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明治華族恋がたり
籠の小鳥は狂おしいほどの愛を知る

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書籍紹介

私の与える快楽だけを貪りなさい

若き伯爵・西条薫に身請けされた芸妓の美鶴子。初恋の人と似た彼にときめくも、ある任務を遂行するため妻になれと命じられる。仮初めの夫婦として過ごすうち、彼の優しさに惹かれてゆくが――。好きな男と逢い引きしていると誤解を受け、怒った薫に押し倒され!? 「あなたを手放したくない」指で、舌で、熱い楔で快感を刻み込まれる。甘い交わりの中で彼の一途な想いを知り……。

ジャンル:
西洋 | ファンタジー
キャラ属性:
クール
シチュエーション:
幼馴染・初恋の人 | 新婚 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

西条薫(さいじょうかおる)

美鶴子を身請けした若き伯爵。留学経験もあり、帰国してからは政治家の補佐などをしている。

久野美鶴子(くのみつこ)

元武家の娘。家が傾き、弟妹のために芸妓見習いになっていたが、ある旦那に水揚げされる夜に薫が現れ、身請けされることに。

立ち読み

 どこかから、梅の香が漂ってくる。
 美鶴子はふと顔を上げた。年が明けたばかりだから、まだ梅の季節には早いはずだ。行き交う人々の着物から漂う香だろうかと、あたりを見回す。
 羽織袴の父に続き、御付の者に振袖の手を引かれて歩く浅草寺の境内は、新年を迎えた賑わいに満ちていた。
 露店の店先には、花や掛け軸が並んでいる。茶屋の軒にかかる竹竿には、藍や白の手拭いがはためき、凜と澄んだ青空に映えた。開いた扇を射て遊ぶ矢場へは、ほろ酔いの人力車夫が、店先の娘の色めいた視線に誘われて入っていく。芝居を見せる小屋からは、賑やかな三味線や拍子木の音、明るい笑い声が聞こえてきた。
 新しく事業を始めようとしていた父が、その成功を祈願して、浅草寺を訪れたときのことだ。船出を前に、父も機嫌がよかったのだろう。気まぐれで連れてきた、四つになる美鶴子に声をかけた。
「どれ、美鶴子。お利口にしていられたご褒美に、どこか見物していこう」
「ほんとう?」
 晴れ着を着せられた美鶴子も、気分がいいことに変わりはなかった。美鶴子は、なにをねだろうかと視線を巡らす。操り人形、見世物小屋、小馬の試し乗り。その並びに、大きな鳥籠を備えた小鳥屋を見つけ、美鶴子は歓声を上げた。
「とうさま、みつこはあれがいいわ」
「おお、小鳥か」
 父と小鳥屋に歩み寄ると、なにやら人垣ができている。見れば、小鳥屋が山雀に芸をさせているのだった。
 山雀は、頭とくちばしは黒、顔は白、背と翼は灰色で、腹は橙色をした小鳥だ。籠の戸が開くと、ちょこちょこと跳ね出てきて貨幣を咥え、小さな賽銭箱の模型に投げ入れて、これも小さな鈴を鳴らして、籠の中へと帰ってゆく。山雀は続けて、くちばしで太鼓を叩く楽器演奏、かるた取りを次々と披露した。
「すごいわ」
 美鶴子は、小さな手を叩いて喜んだ。
「あのことりは、じょうずにかるたをとったわね。もじがよめるのかしら」
「──さあ、どうでしょう」
 返ってきた声は、父のものでも、御付の者のものでもなかった。振り仰ぐと、美鶴子と同じく小鳥の芸を見物していたのだろう、背後に少年が立っている。
