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お別れ確定の恋なので、こっそりあなたの子を授かろうと思います 2

第二話

 

 それからというもの、ランスは用がなくてもルナルーシアの薬屋を訪れるようになった。
 薬売りは週に一度か二度だけだし、彼も毎回現れるわけではないのだが、やってきた日は仕事の邪魔にならぬ程度に立ち話をしていく。
 ランスは薬の作り方や成分について知りたがったが、調薬自体に興味があるわけではなさそうだ。ただ単に、薬の話をするとルナルーシアがしっぽを振って食いつくからだろう。
 ルナルーシアも誰かとおしゃべりするのが楽しくて、つい口が軽くなった。
「明日は西の森へ薬草摘みに出かける予定なんです。もうすぐ夏だからいろんな薬草がたくさん芽吹いていると思います」
「ひとりで出かけるんですか? お師匠さんは?」
「おばあちゃんはもう高齢で、あんまり遠くまでは行けないんです。最近では、庭に植えている薬草のお世話も大変そうで……。私もおばあちゃんのところへ毎日通っているわけじゃないから、ちょっと心配なんです」
 母のことがなければ、老婆の身の回りの世話を焼いてやりたいとは思うのだが、あいにくと身体をふたつに分けることはできない。
 そもそも、メディシスは身体の心配をされると「ババア扱いするんじゃないよ!」と怒るので、薬作り以外のことは必要最低限の手伝いしかさせてもらえないのだ。
「いくら老人とはいえ、なんでもかんでも手伝ってしまうと、かえって本人にもよくないですよ。適度に身体を動かすのは、とても大事なことです」
「そうですよね、わかってはいるんですけど……」
「僕の母もそうでした。周囲が心配しすぎて安静にばかりさせるから、あっという間に足腰が弱ってしまって。きっとお師匠さんも、それがわかっているんですよ。おひとり暮らしをされているなら、ルナルーシアさんが顔を見せてあげるだけでも、十分うれしいんじゃないかな」
 ランスの穏やかな瞳に微笑まれると、世界に困ったことなどひとつもないような平和な気分になる。
「ありがとうございます。あまり過保護になりすぎない程度にお手伝いしていきますね」
「それがいいと思います。でも僕は、ルナルーシアさんに過保護になりたいので、明日の薬草摘みにはお供させていただいてもいいですか? この時期、森には危険な動物も出ます。用心棒だと思っていただければ」
 思いがけない提案に、ルナルーシアは紅玉の瞳をぱちくりさせた。
「お申し出はうれしいのですが、おうちのこととか、お仕事とかは……?」
 これまで、彼自身のことについては何も聞いていない。他人の私的な部分については、普段からむやみに立ち入らないことにしているのだ。人間、聞かれたくないこともいろいろあるだろう。
 それでも、ルナルーシアなりに想像はしていた。身なりからすると、ランスは相当裕福な家の出か、あるいは貴族だ。
 背が高くて一見細身だが、体格はいいはずだ。先日、男に突き飛ばされたルナルーシアを事もなげに支えてくれたとき、揺るぎない土台を感じた。身体を使う仕事をしているのだろうと想像できる。
 そんな若くて働き盛りの立派な青年が、昼日中からルナルーシアのところに来てブラブラしているのだから、何者なのかはさすがに気になったのだ。
「あ――僕かなり不審者でしたね。すみません。親が亡くなったので家はゴタついているのですが、僕は次男坊で、継ぐべき家督もありません。家業があるので兄の下で働くことにはなりますが、まだどんな体制になるのか決まっていないんです。それが決まるまでは暇で」
「そうだったんですね。不審者だなんて思っていませんが、そういうことなら、束の間の自由時間ですよね。私のお供なんかで大事な時間を潰してしまっていいんですか?」
「大事な時間だからこそ、自分の好きなことに使いたいと思っています。ルナルーシアさんがご迷惑でなければ」
 そう言ってにこっと微笑むランスを、フードの下からまぶしく見上げた。
「迷惑だなんてとんでもないです。では、お言葉に甘えまして。明日はぜひよろしくお願いいたします」
 こうして明日はランスとふたりで森へ出かけることになった。
 幼い頃から仕事に明け暮れていて、同年代の人と過ごした経験があまりないから、楽しみで明日が待ち遠しくもあった。

 

  *

 

