新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円
新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円

鬼惑(あやかし)の花嫁

本を購入

本価格:737(税込)

カートに追加しました
電子書籍を購入

電子書籍価格:737円(税込)

獲得ポイント:7pt
電子書籍を閲覧するにはビューアアプリ「book-in-the-box」(SHARP)をインストールしてください。
書籍紹介

お前を喰うのは、この俺だ

幼い頃からあやかしに囲まれて育った人間の撫子。想いを寄せる鬼族の次期当主・九耀と結婚するため花街で行儀見習いをすることに。そこへ遊女になると誤解した彼が押しかけてきて!? 「誰にも触れさせはしない」執拗な口づけや独占欲剥き出しの振る舞いに戸惑いつつも、愛されているとわかって嬉しくなる。素直な想いを伝えれば強く抱きしめられて! 異種族純愛ファンタジー!

ジャンル:
和風 | ファンタジー
キャラ属性:
クール
シチュエーション:
玉の輿・身分差 | 年の差 | 幼馴染・初恋の人 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

柳生鬼九耀(やぎゅうきくよう)

鬼を束ねる一族の次期頭領。傷つけられた経験から人間が嫌いだが撫子だけは別。素直になれず冷たい態度をとることもある。

撫子(なでしこ)

幼い頃に捨てられて、九耀の父に拾われた人間の娘。成長して九耀の側付きになった。彼からは嫌われていると勘違いしている。

立ち読み

 虫も寝静まる夜半。空に浮かぶ繊月が雲に隠れて、山は墨汁をぶちまけたような暗闇に包まれていた。
 荒れた山道を、ふゆは母に手を引かれて歩いていた。
「かかさま。どこまでいくの?」
「大人しくついておいで、ふゆ。こっちに用があるんでねぇ」
 口数の少ない父が提灯を掲げて先導している。人が立ち入らない山道は大きな石が転がっており、あちこちから木の根が飛び出していて歩きづらい。
 ここは、里では“鬼隠山”と呼ばれている山だ。
 鬼隠山には古くから鬼が棲むという伝承があり、山道の入り口には小さな社が建っていて、とある高名な僧が鬼を鎮めるために彫ったという禍々しい鬼の彫像が祀られていた。
 角の生えた鬼子が災いを振り撒きに里まで下りてきたという噂もあって、大人たちは滅多なことがなければ山に近づかない。
 悪いことをしたら、鬼隠山へ捨てられるぞ。
 その山に足を踏み入れると、鬼に見つかり喰われてしまうぞ。
 里の子供は、物心ついた頃からそう言い聞かされて育つ。
 その曰くつきの山へ、両親は他の兄弟を起こさぬようにして、ふゆだけを連れてきた。
 やがて苔むした石階段が現れて、朽ちかけた古い山寺に到着した。
「用を済ませたら戻ってくるから、ここに座って待っておいで」
「……行くぞ」
 さっと背を向けた父が、来た道を足早に戻っていく。
 母は「いい子で待っておいでね」と言い聞かせるように繰り返し、父の後を追った。
 人魂のように揺れる提灯の明かりが見えなくなっても、ふゆは母の言いつけを守ってそこから動かなかった。