 美鶴子が目を丸くしたのは、ひとりごとに返事があったからではなかった。少年が、当時はまだごく珍しかった、洋装の子供服を着ていたからだ。
 美鶴子よりはずいぶん年上だが、家の書生たちよりは幼く見える。艶やかな黒い髪、紅い唇がいっそう際立つ、人形のように白くうつくしいその顔に、表情らしい表情はない。
 少年は、淡々と続けた。
「かるたの並びと読み上げる札は、いつも同じなのかもしれません。『真ん中のかるたを取れば餌がもらえる』と、そう学ばせるのは簡単だ。芸を学ばなければ餌にも事欠く、いかにも哀れな存在ですよ」
「あわれ?」
「可哀想だ、ということです」
 唇の片端を歪めるように上げた彼は、どこか怒っているように見えた。
(このひとは、ことりがおきらいなのかしら)
 首をかしげて、美鶴子は言った。
「でも、おべんきょうができるなんてすごいわ。ことりなら、がいこくにだってとんでいけるでしょう? がいこくでおべんきょうすれば、すてきなせんせいになれるわよ。わたしもきっと、おおきくなったらそうするわ」
 小鳥の芸に魅せられていた美鶴子は、彼も小鳥を好きになってくれはしないかと、自分の憧れを小鳥に託した。
 だが彼は、凜々しく整った眉をきゅっと寄せ、今度こそ苛立った声を出した。
「そんなことができるとお思いですか、非力な小鳥に」
「え……?」
 目をぱちくりと瞬く美鶴子を、少年は見ていなかった。籠の中で愛らしくさえずる山雀に、厳しい視線を向けていた。
「籠の中に生まれた鳥は、広い空には歌えない。いくら翼があったところで、籠の中で一生暮らし、そこで死ぬしかないんです。人間と、なにも変わりはしないんだ」
「かごの、なか……」
 まだ幼い美鶴子には、少年の真意が解らなかった。けれどそのぶん、少年がなにかに腹を立てているのだということだけは、肌で感じることができた。
 少年は一転、美鶴子に憐れみのこもった目を向けた。
「……可哀想に。女子のあなたも、同じですよ」
 彼はなぜ、自分に水を向けたのだろう。美鶴子は、理解できる言葉を繋ぎ、少年の感情の根源を探ろうとした。それはひとえに、怒りの表情を浮かべる彼が、苦しそうに見えたからだ。
(かわいそう……ということは、ことりがおきらいなわけではないのね?)
 諦めたように力を失った彼の視線は、また籠の鳥へと戻っていった。
 そこで美鶴子は、ぴんときた。もしや彼は、非力な小鳥をこうして籠に捕らえている、小鳥屋に怒っているのではないか。
「それなら、いいかんがえがあるわ!」
「えっ?」
 美鶴子は山雀の籠に駆け寄ると、その小さな戸に指をかける。
「お、お嬢さん、なにをするんで」
 慌てる小鳥屋の声を無視して、籠の中に手を突っ込み、そうっと山雀に指を寄せる。
「いいこね」
「これ美鶴子、やめなさい!」
「美鶴子様、なりません!」
 止めに入る父や御付の声も、耳には入ってこなかった。
 山雀は、ちょっと首をかしげると、美鶴子の指に飛び移ってくる。美鶴子はそのまま、籠から腕を引き抜いて、山雀の止まっている手をよく晴れた空に差し向けた。
「さあ、すきなところへおいき」
 晴れやかな気分で微笑む美鶴子の顔を、度肝を抜かれたような少年の顔を、山雀は順に見る。山雀はそれから、高く鈴を転がす声でさえずり、大きく数度羽ばたいた。
「ああっ!」
 小鳥屋が悲鳴を上げるかたわらで、人垣はわっと愉快げに沸いた。
 山雀は、大空へと飛び立ってゆく。それを見上げる人々の顔は、高い陽に照らされて明るく見えた。
 振り返ると、小鳥屋は呆然と空を見上げていた。美鶴子の父も、少年も、同じように放心した様子で空を見ている。
