戻る

お別れ確定の恋なので、こっそりあなたの子を授かろうと思います 1

第一話

 

 指に嵌められた金の指輪が夕焼けの色を吸収し、物悲しく輝いている。
「君を愛しているよ。一生、僕の傍にいてほしい」
 そう言われてこの指輪を薬指に嵌めてもらったときは、この世界に自分ほど幸せな人間は存在しないと本気で思っていた。
 でも今は、あんな薄っぺらな言葉を信じた自分が呪わしい。

 

 ――忘れておしまい、そんな輩のことは。貴族なんてしょせん、別世界の生き物さ。

 

 そんなこと、理屈ではわかっている。
 でも、心はどうしても事実を受け入れることができなかった。
 愛して、愛されて。それが自分の世界(なか)では、『幸せ』というもののごく自然な形だった。
 でも、それ以外の形を与えられて戸惑っているうちに、事態はどんどん進んでしまう。
 こんなにも憎しみと妬みに侵食された心を抱えながら、新たな命を生み出すことなんて怖くてできない。
 美しく輝く指輪を抜き、それを激流の中に投げ入れた。
 永遠を誓ったはずのきらめきが、荒れ狂う水に流されていく。
 この豪雨で増水している川の流れは深く速く、どんな困難も、醜いものも、すべてを呑み込み、押し流してくれるだろう。

 

 お母さん、ごめんね。
 私の心は、彼の言葉でまっぷたつに切り裂かれてしまったから。
 お母さんの魔法の薬を使っても、割れてしまったものは元には戻せないから。

 