 夜が明けて太陽が空を通過し、また晩が訪れても、両親は戻ってこない。
 空腹と喉の渇きに悩まされながら、ふゆは自分の置かれた状況を察していた。
 山間の貧しい里での生活は苦しかった。兄は遠い里へと奉公に出され、年頃の姉は女衒に引き取られていった。そして、ふゆの下には、まだ二人も幼い弟妹がいる。
 つまるところ、ふゆは口減らしのために鬼隠山へ捨てられたのだ。
 姉のように女衒に売り飛ばされなかったのは、おそらく彼女の“体質”のせいだろう。
 このまま飢えて死ぬか、獣に喰われるか、それとも山の名の謂れとなった“鬼”に見つかり餌食とされるのか──いずれにせよ、悲惨な末路を辿るのは目に見えていた。
 そうと分かっていても、ふゆはその場から動かなかった。捨てられたという事実に対する哀しさよりも、恐ろしい鬼隠山に彼女を捨てると決断を下した両親への疑問と、寂しさのほうが大きかった。
 階段の上で丸くなり、全てを諦めかけた時だった。境内のほうから砂利を踏みしめる音がした。淀んだ夜の空気を引き締めるような玲瓏な声が響く。
「これは珍しい。人間ではないか」
 ふゆはびくりと身を震わせて振り返った。
 階段の最上段に男が立ち、こちらを見下ろしている。
「こんな夜更けに、このような寂れた場所で何をしているのだ」
 空に浮かぶ細い三日月を背負い、彼女を見下ろす男の双眸は闇夜に光る深紅。
 血のような紅の瞳を持つのは、人にあらず──鬼だ。
「しかも、まだ童か。童はよい。肉が柔らかくて味も格別だからな」
 鬼は人を喰らう。特に子供の肉を好むのだと聞いていた。
 ふゆは身の毛がよだつ思いで立ち上がり、男を見据える。
「……あなた、鬼なの? わたしを食べるのね」
「ああ、うまそうだからな。このまま家に持ち帰り、鍋でじっくり煮るか、頭から生でばりばりと喰らうか、どちらにするべきかと考えているところよ」
 月明かりが逆光となり、爛々と輝く深紅の眼以外は、男の顔立ちはよく見えない。
 相手が鬼ならば、人の身で逃げることは叶わぬだろう。
 そう悟ったふゆが悄然と肩を落としたら、男が意外そうな口ぶりで言う。
「逃げなくてよいのか?」
「うん……いいの」
「そなたを喰らうと言っているのだぞ。怖くはないのか?」
「すごく怖い。でも、かかさまも、ととさまも、わたしをここに捨てた。だれも、わたしを必要としていないし、行くところもない……だから、もういいの。どうぞ、食べて」
 男と話しているうちに、目の前がくらくらしてきた。
 思えば、長いこと食事をしていない。まる一日、水も食事もとっていないせいか、ひどい目眩に襲われて、ふゆは階段から足を踏み外して落ちそうになる。
 すかさず伸びてきた腕に抱き留められて、頭上からため息交じりの声が降り注ぐ。
「親に捨てられたのだな、哀れな人間の子よ。しかし、こうして近くで見ると……なんとまぁ、清廉で美しき御魂の持ち主よ。このまま捨て置けば、血の気の多いあやかしに餌食にされかねん。それは惜しい。さぁて、どうしたものか──」
 その言葉を最後に、ふゆの意識はぷつりと途切れた。


