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王様ゲームで捕食計画!

「王様ゲームで捕食計画!」

 それはまだクローディアとイリヤがつきあう前のお話。
 学園都市ヘレスの中核をなすヘレス大学院の、歴史ある紋章クラブの部室の片隅で、クローディアはそこはかとなく困っていた。
「せんぱーい、ね。街に新しい喫茶店ができたんだって……ね、行こうよ」
 すみかのように陣取っている部室の二階にある研究室。
 そこにいつものように後輩のイリヤがやってきて、甘やかな相貌で誘いかける。
 クラブに入って一年。イリヤは初めてできた後輩だった。
 後輩というものは、ともかくかわいい。自分も先輩たちからかわいがられていたものの、こんな感覚なのかと思いつつ、つい後輩を甘やかしてしまう。かわいい後輩から、おねだりするように言われると、なんでも聞いてあげたくなって危険なくらいだ。
 しかし、イリヤはクローディアが躊躇しそうなおねだりばかり、次から次へと繰り出してくるから、とてもとても困ってしまう。
 整った顔立ちのなかで長い睫毛がしばたたかれるのを眺めながら、クローディアは今日何度目になるかわからないため息を吐いた。
 イリヤは薄紅がかった金髪に、王子さま然とした振る舞いをする男子学生だ。
 サウスベルの王女クローディアにとって、紋章クラブでいちばん仲がいい後輩でもある。
「わたし、今日中にレポートを仕上げてしまいたいのよ、イリヤ。だから喫茶店はまた今度にしてちょうだい」
 イリヤとでかけること自体は嫌じゃない。
 親しい後輩なのだし、気遣い上手な子で、いっしょにいるのはとても楽しい。
 それになんといっても、イリヤは見目麗しい。
 ストロベリーブロンドに紫水晶の瞳の綺麗なことと言ったら。
 甘やかな相貌は見るたびに胸が高鳴るほどだし、そんな素敵な男の子といっしょに歩けるのだ。いい気分にならないわけがない。
 当然のように、イリヤの華やかな容姿と人当たりの良さを、ほかの女の子たちが放っておくわけがなかった。
 イリヤは甘やかな相貌と優雅な振る舞いで大学院内でも人気があり、ファンクラブまでできていた。クラブの先輩とはいえ、よくいっしょにいるクローディアは、そんなイリヤの取り巻きから四六時中やっかまれ、ときには嫌がらせもされていたから、このところ、イリヤと出かけることに対してすこしばかり慎重になっていたのだった。
「えーでもさ、先輩。そう言ってこの間もランチ行ってくれなかったじゃない……約束したのに」
 拗ねた声を出されると、まるでクローディアが悪いことをしたような罪悪感に駆られて困るから、やめて欲しい。
「や、でもね、イリヤ」
「断られるの、今週、三回目なんだけどな~?」
「うぅ……で、でもね、あとすこしで書き上がるから……」
「せんぱーい。そう言って、いつも夜までかかるでしょう。それぐらいなら、いまは休憩したほうがいいんじゃない?」
 ――しっかりしなさい、クローディア。わたしのほうが先輩なんだから!
 イリヤのおねだり攻撃にうっかり流されそうな自分を叱咤する。
「ともかく、行きません! 先輩の命令を聞きなさい! いまお腹空いてないし、食事ならひとりで行ってきて……」
 ぐーう。
 クローディアが先輩としての威厳を保つように嘘をついてまで突っぱねようとした絶妙のタイミングで、お腹が鳴った。
 ――し、信じられない……いくらお腹が空いてるからって、いま? なんでいまなの!?