 今日の売り上げをメディシスに渡すため森の中の小屋へ向かい、明日はランスと一緒に薬草を摘みに行くことを報告すると、老婆は上に向けた鉤鼻を「フン」と鳴らした。
「なんだいそりゃ、あからさまに怪しいね。森の中で取って食われるかもしれないよ!」
「そんな、クマじゃないんですから。ランスさんはとっても親切な人ですよ。紳士ですし」
「若い男がおまえみたいなぼーっとした娘っこに親切にするなんて、下心以外に動機がありゃしないよ!」
 ごちゃごちゃした小屋の中で、長椅子に座るメディシスの膝に痛み止めの軟膏を塗ってやりながら、ルナルーシアは笑った。
「下心の種類にもよりますよね。それを言ったら、私もランスさんと会って話をするのは楽しいですし、あわよくば友達になりたいという下心があります」
「男の下心はそういうんじゃないよ。森の中で襲われでもしたらどうするんだい」
 おっとりのんびりしているルナルーシアだが、幼い頃から街中で仕事をしてきて、それなりに人生の酸いも甘いも噛み分けている。
 のみならず、薬師として人体についての講義はメディシスからたっぷり受けているから、男女の身体のつくりや違いだけではなく、時に男が女にとって脅威になりうることも十分承知していた。
 実際にサンダルシアでは、女性が犠牲になる事件が、残念なことにたびたび起きている。ルナルーシアだって先日、見知らぬ男に難癖をつけられたばかりなのだから。ランスが介入してくれなかったら、どうなっていたことか。
「ランスさんはそんなことしませんよ。私なんかを襲わなくたって、笑いかければ、いくらでも女性が群がってくるような人ですから」
「馬鹿だね、そういう慣れた男こそ、余計におまえみたいな毛色の違う娘に興味を持つんだよ。これを持っておいき」
 メディシスはそう言って、後ろにあった古ぼけた棚から小さな薬瓶を取り出して、ルナルーシアに手渡した。中にはうっすら赤みを帯びた透明な液体が入っている。
「これは?」
「トウガラシのエキスだ。襲われたら顔にぶっかけてやるんだよ」
 想像しただけで、目が痛くなってきた。
「ありがとうございます。ではいただいておきます」
「銅貨三枚だよ」
「はい、あとでお支払いしますね」
 メディシスには『西の森の魔女』以外に『守銭奴』というふたつ名もあるが、先日みたいに金貨を袋ごとくれたりもするので、それが本心でないことはよくわかっている。
 もちろん、律儀なルナルーシアはちゃんと銅貨を支払うわけだが。
「それと、明日は夕方から雨になるから、早めに切り上げな。――おや、軟膏の匂いが変わったね。何か入れたのかい」
「あ、勝手に成分を変えてごめんなさい。おばあちゃんの軟膏に、リーズの葉を粉末にしたものを混ぜてみたんです。リーズと軟膏の効能、たぶん相性がいいと思って」
 メディシスは皺の寄った眉根をさらに寄せ、不機嫌そうな顔を作ったが「フン」と鼻を鳴らしただけで終わった。でもそれは「よくできた」の意だ。
 敬愛する師匠には褒められたし、明日は人と待ち合わせをしてお出かけする約束をしたので、今日はとっても満ち足りた一日だった。

 

  *

 