 ふゆが目覚めると、ふかふかの褥で寝かされていた。起き上がった途端、腹の虫がぐううと鳴る。
「ここは、どこ……?」
 見知らぬ部屋を見回して首を傾げていたら障子が開いて、顔を薄布で隠した女たちが食事の膳や着替えを持って入ってきた。
 ふゆの前に置かれた食事の膳にはつやつやとした米と味噌汁、鮎の塩焼きと香の物が並んでいる。
「これ、食べてもいいの?」
 膳の支度をしてくれた女が頷くのを見て取り、ふゆは箸を取った。
 炊きたての米はふっくらとしており、味噌汁はちょうどよい塩加減だ。それらを口に詰めこみながら、ふゆは「おいしい」と呟いた。
 おかしなものだ。鬼の棲む山に捨てられて生きることへの希望を失っても、食事はうまいと感じるのだから。
 ひたすら箸を動かしていたふゆは、どこからか視線を感じて顔を上げた。
 開け放たれた障子の向こうに身なりのよい少年が立っていた。背が高くて、おそらく彼女より年上だろう。整った目鼻立ちと寒椿のような深紅の瞳を持っている。瞳が紅いということは、鬼の子かもしれない。
 固まるふゆを、少年は睥睨していた。その目には抜き身の刃のごとく尖った敵意と嫌悪感が浮かんでおり、しばし彼女を睨みつけたあと、少年はくるりと踵を返して廊下の向こうへ消える。
 すると、少年と入れ替わりに浅葱色の着物を纏った男が現れた。
「目が覚めたか。食事が口に合うといいが」
「あなたは、山寺で会った……」
「私は柳生鬼幻月。鬼隠山を治める柳生鬼一族の頭領だ。私がそなたを拾い、ここまで連れてきた」
 ふゆが目を丸くしていると、にこやかな幻月が彼女の傍らに腰を下ろした。
「我らのような“あやかし”を前にすると、人は恐れおののくものだ。山寺で会った時もそうだったが、そなたは驚きこそすれ、今も騒ぎ立てずに落ち着いている……あやかしに会うのは初めてではないな?」
 その問いかけに、ふゆは「見えるから」と小声で答えて、これまでのことを説明した。
 あやかし。人の世に紛れて暮らす彼らの存在を、ふゆは物心ついた頃から知っている。
 周りには見えないものが見えてしまう。それが彼女の特殊な“体質”だった。
 どうやら何代か前の先祖が霊力を持つ巫女だったようで、その血が濃く出てしまったのではないかと里の寺の住職には言われたが、見えるせいで怖い思いをしたり、あやかしに悪戯をされてつらい経験をすることも多かった。
 しかし、親兄弟に相談しても気味悪がられるのが常だったし、里の者たちからも遠巻きにされていた。そのため、ふゆは成長すると共に口数が少なくなり、自分の殻に閉じこもるようになっていった。
 女衒に売られなかったのは、彼女のおかしな言動から、正気を疑われて売り物にならないのではないかと両親が危惧したからだろう。
「なるほど。そういう理由があったか」
「鬼の頭領さん。わたしを太らせてから、たべるの?」
「いや、我ら柳生鬼の一族は人を喰わない。あやかしの中には人を喰う連中と、喰わない連中がおるのよ。山寺では、そなたを脅かすつもりで喰うと言っただけだ」
「じゃあ、どうして私をつれてきたの?」
「我ら鬼の一族のように、妖力が強いあやかしは人間の目にも映る。しかし、修験者や霊力の高い巫女でもない限り、人間に悪戯をする程度の弱いあやかしまで見える人間など滅多におらんのよ。それに、そなたの御魂はなんとも美しい。それだけでも拾う価値があるというもの」
「みたま……?」
「人の魂のことよ。我らは御魂の美しさを尊ぶ。そなたの御魂は穢れがなく、私は好ましく思う。喰らうよりも、側に置いて愛でたい」
「?」
「さて、人の童には少々難しい話だったか。なぁに、分からずともよい。こうしてそなたを拾ったのも、何かの縁だろう。そなたが生きたいと望むならば、生きる場所をやろう。もちろん、それ相応に働いてもらうが……どうする?」
 ふゆは考えてみたが、そもそもあやかしとは価値観が違い、御魂の美しさとやらも自分では分からないため、どうにも理解が及ばない。
 ただ、幻月が生きる場所を与えてくれると言っているのは分かった。
 両親に捨てられても、ふゆは自ら望んで死にたいわけではない。行くあてがなく、生きる理由も見つからなかったから死んだほうが楽だと思ったのは確かだけれど。
「わたしは生きたい。死ぬのは、いや」
「人の世に戻れぬとしても、構わぬか?」
 もともと親からの愛情は薄く、ふゆは里で暮らしていても居場所がなかった。
 なればこそ人の世で暮らすよりも、いっそあやかしのもとで暮らしたほうがましかもしれないと思い、ふゆは「うん」と頷く。
「あい分かった、私が手を貸そう」
 鬼の頭領、柳生鬼幻月がにかっと嗤うと、鋭い二本の八重歯が見えた。
 幻月は美丈夫だった。夜陰に紛れやすい漆黒の髪と白磁の肌、人の心を惑わすような端整な顔と、鬼の証である深紅の眼。鬼は角が生えていると伝承で聞いていたが、彼の額はつるんとしていて角はない。
「しばし、ここで休むがよい。のちほど、息子の九耀も紹介しよう。そなたとは年が近いのでな、よい話し相手となるだろう。……ああ、それから新しい名をくれてやらねばならんな」
「名前なら、ありますよ」
「そなたは鬼に拾われ、人の世を捨てる。ならば、人が付けた名も捨てたほうがよい。そうさな……撫子というのはどうだ。清廉な御魂に似合う楚々とした花の名よ」
「撫子……」
 彼女は鬼がくれた名を噛みしめるように繰り返す。なんて美しい響きの名だろう。
「気に入ったようだな。今日より、そなたの名は撫子だ。我が屋敷へようこそ、撫子」
 美しい鬼の頭領は、そう言って艶然と微笑した。