 その中で、最初に正気を取り戻したのは父だった。ふはっと大きく息を漏らすと、ふくよかな腹を揺らして笑い出す。
「そうか、そうか。美鶴子はあの小鳥を哀れに思うたのだな」
「はい、とうさま」
 美鶴子は、自信たっぷりにうなずいた。
「これであのことりは、ふるさとでもがいこくでも、じぶんのはねで、すきなところへいけますわ」
「こ、困りますよォ、旦那様」
 と裏返った声を上げたのは小鳥屋だ。
「あたしはね、あの鳥に芸を仕込むのに二年もかけてるんでさ。それをこんな……」
「すまないことをした。子供のすることゆえ、許せ」
 父が御付に耳打ちすると、彼女は荷から取り出した包みを、目立たぬように小鳥屋に渡した。それを開いた小鳥屋は、また裏返った悲鳴を上げている。
 なにがなんだかさっぱりだが、どうも叱られることはなさそうだ。わけもなく誇らしい気持ちでいると、ふっとため息のような吐息が聞こえた。
 なんだろう、と見渡すと、さきほどの少年がうつむいている。
「……どうなさったの?」
 美鶴子ははたと思い当たる。少年は、鳥を籠から出したあと、自分で飼いたかったのかもしれない。却って悪いことをしただろうか──そう考えていたところ、少年は、小さく声を立てて笑い始めた。
 どうやら噴き出した彼の吐息が、ため息めいて聞こえたらしい。彼は、空を仰いで笑いやむと、気が抜けたような面持ちで、美鶴子のほうに向き直った。
「驚いたな。あなたは、勇敢な女子だ」
「ゆうかん、って?」
「勇気がある、ということです。──そうだな、やってみることもせずに、遂げられないとは言い切れない。どこへでも行けるし、なにごとも成せるんだ」
 なにかしら、と美鶴子は彼の顔を見つめる。
 一体なにが、彼の内面にうまく働きかけたのだろう。少年の顔に、さきほどまでの憂いはない。彼は、どこかすっきりとした表情で美鶴子を見た。
「図らずも、教えられました。礼を言います、ありがとう」
(わたしはこのひとに、なにかしてさしあげることができたのかしら)
 事情が呑み込めておらずとも、彼の顔から気鬱の相が消え、なにやら礼を言われたことは、なんとはなしに嬉しかった。
 少年は、美鶴子と視線を合わせるように腰を落とす。
「あなたの憧れは、聞かせてもらいました。──お手を」
 彼は右手の小指を立てて、美鶴子の前に差し出した。少年の目顔に応え、こちらも同じようにすると、美鶴子の小指に、彼の細い小指が絡む。
「あなたの翼は、私が守ります」
「つばさ……?」
 黒曜石のような彼の瞳に、目を丸くした美鶴子が映る。
 父や弟ですら、ここまで距離を縮めることはめったになかった。なにかいけないことをしているようで、美鶴子の胸は妖しくざわめく。
 そのまま二、三度手を上下に振ると、絡み合う小指は離れた。そのぬくもりが離れてゆくことを、どうしてか惜しいと思う。
 ぽうッとしている美鶴子の耳に、不思議な響きの呼びかけが届く。
 声のしたほうを見ると、洋装の男性がこちらを見ていた。熊のように顔を覆う口髭に、異人だろうか、と美鶴子は思う。
「今、行きます」
 少年が日本語で答えたところを見ると、呼びかけは彼に向けられたもので、相手も異人ではないのかもしれない。
 少年は今一度、美鶴子と目を合わせると、芯の通った声で言った。
「いつかまた、きっとお会いしましょう」
 言うなり彼は身を翻し、洋装の男性のほうへと駆けていく。
 美鶴子より高い位置にあるその背中は、大空に向かって駆けてゆくようで──。
 聞いたばかりの少年の言葉と相俟って、翼が生えているみたいに見えた。

