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ずっと、君だけを 寡黙な黒騎士は生まれ変わりの元王女を今度こそ手放さない 2

第二話

 

 パトリシアはモルテ王国の王女として生まれ、三つ年上の兄ハインリヒと共に育った。
 そんな彼女は幼少期、遊び相手として呼ばれたヴァレリアン侯爵家の兄妹と、兄のハインリヒを交えた四人で遊ぶことが多かった。
「よし、リシア! 庭園の向こうまで競争だぞ!」
「分かったわ、お兄さま。ラディウス、ベラドナ! さぁ、走るわよ!」
「…………」
「あっ、お、お待ちください、パトリシアさま……!」
 ハインリヒとパトリシアは元気がよく、人好きのする性格が兄妹そっくりだった。
 一方のヴァレリアン兄妹は、ハインリヒと同い年の兄ラディウスが寡黙で落ち着きがあり、二人の諫め役を担っていた。
 妹のベラドナはパトリシアより二つ年下で、大人しく人見知りだったが、パトリシアを慕って後をついて回った。
「次はあの木に登るぞ、リシア!」
 庭園での競争が終わり、木登りを提案する兄にパトリシアは勢いよく頷いたが、ぜえぜえと息をする妹の背中をさすっていたラディウスが窘める。
「王太子殿下、王女殿下。木登りは危険なので、やめましょう」
「なんだ、ラディウス。木に登るくらいいいじゃないか」
「落ちて怪我をしたら大変です。特に、王女殿下は女性ですから――」
「大丈夫よ。木の下でお兄さまに見ていてもらうもの。わたしが落ちたら受け止めてもらうわ」
「いけません」
 ラディウスはきっぱりと言い、ハインリヒとパトリシアの顔を順繰りに見つめた。
「もしお二人が怪我をされたら、私と妹が叱られます」
「ああ、うーん……お前たちが叱られるのは、さすがに嫌だな……」
「そうね、お兄さま……木登りは、やめておきましょうか」
 パトリシアは残念そうに兄と顔を見合わせると、あっさり心を切り替える。
「じゃあ、わたしはベラドナと一緒にお茶会をするわ。ね、ベラドナ?」
「はい、パトリシアさま!」
「ラディウス。お前は僕と手合わせだ」
「かしこまりました、王太子殿下」
「まったく、僕たちは友人だろう。ハインリヒと呼んでくれて構わないぞ」
「お兄さまだけずるい。だったら、わたしのことはリシアって呼んでほしいわ」
 ラディウスの手を握って「いいでしょ?」とねだったら、無言で見下ろされた。
 ともすれば睨まれているような強い眼差しにも、パトリシアは無邪気な笑みで返す。
「ほら、ベラドナもこっちに来て。一緒にラディウスにお願いしましょう。……だめ?」
「……お兄様。だめ?」
パトリシアは真似をするベラドナと一緒に、ラディウスに期待の目を向ける。
 横では、ハインリヒが苦笑しながら見守っていた。
「諦めろよ、ラディウス。たまに名前を呼んでやるくらい、いいじゃないか」
 王太子らしからぬフランクな忠告をするハインリヒに、ラディウスは何か言いたげにしていたが、王女と妹のおねだりに負けたのか、渋々といった様子で頷く。
 王女を愛称で呼ぶのは本来許されないことだが、本人たっての希望ならば仕方ないと割り切ってくれたのだろう。
 これ以降、ラディウスは他の臣下が見ていないところで、彼女を「リシア」と呼んでくれるようになった。


 豪快な兄の影響が強かったのか、パトリシアは活発な女性に成長していった。
 ハインリヒやラディウスと剣の訓練をしてみたり、お忍びで街へ下りることもしばしばあった。勉学にも励み、国家魔術師になるという夢を持つベラドナと連れ立って王立図書館に通った。
 多くの書物を読み漁り、魔術師イードルが著した魔術書の解読も試みたものだ。
 国王夫妻――特に母のオリビア王妃は、パトリシアの活発さを少し心配していたようだが、父のモルテ王は「元気でよいことだ」と大らかに容認してくれた。
 とはいえ、パトリシアも一国の王女だ。
 年頃になると剣の訓練は制限され、礼儀作法の授業を受けて、ピアノやダンスといった女性の嗜みを学ぶ時間が増えた。