 人に捨てられ、あやかしに拾われた少女の新たな人生が始まった瞬間だった。

 

 

 

「俺に近づくなよ、人間」
 柳生鬼幻月の息子、九耀が撫子に投げつけた第一声はそれだった。
 五つ年上の九耀は幻月とよく似た顔立ちの美しい少年で、撫子を射貫く切れ長の双眸には敵意が滲んでいた。
「これ、九耀」
 幻月に咎められても、少年は構わずに睨みつけてくる。
 敵愾心を向けられているというのに、撫子は彼から目を逸らすことができなかった。
 血のような猩々緋の瞳に宿る苛烈な感情に震え上がりそうになりながらも、鬼としての矜持をもって睥睨してくる少年に見惚れていたからだ。
 ここまで真っ直ぐ見据えられることも、里ではいない者のように扱われていた撫子にとって初めての経験だった。
 もしかしたら、この時からすでに、彼に心を奪われていたのかもしれない。

     ◇◆◇◆◇

 障子の向こうから鳥の囀りが聞こえてくる。
 撫子は蒲団の重みを感じ肌寒さで身震いしながら目を開けた。
「ふわぁ……朝ね……」
 幻月に拾われてから十年の歳月が経過し、撫子は十八歳になっていた。
 欠伸をしながら蒲団を捲ってみると、子犬ほどの大きさの白い狼が二頭、重なり合うようにして眠っていた。屋敷で飼われている、妖狼の雪風と凍雲だ。
 人間の体温が気持ちいいらしく、彼らはよくこうして撫子の寝床にもぐりこんできた。
 二頭とも本来は大きな狼の姿だが、撫子の蒲団で寝る時は邪魔にならないよう小さく変化する。それでも敷蒲団の半分ほどを占拠するので、撫子はいつも蒲団からはみ出しそうな状態で目を覚ますのだ。
 撫子は妖狼たちを撫でてから蒲団の上を確認した。そこには美しい毛並みの三毛猫が我がもの顔で寝そべっている。
 蒲団が重かったのは、この猫のせいだ。
「おはようございます、夕霧様」
「おはよう、撫子。いい朝ね」
 夕霧と呼ばれた三毛猫は涼やかな女性の声で応えた。長寿で妖力を得たために尾が二つに裂けて、ただの獣から猫又のあやかしとなった化け猫なのだ。
 夕霧は長い尾を優美に振りながら欠伸をする。
「ああ、よく寝た。おまえさまの寝床は静かで、ほんに寝心地がいい」
「それは何よりです。でも、できれば蒲団の上で寝るのは控えて頂けると、私もありがたいのですが」
 撫子は夕霧を抱き上げてそっと畳に降ろし、着替えを始めた。白地に桜花の細緻な文様が描かれた着物を纏い、濃藍の袴を穿く。帯をきゅっと締めてから、寝癖がついて鳥の巣のようになっている黒髪を丁寧に梳かした。
「今日も寝癖がひどい」
 撫子はぶつぶつと呟きながら身支度を整えると、姿見の前で頬を揉みほぐして“笑顔”の練習をする。長い睫毛に縁取られた大きな目とふっくらとした唇は、朗らかに笑えば異性の心を射貫けるほどの魅力を放つというのに、彼女は笑うのが苦手だった。
 人里で暮らしていた頃、自分の気持ちを殺すことに徹してきたせいで、感情を顔に出すことそのものが不得手になってしまったのだ。
 ただ、そのぶん口が回るようになったので「愛想がないくせに、よく喋る」と、九耀に皮肉られることもある。
 撫子は二頭の妖狼と夕霧を伴って部屋を出ると、庭の裏手にある井戸で顔を洗った。
 そこへ、寝巻き姿の幻月がぶらぶらと現れる。
「おはようございます。幻月様」
「撫子、おはよう。ちょうどよかった。夕霧の居場所を知らないか」
「夕霧様なら、こちらに」
「おお、見つけたぞ。また私の寝床を抜け出し、撫子の部屋に避難していたな」
