし翠の鬼火の下でのたうち回る
 あなたの眼差しが私の肌に絡まるほどに
 緋牡丹は随喜の蜜を垂れ地獄の法悦に堕ちてゆく
 深淵まで覗き込めば
 その底に芳烈なる豪華絢爛の極楽浄土があることを
 その奥に無限の壮麗な万華鏡が広がっていることを
 それがこの小さな世界の全てであることを
 私は確かに知っている
 無造作に口を開けた覗き穴の素晴らしき世界
 それが私の 初恋なのだから

 

 絵草紙

 

 明治に入って二十年余が過ぎた春の頃。よく晴れた昼下がりのことだった。
 四歳になったばかりの雪子は、母、まつに抱かれて遥々会津から東京までやって来た。雪子が初めて訪れた東京は何もかもが目新しく驚きの連続である。まず、春とはいえ未だ雪の深い会津盆地とはまるで違うほのぼのと暖かい空気。そして、人の多さ。忙しさ。
 最も雪子を驚かせたものは自動車であった。駅まで迎えに来た立派な舶来の自動車に、それを実際に見たことがなかった雪子は目を瞠った。多くの一般庶民にとっても自動車の珍しい時代である。その大きな唸り声を上げる黒い鉄の塊は何かの恐ろしい獣のようで、近付くなり雪子は途端に泣き出した。
 まつは嫌がってむずかる雪子を宥めながら中に乗り込み、菓子や玩具を与えて機嫌をとろうとする。しかし自動車が走り出すと、しゃくり上げていた雪子は一変、窓に張り付き、長い間雪に埋もれて真っ白な風景しかなかった会津とはまるで違う、異国のような東京の景色に心を奪われた。
 雪子のその様子を眺めながら、まつは複雑な思いに小さなため息をついた。これから我が子の日常となる環境に、この小さな子供は適応できるのだろうか。自分の選択は、愛しい娘にとって本当に最良のものだったのだろうか、と。
 未だに、まつはそのことに思い悩む。しかし、迷ったところで今更引き返せないことももちろん分かっていた。
 気付けば自動車はどこまでも続くような長い黒塀に沿って走っており、やがてひときわ大きなエンジン音を立てて停車した。
 運転手がまつと雪子の座る後部座席の扉を恭しく開けると、楽しげな音楽や浮かれた声が和やかな春の風に乗って聞こえてくる。村井と太い筆で書かれた表札のかかった立派な門をくぐれば、目の前に広がっていたのは広い広い庭園だった。
 そこかしこから、賑やかなお囃子の音や子供らのはしゃぐ声、酔った人々の笑い声が聞こえてくる。たくさんの露店が立ち並び、美味そうなおでんや汁粉の香りが鼻をくすぐる。
「これ、雪子、待ちなさい」
 すっかり嬉しくなった雪子は母の腕から飛び降り、おぼつかない足取りで奥の方へ進んで行った。遊んでいるのは地元の子供達だろうか、物珍しげにあんころ餅やおこわを食べながら雪子を眺めている。
 物怖じしない無邪気な雪子はそのまま母の止めるのも聞かず、どんどん気の向くままに足を進めて行った。
 しばらく歩けば景色は一変し、大勢の芸妓たちに囲まれた分限らしい風格の男達や、着飾ったその奥方達が、優雅に咲き誇る見事な八重桜の木々の下で談笑している。
「雪子、いけませんよ」
 まつはようやく娘に追いつき、腕を引いて抱き上げた。しかし、どういうわけかまつは進もうとも引こうともせず、ただ木陰に潜み、雪子を抱き締めたまま静かに佇んでいる。
