元令嬢は憧れの騎士様に抱かれたくて嘘をつく

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- 本販売日:
- 2021/03/17
- 電子書籍販売日:
- 2021/03/17
- ISBN:
- 978-4-8296-6929-7
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私は、そのままのお前を愛している
借金を抱え、使用人として働く元男爵令嬢ティアナ。雇い主である騎士総長エーギルの役に立ちたいと献身的に奉仕するうち、冷淡な彼も少しずつ変わり始め……。募る想いを隠し、生娘じゃないと嘘をつき抱いてくれと願えば逞しい腕に抱きしめられる。「取り繕うな。私の前でだけは」敏感な肌を隅々まで愛撫され、身体の奥へ彼の形を刻み込まれ、苦悩は快感に塗り替えられて――!

エーギル
皇帝陛下の側近で騎士総長を務める、誰もが見惚れるほどの美青年。忠義第一で他人に興味がなかったが、ティアナを雇うことになり……。

ティアナ
元男爵令嬢だが、家が没落し、病の父と幼い妹のために働いている。借金を返すためエーギルの邸の使用人に応募するが……。
扉を蹴破るような音で目が覚めた。
建て付けの悪い窓の隙間からは、冷たい夜風が吹き込んでいる。
「おい! いることはわかってんだ! 早く出てこい!」
ドア越しの怒声に肩を竦ませて、ティアナは隣で眠る父と妹を起こさないようベッドから抜け出し、急いで玄関に出た。
木枯らしが顔に吹き付けて──けれど寒さではなく、恐怖に自分の身体を抱く。
玄関扉を蹴り上げていた二人の男は、ティアナを見て薄ら笑いを浮かべた。
「いい加減、まとまった額用意できたんだろうな」
向かいの酒場からは、酔っ払いの罵声が聞こえてくる。おそらく、階下の掃き溜めのような路端には、今日も変わらず、路上生活者や娼婦が屯しているのだろう。
ジルニトラ帝国の首都で最も治安が悪いとされている、貧民窟の集合住宅の二階。
そこに、ティアナの世界の全てがあった。
「申し訳ありません。先日、解雇になって……明日、別のお屋敷の面接を受けにいきますから、次の仕事が決まるまで──」
「お前の事情なんて知るか! 貸した金を返せっつってんだ!」
小太りの男が唾を飛ばす。ティアナは顔を背け、青灰色の瞳をぎゅっと閉ざした。
「お返ししたくても、今はお金がないんです。食べるだけで精一杯で、父の薬も──」
もう一人の痩躯の男が、ティアナの赤毛を掴み、身体ごと勢いよくドアに押し付けてくる。
「早いとこうちの店で働けよ。クビにされたんなら、いい機会だろ」
髪を掴んでいた手で、今度はシャツの胸元を力任せに引っ張られた。釦が弾け落ち、白い双丘が覗く。手を払い除けたいのに、恐怖で頽れそうになる膝を保つので精一杯だ。
「っ……! 明日の面接で、もし採用していただけなかったら……その時は、あなたたちのお店で働く覚悟はしています。逃げたりしませんから……っ」
「はっ、いずれ男の相手して稼ぐことになるんだ。もったいぶるような身体じゃないだろ」
「のろのろしてると、そのうち普通に身体を売るだけじゃ済まなくなる、そこんとこよく考えとけよ」
二人の男は吐き捨てて、笑いながら去っていった。落ちた釦を拾おうと膝を折ると、途中で力が抜け、ぺたりと床に座り込んだ。指が震えて、釦が上手く摘めない。乱れた着衣を整えて何度も大きく息を吐き、震えが収まってから、ようやく家の中へ戻った。
「……ティアナ、またあの男たちか」
寝室へ入ると、ベッドに横たわった父が咳き込みながらティアナの方へ顔を傾けた。
「ごめんなさい、お父様……起こしてしまったのね」
カーテンの隙間から差し込む月明かりを頼りに、縁の欠けた水差しからグラスに水を注ぎ、父の寝台の下に膝をつく。
「すまないな、私が病に倒れて身分を失ってしまったばかりに、お前に全てを背負わせて……薬代のために、あんな奴らから借金まで」