 幻月は逃げようとする夕霧を捕まえて、不承不承に身を委ねる猫又の顎を撫でながら欠伸をしている。
 幻月は夕霧を大層可愛がって特別扱いしていた。
 使用人たちも夕霧には畏まった態度で接するので、撫子も彼らに倣っている。
「さぁて、夕霧も捕まえたことだし、もう一眠りするとしようか。撫子、私の朝餉は遅めで構わぬと厨に伝えてくれ」
「はい。伝えておきます」
「それと、もし九耀と共に外へ出るようなら、ついでに梧桐のもとへお遣いに行っておくれ。いつもの甘味を持ってね」
「分かりました」
「さぁ、夕霧。私と共寝を……あたたっ、引っかくのはやめておくれ。ただ、そなたと共寝をしたいだけで……いたたっ、いたっ」
 夕霧に爪を立てられながら幻月は部屋に戻っていく。
 撫子は洗った顔を手拭いで拭き、両手で頬をぱちんと叩いた。
 よし。本日、最初の仕事を始めよう。
 気合いを入れた撫子は、九耀の部屋へ向かった。
「九耀、おはようございます。撫子です。部屋に入ってもいいですか?」
 障子越しに声をかけると、部屋の中から「ああ」と短い返答が聞こえた。
 そっと障子を開ければ、箪笥の前で着物の帯を締めていた長身の青年が振り返る。
 はっと息を呑むような麗しく精悍な顔立ちと、少し吊り上がった切れ長の眼、頑固そうに引き結ばれた唇。腰まである黒檀の髪は紗のように細く、九耀はそこに立っているだけでも一枚の絵となりそうな美しい青年だった。
 冷然とした深紅の眼に射貫かれて、撫子の鼓動はとくりと高鳴る。
「何を突っ立っている。早く入れ」
「はい。すぐに髪を結います」
 身支度は自分でするから髪だけを結ってくれという九耀の言いつけに従い、毎朝、彼の髪を結うのは撫子の役目だ。
 撫子は胡坐をかいた九耀の長い髪を手に取り、丁寧に櫛で梳かしていく。
「先ほど幻月様に会いました。夕霧様に爪で引っかかれていましたよ」
「父上も懲りないな」
「前から気になっていたのですが、幻月様って猫がお好きなのでしょうか。何かと夕霧様を構っていらっしゃるので」
「…………」
「九耀、眉間の皺がすごいですよ」
「何でもない。お前は口より手を動かせ」
「ちゃんと動かしていますよ。九耀の髪は寝癖がつかなくて羨ましいです。私は起きると髪があちこち跳ねていて寝癖がすごいんです。今は三つ編みをして誤魔化していますが、髪を解いたら大変なんですよ。毛先がぴょんぴょんと跳ねて、まるで鳥の巣のように見えるので、朝は姿見の前で絶句するのが日課です」
「よく喋る。口よりも……」
「手を動かせ、ですよね。はい、結えました。すぐに朝餉を持ってきます。それと、今日の予定は?」
「朝餉を食べたら幽朧湖へ行く。竜胆に呼ばれているからな」
 竜胆というのは、鬼隠山の奥地にある湖──幽朧湖に棲む白蛇のあやかしの名である。
「分かりました。じゃあ、その支度もしておきます」
 撫子は、ぱたぱたと軽い足取りで厨へ向かった。
 九耀は柳生鬼家の次期頭領。世話をしたいと願う者は他にいくらでもいるだろうに、彼は撫子を側仕えにして、どこへ行くにも連れていく。
 しかし、もともと九耀は“人間嫌い”だった。初めて会った時も「俺に近づくな」と牽制された。ここ数年で当たりの強さは和らいだが、人間が嫌いならば、わざわざ撫子を側に置く理由はない。
 思いきって本人に「私を側仕えにしたのは何故ですか?」と尋ねたことがあるが、適当に聞き流されてしまったので、未だに理由ははっきりとしなかった。