 パトリシアは素直に王女教育を受け入れたが、どうしても生来の行動的な気性が抑えられず、よく気晴らしで城を抜け出した。
「やっぱり、たまには息抜きも必要よね」
 城下に溶けこむ白いブラウスとスカート姿で、パトリシアはうーんと伸びをした。
 城の裏口から外に出て鼻高々に歩き始めると、後ろからため息が聞こえる。
「数日前と同じ台詞です。息抜きの頻度が高すぎます」
「相変わらず、ラディはお堅いんだから。二人きりの時は、その堅苦しい敬語もやめてほしいと言っているのに」
「……はぁ」
「露骨にため息をつかないで。わたしは、自分のするべきことはこなしているわ。だけど城に籠もってばかりだと息が詰まりそうになるの。最近は、あなたやお兄様と剣の訓練をすることも許されないし」
 お供に連れてきたラディウスが三度目のため息をつき、彼女の隣に並んだ。
 ラディウスは見習い騎士でありながら、パトリシアが城下に出る時は護衛を務めた。
 幼少期から王女のお目付け役をしていて、パトリシアを遠慮なく窘めることができる貴重な人材のため、城下に出るなら必ずラディウスを連れて行けと父から言い含められていたのだ。
「貴女に剣の訓練は必要ありません」
「敬語は使わないでと言ったでしょう。今は二人きりなんだから」
「……剣の訓練は必要ない」
「いずれ役に立つ日がくるかもしれないじゃない。本当はわたしも騎士学校に入りたかったのに、お父様が許してくれなかったのよ」
「…………」
「先日の剣術大会だって参加したかったの。でも王女が剣術大会に参加した前例はないし、危険だからだめだと、お母様に懇々と説かれたわ。参加すれば一回くらいは勝てたかもしれないのに」
 ラディウスは黙って聞いているが、何か言いたげな顰めっ面だ。
 王妃様と同意見だ――と彼が窘めてくる前に、パトリシアは先手を取った。
「だけど、あなたの戦いぶりは見事だった。まるで剣舞をしているみたいな美しい剣筋で見惚れてしまったわ。優勝おめでとう」
 手放しで褒めると、ラディウスが開きかけた口を閉じた。それきり無言で前を向いてしまうが、端整な横顔は誇らしげに緩んでいる。
 彼の父、ヴァレリアン侯爵は王国騎士団の長を務めていて、息子のラディウスも将来を有望視されていた。
 実際にラディウスは騎士学校で優秀な成績を収めており、つい先日、王都で開かれた剣術大会では現役の騎士を退けて優勝した。
 騎士は基本的に片手で剣を操り、盾で相手の攻撃を塞ぐ技術を学ぶ。
 しかし研鑽を惜しまなかったラディウスは、努力の果てに双剣を操る二刀流を会得した。防御を捨てて攻撃に特化した剣術である。
 一対一ではめっぽう強く、その剣筋はまさに剣舞のごとく美しい。
「あなたが剣を振るうのを見るたびに思うんだけど、二本の剣を操るのって難しそうね。リズムが狂うと隙ができて混乱しそう」
「相手の動きを見て、双剣を身体の一部のように操るのがコツだな。両手の感覚がいちばん重要になる。指先の動きで剣の軌道を変えることも可能だから」
 寡黙なラディウスも剣術のことになると饒舌だ。
「もっと研鑽を積んで、この剣術を自分のものにする。そして、私は父のように立派な騎士になるんだ。剣に生き、この国を守る役目を果たしたい」
 ラディウスは腰に提げた剣の柄に手を置き、迷いのない口ぶりで誓った。
 決意に満ちた姿に、パトリシアは目を奪われる。
 彼が血の滲むような努力をして騎士を目指していることを知っていた。
 騎士団長を務める父親の影響が大きいかもしれないが、努力家で揺るぎない目標を掲げて頑張っている。その姿勢には純粋な憧憬の念を抱いた。
 ただ、憧れとは別で――精悍なラディウスに、パトリシアはいつからか特別な想いを抱くようになった。
 しばしラディウスに見惚れたパトリシアは外套のポケットに手を入れて、黒い紐を編んで作った飾り紐を取り出した。ラディウスの手に乗せる。
「あなたにあげる」
「何だ?」