 崖の上に立ち、轟音を立てる濁流に向かって躊躇なく身を躍らせた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「おい、耄碌ババア。まだこんな汚ねえ商売してやがったのか」
 夕方の露店街に中年男の怒声が響き渡り、頭ごなしに怒鳴られたルナルーシアは、びっくりして飛び上がった。
 次いで『メディシスの薬』と書かれた手製の小さな看板が蹴り飛ばされ、石畳の上を転がっていくのを見送る。
 一生懸命作ったものなのに、足跡がついてしまって悲しかった。
 ここはシルヴァーナ王国の王都サンダルシアにある目抜き通りだ。
 通りの北側にあるこの露店街では、役場で許可を得て場所代を払えば誰でも商売ができるため、多くの露店が軒を連ねている。
 ルナルーシアの売り物は薬である。腹痛(はらいた)の薬から鎮痛薬、咳止めの飴、傷によく効く軟膏など、常備薬を主に扱っている。もちろん注文による調薬も可能だ。
 今日もたくさん売れたので、そろそろ店じまいにしようと後片付けをしていたところ、このような惨事に見舞われてしまったのだ。
「あ、あの……?」
 ルナルーシアが深く被ったフードの下で目をぱちくりさせていたら、旅装をしたその男にいきなり胸倉をつかまれた。
「次に会ったら、必ずぶん殴ってやるって言ったよな? 老いぼれすぎて忘れたのか?」
「は、ぅ……?」
 ルナルーシアはまだ二十歳だ。決して耄碌していないし、ババアと吐き捨てられる年齢でもない。
 人違いですと言おうにも、微妙に人違いではないというか、彼の怒りの矛先に心当たりがありすぎるので、真っ向から否定できなかった。
 男が怒っている相手は十中八九、看板に名前が書いてある『メディシス』その人だ。それはルナルーシアの師匠にあたる老婆のことである。
 きっとフードで顔を隠しているから、メディシスと間違われてしまったのだろう。
 そう、メディシスは多くの人にとって、とてつもなく性格の悪い所謂“クソババア”なのである。
 しかし、いくらフードをすっぽり被ったローブ姿だとはいえ、腰の曲がった老婆とは明らかに体格も仕草も違うのに、そんなにおばあちゃんに見えてしまうのだろうか。
(メディシスおばあちゃんに間違われるなんて、光栄……!)
 どれだけ偏屈で底意地の悪い老婆でも、ルナルーシアにとっては偉大な師匠だ。
「おい、聞いてるのか! 貴様、十年前この俺になんと言ったか忘れたとは言わせねえぞ」
 通りがかりの人々が何事かとこちらを見るが、巻き添えを恐れてか、誰ひとり騒ぎに介入してくることはない。
 どう返事をしようか悩んでまごまごしていたら、思ったとおりの反応を示さないルナルーシアに、男の苛立ちが最高潮を迎えたのだろう。思いっきり後方に突き飛ばされていた。
「わ……っ」
 背後には陳列台があり、倒れ込んだら怪我は必至だが、それを回避できるほどルナルーシアは運動神経に恵まれていなかった。衝撃がくるのを目を閉じて待ち受けるしかない。
 しかし、がっしりした手がルナルーシアの両肩をつかんで支えてくれていた。
「……?」
 振り返ると、真っ白なブラウスとくたくたの黒いコートを着た男性の広い胸元が見えた。
 ゆっくり視線を上にずらしていくと、淡い金髪、碧い瞳をした若い男の顔がある。でも、顔見知りではない。
「乱暴だな。彼女があなたに何かしたのか?」
 青年の口調はあくまで穏やかだが、中年男は長身の若い男から睥睨され、居心地悪そうだ。それでもメディシスへの怒りが収まらないらしく、ルナルーシアだけを視界に入れてがなりつづけた。
「うるせえ、部外者はすっこんでろ! 俺はこのクソババアに言ってんだ!」
「クソ、ババア……?」
 つかんでいるルナルーシアの肩が、老人のそれではないことに気づいているのだろう。青年が訝り、後ろから彼女のフードの中を覗こうとした瞬間。
「だいたい人の話を聞くのに顔を隠しやがって。その態度はなんだ!」
 そう言ってずんずん近づいてきて、男が勢いよくルナルーシアのフードを跳ね除けた。
「あ……っ」
 あいにくとフードが外れたからといって、その下から目の眩むような絶世の美女が現れたわけではない。後ろでひとつにくくった赤みの強い栗色の髪と、紅玉の瞳を持つ、純朴そうな若い娘の顔が露になっただけである。
「あ、あの、もしかしたら、メディシスにひどいことを言われましたか? でしたら、私が代わりに謝罪いたします。申し訳ありません」
 ルナルーシアのおっとりした口調と顔に、男は怒気を逸らされたらしい。しばらく口をぱくぱくさせていたのだが、怒りを収めたかと思いきや、顔を真っ赤にして憤った。
「小娘が、馬鹿にしてるのか! ぬーぼーとしたツラぁしやがって!」
「あぅ、あわわ……」
 顔は生まれつきだ。ひどい逆切れである。
 しかしルナルーシアは、こういう場でまごつくことはあっても怯えはせず、ぽやんとマイペースに事を運ぶので、結果的に相手を逆上させることもしばしばなのだ。
 むろん、わざとではなく天然ものだ。
 ぼーっとしているだけなのに、往々にして相手を馬鹿にしていると勘違いされてしまう、実に不幸な体質だった。
 男がふたたびルナルーシアの胸倉をつかもうとしたが、その手は背後の青年がぴしゃりと払った。
「まず人違いを謝罪するのが筋でしょう」
「詐欺師を見て見ぬふりできるか!」
 とはいえ、青年に険しい目でにらまれて分が悪いと思ったのか、男はチッと大きく舌打ちして踵を返した。
「待て」
 ルナルーシアを脇によけ、青年がとっさに中年男の襟首をつかみ、強引に彼女の前に連れ戻す。
「彼女に謝罪を。それとも、暴力行為で官憲に突き出そうか?」
「は、離せ! わかったわかった、悪かったよ!!」
 ちっとも反省などしていない開き直った態度で、男はルナルーシアから目を逸らして言い放つと、今度こそ脱兎のごとく走り去ってしまった。
「あ、おいっ」
 それを見た青年がさらに追いかけようとする。
「あのっ、もうその辺で……!」
 ルナルーシアが止めると、彼は遠ざかる男の後ろ姿を悔しげに見送った。
「……こういうことはよくあるのですか?」