 柳生鬼家の屋敷は、鬼隠山を分け入った山間に建つ豪邸だった。穀物を貯蔵する土蔵や坪庭があり、屋敷の裏には作物を育てる畑もある。
 屋敷の入り口には弁柄色の大きな冠木門がどんと構えており、鬱蒼とした山中では目印となった。また、屋敷の周囲には悪心を抱くあやかしが入ってこられぬよう結界が張ってあるが、その冠木門を核として術が形成されているらしい。
 非力な人間である撫子にとって、結界の張られた柳生鬼の屋敷は最も安心できる場所といっても過言ではなかった。
 ちなみに人間の里で“鬼隠山”とは一つの山を示すが、あやかしの界隈では尾根で繋がる広大な山岳地帯を一纏めにした呼称だ。
 そこら一帯のあやかしの集落を治めているのが柳生鬼一族の頭領、幻月なのである。
 あやかしの領域へ人間が容易に足を踏み入れることができないよう、鬼隠山には目くらましの術もかけてあった。人間の目にはただの山間部に見えても、そこには柳生鬼の屋敷のような建物があったりする。
 朝餉のあと、撫子が甘味の入った風呂敷を抱えて冠木門へ向かうと、墨色の着流しに銀鼠の羽織を纏った九耀が二頭の妖狼を連れて待っていた。
「遅いぞ。何をしていた」
「すみません。梧桐様の差し入れを用意していたら、少し手間取ってしまって」
「さっさと行くぞ」
 妖狼の雪風に跨がった九耀に倣って、撫子ももう一頭の妖狼、凍雲にひらりと乗った。
 二頭が風のごとく走り始めると、柳生鬼の屋敷があっという間に遠ざかっていく。
 撫子は頬を切る風の心地よさに目を細めた。
 九耀が所用で外出する時、彼女は荷物持ちとして同行することが多いけれど、妖狼の背に乗って野山を駆けるのは好きだった。
 人の足では考えられない速さで山を疾走し、季節の変化を楽しむことができるからだ。
 今の季節は、初夏。木の葉は青々としており、ちょろちょろと梢を動き回る栗鼠を見つけたり、無邪気に追いかけっこをする小さな野兎の姿も見かけた。
 鬼隠山にはあやかし以外にも数多の獣たちが生息しており、共存しているのだ。
 しばし妖狼の背で揺られていると、大きな湖が見えてきた。幽朧湖である。
 幽朧湖の畔には、湖の上にせり出すようにして立派な屋敷が一軒と、臙脂色の屋根瓦が目を惹く社が建っている。
 この社からは“幽朧街”と呼ばれるあやかしの街へと移動することができるため、鬼隠山では要所とみなされており、竜胆が管理をしていた。
 出迎えてくれた竜胆が、妖狼から降り立った九耀へと親しげに片手を差し出す。
「九耀、首を長くして待っていたよ。茶菓子も用意しておいた」
「元気そうだな、竜胆。……その手は何だ?」
「握手だよ、握手。西洋の人間たちは、挨拶の時に手を握り合う文化があるらしい」
「俺はお前の手など握りたくない」
「ひどい言いぐさだねぇ。いくら僕でも傷つくよ」
 竜胆はひょろりとした体型の男だ。白髪に瞳孔の開いた琥珀色の瞳を持ち、いささか顔色も悪くて陰鬱な空気を醸し出しているが、いつものことである。
