ただ貴女に触れたくて 護衛騎士の秘めやかで蕩ける情熱愛 2
第二話
『この子、明るいところはきらいなの? わたくしの肩には乗らない?』
自在に動き回るネフリルだったが、よく見れば、さきほどから明るい場所を慎重に避けている。
『暗い場所でしか、動けないから』
『そうなの? おひさまを浴びられないなんて、かわいそう』
義兄が元気だったころは、サラはよく義兄と離宮の池にやってくるカワセミを観察したり、薔薇の咲き誇る庭園で追いかけっこをしたりしたものだった。
もう、あの無邪気な日々は戻らない。だからこの猫と、そういう遊びができたらいいと思ったのだ。
それは純粋に、惜しむ気持ちから出た台詞だった。
しかし少女は顔を強張らせた。少女にしては掠れた声が、尖って早口になる。
『光の差さない場所でしか生きられなくても、動物は自分を哀れんだりしない。与えられた環境で生きるだけ。それともあなたは、他人に光を当ててもらわないと生きていけない? そのほうがよほど哀れだわ。自分で光ろうとすれば、どこでだって生きられるのに』
もしかして怒らせたのだろうか。
サラがおろおろと返す言葉を探していると、少女はばつが悪そうに立ちあがった。
黒猫が、照明の届かない場所で宙返りをする。
『ごめん、ただのやっかみ。あなた、良家のお嬢様でしょう。その格好を見ればわかる。光が当たって当然。忘れて』
それを聞くなり、サラも立ちあがった。
『いいえ、あなたの言うとおりよ。わたくしは、自分で光ろうとしてなかったわ。お義兄様がいなくなって、お母様にも会ってもらえなくて……要らない子だと思うだけで、なにもしなかった。あなたってすごいのね。わたくしはあなたのような女性になりたい』
なにもかも、自分の心の持ちようなのだ。
どんな環境にあっても、どんな状況に陥っても、すべては自分の捉えかた次第。
そう気づいたとたん、視界が開けたように思えた。
『……は?』
サラとは反対に、少女の声は呆れを含んで鋭かった。
『だってあなたは、堂々として格好いいわ。わたくしもそうありたい。自分で光って、堂々としていたいわ』
戸惑った風に目を逸らした少女は、しかしいいことを思いついたと言わんばかりの顔でサラに向き直った。
『じゃあ、お義兄さんやお母さんの代わりに、あなたのことは私が見ててあげる。これであなたは要らない子にはならない、でしょう? だから、いつも私のいるところまで光が届くようにしていて』
これからは少女が、どこかで見ていてくれる。
胸がじわりと熱くなった。
(ならばわたくしも、この子に光が届くように胸を張るわ)
それは母に顧みられず、立場上、父にも甘えられなかったサラにとって、なにより強い、光だった。
その日からサラは、心の奥に巣くっていた、生き残ってしまったという負い目にのみこまれない自分になるために行動した。
帝王学に身を入れたのも、そのひとつだ。地理に歴史、文化、自国の産業、語学など。多岐にわたるそれらを、サラは前向きな心で身につけていった。
母に対しても、訪問できないならば手紙だけでも送りつつ、一方で適切な距離の取りかたを模索した。
心の内には常に、名前を尋ねそびれた美少女と黒猫の姿があった。
サラはみるみるうちに為政者たるものとして力をつけ、父王の補佐をするまでになる。
そんなとき、師団長がサラに新たな護衛を連れてきた。
謁見の間に現れた青年は、この世のものとも思えない美貌の持ち主だった。
片側にさらりと流れた黒い髪も、怜悧な顎の輪郭も、鋭い眼光にすら、美という言葉の定義そのものを見た思いがする。
護衛であるからにはサラのために命を張るのだろうが、その肌にこそひと筋の傷もつけたくないと思わずにはいられない。
サラはつかのま見入ってから、フルネームを名乗る。続いて青年も名乗った。
『リオウといいます。姓はありません』
『ではリオウと呼べばいいのね?』
リオウがサラを凝視したまま、硬直している。
サラは怪訝に思い、もう一度リオウを呼んだ。
『……リオウ?』