 不思議に思った雪子が母の白い顔を見上げていると、ふいに目の前に誰かの立つ気配がした。黒い紋付の羽織袴を着た、子供だった。
 立派な格好をしたその子供は、じっと雪子を凝視している。白いうりざね顔にくっきりとした赤い唇、優しい形の眉の下にはやはり優しい大きな瞳が植わり、まだものの美醜もよく分からぬ雪子も、とても可愛らしい男の子だと思った。
「あなたは、もしかして章一郎君?」
 まつが子供に向かってそう呼びかけた。子供は初めて雪子からまつへと視線を移した。そして、はい、と礼儀正しい声で答えた。すると、誰かが慌てたようにこちらへ走り寄って来て、まつと雪子に何度も頭を下げ、奥の座敷へと誘って行った。
 広い広いお屋敷だった。雪子は母に抱かれたままキョロキョロと辺りを見回し、ここはどこなのだろう、と今更になって不安に思った。大きな部屋に通されたまつは正座をしたその横に雪子を座らせ、上座にあぐらをかく太った男に頭を下げている。
 雪子はその男の顔をよく見てみたが、今まで会ったことはないし、何やらにこにこと愛想はいいが、そのくせ妙にまつに対して威張っているように見えて、あまりいい気持ちがしなかった。
 がっしりとした肉の厚い体格の男はヒゲも眉も濃く、袖からぬっと出た太い腕にはもじゃもじゃと毛が生えていて、まるで熊みたいだと雪子は思う。
「あ、これ、雪子!」
 じっとしているのが耐えられずよちよちと歩き出した雪子に、まつが慌てて声をかけると、男は、
「いい、いい。おい、章一郎。その子と遊んでやりなさい」
 と言って、さっき庭園で出会った子供を呼び出した。章一郎と呼ばれた少年はすぐにやって来て、優しく微笑んで雪子の手を引いた。
「さあ、じゃ、こっちで遊ぼうか」
 雪子は章一郎に連れられて縁側へ出た。ぽかぽかとした陽気に包まれ、桜の花びらが淡雪のようにはらはらと風に乗り、全てが淡い桜色に霞んでいるような、まるで夢のように美しい日だった。
「君は、雪子って言うんだろう」
 その利発そうな子供が自分の名前を知っていたことに驚き、雪子はうんと小さく頷いた。
「じゃあ、雪ちゃんだね。僕は、これから君のお兄様になるみたいだ」
「おに、さま?」
「そうだよ。雪ちゃんは、僕の妹になるんだ」
「やんだ」
 なぜか急にむくむくと反発したい気持ちが起こって、雪子ははっきりとそう言った。
「やだ。あんさなんか、いらね」
 今まで大人しかった雪子が突然舌ったらずな言葉で反抗し始めたので、章一郎は目をまんまるに見開いて、まじまじと小さな娘を眺めた。
「雪ちゃん、会津から来たんだったっけね。向こうの人って、そういう訛りがあるんだ。……変なの」
 雪子には章一郎が何を言っているのかよく分からなかった。ただ何かを否定されていることだけは理解でき、いやあな気持ちが小さな胸いっぱいに染み込んでいく。
「あのね雪ちゃん、その言葉遣い、恥ずかしいから誰とも喋らない方がいいよ。僕も、妹が変なことを喋っていたら、恥ずかしいもの」
 じっと雪子の顔を覗き込んで、章一郎は真剣な顔をしてそう言った。
 この章一郎の発言は、後々まで雪子の性格に多大な影響を及ぼすことになる。僅か四歳だった雪子は東京で暮らす内にほどなく会津訛りなど忘れてしまったが、自分の言葉か声かが恥ずかしいものなのだという意識が、元々は活発でよく喋っていた雪子の口を重くしてしまったのだった。