 竜胆は肩を竦めながら手を引っこめたが、撫子を見るなり、にんまりと笑う。蛇のごとく口が裂けて長い舌が見えたので、撫子は内心たじろいだ。
 幻月と九耀が信頼している相手だから、竜胆が悪いあやかしではないと分かっているけれど、彼の言動は生理的に受けつけない時がある。
 たとえば──。
「やぁ、撫子ちゃん。君にも会いたかったよ。相変わらず別嬪さんで、おいしそうだねぇ。そろそろ一口くらい味見をさせてくれないかな。優しく齧るだけだからさ」
 こういうところだ。正直、気持ちが悪……いや、何でもない。
「こんにちは、竜胆さん。申し訳ありませんが、味見はお断りします」
「舌先でちょいと舐めるだけでも、だめかい?」
「やめろ、竜胆。その自慢の長い舌を根元から引っこ抜いて、二度と鬼隠山に足を踏み入れることができなくしてやろうか」
「九耀は相変わらず冗談が通じないねぇ。柳生鬼の庇護下にある撫子ちゃんに、この僕が手を出すわけがないじゃないか。ほんの挨拶だよ」
 九耀に威嚇された竜胆はくっくと笑い、飄々と踵を返した。
 湖が一望できる客間に通されたが、九耀は竜胆と二人で話があるらしく別室に移動していった。
 客間で九耀を待つ間、撫子はじゃれついてくる二頭の妖狼をわしゃわしゃと撫でた。
「雪風、凍雲。あなたたち、ほんとに綺麗な毛並みね」
 雪のような純白の毛を持つ妖狼は、ひっくり返って腹を見せる勢いで喜んでいる。
 はじめの頃は彼らにも威嚇されたが、今じゃ寝床にもぐりこんでくるほど懐かれた。
 ひとしきり遊ぶと、撫子は柱に凭れて静かな湖面を見つめる。
 彼女が幻月に拾われてから十年が経った。早いものだなと思いながら瞼を閉じると、これまでの出来事が鮮明に蘇ってきた。

おすすめの関連本・電子書籍
電子書籍の閲覧方法をお選びいただけます
ブラウザビューアで読む

ブラウザ上ですぐに電子書籍をお読みいただけます。ビューアアプリのインストールは必要ありません。

  • 【通信環境】オンライン
  • 【アプリ】必要なし

※ページ遷移するごとに通信が発生します。ご利用の端末のご契約内容をご確認ください。 通信状況がよくない環境では、閲覧が困難な場合があります。予めご了承ください。

ビューアアプリ「book-in-the-box」で読む

アプリに電子書籍をダウンロードすれば、いつでもどこでもお読みいただけます。

  • 【通信環境】オフライン OK
  • 【アプリ】必要

※ビューアアプリ「book-in-the-box」はMacOS非対応です。 MacOSをお使いの方は、アプリでの閲覧はできません。 ※閲覧については推奨環境をご確認ください。

「book-in-the-box」ダウンロードサイト
一覧 電子書籍ランキング 一覧

ジャンル・シチュエーション検索

 

ジャンル

キャラ属性

シチュエーション