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百戦錬磨の騎士さまは見初めた令嬢を逃がさない

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書籍紹介

君が可愛すぎて、つい意地悪したくなる。

失恋の傷が癒えないローズに、縁談が舞い込んだ。お相手は社交界一の美貌を誇るモテ男サイラス。次の恋が見つかるまでという約束で婚約を交わすが、優しく甘く大人の付き合いを教えられて、胸の高鳴りが止まらない。情熱的な目差しは本心なの? 惹かれつつも戸惑うローズに「俺は、君の全てが欲しい」独占欲をあらわに熱い欲望のまま楔で穿たれ、彼への想いが溢れてしまい――。

ジャンル:
西洋 | ファンタジー
キャラ属性:
ワイルド・騎士・軍人
シチュエーション:
甘々・溺愛 | 新婚
登場人物紹介

サイラス

アシュトン侯爵家令息。社交界一のモテ男と言われる美青年。出会い頭にローズに暴言を吐くが……!?

ローズ

ハリソン公爵令嬢。淡い金髪をした色白の美少女。失恋したばかりでサイラスと婚約することに……。

立ち読み

 ぽつり、ぽつりと降り出した雨が木々の葉を打つ音に交じり、話し声が聞こえた。
 いつものローズなら、宴の合間に庭園へ姿を消し、人目を避けるように四阿で過ごす男女の会話など聞こうとしなかっただろう。
 けれどそれが、数ヶ月後に婚約する予定の男性と見知らぬ女性だったから、思わず耳をそばだててしまったのだ。
 色香溢れる女性の声が、聞こえる。
「……悪い人。貴方、今夜の宴には婚約者も参加しているのでしょう……?」
 責めているのに、女性の声音には楽しんでいる節があった。彼は含み笑う。
「まだ婚約者じゃないよ。これからそうなる予定の子なら招いているけれど。……不幸な枷を嵌められる哀れな子羊に、甘い夢を見せてくれよ、愛しい人」
「まあ、お可哀想な人。ふふ……あ……っ」
 女性は哀れむどころか、いっそ可笑しそうに笑った。艶めいた声が耳に届き、ローズは身をすくめる。
 その日、ローズはオルグレン侯爵邸で開かれた仮面舞踏会に参加していた。
 彼女の国、ヴィントミューレ王国では、女性は十六歳、男性は十八歳で成人する。
 ローズはまだ社交デビュー前の十五歳で、本来なら宴に参加できる年齢ではなかった。けれど三ヶ月後──十六歳になる誕生日に、オルグレン侯爵家の嫡男ハロルドと婚約する予定だったため、当主の好意で招待されていたのだ。
 仮面をつければ誰かはわからないから、デビュー前でも大丈夫だと、ハロルドも笑って歓迎してくれた。
 だけど宴が始まってしばらくすると、彼の姿は見えなくなった。宴前に彼が使う仮面を見ていたローズは、庭園を歩く人の中にそれを見つけ、あとを追う。
 見知らぬ女性と歩いていた彼は、人目を避けるように、茂る木々の向こうにある四阿に消えた。そして小声で会話を始めた。
 追った先にこんな現実が待っているなんて、思いもしなかった。
 伝統あるオルグレン家の嫡男であるハロルドは、家柄だけでなく、容姿も整っていて、憧れる女性が多い。友人からそう聞いてはいたものの、婚約を承諾したからには、きっと自分だけを見てくれるのだと信じていた。
 でも──。
 仮面を外し、木陰から四阿をそっと覗き見たローズは、目の前の光景が信じられず、立ち尽くす。
 四阿の中で、女性は座るハロルドの膝上にまたがっていた。仮面を外した彼は恍惚とした表情で女性を見上げ、ドレスの中に手を差し入れている。そして彼女の大きく開いた襟ぐりから覗くふくよかな胸に、慣れた仕草で口づけを落とした。
「あんな恋の駆け引きも知らない子供、貴女とは比べものにもならないよ。色香一つ感じない。貴女の方が何千倍も魅力的だ」