   ***

 桜の花が散り、若葉が芽吹く頃に、雪子の母まつは麹町の酒問屋当主、村井栄之助と祝言を挙げた。章一郎の言った通り、雪子には兄と、そして父が一夜にしてできたのである。
 雪子にはこれまで父も兄もいなかった。母と二人きりだった生活が急に変わってしまい、突然父と兄が現れ、そして多くの使用人たちが自分たちを取り囲むようになった。
 出会った当時、章一郎は八歳だった。しかし雪子は最初に出会った章一郎というその子供が、奇妙に静かな、けれど執拗な目で自分を凝視することが嫌だった。その眼差しには何か悪いものが含まれていることに、雪子は気が付いていたのだ。
 しかしそれが何なのかはよく分からなかった。ただ、何か得体の知れない恐ろしいものがやって来るのではないかと夜の暗闇を畏れるように、その子供を怖がっていたのだった。
 同時に、雪子は四歳上の兄に強く惹かれてもいた。章一郎の二つの目は大きく黒曜石のように黒く澄んでいて、見つめていると吸い込まれてしまうように深かった。最初の印象もとても可愛らしい顔をしていると思っていたけれど、一緒に暮らしていく内に、章一郎はどんな同年代の子供と比べても、際立って綺麗な姿をしていることに気付くようになっていた。
 そんな立派な男の子を兄と呼べることが幼心にも秘かに誇らしく、少し怖いと思う気持ちはあるものの、周囲にも仲の良い兄妹と評判になるほどに、章一郎に懐いていったのだった。
 初秋の頃、まつが妊った。
 十九のときに雪子を産んだまつは、未だ二十三と歳若く、栄之助の子を孕むのも早かった。
「おお、まつ、よくやった、よくやった」
 五十歳の足音を聞く頃に子を授かった栄之助の喜びは殊更大きく、飛び跳ねんばかりの勢いだ。
 つわりがひどく床についてばかりの生活になったまつを、雪子は病気でもしたのかと心配でならず、女中が少し目を離せばすぐに母の部屋へ行きそうになるのを、お母様は具合が悪いからと皆に引き止められて、むずかって泣き暮らす毎日だった。
 具合が安定してから、日増しに腹が大きくなっていくまつを、栄之助は涎の垂れそうな顔で気遣った。章一郎にはそれが面白くない様子で、
「雪ちゃん、遊びに行こう」
 と、しょっちゅう雪子を誘っては、家族が一堂に会する食事の場から早く逃れようとしていた。遊ぶと言ってもまだ四歳の雪子には常に女中がついており、遊びたい盛りの八歳の章一郎のお相手をするには些か無理があった。せいぜい一緒に歌を歌ったり人形遊びをしたりして部屋の中で過ごし、時折雪子を抱いてはその顔を観察して、
「雪ちゃんは睫毛が長いね。うさぎみたいだね」
 と言って、つきたての餅のような頬をつついたり、紅葉のような手を弄んだりした。
 やがて待望の子供が産まれ、それが男の子だと分かると、屋敷の中はにわかにお祭り騒ぎになった。章一郎の八つ年下、雪子の四つ下の弟は、栄之助により『明彦』と名付けられた。
 雪子は長く母から離されていることがただ悲しく、賑やかな家の雰囲気にも戸惑うばかりで、産まれたばかりの赤ん坊を見せられても、ただしわくちゃで赤い変な生き物というようにしか見られず、お産で疲れ切った母の胸にしがみついて怖がっていた。
 雪子が自分に弟ができたということを何となく理解できるようになったのは、ようやく赤子が人間らしく育ち、まつの腕の中ではち切れそうな乳房から元気に乳を飲んでいるのを見るようになった頃からだった。
 けれどやはり母を奪われたような気持ちから寂しさが募り、その心の隙間を埋めてくれる存在が章一郎だった。それは章一郎の方も同じようで、新しく産まれた子供に家中が夢中になっている中、雪子と過ごす時間は次第に増えていった。
 産まれたのが男の子というのも章一郎にとっては不愉快な事実だった。本能のままに母親の乳を吸うその様を見ていると、否が応でも自分の死んでしまった母親のことを思い出す。揃って健康でいかにも幸せそうに見える母子の姿は、体が弱く章一郎が物心つく頃にはすでに命の灯火が消えかけていた母親との思い出を苦く蘇らせた。
 けれど、章一郎自身は自分がそのことに傷付けられていることなど認めたくないのか、
「雪ちゃんは可哀想だね。お母様を奪われてしまって、きっと寂しいよね」
 と、雪子ばかりを慰めていた。そう言いながら、自分の方が甘えるように雪子の小さな体に擦り寄っていた。
 複雑な環境にある章一郎には、甘えられる存在がない。母親は死に、大家の長男であるから父親には自然と甘えられないように育っている。無意識な深い寂しさを抱える内に、新しい母親と妹が出現し、すぐに新しい弟が産まれ、章一郎がとても良い子であることも手伝って、誰からも顧みられなくなってしまった。
 甘える時期などほとんど過ごせぬまま、章一郎の目の前に延びているのは名代の商家の跡取りとしての重い責任を孕んだ道のりのみである。
 大きな家のことだから女中は何人もおり、まつも乳飲み子に付きっきりでいなければならぬというわけでもなく、雪子はそれほど放っておかれているわけでもなかった。しかし章一郎は勉強に習い事とどんどん忙しくなり、まつがあえて章一郎との時間を作ろうとしても、生まれ持った誇りの高さもあってかこれを固辞し、傍目にも心に壁を作り早々と子供時代を卒業してしまったかのような感があった。
 章一郎が唯一素の心を打ち明けるのは、もはや雪子のみであった。雪子は幼く、虚勢を張る必要もなければ気を遣うこともない。甘えられる存在というのは我が儘を言える存在であり、たとえ無体なことをしても文句を言わず受け入れてくれる、という相手が章一郎にとっての雪子なのであった。