「いえ、めったにないですよ! でも、助けてくださってありがとうございました」
 ほっと胸を撫で下ろしたルナルーシアは、ローブをつまんで金髪の青年に頭を下げた。
「『メディシス』というのは、あなたのことではないのですよね? 薬師の名ですか?」
 青年はさっきの男に蹴り飛ばされた看板を拾い、ルナルーシアに手渡してくれる。
「はい。メディシスは偉大な薬師で、私のお師匠なんです!」
 ルナルーシアは誇らしげに言って笑ったが、彼は今ひとつ腑に落ちない顔をしていた。
「ですが、さっきの男には相当恨まれているようでしたが……」
「ええ、それが――」
 メディシスはサンダルシアの住人たち、特に中年以上の人々から『西の森の魔女』と呼ばれ、薬師として尊敬されているどころか、蛇蝎のごとく忌み嫌われている。
 師匠を恨んでいるのは、さっきの男だけではない。
 というのも、口を開けば罵詈雑言、親切にされても悪態をつき、ひどいときは性格同様に捻じくれた杖を振り回して人を追いやる。人間が嫌いなのだ。
 行商しても人を見て売ったり売らなかったり、ときにはボッタクリと言われても仕方ないような高値で売りつけたりと、歪んだ性格と物言いが災いして、商売はちっとも繁盛していなかった。
 かつて、幼かったルナルーシアも目撃したことがあるので、間違いない。
 さっきの男がメディシスからどんな扱いを受けたのか、詳細は知らずとも、察するに難くなかった。
 おまけに、伝承やおとぎ話が入り混じったメディシスにまつわる逸話が、これでもかというほど蔓延っているのだ。
 たとえば、人の脳を啜る、生き血を抜く、実は何百年も生きているだとか、家にはヤモリやマムシの黒焼きがたくさんあるだとか。
 まあ、ヤモリやマムシの黒焼きは、確かにメディシスの家にあるのだが……。
「お師匠の薬はとても質がよくて、効果も高いんです! でも残念なことに、性格で損する人なんですよね」
 おどけて笑ってみせたが、青年は聞いていないのか、思いつめた表情でルナルーシアの手にある看板をみつめていた。
「これがどうかしましたか?」
 ルナルーシアはあらためて彼をまじまじと観察する。
 精悍で引き締まった顔立ちをした青年で、いくらかルナルーシアより年上だろう。夕陽のせいで橙色に見える髪は、肩に届くほどの淡い金髪だ。よれよれのくたびれたコートを着ていたが、背筋はすっと伸びていて、ひどく容姿に恵まれている。
 艶やかな前髪の下に碧い瞳が隠れているのだが、さっきはとても鋭い双眸をしていると思ったのに、今、その眼には力がなかった。
 そして彼は、やはり力のない声でぽつりと呟く。
「薬が存在しないことはわかっているのですが……僕の母が、国王陛下と同じ病に侵されています……」
 それを聞いて、ルナルーシアは戸惑いの形に唇を結んだ。
 シルヴァーナ王国の国王は死病なのだ。特効薬はなく、命が燃え尽きる日をただ待つしかない現状である。
 末期にはかなりの苦痛を伴うが、痛み止めなどで症状を緩和することしかできない。
 それと同じ病ということは、彼の母はもう助からないのだ。
「修道院薬局の痛み止めでは、もう効果はありません。でも、母が苦しむ姿をこれ以上見ていられないのです。なにか、救いになる薬はないでしょうか……」
 うつむく青年に、ルナルーシアはとっさにかけるべき言葉を見つけられなかった。でも彼は、慰めの言葉を欲しているわけではないだろう。
 サンダルシアには、医療を担うアテラス神殿に属する修道院薬局があるので、街の人々の多くはそこへ薬を求めに行くのだが、それがもう効かないというのであれば。
 ルナルーシアは籠の中から、今日ひとつだけ売れ残っていた薬の包みを彼に手渡した。
「そうだったのですね……。これは東方由来の鎮痛薬で、修道院薬局の痛み止めとは違う成分です。もしかしたら、すこしは効果があるかもしれません。よかったら」
 最後の鎮痛薬を青年に手渡すと、彼は両手でそれを受け取って深く首を垂れた。
「ありがとうございます、薬師どの。さっそく、母に飲ませてみます。これはお礼に」
 そう言って彼は懐からずっしりと重たい革の小袋を取り出し、ルナルーシアの手に握らせた。袋を開けたら、中には金貨がぎっしりと詰まっているではないか。
「こんなにいただけません――って、はやっ!」
 多すぎる分を返そうとしたが、青年はもう影も形もない。
 辺りを見回すと、ルナルーシアが走って追いかけても意味がないほどの、とんでもない俊足で大通りを駆け抜けていくのが見えた。
「彼のお母さまの苦痛が、すこしでも和らぎますように」
 そう呟き、胸の前で手を握り合わせて神に慈悲を願う。
 自分の母も長いこと病を患っていて、完治の見込みはない。先が長くないとわかっているから、彼の気持ちは理解できるつもりだ。
 ルナルーシアは下級騎士の娘だが、父は十年前の戦で戦死を遂げており、十歳の頃から病弱な母とふたりきりの生活をしている。父が小さいながらに家を遺してくれたので風雨は凌げているが、母娘の生活はとても厳しかった。
 当初は、父の戦死時に支給された見舞金でやりくりしていたのだが、母の薬はとても高価で、手持ちだけではとても賄いきれない。
 健康な彼女が働いて、ふたり分の食い扶持を稼がなくてはならなかったのだ。
 幸いにも、日中、ルナルーシアが不在にしている間は、母と仲のいい隣家の夫人が、ちょくちょく顔を出して様子を見てくれるので、甘えさせてもらって仕事に精を出した。
 しかしルナルーシアは根っから明るい娘で、悲愴感とは縁遠い性格だ。
 幼い頃は、大人に交じって働けば、働き者ゆえにかわいがってもらえたし、どんなことが起きても最終的には「なんとかなる」と思っている。そして、実際になんとかなってきた。
 そもそも、自分の境遇が悲惨だとか不幸だとか考えたこともない。住む場所があって、人並みに働けて食べていける。それで十分だった。
 今日もこうして、たくさんの上がりを持ってメディシスの許へ帰れるのだから。
 後片付けをしたルナルーシアは軽くなった籠を担ぐと、街の西に広がる森を目指した。