呼吸を奪うほどの美青年であるリオウと異なり、サラの顔は特筆すべき美しさを持たない。父親ゆずりの柔和な顔立ちを、サラ自身は地味だと思っている。
凝視する理由があるとすれば、緊張によるものぐらいだが、リオウの視線は緊張とは別であるように思えた。
リオウ、とふたたびサラが呼ぶと、ようやくリオウが表情を引きしめる。忠誠を誓う声は上ずっていた。
『……俺の命を、生涯貴女に捧げます』
サラは、ラーゼンノールにおける騎士の叙任式のしきたりにならい、リオウの肩に剣の切っ先を置いた。リオウが改めて誓いの口上を述べる。
しきたりでは、騎士はそれから主人の手に唇を寄せる。
ところが席に戻って手を差しだしたサラに、リオウはひざまずいたままにじり寄った。
『サラ・リージュ・トア・ラーゼンノール……殿下』
リオウはサラの足元に片手をつき、サラが差しだした手をもう一方の手に取ると、やけにゆっくりと唇を寄せる。
さながら、神聖なものに触れるかのごとき仕草だった。
『おい、いつまで手を握ってるんだ、リオウ! 殿下、あとでよく言っておきますので、どうぞご容赦を……!』
慌てふためく師団長の叱責でようやく手を離したリオウだったが、言葉を交わしたのはこのときくらいだ。
それ以降、リオウが表に出ることはほとんどないと言ってもよかった。
常にサラの影のように控えるだけ。
しかしリオウが護衛についてからは、身の危険を感じる機会そのものがなかったのは事実である。
代わりに、たびたびふしぎな現象が起きた。
ひとつひとつは、些細なことだ。物を取り落としそうになったはずが、なぜかしっかり抱えていたとか。転びそうになったはずが、尻餅もつかずに立っていたとか。
祝賀会に出席したおり、酔っ払った列席者にぶつかられそうになったときは、なぜかサラではなくその列席者のほうが床に伸びていたということもあった。
極めつきは、サラが母に送った手紙の返事がないまま二ヶ月を越えたある日のことだった。
弱音を吐かず、笑顔で過ごしていても、ときには胸の内に吹くすきま風を止められない日がある。
その日、サラは父と式典に臨んでいたが、母は例によって欠席した。式典のあとで食事を共にしたいとしたためた、母への手紙に対する返事もなかった。
寝台に潜りこめば、式典の最後まで空席だった王妃の席が脳裏に浮かぶ。目が冴えてしまい、サラは私室を抜けだすとダリア宮の庭に下りた。
夜の庭は、花々の息遣いが聞こえてくるような気がする。
サラは庭師によって丹精された花壇のあいだを、当てもなく歩く。ガウンを羽織ってはいるが、肌を撫でる風に肩がすくんだ。
しかし、部屋に戻る気にはなれなかった。サラはガウンの身頃を胸元へしっかりと引き寄せた。
サラから見えない場所では護衛が見張っているのだろう。だが皆、サラをそっとしておいてくれるらしかった。
迷路のような花壇を抜け、夜中も静かに水を湛える噴水を抜け、サラは東屋の冷えたベンチに腰を下ろす。
月明かりのおかげで、洋燈(ランタン)を持ち歩かなくても辺りはほの明るい。
次はナターシャに頼んで、ポットに紅茶を用意してもらおう、と思ったときだった。
『……あら?』
ベンチと揃いの白い丸テーブルの上を、黒いものが横切った気がしたのだ。
サラは目をこすり、よく見ようと身を乗りだす。
夜の庭を長く歩いたので、目はすっかり暗闇に慣れている。薄闇よりも一段と濃密な黒を、見間違いだとは思わなかった。
目を凝らせば、黒く切り取られたものがふたたびテーブルの上に乗った。今度はそこでじっとしている。
黒猫だ。
弾んだ声が口をつきそうになり、サラは慌てて口元を手で覆う。黒猫が逃げてしまう気がした。
ところが、黒猫は立てた尻尾を左右に振るばかりで逃げる様子がない。
『にゃーお』
サラは思いきって、黒猫に向かって鳴いてみた。
こちらを向かないだろうか。黒猫はあさっての方向を見ており、サラの場所からは顔が見えない。
『にゃーお』
もう一度鳴いてみるが、黒猫はじっとしたままだ。ただ尻尾だけが、鳴き声の代わりかのように左右に揺れる。
(可愛い……!)