「何を仰るの。さあ、飲んで……喉が辛いでしょう?」
微笑んだけれど、暗い中で、父親には見えなかったかもしれない。
ティアナは数日前、女中として八年勤めた貴族の屋敷を解雇されたばかりだ。
理由は窃盗だったが、実際は同僚の仕業で、ティアナは告発しようか迷っていたのだ。なのに普段から仕事仲間に父の没落を笑われ、“元貴族令嬢”の肩書きを疎まれていたティアナは、濡れ衣を着せられてしまったのだ。
『つまらない正義心を燃やして告げ口しようとした罰があたったんだ。いつまで貴族を気取ってるんだ、身の程を弁えろ──』
職場を去る日、同僚に吐きかけられた心無い言葉は、今も胸の奥に突き刺さっている。
「すべて私のせいだ……妻が亡くなっても、私さえしっかりしていれば……爵位も屋敷も失わず、お前たちにも、こんな思いをさせずに……」
そう悔いる父の容貌は、劣悪な環境と病によって、年齢以上に老いていた。それでも元貴族らしく、瞳には培ってきた知性や教養が滲んでいる。
「私は幸せよ。こうして家族で一緒に暮らせているんですもの」
「ティアナ。頼むから、妹と二人でここを出て、もっといい生活を……」
「もう。そんなことを言うお父様は、嫌いです」
ティアナは怒ったふりをしてみせる。
「とにかく、何も心配なさらないで。明日、面接があるんです。やっと、紹介状なしで受けられるお仕事を見つけられたの。騎士様がお屋敷を購入されたから、たくさん人手が必要なんですって。通いで、お給金もいいのよ。少しずつでも借金を返して……いつかもっといい場所へ引っ越して、お医者様に診ていただけるように頑張りますから」
父は悲しげにティアナを見つめ、「そうか、頑張っておいで」と囁き、瞼を閉じた。ティアナは父のやつれた額にキスを落とし、妹と同じベッドに横になる。
十一歳離れた妹は、健やかな寝息を立てている。物心付く前にここで暮らすことになった彼女は、今の貧しい生活の記憶しかない。それは唯一ともいえる救いだった。
父を蔑まれるのも、理不尽な解雇も、二度と嫌だった。それにもし借金取りに追われていることを知られたら、間違いなく雇ってもらえないだろう。だから明日のために用意した経歴書には、出自や家族について、偽りばかり並べてある。
本当は、嘘なんて吐きたくない。
でも、父と妹を守るためなら、私は何でもするわ──。
そう決意しているにもかかわらず、時々ふと、この生活はいつまで続くのだろう、と漠然とした不安に襲われる。
父にはああ言ったものの、もし明日の面接に受かっても、利子で膨らみ続ける借金を減らせる気がしない。男たちの言う通り、早く身体を売らなかったことを後悔する日が来るのかもしれない。
染みだらけの、真っ暗な天井。
絶対に弱音だけは吐かない、と心に決めている。
もし一度でも口にしたら、辛うじて続いているこの生活が、あっという間に崩れ去ってしまう気がする。
明日の面接は、何があっても、成功させないといけない。
不安と恐怖を押し殺して、ティアナは暗闇を見つめ続けた。
騎士総長様は、絵物語から抜け出てきた貴公子のような方らしい──。
それは、ジルニトラ帝国の首都に暮らす者なら誰もが知っている噂だった。
けれどティアナが彼を目前にして緊張してしまった理由は、人間離れした美しさからではなく、抜身の剣の如き威圧感のせいだった。
「ティアナ・ミラ・ブランシュ──二十二か。出身が書いていないようだが、どこの生まれだ?」
騎士本人に迎え入れられた執務室に、一切の過ちを許さないような硬質な低音が響く。まるで尋問だ。
それに、容姿が完璧すぎて、人間ではないみたい──。
怜悧な輝きを放つ蒼玉のような瞳。まっすぐな鼻梁に、禁欲的に閉ざされた形のよい唇。全てのパーツが、プラチナブロンドの髪に彩られた輪郭の中で、完璧な場所に配されている。闇夜を思わせる黒いダブレットが、妖しい美しさをより際立てていた。