「……ん……っ嘘ばかり。すっかり自分好みに仕上げているくせに。社交界じゃ、彼女はもう貴方のお手つきだと有名よ。あ……っ」
 女性がびくっと腰を跳ねさせ、甘い声を上げた。口づけの経験もないローズには、ハロルドが何をしているのかわからなかった。でもドレスの中に差し入れられた彼の手が何かをしていて、女性は乱れていく。
 ローズはこれ以上見ていたくなかった。男女の秘め事を覗き見るなんて、はしたない。一刻も早く立ち去るべきだ。
 頭ではわかっているのに、足は木偶のように動かず、目は見開かれたままハロルドを注視していた。
 癖のある黄金の髪に、爽やかな青い瞳を持つ──初恋の人。
 仮面をつけていて、女性はどこの誰だかわからない。口調やその佇まいから、年上の──既に結婚しているだろう、どこかの夫人だとだけはわかった。
 ハロルドは夫人を乱しながら、残酷な本音を吐露し続ける。
「化粧やドレスの選び方を教えてあげただけさ。王妃殿下のお声がけで決まった婚約だよ。どんな家だって、王家のご威光を前に逆らう術はないだろう? そういじめないでおくれ。僕には貴女だけだよ」
 雨足は強くなり、巻いていたローズの髪やドレスが、無残に濡れそぼっていった。彼に勧められるまま取り入れた大人びた化粧も、流れ落ちていく。
 ローズは王妃の姪だった。
 王妃の妹である母は、ローズが七歳の頃に流行病で亡くなっている。それもあって、人情深い国王夫妻は我が子のように彼女を可愛がっているのだ。
 ローズも彼らが大好きで、王宮に招かれるたび、二人の馴れ初め話を聞かせてとねだった。
 母が生きていた頃は、両親に二人の恋物語を聞かせてもらっていた。けれど母を失ってからは、どうしても母が恋しくなって涙が滲んでしまうから、聞けなくなった。
 だから代わりのように国王夫妻に恋のお話をねだり、そして二人も鷹揚にローズの話し相手になってくれていたのだ。
 国王夫妻は、伯母が十六歳になると同時に婚約、二年後に結婚した。すぐに子宝に恵まれ、二人の間には今年二十一歳になるエドワード王太子がいる。
 両親同様、一途に互いを想い続けた国王夫妻の恋物語はいつ聞いても素晴らしく、ローズはいつか自分も素敵な恋がしたいと願っていた。
 そんな彼女がハロルドと出会ったのは、王宮の講堂で開かれた、年に一度の武闘競技会で優勝した騎士を称える式典だ。
 ローズはまだ十四歳で、次々と登壇しては長々と王国の歴史や武闘競技会の意義などを語る大人たちの話は退屈だった。ようやっと優勝した若い騎士が勲章を授けられる頃にはすっかり疲れ果て、続けて催された昼の宴を途中で抜け出した。
 祝いの宴を早々に抜けるのは、外聞が悪い。抜けると伝えた父には、目立たないようにねと注意された。
 ローズは人目を憚り、けれどすぐ戻れるように、講堂近くの木陰に座り込んだ。目の前にある噴水を眺め、どれくらい経ったろう。いつの間にか瞼を閉じて眠りこけていた彼女は、間近で芝を踏む音がして、ゆっくりと目を開けた。
 太陽は空高く上り、外界は光に溢れていた。キラキラ、チカチカ、ローズの睫に射した光が乱反射する。
 目の前に立ったその青年は、目映い光の中、小首を傾げ、可笑しそうに尋ねた。
「これはこれは、こんな場所に眠り姫がいるとは思わなかったな。お目覚めかな? 十三番目の魔女の呪いは、僕が解いたようだね」
 ローズは瞬き、彼を見つめる。
 十三番目の魔女とは、有名な童話の登場人物だった。その物語は、長く子に恵まれなかったとある国の国王夫妻に、待望の姫が生まれたところから始まる。
 国王夫妻はそれを喜び、国内の魔女を全員呼んで祝宴を開く。だが金皿の数が足りず、十三番目の魔女だけが招かれなかったのだ。
 魔女は怒り、美しく成長した姫に眠り続ける呪いをかけた。十五歳の姿のまま眠り続けていた姫君は、百年後、王子のキスで目覚めるのである。