 

 

 

 ふわりと梅が香った気がして、美鶴子はふと目を上げた。
 ちりとてしゃん、と誰かが三味線をさらう音が聞こえる。見慣れた芸者屋の障子戸には、午後の陽が射し込んでいた。
 そうだ、まだ梅の季節ではないと、美鶴子はぼんやりと考える。
 梅の香は、誰かが着物にたきしめている香だろう。もしかすると、十二年前、父に連れられて行った浅草寺のことを思い出していたがゆえの、美鶴子の錯覚かもしれない。新春の賑わい、芝居小屋、小鳥に芸をさせる見世物。それから……。
 ──あなたの翼は、私が守ります。
 絡む指のぬくもりを思い出すと、今でも胸があたたかくなる。
 けれどその思い出も、今日ばかりは美鶴子を癒してはくれそうになかった。
「小鶴……あんた、本当にいいのかい?」
 長煙管を揺らし、女将は言った。小鶴とは、女将がつけてくれた芸名だ。
「……はい、おかあさん」
 美鶴子は肯首し、目の前に広げられた差し入れの品を見る。
 豪奢な着物、珍しい果物、蒔絵の硯箱に綺麗な絵皿、ここ新橋花街でも流行り始めた洋服を仕立てるための反物や、めったに口に入らない木村屋のあんぱん。贅を尽くしたこれらの品は、今夜、美鶴子を水揚げすることになっている旦那から贈られたものだった。
 女将は、不安げに眉根を寄せる。
「あんたがいいと言うなら、止めないけどね。正直、須藤さんはどうかと思うよ」
「……ありがとうございます。ですがもう、決めたのです」
 冷え冷えと凪いだ心持ちで、美鶴子は言った。
 女将は、紫煙混じりのため息を漏らす。
「言っても聞きやしないからねえ、小鶴は。頑固なのもほどほどにしなけりゃ、芸事の稽古にはよくッても、殿方には効かないよ」
 やれやれと言わんばかりの言葉のうちにも、美鶴子に対する愛情が感じられた。
 それもそのはず、女将は美鶴子が十二でこの芸者屋にやってきてから四年間、厳しくも優しく面倒を見てくれているのだ。美鶴子のことなどすべてお見通しであるだけでなく、美鶴子のほうでも、早くに亡くしてしまった母よりも、よほど女将を慕っている。
 幼い日、美鶴子を伴い浅草寺へと出かけた父は、江戸の藩邸で育った若様だった。それゆえに、少し呑気なところがあったのだろう。
 明治の御一新後、大名華族となった父が始めた事業は、あっというまに傾いた。もともと丈夫でなかった母は、美鶴子と妹、その下の弟を産み、父の開業を見届けたところで、力尽きるように息絶えている。
 開業の折、父は高利貸しから金を借りていたようだ。
 その返済のため、一家の財政はすぐに逼迫した。
 棟割の長屋に越して、女中も使わず、母代わりとなった長女の美鶴子が、洗濯も炊事もすべてこなす。家財を売り、母の着物を手放し、それでも口にするものさえ乏しくなったとき、ついに美鶴子は決断せざるをえなかった。
 芸で身を立て、女子でもひとりで食える芸者になる。
 その決意に続く未来は、幼いころ、洋行して教師になりたいと夢見たものとは、ひどくかけ離れたものだった。けれど美鶴子は、世が世なら武家の娘だ。家のため、家族のためにこの身が役に立つならと、父の反対を振り切って花柳界に入ったのだ。
 そんな経緯はあるものの、美鶴子はこの女将が仕切る芸者屋との縁があったことに、心から感謝していた。
 女将は、この世界にあっては珍しく、旦那衆を心根で見る人だ。それゆえ、めったなことでは座敷も荒れず、繁盛していることはもちろん、この芸者屋に籍を置く芸者や、美鶴子ら芸者見習いの雛妓までもが、毎日安心して働いていた。
 今宵、美鶴子の水揚げ旦那となる須藤睦朗は、土佐藩士だった男で、今は在野の運動家を名乗っている。酒の席での素行こそあまり褒められたものではないが、きっぷは至極いい客だ。美鶴子さえうまく宴席をいなすことができたなら、一般の芸者屋であれば、得になる人物のはずだった。