でも、怖いと感じて当然よね。
この帝国で一番偉い騎士様だもの──。
エーギル・レイフ・ヘルグレーン──一昨年の領土を巡る他国との戦で、二十五歳にして武功を立て、ジルニトラ帝国の騎士の頂点である総長に抜擢された男だ。帝国統治下の諸国は勿論、ウルジア大陸で彼の名前を知らない者はいない。
騎士──エーギルは執務机を指で叩き、彫像のように整った無表情をティアナに向けた。
「ティアナ、聞いているのか?」
「あ……申し訳ございません!」
声も言葉も表情も、何の温かみもない。口元だけが機械仕掛けのように動いて、神の代理に裁かれている心地さえしてくる。ティアナは俯きがちに、昨夜何度も練習した答えを口にした。
「このお屋敷から少し離れた郊外で生まれ育ち、今も家族と暮らしております」
本当は遠く離れた村が故郷で、今住んでいる場所も『少し離れた郊外』どころではない。この高級住宅地からティアナの住む貧民街まで、歩いて小一時間以上かかる。夜明け前に家を出ないと、出勤に間に合わないような距離だ。
「以前雇われていたのは……クレンペラー子爵の屋敷か」
「はい。八年間、様々なお仕事を任せていただきました」
「洗濯、台所の洗い場に、調理、清掃とあるが、短期間で持ち場を変えて、覚えられるものか?」
「……仕事を覚えることには、自信があります。他に、どんな仕事でも──何でも致します」
一通りの仕事を任されたのは事実だったが、半ば虐めのように仕事場を転々とさせられたのが実際のところで、どれも経験としては中途半端だった。
「紹介状がないようだが、何か特別な理由が?」
「……、それは──」
これだけは、一晩中考えても、うまい嘘が浮かばなかった。前の雇い主から紹介状をもらえなかったということは、“問題あり”とみなされて解雇されたということと同義だからだ。
エーギルが訝しげに睨んでくる。
どうしよう……やっぱり、駄目なのかもしれない。
でもここで落とされたら、私、今度こそ、身体を──。
唇を噛んで、俯いた時。
「エーギル様!」
開いたままのドアから、腰に剣を佩いた青年が駆け込んできた。帝都直属の騎士団員であることを示す黒衣と濃紺の外套、そして竜の意匠が施された肩当てを纏っている。屋敷にはまだ誰も住んでおらず、他に人はいなかった筈だ。勝手に入ってきたのだろうか。唐突な入室にもかかわらず、エーギルは表情一つ変えず、「例の件で何か問題でも生じたか」と促した。
「いえ、順調です。隠れ家を突き止めるのに時間が必要そうですが……そのことではなく。実は、エーギル様のご生家から城へ飛脚が参りまして」
「そんなことで持ち場を離れてきたのか。早く言え」
「いえ……ですが、その、」
青年は困ったようにティアナを見た。突然のことに驚いて、ぼうっと成り行きを見守っていたティアナははっと姿勢を正す。
「あの、私、お邪魔でしたら、」
「いや、任務に無関係の内容なら、気にする必要はない」
青年は言いにくそうに、けれど上官の命令に従った。
「ご母堂様が、四日前に事故に遭い、息を引き取られたと」
エーギルの双眸が細まる。
しばらく、沈黙があった。
やっぱり部屋を出るべきだった、とティアナは後悔した。
同時に、十年前、自分の母が亡くなった日の記憶が蘇る。
悲しみは忘れるように心がけているが、こうして不意に思い出すと、今でも胸が押し潰された。
ずっと昔のことでも辛いのに、一体どんなお声がけをすれば──。
ティアナはそっとエーギルの顔を覗き見た──が、彼はしばし思案した後、ティアナに質問した時以上に淡々と命じた。
「お前が持ち場を離れるほどのことではない。今は私情より、組織の尻尾を掴むことが重要だ。一度都に蔓延らせたら、厄介なことになる。さっさと任務に戻れ」
「は、失礼いたしました」
青年は上官の振る舞いに慣れているのだろうか、特に驚いた様子もなく駆け去っていく。
どういうこと──?
今、母親が亡くなったって、そう言われたのよね?