 おとぎ話の美しい姫にたとえられた上、堂々と自らを呪いを解く王子になぞらえた彼に、純粋なローズの胸はドキドキと鼓動を打った。
 しかも青年は、彼女の人生で初めて見たと言ってもよいほど、美しい外見をしている。
 年齢は二十一、二歳くらいだろう。明るい日射しに輝く、少し癖のある黄金の髪に、優しげに細められた垂れ気味の青い瞳。すらりとした肢体を包むのは、誉れ高いヴィントミューレ王国騎士団の制服だ。
 どうやら彼は、今日の式典の出席者で、同じく宴を抜けてきたようだった。
 まだ背中に届く程度までしか伸ばしていなかったローズの髪が風に揺れ、彼はそれを目で追ってから、手を差し伸べた。
「僕はオルグレン侯爵家のハロルド。せっかくだから、一曲どうかな眠り姫?」
 耳を澄ますと、ダンスの時間に移ったのか、宴をしている講堂から音楽が流れてきていた。
 まるで本当におとぎ話の主人公になったような気分で、ローズはドギマギしながら、差し出された手を取った。けれどそこで、不安に顔を曇らせる。
「あ……でも私、まだダンスは練習中で……」
 この日のために用意された彼女のドレスは、とても上等な布地を使った豪奢なものだった。その華やかな衣装と、未成年だけれど特別にといって施された薄化粧は、彼女を実年齢よりも大人びて見せている。だが社交デビューは半年以上も先で、父や講師以外の人と踊った経験のないローズは、躊躇った。
 その態度で、社交デビュー前の未成年だと察したのか、ハロルドは「ああ」と頷いた。ローズの手を引いて立たせ、明るく言う。
「大丈夫。僕はこれでも、エスコートが上手いから」
「……え? でも、待っ……きゃっ……!」
 腰に手を添えて抱き寄せられ、ローズは飛び上がった。その反応に、彼は耳元で笑う。
「──敏感」
 可笑しそうに囁かれ、頬に朱が上った。家族以外の異性とこんなに密着するのは初めてだったし、耳元で囁かれた彼の声がやけに色っぽく、落ち着かない気持ちにさせたのだ。
「あの、ハ、ハロルド様……っ」
「大丈夫、大丈夫」
 ハロルドは軽く聞き流し、噴水の手前に広がる芝の庭園を舞台に踊り出した。ふわっと足が浮き、ハロルドのリードでローズは驚くほど軽やかに踊れた。ドレスの裾が空気を含んでひらひらと揺れ、ハーフアップにした淡い黄金の髪が光を弾く。
 腰に添えられた手はしっかりと彼女を支え、間違えそうになると軽く力を込めて誘導してくれた。上手とは言えないだろうに、彼は華やかな笑顔でローズを見下ろし、口を開く。
「君はハリソン侯爵家のご令嬢? 名前を聞いてもいいかな」
 父は内務大臣に任じられていて、社交界で顔を知らない人はあまりいなかった。父といるところを見かけたのかしらと、ローズは深く考えずに応じる。
「……ローズと申します」
 彼はにこっと笑みを深めた。
「そう、綺麗な名前だね。貴女が社交デビューする日が楽しみだ。きっと多くの男を虜にする美姫になる」
 今日初めて社交の場に出席したローズは、社交辞令という言葉も知らず、素直に真っ赤になる。彼はますます可笑しそうに笑って零した。
「かーわいい」
 軽薄にも聞こえる口調だったが、その呟きにすら恥ずかしさを覚え、ローズは俯く。
 彼は耳元で終始ローズを褒め、鼓動は乱れっぱなしだった。ダンスが終わる頃には、彼女はすっかり恋に落ちていて、「じゃあ、またね」と去ろうとする彼を引きとめていた。
「お、お待ちください……っ」
「うん?」
 彼は、声をかけたローズを振り返り、人のよさそうな笑みを浮かべる。
 このまま別れてしまうのが嫌で、思わず呼びとめただけだった。ローズは何を言えばいいのかわからず、目を泳がせる。でも、優しそうな笑顔も、耳元で艶っぽく囁いていた声も、そつなくエスコートする所作も、何もかもが魅力的で、彼こそが理想の男性に思えた。