 

  *

 

 日が沈む直前、ルナルーシアは森に住む老薬師の小屋へとやってきた。
 狭くても整った庭にはたくさんの薬草が栽培されていて、やさしい雰囲気の小屋の窓には、ほのかな明かりが灯っている。ほっと一息つける場所だ。
 小屋の横にある木には、いつも梟が止まっていてホゥホゥと鳴いているのだが、一度もルナルーシアに姿を見せてくれたことはない。
「おばあちゃーん、今日もお薬たくさん売れましたよ!」
 扉を開けて中に入ると、奥の部屋から刺々しい老婆の声が飛んできた。
「誰がババアだ、失礼な娘だよ。メディシスさまとお呼びと、何度言えばわかるんだい」
 奥から顔を覗かせたのは、見るからに意地悪な、イトスギのように痩せた鉤鼻の老婆だ。迷惑だと言いたげで、今にも唾を吐きそうだった。
 でも、ルナルーシアは怯まない。このやりとりは挨拶みたいなものなのだ。
「だって、おばあちゃんはおばあちゃんですもの。はい、これが今日の売り上げです」
 小屋に入ると、ルナルーシアは師匠の不満げな様子など一切気にかけず、売上金の入った金入れと、金貨の詰まった革袋を一緒に手渡した。
 メディシスは皺深い顔に、ますます深い皺を刻む。
「なんだい、この金貨の山は」
「鎮痛薬の代金として渡されました。多すぎるからお返ししようと思ったんですけど、とっても足が速かったから追いつけなくて。仕方なく持ち帰りましたが、どうしましょう?」
 老婆は袋の中からザクザク出てくる金貨を手のひらに乗せ、肩をすくめた。
「くれるってもんを返そうと思う意味がわからんね。しかし、ちょろまかしもせず、素直にアタシに渡しちまうなんて。ほんとにおまえは馬鹿な子だね」
 呆れて言うメディシスに、ルナルーシアは首を傾げる。
「だって、おばあちゃんの薬の対価としていただいたんですもの。でも、その方のお母さま、国王陛下と同じご病気なんですって。おばあちゃんの薬、効くといいですね」
「死病かい。ま、死期の苦痛を和らげる程度の効果はあるだろうさ。ほら、これをお持ち。今日の上がりだよ」
 メディシスは、ルナルーシアの母親のために作った薬と、山ともらった金貨を革袋ごと彼女に手渡した。
「やっぱり、この金貨は持ち主を探してお返ししますか?」
「なに馬鹿なことを言ってるんだい、もらったもんは返さないよ。これは明日、おまえが買いに行く材料の購入代金だ。残りは駄賃にとっときな」
「え、でも……」
 薬の原材料の買いつけもルナルーシアが担当しているのだが、金貨一枚もあれば、普段の倍くらいの材料が手に入る。
「ほら、とっとと帰れ。アタシゃもう寝るんだから! 年寄りは夜が早いんだよ!」
 こうして強引に小屋から追い出されてしまった。
 手に残された金貨の袋をみつめ、メディシスの小屋を振り返ると、ルナルーシアは頭を下げる。
 普段から馬車馬のようにこき使われているが、いつもそれに見合った対価をメディシスはくれる。だから母にも栄養のあるものを食べさせてあげられるのだ。