理解できない光景に立ち竦んでいると、エーギルは何事もなかったかのように再びティアナを一瞥した。
「で、前職の解雇の理由だが──」
これは面接だ。明日からの人生が、この応答次第で大きく変わる。だから相応しい態度を取らなければいけない。
なのに、どうしても自分の母を重ねてしまって、冷静に答えることができなかった。
「あ──あの、今のお話。お亡くなりになられたのは、エーギル様の、お母様なのですよね?」
鋭い瞳に捕らえられて、背筋に震えが走った。なんとか耐えて、見つめ返す。
「どうやら、そのようだな」
「どうやらって……、そんな言い方……」
思わず、楯突くような呟きが漏れてしまった。彼は訝しげにティアナを観察している。
彼がどんな人であろうが、これ以上無礼を重ねるべきではない。お金のため──父と妹のためにも。そうわかっているのに。
「産み育ててくれた母親が亡くなったっていうのに、あんまりじゃありませんか? 立派な騎士様だとお噂を耳にしておりましたけど、まさかこんな、……」
冷酷な方だなんて──。
最後の言葉はなんとか飲み込んだが、ここまで吐き出してやっとティアナは冷静さを取り戻し、深い後悔に襲われた。
「言いたいことはそれだけか?」
凍てついた瞳に、抑揚に欠けた声。
まるで、人の心がないみたい──。
「いえ……申し訳ございません、私……その、」
「なぜ謝る。人の主張をとやかく言うつもりはない。君がどんなに感傷的で非合理な考えを持っていようが、仕事の能力には関係ないだろう」
想像しなかった答えに、ティアナは言葉を失った。いっそ叱責が飛んできたほうが、まだ人間味を感じられただろう。
でも、戦場で活躍するというのは、こういうことなのかもしれない──。
感傷を捨てて、平気で人を殺せなければ、こんな若さで武勲を立てられないはずだ。
「だが──今ので、解雇の理由は見当がついた。意見する使用人を好む雇い主もいないだろう。クレンペラー子爵は特にプライドの高い男だからな」
『普段はこんなことは言いません、濡れ衣を着せられただけです』と言い返したかったが、俯いてぐっと堪える。
「何でもする、と言ったな」
ティアナは顔を上げた。まさかこんな失言をした自分を、雇ってくれるのだろうか。
雇い主がどんなに冷たい人物であれ、大切なのは父と妹だ。仕事を得られれば当面の金銭の不安から解放される──身体を売ることなしに。
「はい──そうです、何でも致します」
エーギルは深く頷いた。
「よろしい。仕事に対するプライドは充分なようだ。安心して任せられる」
「や……雇っていただけるんですか!?」
身を乗り出すと、更に驚くべき言葉が続いた。
「だが、条件に変更がある。先程の報告で事情が変わった。この屋敷を、当面君一人で管理してほしい」
「……え?」
「地方に残してきた母を呼び寄せるために購入した屋敷だが、もう叶わないようだ。私一人なら、今まで通り城内の居館にとどまったほうが職務上都合がいい。ここを売却するにしても、時間と手間がかかりそうだ。しばらくそんなことに拘っている時間はない」
「わ、私一人で──このお屋敷を……!?」
目眩がしたのは、気のせいだろうか。この執務室に辿り着くまでに目にした部屋だけでも、相当な数だ。洗濯や食事などを分担して任されるのと、雑務女中では、全く話が違う。
「で、でも、私以外にも、募集を見て面接を受けた方がいらっしゃるのでは、」
「『何でもやる』と豪語したのは君だけだ。無人の屋敷の管理に、何人も必要ない。君が請け負ってくれるなら、他の志望者には新しく紹介状を届けさせよう」
「そんな──」
「いずれ売却する時、速やかに明け渡せる程度に今の状態を保ってくれればいい。当初の条件と異なるから、給金は上げよう。君が断るなら他を探す」
母親が亡くなったと連絡を受けたばかりで、どうしてそんなに冷静でいられるのだろう。それに身勝手だ。ティアナの他にも、生活をかけてここに来た人がいるに違いないのに。全てが自分の思い通りになるとでも思っているのだろうか。
こんな傲慢な人の元で働くなんて──と思ったが、ティアナに選択肢はなかった。
「大丈夫です……やります。精一杯務めさせていただきます」
「では早速、明日から頼む。ああ、当面の給金と──裏口の鍵を渡しておこう。今日はもう帰ってくれて構わない」
彼は椅子から立ち上がり、懐の革袋から取り出した貨幣数枚と鍵を手渡し、
「面接は君が最後だ。私は城に戻る」
と言ってソファの上に置かれた外套を羽織ると、ティアナを置いてさっさと廊下へ出ていってしまった。慌てて追いかけて、大きな背中に問いかける。
「あ、あの、お屋敷には、お戻りにならないんですか!?」
ティアナより脚が長いせいで、小走りにならないとついていけない。その上とんでもなく背が高いものだから、真上を見上げるように首を曲げる必要があった。
「同じことを言わせないでくれ。案ずるな、次の給金は渡しにくる」
エーギルはティアナを一顧だにせず三階の廊下を進み、吹き抜けの大広間へ続く大階段を下りていく。
「でも、あの、もしお客様がいらしたら、」
必死に追い縋ると、彼は突然、階段の途中で立ち止まって振り向いた。
「きゃあっ」
彼の一段上に足を踏み出していたティアナは、顔面から彼の胸に衝突した。
倒れちゃう──!