 これはきっと、運命の出会い──。
 両親や国王夫妻から聞いた昔語りでも、出会った瞬間、運命を感じたと言っていた。
 だから彼女は、この出会いに疑いもなく、ときめく胸を手で押さえながら尋ねた。
「あの、どうしたら……っ、ハロルド様の、は、伴侶になれるでしょうか……?」
 上手い言い回しが見つからず、単刀直入に尋ねてしまった。ローズは首元まで真っ赤にして、恥じ入る。
 ハロルドは予想もしていなかったのか、きょとんとしてから、ふっと艶やかに笑った。
 間近まで歩み寄り、ひょいっとローズの顎に手をかけて上向かせる。
 彼はちょっと意地悪そうな笑顔で、ローズをしげしげと観察した。
「……そうだなあ。僕はもう少し派手な化粧の方が好きかな。肌は白く、そして唇は赤。扇情的な赤で彩られた唇は、とてもそそるよ。それにドレスの襟ぐりは広い方が好みだ。髪は巻いてみたらどう? より派手になっていいかも」
「……は、はい」
 それは、未成年の少女にはいささかそぐわない提案だったが、ローズは気づくことなく、従順に頷く。顎に手を添えて上向かされるなんて初めてで、それすら恰好よく感じていた。
 彼は言いたいことを言うと、手を離して背を向ける。
「それじゃあね、ローズ嬢。また会えるのを楽しみにしているよ」
 ローズは恋する乙女そのものの眼差しで、うっとりと彼の背を見送った。
 それから彼女は、彼好みの外見になるよう努力した。しばらくしてから、様子の変わった理由を王妃に問われ、ハロルドへの恋心を打ち明ける。王妃は微笑ましそうに話を聞き、そして半年と少しした頃、ハロルドとの婚約を橋渡ししてくれた。
 ハロルドは、ローズとの婚約をすぐ承諾した。顔合わせでも明るく笑いかけてくれたから、嫌がられているとは思いもしなかった。
 だけど、彼の本当に好きな人は──。
 仮面舞踏会を抜け出し、ハロルドはローズよりもずっと大人びた女性と人目を忍んで逢瀬を交わしている。自身を、枷を嵌められる、哀れな子羊だと嘆いて──。
 彼は、ローズとの結婚など望んでいなかったのだ。
 彼は、王妃から婚約を打診されたから、断る術がなかったと言った。
 王妃の姪というそれなりの立場である自覚はあったが、自身の恋心が脅迫に似た力を持つことを、彼女は知らなかった。ローズに慕われては、誰も断れない──相手に無理を強いることができる、身分だったとは──。
 ──私、まるで悪魔みたいね……。
 心の中でそう呟くと、胸が苦しくなった。息が詰まり、視界が歪む。瞳は涙の膜で覆われ、時を置かずして、熱い滴が頬を伝い落ちていった。
 ただ、恋をしただけだった。せめて二人の邪魔にならぬように、声を殺して泣く。
 ──ごめんなさい。すぐに、この婚約は破棄してもらうから……。
 二人の恋路を邪魔した自身の身勝手さを恥じ、ローズは胸の内で謝罪した。ぐすっと洟を啜った時、ハロルドにまたがっている女性が、妖しく笑った。
「まあ、私だけだなんて嘘ばかり……。私以外にも沢山通う女がいるくせに、ずるい男ね。他の女性にも同じ口説き文句を言っているの、知っていてよ……お馬鹿さん」
 きんと心臓が冷え、ローズは訝しく眉を顰める。
 ──彼女以外にも……? ……それは、浮気という意味……?
 顔を上げて見やった彼女は、平然と笑っていた。
 浮気は、裏切りだ。なのにあのご婦人は、どうして平気そうに他の女性との関係を口にしているの──。
 二人の関係が理解できず、呆然となった。ハロルドが笑う。
「快楽を楽しむのは、貴族の嗜みの一つだろう? 貴女だって、僕一筋ではないくせに」
 吐息が震えた。ますますわけがわからない。
 ──二人とも、複数の方と交際を……?
 混乱極まったローズの耳は、ハロルドの甘えた声をまた拾う。