 

 メディシスとルナルーシアが出会ったのは、今から八年前――十二歳の頃だ。
 母の病気に効く薬を求め、噂を頼りにメディシスの薬を買いに行ったのだが、悪い方の噂どおりに、偏屈な老婆は幼い少女にこう言い放った。
「そんなはした金じゃ、アタシの薬は売れないよ!」
 しかしルナルーシアは怯まなかった。
「おばあちゃんのお仕事、なんでも手伝います!」
 以来、手伝いとは言えぬほどにこき使われることになった。
 老薬師をおばあちゃん呼ばわりしたことについては、くどくどくどくど、長きに亘って小言がつづくことになった――現在進行形で。
 でも結果的に、薬草の栽培、森に生えている野草の見分け方、収穫、調薬方法などなど、メディシスのふんだんな知識をそっくり吸収することができた。
 おまけに、ルナルーシアが薬を売りに行けばきっちり売れたので、自然と薬売りの仕事は彼女の担当になったのである。
 あの老婆と付き合えるのはひとえに、メディシスのくどい小言をかわすことのできる、ルナルーシアの鈍感力の賜物だろう。
「おばあちゃん、いつもありがとう!」
 帰り道は暗くなりはじめていたが、ルナルーシアは今日も明るい足取りで家路についた。

 

  *

 