そう思ったのは一瞬だった。体当たりするような勢いでぶつかったにもかかわらず、彼は大木のようにびくともしない。
初めて触れた身体は──温かかったし、柔らかかった。つまり充分に、疑いなく、生き物で──どうやら同じ人間らしい。そんな当たり前のことに驚いて、ティアナは混乱する。
「っ……も、っ、もうしわけありませ……、っ……!?」
顔を上げると、鼻先に、神人のように整った無表情があった。凜然とした蒼い瞳が宝石の如く輝いて──ティアナをその中に閉じ込めるように、真っ直ぐ捉えている。
お互いの息が、顔に触れるほど近い。
ティアナは耳の先まで真っ赤になった。
が、彼はそんな女性の反応に慣れているのだろう。今にも鼻先が触れあいそうな距離のまま、
「購入したばかりで誰も暮らしていないのに、客人が来るわけがないだろう」
と白けた声で言った。
心臓がばくばくと音を立てている。彼の言葉の意味が頭に入ってこない。
長い睫毛。滑らかな肌。鍛え上げた野性的な肉体に、繊細な白金の髪。その上なんだか、蠱惑的な甘い香りまでする。
どんなに冷徹で、不遜で、全く尊敬できなくても──それが許されてしまうくらい、彼は──彼の外見は、男性としてとんでもなく魅力的なのだということを、ティアナは思い出した。
「いつまで寄りかかっているつもりだ?」
「えっ……あっ……!」
言われて気付いた。
こんなに前のめりになっているのに倒れないのは、彼の両手が背中を抱え、胸で抱き留めるように支えてくれているからだ。つまり、ティアナは自分の胸を、自分の体重でもって、彼の身体に押し付けていた。
「ごっ、ごっ、ごっ、ごめんなさ、」
「何を慌てているんだ。いい年をして、生娘でもあるまい」
「っ……!」
かっと顔が熱くなる。
羞恥で潤んだ瞳を隠すように俯いて、恐る恐る彼の肩に手をつき、身体を起こした。
男性経験なんてない。
キスどころか、手を繋いだことも──恋をしたことすらないのだ。
十三歳で帝都へ越してすぐに父が倒れ、十四歳で働きはじめてから、ティアナの人生には、憧れていた女性らしいことのすべてが──化粧もお洒落も、友達との他愛ないお喋りすら、夢の世界のことになってしまった。
「仕事に不安があるのか? 自信がないなら別の人間を雇う。募集すれば、代わりはいくらでもいる。後々投げ出されても迷惑だ、今はっきり言ってくれ。どうするんだ」
何も持たないティアナにとって、仕事だけが自分の価値を証明するものだ。それすら奪うような言い方をされて、視界が滲む。
「……いえ、大丈夫です。やります──できます。ただ、急なお話でしたから……申し訳ありません」
エーギルは「そうか」と頷くと背中を向けて──あっけなく屋敷を後にした。
玄関扉の施錠音が消えた後も、ティアナは階段に立ち尽くしたまま、収まらない心臓の鼓動に翻弄され続けていた。
動悸も顔の熱も、はじめて男性の身体に触れたからであって、彼の言動は未だに受け入れ難い。
大きく深呼吸を繰り返して、吹き抜けの天井を仰ぎ見た。
エントランスを兼ねた大広間の中央にある大階段からは、二、三階の廊下や、そこに並ぶドアのほとんどを視界に収めることができる。
ここから見えるだけでも、部屋の数は十を超えている。外には庭や厩もあったはずだ。
ティアナが十三歳まで過ごした屋敷は、もう少し狭かった。それでも、使用人は何人もいたのだ。
──でも、雇ってもらえた。屋敷は手放すと言っていたが、少なくともそれまでは。
ポケットに入れた貨幣を取り出した。まだ信頼も築けていないのに先払いだなんてと驚いたけれど、彼にとっては大した額でもないのだろう。