「……ねえ、そろそろいいかい?」
 主語がないので、何を確認しているのかわからなかった。女性が微笑むと、彼は浮かしていた彼女の腰を掴み、自身の腰上に密着させるように引き寄せ──そこで突然、ローズの視界は真っ暗になった。
 同時に女性の嬌声とたまらなそうなハロルドの吐息が辺りに響いたが、激しい雨音と間近で囁く誰かの声が、獣じみた彼らの声をかき消していた。
「こんばんは、お若いレディ。こんな酷い雨の中、外に立っていては風邪を引いてしまいます。……木々の向こうの世界は、貴女の澄んだ瞳を濁らせるだけのようだから、見ない方がいい。館へ戻られることをお勧めしますよ」
 優しく、穏やかで──それでいて蠱惑的な青年の声だった。ローズの視界を覆ったのは、彼の掌。
 ローズは薄く唇を開き、震える息を吐いた。
「……どなた、ですか……? 手を、お離しください……」
 侯爵令嬢であるローズは、傷つき、我を失いそうな状況でも、品ある言葉遣いで尋ねた。
 しかしその声は、自分でも驚くほどか細く、弱々しい。
 背後に立つ青年は苦笑した。
「……泣いてやるほどの男だとは思わないが……。あの男の浮き名は有名だ。知らずに恋に落ちてしまっていたのなら、貴女は相当、浮き世離れした生活を送っていたのだろう」
 ──そんなの、知らない。
 社交デビューもすませていないローズは、ハロルドの浮き名など聞いたためしがなかった。だが青年のセリフは、不幸にも、ハロルドと女性の会話を理解するには十分な説明だった。
 彼は浮気性で、複数の女性と関係を持つ人。
 ローズは唇を噛み、背後にいた青年を振り返る。青年は目から手を離し、ローズを見下ろした。彼は、銀糸の入った、上等そうな青の衣装に身を包んでいた。
 銀色の仮面をつけていて、顔はわからない。外灯の光が射し、仮面の隙間から覗く紫水晶のような美しい色の瞳が、声もなく涙を零し続けるローズを見つめた。
 ローズは震える息を吸う。頭は混乱し、とめどなく涙が零れた。心はただ一つの感情に染められ、彼女は思わず口を開く。
「……私……あの方がずっと、大好きだったの……」
 青年は目を見張った。
 この青年に話しても意味はない。それはわかっていたが、乱れる感情を整理したくて、ローズは想いを吐露し続けた。
「出会った時から、お慕いしていたの……。あの方こそが、運命の人なのだと……っ、信じていたの……」
 激しく降り注ぐ雨は、すっかりローズの化粧を流し落とし、汚れない少女の素顔が晒されていた。長い睫は雨粒を弾いて光の球を作り、ラピスラズリのような青の瞳から透明な滴が静かに零れ落ちていく。震える唇は紅が流されてもなお血色よく、艶やかな薄紅色。
 淡い黄金の髪は彼女の薄い肩や胸元に垂れ、未成熟な色香を滲ませていた。
 無残にずぶ濡れになっているにもかかわらず、彼女は清廉として美しい。
 青年は、しばらく魅入られるようにローズを見つめ続けた。
 ローズは子供じみた泣き声を上げまいと、唇を噛む。
「……君は……」
 彼の視線が、ローズの顔からドレスへと移っていき、そして手にしていた仮面でとまった。その仮面は、今宵のために父が用意したものだ。青年はぼそりと呟く。
「……ハリソン侯爵家のご令嬢か」
 ローズは、見覚えのない人なのになぜ、と目を丸くした。彼はやんわりと言う。
「身分を明かさない仮面舞踏会は、一夜の恋を楽しむ目的で参加する輩もいる。貴女のお父上は、さりげなく家紋に使われている菫の花を仮面に彫り込み、この娘に手を出すなと警告していらっしゃる」
「──」
 ローズは震える手を持ち上げる。仮面の縁に一輪、極小さく菫の花が彫られていた。
 青年はふう、とため息を吐き、低い声で呟く。
「……それほど想っておられるのならば、今宵のことは、悪い夢を見たのだと思われてはいかがか。……館に戻り、ドレスを着替えられた方がいい」