気づけば沈んだ気持ちはどこへやら、サラは黒猫の仕草を眺めるのに夢中になった。
黒猫はやがてくるりと丸まった。相変わらず顔は見えないが、なんとも愛嬌がある。
しかし、そのうちサラは奇妙なことに気づいた。
暗闇だからわかりにくいだけかと最初は思ったが、何度見直してもやっぱり、毛の質感がないように思える。
(まさか、剃られた……とか? 黒猫の毛を剃ったら身体は黒色なのだったかしら? わからないわ)
だが、もしもこの子が毛を剃られたのだとしたら、この夜風はきついだろう。サラは黒猫をあたためようと手を伸ばし――。
『……えっ』
サラの手は、黒猫を通り抜けた。
黒猫が弾かれたようにテーブルを下りて駆けだす。
『待って!』
サラもすぐさま東屋を出、左右を見回す。猫の姿はもうどこにも見られなかったが、サラの目は猫の代わりに別の立ち姿を捉えた。
『……リオウ』
リオウは会釈してやってくると、サラの前で足を止めた。
『夜更けに外を歩かれるのは感心しません。不用心ですし、お身体に障ります。部屋までお送りしましょう』
リオウとまともに話すのは、叙任のとき以来だった。
ぶっきらぼうな口調と裏腹に、サラを見つめる目には心配が浮かぶ。
サラの心臓が、嫌というほど騒ぎだした。
(そうよ、この目も話しかたも……)
幼かったサラの前に現れた少女も、話しかたは愛想がよいとはいえなかった。それどころか、怒らせてしまったくらいだ。
だが迷子かと尋ねるまなざしには、心配そうな光が灯っていた。怒っても、サラを最後まで放りださなかった。劇場まで手を引いて送り届けてくれた。
(今だって、部屋に送り届けてくれようと……そっくりだわ)
鼓動が暴れてしかたがない。
『もう戻るわ。でもその前にひとつ教えて。正直に答えること。ついさっき、影でできた黒猫を見たわ。あれは、あなたがしたんでしょう?』
『な……っ』
リオウが目に見えてうろたえる。
『ごまかそうだなんて思わないでね。あなたは自分の影を操れるのでしょう? あの黒猫をもう一度、出してちょうだい』
サラはリオウから目を逸らさなかった。
しばらくの沈黙ののち、リオウが視線をふっと足元に落とす。その視線の先を追ったサラは「あっ」と声を上げた。
黒猫が、リオウの足元でくるくると回っている。
『俺は、自分の影だけでなく……他者の影も縛って、操ることができます。殿下の護衛にも、恐れながら殿下自身の影を使っています。しかしまさか、お気づきになるとは思いもよりませんでした』
だから、物を取り落としたり転んだりすることも、ひととぶつかることもなかったのだ。
驚きよりも先に、腑に落ちる。
守られているのは感じていたから、影を縛られていると知っても嫌悪はなかった。
『わたくしにも、魔法ではないと見抜く能力くらいはあるのよ』
『殿下の観察眼には恐れ入りました』
サラの返事を疑う様子もなく、リオウが黒猫に頭を下げさせる。サラはにわかに確信が持てなくなった。
(リオウは、覚えていない……?)
あるいは最初からサラの思い違いで、やはり別人なのか。
『ね、この猫……なんて呼べばいい?』
それでも諦めきれず、サラは祈る思いでその質問を口にする。
全身が心臓になった気分だ。そのうち口から飛びだすかもしれない。
サラは息をつめてリオウの返答を待つ。リオウが初めて表情をほころばせた。
『名前をお尋ねになったのは、殿下がふたり目です。……どうぞネフリルとお呼びください』
寂れた裏通りでサラに光をくれたひとが、そこにいた。