借金の返済で殆ど消えてしまうけど、久々に妹にお腹いっぱい食べさせてあげられるわ──。
「……大丈夫。借金だって、少しずつでも返していけば、かならず……」
ティアナは執務室に置いたままの鞄を取りに戻り、明日からの職場を一巡した。
前の住人が手放してからどのくらい経っているのかわからないが、床は曇り、あちこちうっすらと埃が積もっていて、掃除のしがいがありそうだ。最後に足を踏み入れた調理場の奥に、裏口らしきドアを見つけて外に出る。
裏庭は草木が生い茂り、落ち葉が黄色く一面を彩っていた。
故郷の村で、秋にたくさん見かけた黄葉だ。周囲を仰ぐと、数本、マロニエの木が植えられている。緊張していて気付かなかったが、そういえば、執務室の窓からも、色付いた葉がそよぐのが見えていた。
懐かしさに気分がよくなって、黄色い絨毯の上に草臥れた鞄を置き、両手でスカートを摘んでみる。擦り切れた古着だけれど、今のティアナにとって、これが一番上等なスカートだ。
昔習ったダンスのステップを踏んでみる。
母と同じドレスを着て踊るのが夢だった。
舞踏会へ出掛けて行く日、着飾って化粧をした母は美しくて──だから、早く大人になりたかった。デビュタントとして社交界に迎えられて、素敵な男性と恋をして。そんな憧れのために両親にせがんで、小さいうちからダンスの先生をつけてもらったのだ。
昔の夢は、もう絶対に叶わない。
大好きな母は、妹の出産後、体調を崩して亡くなった。最愛の伴侶を失った父は塞ぎ込み、弱みに付け込んだ詐欺師に騙されて財産を失い、領地を追われた。
夜、父と妹の三人で、逃げるように帝都へ旅した日の心細さを、今も覚えている。
下町に部屋を借りて、父は働き始めた。貧しいながら、順調な再出発のはずだった。けれど父が病気を患い、代わりにティアナが働くことになった。父の薬代が増えるたび、より安い部屋へ転居を繰り返し、とうとうティアナ一人の給金では全てを賄いきれなくなり、借金をした。
大きくターンをすると、落ち葉が舞い上がった。まだ身体が覚えている。
ドレスに憧れるティアナに、母はいつも微笑みながらこう言った。
『そんなに背伸びして、成長を急がなくていいのよ。いつだって、今の、ありのままのあなたが一番素敵なんだから』
ずっとその言葉を信じていられたら、どんなによかっただろう。
でも、ティアナは大人になって──憧れていた社交界とは真逆の、最下層の現実を知ってしまった。家の外では、嘘を吐いてでも自分の身を守らなければ、いつ誰に何を奪われるかわからない。
母の言葉通り、ありのままでいたら──弱いままでいたら、大事なものを失ってしまう。
父と妹を守るためなら、なんだってするわ──。
ステップを踏むたび、褪せた紺地が広がって、黄色に映える。
手を引いてくれる男性を、ティアナは誰も知らない。
だから自然と──直前に会った人を、はじめて近くで触れた男性を思い浮かべた。
全く好きになれないけれど、背は高いし、見目は麗しく、触った時も温かかった。
想像の中で踊るだけなら、完璧な男性だ。
でも実際に踊ったら、強引なリードで、引きずられるようにして踊る羽目になりそうだわ。ホールドも強すぎて……それで……彼の見た目に恋した女性は、あっという間に冷めちゃうの──。
そんな想像をして、一人微笑む。
鞄に踵がぶつかって、慌てて足を止めた。
ひときわ鮮やかな黄色い葉が目に入って、拾い上げる。
故郷の景色を覚えていない妹に見せてあげよう──。
もう一度微笑んで、暗くならないうちに、遠い家路を急いだ。

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