 シルヴァーナ国王崩御の報が届けられたのは、それから一週間後のことだった。
 王都はこの先、一ヶ月間、喪に服すこととなるため、街の人々もどこか沈みがちだ。
 とはいえ、日常はいつもどおりに営まれるので、ルナルーシアもたくさん作った薬を籠いっぱいに入れ、普段どおりに露店を開いている。
 その青年がふたたびルナルーシアの前に現れたのは、国王逝去からさらに一ヶ月後のことだった。
 彼は厳粛な真っ黒いマントを羽織って、服喪中であることを表している。もう国王の服喪期間は過ぎているので、もしかしたら……と不安に思った。
 でも、彼は先日のように疲れ切った顔はしていない。あのときは髪がだいぶ伸びていたが、さっぱりと短くなっていた。
 晴れやかな表情で、ルナルーシアを見つけると走り寄ってくる。
「こんにちは、薬師どの。実は先日、母が亡くなりまして」
 不幸な予感は当たっていたが、やはり彼の上に悲愴感はない。
「そうでしたか。お悔やみ申し上げます」
 ルナルーシアが首を垂れると、彼はやわらかな笑みを浮かべた。
「あなたの薬のおかげで、母は苦しみから解放されて穏やかな死を迎えました。母に代わり、どうしてもお礼が言いたくて。本当にありがとうございました」
 彼のあたたかな手に手を取られ、ルナルーシアは目深に被ったフードの下で、目を白黒させていた。そこまで深く感謝されるほどのことをしたわけではない。
「お母さまのことは残念でしたが、すこしでも安らぎになったのでしたらよかったです。でも、私は売っているだけで、薬を作っているのは私の師匠なのです。お言葉は、必ず師匠に伝えますね」
 実のところ、ここで販売している薬も、メディシス監修の下でルナルーシアが作ったものだが、あくまで『師匠のお手伝い』という立場を取っているから、自作発言はできない。変なところで律儀なのだ。
「それでも、あの日この場所であなたに会えたことが、なによりの幸いでした。天の配剤に感謝します」
 青年はまるでルナルーシアが天そのものとでも言いたげに、彼女の手を額に押し戴いた。
「あ、あぁあ、あの……こちらこそ助けていただいて」
 あわてて手を引っ込めたら、彼は笑った。朗らかな人柄を思わせる、やわらかくて目を惹く魅力的な笑顔だった。
 短くなった淡い金髪が今日は陽光を受けて輝き、眉目秀麗を絵に描いたような、貴公子然とした顔立ちを引き立たせている。
 先日の重たい疲労感がのしかかる姿からは想像もできないほど、清々しい青年だった。
「すみません、失礼でしたね。ところで、薬師どののお名前をおうかがいしても? 僕はランスといいます」
「私は――薬師見習いですが、ルナルーシアです」
「ルナルーシア……。お名前を教えてくださってありがとうございます。あなたのお師匠さんにも感謝を」
 あの老婆が誰かに感謝されている場面を見たことがなかったので、ルナルーシアは顔を輝かせて前のめりになった。
「はい、必ず伝えます! メディシスおばあちゃんの薬は、魔法の薬なんです。うちの母の薬も処方してくださっているんですが、とってもよく効くんです」
 世間の人々がいくらメディシスを忌み嫌おうと、ルナルーシアにとっては大恩ある人で、薬の知識をくれる偉大な師匠なのだ。心の底から尊敬している。
 別に何を尋ねられているわけでもないのに、勝手に師匠を推しまくっていたら、ランスがくすくす笑った。
 春の陽射しみたいな、やさしい笑い方をする青年だ。見ているこちらもほっこりする。
「あっ、そういえば!」
 ルナルーシアは自分の鞄の中から金貨が詰まった革袋を取り出し、ランスに差し出した。
「先日いただいたお薬代、多かったのでおつりです。お会いできたら返そうって思っていたので、来てくださってよかった。あの、一枚だけ薬の材料を買うのに使わせていただきました。ごめんなさい」
「なぜ謝る必要が? 代金に見合うだけの価値ある薬でした」
「でも、明らかに多すぎ……」
「お師匠さんはなんと言っていましたか?」
「えっ、えっと、多すぎる分はお返しするようにと――」
 本当は「もらったもんは返さない」と言っていたが、それをランスに告げる勇気はなくて嘘をつく。
「そうですか」
 なんとか返そうとするルナルーシアから革袋を受け取ると、ランスはあらためて彼女の手にそれを握らせた。
「では、これは僕からの投資です。このお金を使って薬をたくさん作り、誰かの役に立ててください。もちろんこの中には、あなたとお母上の健康も含まれています」
 きっぱり言ってランスが手を引いたので、返金することはできなかった。これ以上ゴネたら、逆に失礼になってしまう気がしたのだ。
「……ありがとうございます。では、ありがたく使わせていただきます」
「そうしてください。ルナルーシアさんのお母上のお加減は、いかがなのですか?」
 さっき、ぽろりと母の薬のことを口にしたからだろう。ランスはそれを聞き逃さなかった。
「薬がよく効いているので、調子はいいみたいです。師匠の薬は本当にすばらしいんです」
 結局、そこでまたメディシス賛美になってしまう。彼は母を亡くしたばかりで心痛があるだろうに、呆れるでもなくやっぱり笑ってくれた。
「ルナルーシアさん。もしよければ今日一日、お店の用心棒をさせていただけませんか?」
「用心棒? いえ、そんなお手を煩わせるわけにはいきません。先日みたいなことはまずめったにありませんから、本当にご心配なさらないでください」
 あわてて断るも、ランスは透き通るような美しい碧色の瞳を細めて笑う。
「――というのは口実で、ルナルーシアさんと話がしたいだけなのですが、ご迷惑でしょうか。もちろん仕事の邪魔はしません」
「私、おもしろいお話は何もできませんよ?」
「いろいろ、聞いてみたいことがあるので」
「そうなんですか? 私は構いませんが……」
 よくわからないまでも、人と話すのは好きなので承諾した。騒動から助けてもらった恩があるし、これといって断る理由もなかった。
 しかし、意外とひっきりなしに客がやってくる。
「待ってたのよ、薬師さん。うちの坊の疳の虫がひどくって」
「まあ、それはお母さんも大変。ちょうど材料がそろっているので、調薬しますね。この薬をミルクで伸ばして、舌にちょっとずつ塗ってみてください」
「腰と膝が痛くてねえ」
「湿布薬を持ってきたんですよ! 痛みのあるところにこれを塗って、布を当てておいてください」
 用意のない薬を求められたときも、材料さえあれば、ぼろぼろになったメモ束の中から調合方法(レシピ)を探し出し、その場で薬を作る。
 材料やレシピがなければ次に持ってくる約束をして、メディシスに監修してもらって自分で作る。
 薬の説明にはじまり、知った顔なら近況や体調を尋ねたりもするので、ランスとじっくり話し込むほどの時間もなかった。
「あんまりお話しできませんでしたね、すみません」
 気がつけばもう夕方で、薬の在庫もほとんど尽きた。そろそろ店じまいだ。
「いえ! 僕が勝手に頼んだことですから。それにしても、見習いだなんて言ってましたが、薬草の知識がすごいですね。効能についての説明もとてもわかりやすかったですし、独立してもやっていけるのでは?」
 そんなふうにランスに褒められて、ルナルーシアは頬を染めた。
「私なんかまだまだですよ。お師匠の知識には及びもつかないですから。いつか、あんな偉大な薬師になれるといいんですけれど」