「優勝のお祝い。お金で買えるものはいつでも手に入るし、折角なら手作りのほうがいいかなと思って」
「手作り……」
「そうよ、ベラドナと一緒に作ったの。ミサンガって知ってる? 城下の女の子の間で流行っていて、細く編んだ紐に願いをこめて手首に結んでおくの。でもあなたは男性だから、装飾品は身に着けないでしょう。剣の柄にお守りとして結んだらどうかなって」
 ラディウスが腰に提げている二本の剣を示す。彼の使う双剣は従来の剣より少し短い。
 柄の先には小さな穴が空いていて、装飾の紐を付けられるようになっていた。
 もともと東国で使用されている剣で、色々と試していちばん使いやすかったらしい。
「紐が長すぎると実戦では邪魔になるだろうから調整してね。なんなら鞘に結んでおいてもいいかも。色は目立たないほうがいいと思って黒を選んだのよ」
 ラディウスは飾り紐を見つめてから、丁寧な手つきでポケットにしまった。
「ありがとう。大事にする」
「あなたの夢が叶うように、わたしが願いをこめておいたから」
「何か、礼の品を……」
「そんなの要らないわ。お祝いの贈り物なんだから、気兼ねせず受け取って」
「……分かった。嬉しいよ。本当にありがとう、リシア」
 彼が穏やかに口角を緩める。
 他の人がいる前では見せてくれない極上の微笑を向けられ、パトリシアは胸がドキドキしたが「どういたしまして、ラディ」と、同じく満面の笑みで返した。
 ラディウスは最も距離が近い異性で、お目付け役として何かと行動を共にすることが多かったから、二人きりの時は愛称で呼び合っていた。
 その親密な関係が好ましい反面、もどかしくもある。
 だが、パトリシアは想いを伝える気はなかった。
 ラディウスは侯爵家の子息で、王女とは身分差がある。決して結ばれることはない。
 彼女自身、いずれ祖国のために結婚させられることを理解していたから、今はラディウスが側にいてくれるだけで十分だった。
 気ままに市場の散策を始めて、通りの賑やかさにパトリシアは顔を綻ばせる。
「わたし、この国が好きなの。長いこと戦とは無縁だし、城下で暮らす人たちも活気に溢れているわ。わたしはいずれ他国に嫁ぐことになるだろうけど、祖国を忘れない。この国を愛しているから」
 凛として語るパトリシアの横顔を、ラディウスはいつになく優しい表情で見つめていた。


 二年後、ラディウスは首席で騎士学校を卒業して王立騎士団に入隊した。
 正式な騎士に任命されてほどなく、彼が〝騎獣〟を手懐けたと聞きつけて、パトリシアは城内にある騎士の訓練場へ足を運んだ。
 訓練場の裏手にある人けのない厩舎で、ラディウスは待っていた。
 付き添いのメイドを離れたところで待たせ、パトリシアは彼の騎獣と対面する。
 モルテ王国の騎士が乗りこなす騎獣は馬に似た姿をしているが、一角獣(ユニコーン)と呼ばれる魔獣の一種だ。
 一角獣はその名のとおり額には鋭利な角があり、獲物を刺し殺すことができる。
 何百キロも休まずに走り続けることができる強靭な肺を持ち、四肢は馬よりも筋肉質で、小さな魔獣ならば簡単に踏み潰せる。また、鋭敏な嗅覚を持ち合わせていて、人間の魂の匂いすら嗅ぎ分けることが可能だと言われていた。
 ただ、どの個体も気性が荒いため、なかなか人に懐かない。
 人工的に繁殖させた個体であっても乗りこなすには根気と技術が必要だった。
 モルテ王国で騎士として認められるためには、一角獣を懐かせることも重要だ。
「これが、あなたの騎獣なのね。毛並みが真っ黒で美しいわ。近づいてもいい?」
「いいよ」
 ラディウスに付き添われて一角獣に近づくと、威嚇するように角の切っ先を向けられた。
 だが、ラディウスが首を叩いて宥めるとすぐに角を逸らす。
「ちゃんと信頼関係ができているのね。名前は何ていうの?」
「アストラ。……乗ってみるか?」
「ええ、ぜひ」
 パトリシアは即答し、柔らかい声で一角獣に語りかけた。
「どうどう、怒らないで。ほんの少し乗せてもらいたいだけなの。……あなたはすばらしい毛並みをしているのね。こんな美しい黒毛は見たことがない」