 羞恥のあまり、かぁっと顔が熱くなる。
 ――やだ、もう……。
 手で顔を隠して俯いたところに、くすくす笑いが降ってくる。
「……クローディア先輩。やっぱりお腹空いてるんじゃないか。ほら、お昼、食べに行きましょう、ね? 食事抜きで作業なんて体によくないし」
 クローディアの夜の闇のような黒髪を長い指で弄び、イリヤは理路整然とクローディアを追い詰めてくる。
「う……でもね、イリヤと出かけると、ほら、イリヤを好きな子たちがうるさいから……」
「食事なんて、しょっちゅう行ってるでしょ。いいからいいから」
 イリヤは反論の言葉が出ずに固まるクローディアの腕を掴み、椅子から無理やり引っ張り出して歩き出す。
 こういうところが性質が悪いと思うけれど、イリヤが言っていることは事実なのだから、反論しにくい。
 クローディアはともすれば紋章の研究にかまけて、寝食を忘れてしまいがちだった。そんな先輩を、後輩のイリヤがかいがいしく面倒を見るのは、大学院内でも有名な話になっていた。
 歩きながら眠りかけるクローディアの手を引いて、食堂に連れていったり、下宿に送ってくれたり。
 そんなことはしょっちゅう目撃されていたから、いまさら手を繋いで学内を歩いたところで、なんとも思われないのだ。 
「で、でも! イリヤってば、先輩の言うこと、聞きなさいってばー!」
「はいはい。先輩の体のためを思ってこそ、連れ出してあげるね」
 そんな言葉を吐かれて、先輩の威厳も効果なし。
 結局、クローディアはイリヤに手を引かれて連れ出されてしまった。

 ふたりが去ったあとの部室で、
「新しくできた喫茶店って……あれだろ? カップル御用達の……」
「クローディアが怒って帰ってくるに三クヌーブ」
「じゃ、俺は丸めこまれて遊んでくるに二クヌーブ賭ける」
「丸めこまれて遊んできたあとで、怒って研究室に籠もるほうに四クヌーブ」
「そ れ だ !」
 先輩たちが後輩ふたりをネタに賭け事をはじめたことなど、当然クローディアは知る由もなかった。

 学術都市ヘレスは、学問と芸術の大学を中心に発展した中立都市だ。
 その目抜き通りには、集まってきた学生相手に商売する店が軒を連ね、賑わいを見せている。
「いらっしゃいませー。ちょうど、次の回が始まるところです」
 ちりんちりんと扉の鈴を鳴らして入ったのは、四十席ほどの小さな喫茶店だった。
 なかに入ると、男女のカップルがほとんどで、ふたりの世界に浸って肩を寄せあって話す様子に、妙に当てられてしまう。
「イリヤ、なによ、これ」
 クローディアはただ食事をするつもりだけでいたから、なにかおかしいと思って、眉根を寄せて問いかける。すると、イリヤの答えを聞く暇もなく、店員が小さな箱を差し出して、なかから籤を引けという。王女として身についた習い性で、市井では揉めごとを起こしたくないクローディアは、仕方なく箱のなかから手探りに籤を選ぶ。すると、次にイリヤも同じようにしている。
「お客さま……彼女さんのほうは、普通の市民。あ、彼氏さんのほうは大当たり! 王様どころか皇帝ですよ!」
「“皇帝”?」
 はしゃぐ店員の声に、クローディアはなぜか嫌な予感がした。
 席について、その予感はますます高まるばかり。
「――で、イリヤ。これはなんなのかしら」
 クローディアはすこしばかり不機嫌さを滲ませて尋ねたのに、いつものことだと思っているのか、イリヤは気にするふうでもない。
「はい、先輩。あーんして?」
 スプーンを口元に差し出されて、躊躇することなく食べてしまったのは、お腹が空いていたせいであって、イリヤに食べさせてもらうことが習慣づいているせいじゃない。クローディアとしてはそう思いたい。
 ――べ、別にわたし、イリヤに餌付けなんてされてないんだから!
 そう思う以前の問題として、いまのこの状況はなんなのか。
 クローディアはイリヤの膝の上に座らされて、オムライスをスプーンで食べさせられていた。
「だからね、イリヤ。わたしは……むぐ。何でこんなことになっているのかしらと……むぐぅ。聞いているのだけど……うぐっむ……」
「え? このオムライス、美味しくない? じゃ、先輩。俺も味見するから、食べさせてくれないかな?」
 イリヤは新しいスプーンを手に取ると、柄のほうをクローディアに向けて差し出す。
 そのスプーンを受けとりながら、クローディアは眉根をよせて固まっていた。
 ――いったいこれで、わたしにどうしろというのよ!?
 スプーンとテーブルの上に置かれたオムライスを見比べて、ともすれば怒りのあまり震えそうになる。
 なのに膝の上で抱きしめられていると、背中からイリヤの心臓の規則正しい音が聞こえて、どきどきする。触れられているのが嫌じゃないから、よくわからなくなってしまう。怒りたいのか、きゅんきゅんとときめきたいのか、感情が混乱してしまっていた。
 ――オムライスを、一掬いすれば、いいだけなのに……。
「ねぇ、先輩。お腹空いたんだけどな?」
「あ、ごめんなさい。そうよね、お昼だものね」
 催促するように言われて、クローディアはとっさに従ってしまった。震える指でスプーンを動かして、どうにかオムライスを掬ってみせる。スプーンに手を添えたのは、ともすれば震えるスプーンからオムライスが落ちてしまいそうだからだった。
「はい、どうぞ」
「んんっ……おいしい」