 翌日は快晴で、初夏の風が心地よく吹いている。
 西の森の手前には小川が流れているが、ランスとの待ち合わせは、その小川をまたぐ橋の袂だ。
 メディシスの小屋はもっと北寄りで、人嫌いの魔女らしく人がほとんど立ち入らない鬱蒼とした場所にある。
 ルナルーシアが待ち合わせ場所に着くと、もうランスが待っていて、こちらに気づいて手を振ってくれた。
「お待たせしました、ランスさん!」
 今日のために、数少ない余所行きの紺色ワンピースを着て、赤みの強い栗毛はゆるく編み込んで、ちょっぴりおめかしをしてきた。
 いつもランスと会うときは灰色のローブ姿なので、すこし照れくさい。
 とはいえ、森に入るので動きやすさは重視している。スカートは長すぎず、広がりすぎない程度に落ち着いていて、砂利も木の枝も通さない厚底の革靴である。
 肩から斜めにかけている鞄には、手袋とかスコップとか鋏とか、かわいげのない物がたくさん入っていた。
 彼の許に小走りで駆け寄ると、白いゆったりしたチュニックと黒いトラウザーズに革の長靴、腰に長剣を佩いたランスが、ルナルーシアを見て碧い目を瞠っていた。
「すみません、待たせましたか?」
「いえ、僕も今ちょうど来たところです。ローブ姿しか見たことがなかったのですが、ルナルーシアさん、とてもかわいらしいですね」
「あ、ありがとうございます……。ランスさんも、とっても素敵です」
 褒められ慣れていないので戸惑ってしまったが、頬を染めつつ笑って彼を見上げた。
 それにしても、青い空が実によく似合う、清潔感にあふれる青年だ。お世辞ではなく、その様子のよさには目を奪われる。
「そのバスケットは? そうか、摘んだ薬草を入れるものですね」
 腕にかけていた大きなバスケットを見てランスが言うので、ルナルーシアは微笑した。
「実は、お昼ごはんを作ってきました。帰りはこれに薬草を入れて帰れるので、食べていただけたらうれしいです」
 すると、彼の澄んだ碧色の瞳がきらきら輝き出す。
「お昼……僕の分まで? ルナルーシアさんが作ったんですか!?」
「はい。ランスさんのお口に合うといいんですが」
「僕、好き嫌いはありません。すごく楽しみです! 何を作ってくれたんだろう……」
 ひどく期待されているが、普段ルナルーシアが食べているようなものが彼の口に合うか不安ではある。
「ではさっそく行きましょうか。今日は夕方から雨になるってお師匠が言っていたので、早めに切り上げないといけません」
「雨、ですか? こんなに晴れてるのに?」
「お師匠の言うことなので、間違いないです。その……ときどき外れますけど」
 雲ひとつない空を見上げて首を傾げていたランスは、それを聞いて笑い出した。 
「当たる確率は、私の体感では七割くらいです。午前中に摘めるだけ摘んで、お昼を食べたら念のために早く帰りましょう」
 メディシス特製の虫よけをふたりの手首や首筋に塗ってから、意気揚々と目的地へと歩き出す。バスケットはランスが持ってくれた。
 森は深いが、メディシスが彼女にしかわからない目印をつけている。それの探し方も教わっているし、この辺りはルナルーシアもよく来るので、道に迷うことはまずない。
「あ、そこの繁みに生えてるの、マズマ草です。根っこのエキスを抽出すると、湿布薬が作れるんですよ」
 持参した手袋をしてスコップで土を掘り返すと、長い長い根っこが現れる。
「僕の目には雑草にしか見えませんでした。すごいなぁ……」
「今年は雨もよく降ったし、生育状態がとってもいいです」
 岩の上から垂れ下がっていた草はよじ登って採り、木の幹に絡まっていた高い場所の草は、ランスが長身を生かして鋏で切ってくれる。
 こんな調子で、目的地にたどり着くまでに抱えるほどの薬草を摘んでいった。
 そのまま進みつづけ、川のほとりにたどり着いたら、ランスが楽しそうに目を輝かせる。
「こんなきれいな場所があったんですね」
 木がまばらで、高い青空と遠くに山の連なりがよく見える、開けた場所だ。辺りに響くのは清らかな水のせせらぎと、小鳥の囀り、虫の鳴き声だけだった。
「ここではどんな薬草を?」
「水辺に生えているあの黄色い花と根っこが、女性の不調に効く薬になるんです。これを採取したら終わりですが、泥で汚れてしまうので先にお昼にしましょう」
 川の水で手を清めてから岩の上に並んで座ると、ルナルーシアはバスケットからパンの入った包み紙を取り出し、ランスに手渡した。
「ライ麦パンに、チーズとあぶったウサギ肉、オリーブの油で焼いた野菜を挟んであります。おばあちゃん特製の香辛料もたくさん使っているので、栄養満点ですよ。もしかしたら、野菜はあまりお食べにはならないかもしれませんが……」
 はっきり聞いてはいないが、ランスはたぶん貴族だ。
 ルナルーシアの家は騎士階級で『準貴族』となるが、父が亡くなって跡継ぎもいないことから、もはや平民と同等である。
 貴族は主に小麦の白いパンと、肉類を食べる。平民はたまに肉にありつければ儲けもので、基本的にライ麦パンと野菜が主食だ。
 このウサギ肉は、先日ランスからたくさんの金貨をもらったので、母のために奮発したものだった。