 彼はローズをエスコートしようと、背に手を添えて促す。ローズは仮面を落とし、その仕草を見た青年は、怪訝そうにした。
「いかがされた……?」
 彼女は仮面を取り落としたのではなかった。わざとその場に落としたのだ。
 四阿で睦み合う二人が館に戻る時、必ずこの小道を通る。これが、ローズからの別れの言葉だと伝わればいい。そう思って。
 いまだ心は彼への憧れと恋情に染まりきっていたけれど、彼女は侯爵令嬢としての矜持を失っていなかった。
 ──運命の人は、彼ではなかったのだ。
 瞳からまた涙が零れ落ち、嗚咽が漏れる。
 ──……悲しい。世界で一番、大好きだったのに……。
 この場に崩れ落ち、泣きじゃくりたかった。でもそれはできない。内務大臣であり、侯爵である父を持つローズは、これ以上の無様を晒してはならない。
 震えるため息を吐き出し、顔を上げる。涙を拭い、顔色を窺う青年に、精一杯の凜とした横顔を見せた。
「──館には戻りません。私はこのまま下がります。どうぞ、お気になさらないで」
 青年は彼女の横顔を見つめ、意を汲んだようだった。ふっと笑い、恭しく手を取る。
「では、館の前までエスコートさせて頂こう」
 エスコートを断る気力もなく、ローズはゆっくりと歩き出した。自分の手を握る、青年の大きな掌を見つめる。
 前方に館の前庭が見え始めた頃、彼はぽつりと聞いた。
「君は……永遠の愛を信じるかい?」
 たった今失恋したばかりの人間に、どうしてそんな質問をするのか、不思議だった。
 顔を向けると、彼は横目でこちらを見下ろし、苦笑している。まるで、そんなものあるはずもない──と言いたげな眼差しだった。
 ローズはすうっと息を吸って、はっきりと答えた。
「──ええ、信じるわ」
 だって父は、今も母を愛し続けている。再婚を勧める周囲に、母以外は愛せないからと断りを入れ続けている。
 たとえ失恋しようと、永遠の愛は存在する。
 確信を持って答えると、彼はローズをじっと見つめてから、視線を逸らした。それから口を閉じ、物思いに沈んでいるような雰囲気でエスコートを続けた。
 ハリソン家の御者を呼び、ローズを馬車に乗せるところまで世話を焼いてくれた青年は、扉を閉める直前、身を乗り出す。永遠の愛を信じると言ったローズの答えを聞いて以降、どこか強ばらせていた頬を緩め、優しい声で囁いた。
「……ローズ嬢。彼の不貞を見なかったことにされてはいかがかと言ったことを、謝罪する。貴女には、もっとふさわしい男がいるだろう。誰もが羨む新たな恋に落ちることを、願っているよ。──貴女の未来に、幸多からんことを」
 未来の幸福を祈る彼の言葉は、傷ついた心に一筋の光を射した。
 これが最後の恋じゃない。きっとまた、素敵な人に出会える。
 そんな風に言ってもらえた気がして、ローズはじわりと目尻に涙を溜めた。心は塞ぎ、次の恋など考えられもしないけれど、優しい心根に胸が温まった。
 無様を見せまいと、瞬きで涙を消し、ローズは青年に笑顔を見せる。
「ありがとうございます、ご親切な方。いつか、今夜のお礼を致します」
 彼はクスッと笑い、身を離した。そっと扉が閉められ、馬車が走り出す。しばらく経った頃、ローズは彼の名前も家名も尋ねていないことに気づいた。
 きっと彼の方は、わかっていただろう。だから最後に笑ったのだ。
 気が動転していて、最後まで上手く振る舞えなかったローズは、大仰にため息を吐いた。
「なんて最低な夜かしら……。失恋はするし、人様に泣き顔は見られるし……」
 馬車の窓から見上げた夜空は、暗く淀んだ雨雲が風に流れて、星明かりが煌めき始めている。いつの間にか、雨は降りやもうとしていた。

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