 旦那になるというのは、これから美鶴子が芸者として一人前になるまでにかかる着物代や持ち物代、生活の面倒など一切の費用を、すべて引き受けるということだ。
 初めての旦那を持つときは、相応しい殿方に、水揚げという儀式を頼む。雛妓時代の赤い衿を替え、白衿の芸者になるために、雛妓は旦那に処女を捧げ、水揚げ旦那はそれと引き換えに、衿替えの費用を払ってやるのだ。
 美鶴子は畳に指をつき、女将に深く頭を下げた。
「……明日からは芸者として、いっそう励みたいと思います」
 今宵、美鶴子は須藤に処女を捧げ、白衿の芸者になる。
 これまでは愛らしい桃割れに結っていた髪を島田に結い替え、振袖から詰袖の着物に着替えるのだ。
「──好きにおし。あんたのことだ、悪いようにはならないだろ」
 力なく首を振る女将が、美鶴子を想ってくれていることはよく解った。
 須藤の羽振りを考えたなら、界隈の女将であれば、嬉々として彼との水揚げを強いるだろう。ところが、この女将は、美鶴子のことを大切に思い、もっと好い人がいるのではないかと言ってくれる。美鶴子は、そのような心を自分に向けてくれる女将だからこそ、できる限りの恩を返したかった。
 美鶴子は女将にもう一礼すると、持てるだけの差し入れを受け取って席を立つ。あらかたの食べ物を芸者屋の仲間に分け与えてしまったあとで、美鶴子はあんぱんを持って部屋を出た。
 芸者屋の裏の軒に回り、小さく声をかけてみる。
「ハナちゃん、小太郎くん」
 斜めに立てかけられた板と壁の隙間から、もぞもぞと這い出てくるものがある。六つくらいの少女と、ごく幼い少年だ。どちらも、ひどく汚れた襤褸を着ている。
「こつるちゃん」
 三つになるという弟の小太郎が、美鶴子を呼んだ。姉のハナは、口がきけない。ふたりを知る人からは、この近くの彼らの生家が火事で焼けたとき、両親を亡くしたことが尾を引いているのではないかと聞いていた。
「遅くなってごめんなさい。今日はね、いいものがあるのよ」
 美鶴子があんぱんの包みを開いて見せると、小太郎は、それがなんだか解らないようだった。美鶴子がひとつ齧って見せると、彼もおそるおそる手に取り、口にする。目を輝かせた小太郎に続き、ハナもすぐにあんぱんに夢中になった。
(……可愛い)
 ハナと小太郎を見ていると、家に残してきた弟妹のことが思い出された。
 父は、美鶴子が作った金で、親類を頼り地方へと戻ったのかもしれない。父や妹からの便りが途絶えてから、半年ほどの時が経っていた。
(幸せに暮らしてくれているといいのだけれど……)
 つい表情を曇らせたところに、明るい声が聞こえてくる。
「やあやあ、美味そうなもんを食ってるじゃねえか」
 軒下にやってきたのは、美鶴子の父ほどの年齢の痩せた男だ。
「千吉さん」
 美鶴子の呼びかけに片手を挙げて、千吉はひょこひょことした足取りでこちらへ歩み寄ってくる。彼は、懐から小さな包みを取り出して、ハナの手のひらの上に載せた。
「これはまた、腹が減ってからお食べ」
 中身はおそらく、いつもの味噌を塗った握り飯だろう。千吉も、決して裕福とは言えない暮らしの中から、きょうだいに施しを与えている。ハナと小太郎は、こうして近隣の住人から施しを受けることで、糊口をしのいでいるのだった。
 ぺこりと頭を下げるハナを見て、千吉はにかっと微笑む。そのあとで、彼はごほごほと湿った咳をした。
「よかったら、千吉さんもおひとつどうぞ」
 美鶴子は、彼にあんぱんを差し出した。
「おお、悪いね」
 幸いあんぱんは、美鶴子ときょうだいだけでは食べきれないほどの量がある。千吉は、相好を崩してあんぱんを受け取ってくれた。
 千吉は近ごろ、具合の悪そうな咳をする。身体もぐっと痩せてしまったようだ。きょうだいへの施しも、あるいは自分では食べ切れなくなってしまったものを分け与えているのではないかと思うふしがあった。