   ***

 雪子は六歳になり、小学校に通い始めるようになった。
 その頃にはもうすっかり会津訛りは影を潜めていたものの、東京へやって来てから生来の気質よりも大人しくなってしまった雪子は、あまりたくさん友達を作れずに、学校からの帰り道も、とぼとぼと一人で歩くことが多かった。
 その道すがら、雪子にはお気に入りのお友達ができた。真っ白な仔猫である。
「お前は色が白くて、まるで雪みたい。雪子の雪と同じよ」
 雪子はその仔猫にシロ、と名付けていたが、野良猫の割にまるまると太っていて、恐らく方々で餌を貰い、それぞれの家で別の名で呼ばれているであろうことは想像がついた。
 時折雪子はシロを抱いて帰り、勝手口に招き入れては魚の切れ端などをやっていた。雪子はシロが可愛くてたまらず、シロと戯れて家へ帰る時間が遅くなることもしばしばあった。
 その日も雪子は学校帰りに近所の寺の石畳の上でシロに弁当の残りをやっていた。そこへ、
「おい、お前、村井の新しい妹か」
 と乱暴に声をかけられ、ハッとして顔を上げると、そこには学校で何度か見たことのある、乱暴と有名な餓鬼大将とその取り巻きがにやにやしながら雪子を見下ろしていた。
 雪子は思わず立ち上がり、顔を強張らせて上級生達をおずおずと見た。彼らは章一郎よりも上の学年であろうか。村井家はこの辺りでも有名な分限なので、主人が新しい妻とその連れ子を屋敷に入れたのは、誰もが知っていることであった。
「お前、野良猫なんかに餌やって、いいのかよ」
「え……」
 何かいけなかったのだろうか、と雪子は困惑し、そのひときわ大きな体格の男の子をじっと見つめた。すると、その餓鬼大将はなぜかぼっと顔を赤くして、怒ったように口をへの字に曲げて、
「お前の兄さんは猫が嫌いなんだよ。猫の臭いでもさせて帰ったら、家をおん出されちまうぜ」
 と吐き捨てるように言って、他の子供達を引き連れて、嫌な笑い声を立てながらどこかへ行ってしまった。やーい、貰われっ子、という声が遠くから聞こえてくる。
 雪子は再び膝を折り、もくもくと魚を食べているシロをじっと見つめ、しばらく動かなかった。章一郎が猫が嫌いなどというのは、初耳だった。けれど、それなら自分はこの唯一の親しい友達と会うのをやめなければいけないのだろうか。雪子の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
 しかしその後も、雪子はどうしてもシロを諦めることができず、餌をやったりこっそり庭に連れ帰ったりして可愛がっていた。とうとう章一郎本人に猫のことを訊ねることはできずじまいだったが、嫌いならば目に触れる場所に連れて行かなければいいだけのこと、と思い直して、意地悪な子供達の言ったことは忘れようとしていた。
「あ、貰われっ子、お前まだ猫と遊んでんのかよう」
 けれど数日後、再び餓鬼大将達が道端で猫と戯れている雪子を見つけ、因縁をつけて来た。
「何で言うこと聞かねえんだよ。俺に逆らう気か」
 理不尽な物言いに、雪子は口答えすることも逃げることもできず、ただ戸惑った顔で相手を見つめるだけである。黙りこくったまま反応しない雪子に苛立ったのか、