「僕、野菜も好きです。うれしいなあ。じゃあ、これはお礼に」
 そう言ってランスが差し出してきたのは、淡いピンク色の花束だった。薬草には詳しいルナルーシアも、この花の名前は知らない。
「わぁ、かわいいですね! 私にくださるんですか?」
「ルナルーシアさんが薬草を摘むのに一生懸命だったときに、崖の上に咲いているのを見つけたんです。小ぶりの淡い色の花びらが、ルナルーシアさんに似てるなと思って」
 一本に小さな花が五輪ほどついているので、咲きこぼれているように華やかだ。
「お花をいただくなんて初めてです。ありがとうございます!」
 野に咲く草花は、基本的に薬の材料としか捉えていなかったが、人に贈られるのは初めてだ。うれしくてまじまじと見入ってしまった。
「もっと立派な花束をさしあげたいところですが……」
「そんなこと! お誕生日でもないのに、すごくすごくうれしいです」
 ふたりでにこにこと笑い合い、膝の上でお昼の包みを開ける。
「とてもおいしそうだ。では、いただきます」
 すらっとした美しい青年だが、食べる姿はけっこう豪快だ。でも、品はいい。
「えっ、このソース、おいしい! 食べたことのない味だ!」
「ソースは二種類あるので、食べ比べしてみてください。おばあちゃんの作る薬は東方由来なんですが、同じ材料を使って、調味料なんかも作れるんです。薬だけじゃなくて、料理でも私のお師匠なんです!」
 ランスはうなずきながらも、夢中でかぶりついてあっという間に平らげる。ふたつずつ作っておいたが、彼の分はすぐになくなってしまった。
「ごちそうさまでした。どっちも後ひきますね、これ」
「よかったら、これも食べますか?」
 ルナルーシアはまだ手つかずのふたつ目を差し出したが、彼は笑って首を横に振った。
「そこまで業突く張りじゃないですよ。お気持ちだけいただいておきます。でも、いつも薬草摘みをひとりでやってるんですか?」
「去年まではおばあちゃんと一緒に来てました。でもこの先は、たぶん私ひとりで来ることになると思います」
 メディシスの口は相変わらず達者で、頭のほうもキレッキレのままだが、このところ視力はだいぶ衰えており、膝も弱くなって歩くのもままならない。腰もかなり曲がっている。
 家のことはなんとかこなしているが、食材の買い出しなどはルナルーシアに頼りきりだ。
 ――買い出しに関しては、ルナルーシアが十二歳の頃から完全に担当になっていたが。
「そう思うと、ちょっと淋しいですね」
 ランスに顔を向けて笑ってみせたら、彼はなんだかしんみりして、ルナルーシアの栗毛をそっと撫でた。
「なら、僕がご一緒します。女の子ひとりで来るには、やっぱり危険だと思いますし」
「いえいえ、それは申し訳ないです。それにランスさんには、お兄さんのお手伝いがあるでしょう?」
「兄には僕がいなくても、手助けしてくれる人が大勢います。それに、ルナルーシアさんのお手伝いをしたら、またおいしい料理を食べさせてもらえるかな――なんて。下心です」
 このランスの言葉に、ルナルーシアは噴き出した。
「このくらい、いつでも! おいしいって言ってもらえるの、とてもうれしいです」
 にっこり笑い合ってから、ルナルーシアは最後の薬草採りに向かった。
 花は陸上に咲いているが、根っこは川底の砂利の下に伸びている。川岸ぎりぎりに身を乗り出し、スコップで砂利をよける。
 川に転落しないよう、ランスが後ろから肩を押さえていてくれるので、調子に乗ってもっと身を乗り出した――そのときだった。
「ぅわっ――!!」
 緊迫した声とともに、ランスの手がルナルーシアの肩から離れた。その拍子に、ルナルーシアは川の中に顔面から突っ込む。
 幸い、川はそれほど深くないので溺れることはなかったが、手をついたら砂利の尖った部分がたくさん刺さって涙目だ。
 そのときふと、川底に光る物が見えた。
(なにかしら……)
 砂利の中からそれを掬い上げると、ルナルーシアの手のひらに載ったのは、金の指輪だった。ずいぶん古いものに見えるが、錆びついてはいない。
 目の前の指輪に気持ちがいきかけたが、背後からランスが大声で叫んでいるのが聞こえたので飛び上がった。
「ルナル、逃げろっ!」
 ランスの鋭い声に驚いて振り返ったら、灰色の巨大な塊がルナルーシアの視界に飛び込んでくる。
 目を凝らし、その正体に気づいて腰を抜かした。
「オオカミ……!」
 この森で何度も薬草採りをしたが、オオカミに遭遇するなんて初めてのことだ。
 普通は群れで行動するはずだが、一匹しか見当たらない。群れからはぐれたのだろうか。
 腰の剣を抜いたランスが追い払おうと牽制しているが、オオカミは逃げるどころかますます彼に迫って、細く鋭い爪を振り下ろした。
 それがランスの左腕を掠め、血が飛び散る。
「ランスさん!」
 ルナルーシアは悲鳴を上げた。彼の剣の腕前は知らないが、一振りの剣ではオオカミに対してあまりに心許ない。
 いや、彼がどんな屈強な巨漢で伝説の剣豪だったとしても、野生の猛獣相手に渡り合うなんて命取りだ。