 少しでも滋養のあるものを食べて、また元気になってほしい。
 花街に来て以来、父代わりだと思っている千吉の体調を、美鶴子は祈るような気持ちで気遣っていた。
「しかしなあ……小鶴ちゃん、とうとう決心したのかい」
 あんぱんを頬張りながら、千吉は心配そうに眉を寄せる。
 芸者衆の荷を運び、その手配もまかなう箱屋の彼には、今宵の美鶴子の仕事のことも、伝わってしまっているのだろう。
 美鶴子は精一杯の笑顔を作り、「はい」とうなずいた。
「わたし、おかあさんに、少しでもご恩返しがしたいんです。……わたしの持っているものといえば、この身体だけですから」
 微笑もうとした口元が、ほんの少しだけ引きつってしまう。
 父が借金を負ったときも、一家が食い詰めたときも、自分にはこの身体を使う以外、なにもできることはなかった。知識を使い、人を導く教師になりたいなどという幼い夢が、いかに遠いものかを思い知る。
「そんなことはねえと思うけどなあ」
 千吉は、悲しげに眉尻を下げた。
「だってよう、小鶴ちゃんは、このあたりでもいっとう別嬪な雛妓さんだよ。踊りだって唄だって、『芸の新橋』の名に恥じねえ、とびっきりの名手じゃねえか」
「千吉さん……」
「いや、器量や技量だけじゃねえよ。お武家の娘さんだけあって賢いし、気性だってきっぱりしたもんだ。女将さんのお客には、新政府のお大臣がごろごろいるってぇのに……なんだって小鶴ちゃんは、須藤さんなんだろうねえ」
 千吉の言うとおり、女将が育てた姐さん方の旦那には、政府の高官も多くいた。ああいう女将の店にいるので、たとえ客から水揚げをほのめかされたとしても、かならず受けなければならないというわけでもない。
 美鶴子は、口角を無理やり上げて、笑顔を作った。
「ご心配をおかけして、ごめんなさい。でも……わたしの芸を必要としてくださるなら、いいんです」
 好ましい評判を聞かない須藤だが、しかしある意味では彼だけが、美鶴子の芸を選び取り、必要としてくれていた。
 一家の長子としてでもなく、金を生む女としてでもなく、美鶴子が努力して身につけた芸を気に入り、価値を見出してくれる人──。
 もちろん現実には、その一点だけを評価されているのではないと解っている。だが、今回のことについては、そう割り切っているはずだった。それでも、どうしても浮かない顔をしてしまうのは、幼い日の思い出があるからだ。
 ──あなたの翼は、私が守ります。
 約束の証として小指に残るぬくもりは、おそらく美鶴子の初恋だ。
 いつかまた、きっと会おうと彼は言った。
 もしも、それが本当ならば。
 彼は美鶴子を、ここから連れ出してくれるかもしれない。教師になりたいという夢を損なうことなく、世界へと羽ばたかせてくれるかもしれない。
 ところが近ごろでは、淡い想いとは裏腹に、少年の言葉を実感することも多かった。
 ──籠の中に生まれた鳥は、広い空には歌えない。いくら翼があったところで、籠の中で一生暮らし、そこで死ぬしかないんです。
(……彼の言うとおりだわ)
 美鶴子は、この新橋花街が好きだった。女将も千吉も、周囲はみなよくしてくれる。とはいえ、籠の中で生きる鳥は、広い空では歌えない。海外に遊んで知識を得、教師になりたいという夢も、もう叶うことはないだろう。
 千吉に聞かせるというよりも、自分に言い諭すように美鶴子は言った。
「わたしは、わたしの芸を……わたしを必要としてくださるお方に、心から尽くしたいと思います」
 千吉は、「そうか」と小さくうなずいた。うつむいてしまった彼は、なにか言いたいことを呑み込んでくれたのだろう。
 見上げた空の白い陽は、ゆっくりと西へ傾いてゆく。
 こんなふうに想ってくれる人たちがいるだけで、美鶴子は果報者だと思えた。

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