「おい、お前芸者の娘なんだってな。芸者ってのは、こうやって汚え猫で遊ぶもんなのかよ」
 と言いざま、下駄の先でシロの腹を蹴り上げた。シロはギャッと声を上げて跳ね上がり、地面にごろんと転がった。
「やめて!」
 雪子は思わず悲鳴を上げて餓鬼大将に食って掛かり、びっくりした相手は、咄嗟に容赦のない張り手で雪子を突き倒す。
「きゃあっ!」
 地面に転がった雪子は、驚いて動くことができなかった。こんな乱暴なことをされたのは、生まれて初めてだったのだ。おまけに目に何かが入って、涙がこぼれて止まらない。
 餓鬼大将の方も、雪子がこんなに大げさに吹っ飛ぶとは思っていなかったのだろう。奇妙に気まずい雰囲気が流れ、一瞬の沈黙が落ちる。
「何をしているんだい」
 そのとき、凜と澄んだ声が、その場にいた皆を一様にどきりとさせた。場違いなほど冷静な様子で立っていたのは、学校帰りに偶然通りかかった章一郎である。
「ねえ、何をしているのかって聞いているんだけど」
 誰も何も答えないのに首を傾げて、章一郎は重ねて訊ねた。
「べ、別に。こいつが汚え猫をずっと可愛がってるから、そんなもん触るなって言ったら、いきなり飛びかかってきやあがって」
「それで突き飛ばしたの? こんな小さな女の子を?」
 口調こそ変わらなかったものの、空気がサッと張りつめたのが、目を開けられない雪子にも分かった。
「わ、悪かった……」
「謝んなくたっていいよ。今後またやられたら意味ないんだから。僕の妹にもう乱暴しないで。分かった?」
 相手は面食らった様子で、咄嗟に返事ができずにいるのを、
「ねえ、分かった?」
 と重ねて念を押されて、
「わ、分かったよ、じ、じゃあな」
 と、ぶっきらぼうに言って、転がるように走り去って行った。
 それにしても、餓鬼大将の声が僅かに震えていたのは、おかしな感じがした。だって、その男の子は章一郎よりもずっと大きな体格で、喧嘩をしたって絶対負けそうになかったのだ。
「雪ちゃん、立てないの?」
 おもむろに章一郎が手を差し伸べ、雪子はべそをかきながらその指先を掴む。
「ほら、泣かないで。どこがそんなに痛いんだい」
 引っ張って立たせてもらい、頭を撫でてもらうと、雪子の目からはますます涙がこぼれてゆく。
「目に、転んだ拍子に、塵みたいなのが入ったの」
「そうなんだ。分かった、目を開けて。とってあげる」
 言われるままに恐る恐る目を開けると、驚くほど近くに、章一郎の顔があった。白い人形のような指が雪子の瞼を押さえ、ぱかっと開いた唇の合間から、赤い舌がとろんと出て来た。
「あ」
 雪子は思わず、小さく声を上げて、細い肩を震わせた。章一郎の濡れた舌が、雪子の眼球をちろりと舐める。それは、あっという間の出来事だった。
「ほら、取れたよ」
「あ、ありがとう……」
 章一郎の舌先についた黒い砂利を見て、雪子は目をぱちぱちと瞬きさせた。お兄様は色んなごみの取り方を知っている、と秘かに感心した。
「ところで、汚い猫なんてどこにいるの? 姿が見えないけれど」
「うん、さっきまでいたの。逃げちゃったのかな……」
 辺りを見回すが、シロの姿はなかった。可哀想に、腹を蹴られてよほど怖い思いをしたのだろう。このとき、雪子は良い機会だとばかりに、思い切って兄に訊ねてみた。