 幼少期から乗馬を嗜むパトリシアは馬の扱いに長けていた。
 明朗な気性が伝わるのか生き物にも好かれやすい性質で、暴れ馬でも御してしまう。
 さすがに一角獣と接するのは初めてだったが、パトリシアが鞍に跨った時には、アストラもすっかり大人しくなっていた。
 瞠目するラディウスに笑いかけたパトリシアは、大人しい一角獣の手綱を上手に操り、その首を優しく撫でた。
「一角獣は気性が荒いと聞いていたけど、アストラはいい子ね」
「…………」
「そんなに驚いた顔をして、どうしたの?」
「私以外の人間を、あっさり乗せたのは初めてだ」
「あら、そうなの?」
「大抵は振り落とされる」
「それなのに、わたしに乗ってみるかと言ったのね。意地悪なんだから」
「ちゃんと支えるつもりだった」
 彼がしれっと言ってのけるから、パトリシアが声を上げて笑った時、それまで大人しかった一角獣が身を捩った。
 その拍子に振り落とされそうになり、ずり落ちた身体をラディウスが受け止める。
 しかし、彼も突然のことで支えきれず、もつれ合うようにして地面に倒れてしまった。
「っ、大丈夫?」
 パトリシアは顔を歪め、下敷きになったラディウスを見下ろして動きを止める。
 仰向けで地面に倒れたラディウスが彼女を抱えて固まっていた。身体がぴったりと密着していて、パトリシアの頬は熱くなる。
 しばし硬直したあと、パトリシアは肩の力を抜き、ラディウスに身を委ねた。
 ――今だけ……ほんの少しだけ、このままで。
 胸の奥では、鼓動がとくとくと早鐘を打っていた。
 その時、ラディウスの手が背中に添えられた。ぐっと抱き寄せられて更に密着する。
 控えめに髪を撫でられて、おそるおそる目線を上げたらラディウスと目が合った。
 冴え冴えとした黒い瞳には今、パトリシアだけが映っている。
 二人の間には言葉が不要だった。それだけの時間、彼とは共にいた。
 パトリシアは秘めた恋心のままに、自ら身を乗り出してラディウスの頬に唇を寄せる。
 ――わたしが初めて恋をした相手は、あなただけよ。
 頬に稚拙なキスをしたら、ラディウスの手が後頭部に回った。
 次の瞬間、強い力で引き寄せられる。
「っ……」
 互いの唇が触れ合う寸前で止まり、息を呑むパトリシアの鼻先でラディウスが苦しげに眉根を寄せた。吐息が混じり合う。あと少し、ほんの数ミリで唇が重なるのに。
 このままキスをしたい。だが、それはダメだ……普段は感情を顔に出さないぶん、彼の渋面からは生々しい葛藤が伝わってくる。
 ――彼に唇を奪われても、わたしは構わない。
 その思い出があれば、この先ずっと強く生きていけるだろうから。
 けれど、葛藤の末にラディウスはパトリシアの頭を解放した。
 代わりに、また彼女を抱き寄せて硬い胸板に頬を押しつけさせる。
 ラディウスはキスをしてくれなかった。パトリシアは泣きたくなったが、長い付き合いだったから、それが彼の誠実さの表れだということも理解していた。
 溢れ出しそうになる想いをぐっと堪えて、ラディウスに身を委ねる。
 直接的な肌の触れ合いはない。それでも布越しの体温は心地よく、ただ寄り添っているだけでも幸せだった。
 だが、ささやかな幸福も長くは続かなかった。
 傍らで足踏みをした一角獣が、じゃれるようにパトリシアの頭をつついてきたからだ。
「っ、いたっ……ちょっと、つつかないで」
「こら、アストラ。……大丈夫か、リシア」
「平気よ。少し、じゃれつかれただけ」
 パトリシアが苦笑しながら退くと、ラディウスもぎこちなく起き上がる。
「ええと……わたし、そろそろ戻るわね。このあと、ピアノの教師が来るの」
 彼は何か言いたそうにしていたが、パトリシアは頬の火照りを隠すのに必死で気づかなかった。アストラを撫でてからまたねと手を振り、そそくさと踵を返す。
 控えていたメイドも見ないふりをしてくれていて、パトリシアはこの日の胸疼くようなひとときの記憶を心の奥深くにしまいこんだ。