「ねえ、お兄様、お兄様は猫が嫌いなの?」
「え、猫? うん、あんまり好きじゃない」
 ハッキリと否定されて、雪子は目を丸くする。あの餓鬼大将の言っていたことは、本当だったのだ。
「犬ならまだいいかな。あれは従順だから」
「そうなんだ……おうちで飼っていたこともある?」
「うん、昔ね。お祖父様が大きな黒い犬を飼っていたよ。でも、もういない。お父様は僕と同じで、そんなに動物が好きじゃないんだ」
「ふうん……」
 雪子は少しがっかりした。雪子は以前会津の家で近所の犬や猫といつも賑やかに暮らしていて、まつも動物が好きで、いつも残飯などを玄関の前に置いて野良たちが食べにくるのを楽しみにしていたからだ。
「雪ちゃん、どこへ行くんだい」
 ふらふらと歩き出した雪子の手を引いて、章一郎が小首を傾げる。
「お家に帰るのかい? それなら一緒に行こう」
「ううん、違うの。お家に帰る前に、あの子を捜しに行くの。逃げてしまった猫を」
「猫なんてどうでもいいじゃないか」
 章一郎は急に不機嫌そうな顔をする。
「遊び相手がいないなら僕が遊んであげるよ。今日も剣道の稽古が終わったら遊んであげるから。ね?」
「うん……」
 雪子は章一郎に言われるままに、頷いた。シロのことが心配でたまらなかったが、あの男の子たちのことも少し怖いので、今日は大人しく家に帰ろうと決めた。
 しかしそれきり、シロは雪子の前に現れなくなってしまったのである。蹴られて人間が恐ろしくなってしまったのか────それとも。
 章一郎はそれから頻繁に雪子と一緒に帰るようになり、努めて雪子の遊び相手になろうとした。けれど、次第に友達が増えて来た雪子は学校帰りなどによく遊んで帰るようになり、それはわざわざ歳の離れた妹の遊びに付き合ってくれる兄の手を煩わせまいとしたためもあったのだけれど、なぜか章一郎は雪子が早く帰って来ないことに不満を漏らすようになっていた。そして、休日など暇さえあれば雪子を自分の部屋に引っ張り込んで、お友達と約束があると言っても、なかなか出してくれないようになってしまったのだった。

おすすめの関連本・電子書籍
電子書籍の閲覧方法をお選びいただけます
ブラウザビューアで読む

ブラウザ上ですぐに電子書籍をお読みいただけます。ビューアアプリのインストールは必要ありません。

  • 【通信環境】オンライン
  • 【アプリ】必要なし

※ページ遷移するごとに通信が発生します。ご利用の端末のご契約内容をご確認ください。 通信状況がよくない環境では、閲覧が困難な場合があります。予めご了承ください。

ビューアアプリ「book-in-the-box」で読む

アプリに電子書籍をダウンロードすれば、いつでもどこでもお読みいただけます。

  • 【通信環境】オフライン OK
  • 【アプリ】必要

※ビューアアプリ「book-in-the-box」はMacOS非対応です。 MacOSをお使いの方は、アプリでの閲覧はできません。 ※閲覧については推奨環境をご確認ください。

「book-in-the-box」ダウンロードサイト
一覧 電子書籍ランキング 一覧

ジャンル・シチュエーション検索

 

ジャンル

キャラ属性

シチュエーション