 イリヤの端整でいて甘やかな相貌が、クローディアが持つスプーンに首を伸ばして迫り、赤い舌を出す。その仕種が妙に艶めかしい気がして、どきりとする。
 ――そういえば、『食事と姓行為は、よく似ている』などと、なにかの本で読んだ気がするけど……。
 イリヤがオムライスを食べて、ごくりと嚥下する。その、のどの動きに目が釘付けにさせられて困る。唇に残ったわずかなふわとろの卵をぺろりと舐めとる仕種が艶めかしくて、わけもなく、体が熱くなる気さえした。
「ん……美味しい……って先輩? どうしたの、真っ赤になっちゃって?」
「うぅ……だからね、イリヤってば、なんでふつうのお店にしないのよ!」
 周りはカップルだらけ。
 しかも、『王さま』に当たった人が命令したことにみんなが従わなくてはいけないとのことで、『王さま』が命令用の籤を引いたところ、『同行者を膝に載せて、食事をすること』なんて命令を実行させられてしまったのだった。
「えー……だって先輩、新しいお店を教えてあげるといつも『面白そうだから、行ってみたいわ』っていうじゃない? それとも、あれは社交辞令で本当は行きたくなかったの?」
「そ、それは……その……」
 苦しい。なんて言い訳したものか、言葉がすらすら出てこない。
 ――だって社交辞令のときもあるし、本当に行きたいときもあるんだもの! そんなの決められるわけないじゃない……。
 クローディアが悲しそうなイリヤの声にとまどっているところに、カランカランと注目を集めるようにベルが鳴り、店員がよく通る声で告げた。
「それではラストオーダーです。『皇帝』の命令は絶対ですよ!」
 そう言うと、クローディアが嫌な予感に顔を歪ませる間もなく、店員が籤をひけとばかりに、イリヤに箱を差し出した。
 店のメニューに書いてある説明を読むと、王さまよりも皇帝のほうがやるのを躊躇ってしまうような命令リストが書いてある。膝枕にお姫さま抱っこ。それにポッキーキスとか、なんでも好きなお願いをひとつとか。
 膝抱っこで食べさせるのだって、クローディアにしてみれば、充分、扇情的な内容だったのだけれど、これは王さま用の籤のなかでは、一番密着度が高い命令らしい。
 イリヤの膝の上でクローディアがあわあわと、もうこれ以上はごめんだわと思っていると、店員がイリヤが引いた籤を開いた。
「あ、キスですね! どうします? 男性から女性にキス? それとも逆にしますか?」
「キ、キス!? ちょ……」
 クローディアが動揺して上擦った声をあげるそばで、イリヤが愛らしく小首を傾げる。
「キスかぁ……女性からしてもらうのもいいよねぇ……ね、先輩?」
 にっこり笑って言われるけれど、冗談じゃない。
 首をぶんぶんと振って、冗談じゃないとアピールする。
 ――キスなんて、自分からできるわけないじゃないの!
 まだ少年のような線の細さを残したイリヤにキス。
 お遊びならではの、特別な意味などないキスだとしても、猥りがまし過ぎる。
 膝抱っこの姿勢から肩越しにイリヤの唇を見つめ、恋愛に疎いクローディアは真っ赤になって固まってしまった。
「じゃ、やっぱり俺からしようかなぁ」
「は? や、なに言って……!」
 なにを言われたのだろうと、クローディアの頭が混乱する。
 ――『俺から』って……イリヤがわたしにキスするの!?
 どうしよう。心の準備ができていない。
 おたおたと唐突なできごとに困惑して、唇を守るように手の甲を押しつける。イリヤはそんなクローディアをからかうように笑う。
「先輩……唇にキスはダメかな?」
 愛らしくも怜悧な顔でそんなことを尋ねないでほしい。
 理不尽なことをされているはずなのに、拒否している自分のほうが悪いことをしている気になってしまう。
「あ、当たり前じゃないの……わたしとイリヤは恋人同士でもなんでもないんですからね!」
 先輩としての威厳を保たなくてはと、つんと鼻を上向かせる。すると、どういうことだろう。イリヤはクローディアを膝から下ろして椅子に座らせると、その足下に跪いたのだった。
「え? イリヤ……なにしてるの……きゃっ!」
 するりと手を左足首に回されて、軽い悲鳴が漏れる。
「や、だって先輩が唇は嫌だって言うから……」
「だからって……な、に、を……」
 問いかけを言い終わるより早く、イリヤが足に顔を近づけた。
 混乱するあまり、なにが起きたのかわからず、足首を捧げ持つようにされた抱えられたまま、膝の下辺りに息が吹きかかるのを許してしまう。
「ひゃ、や、だっ……イリヤ、ちょっと……ふぁっ!」
 ちゅっと軽い音を立てて、足の甲に唇が触れた。
 ひどくどきどきしていたせいだろうか。ほんのわずかの触れあいなのに、やけに生々しく唇の感触を感じてしまった。と同時に、これも『キス』なのだと気づいて軽くショックを受ける。
 ――唇にキスなんて……ダメに決まってるんだけど……でも。
 『キス』という言葉から連想させられたのは唇のキスで、足の甲に口付けられるというのは恥ずかしいけれど、残念な心地にさせられるのは、なぜなのだろう。
「だって、唇にキスするのは恋人同士になってからじゃないとねぇ……ね、クローディア先輩?」
「と、当然だわ!」
 真っ赤な顔で首肯しつつも、クローディアは自分がどこかがっかりしていることに気づいていた。
 ――当然よ……だってイリヤはただの後輩で、イリヤにしたって、わたしはただのクラブの先輩にすぎないんだから……。
 そう心に言い聞かせながらも、イリヤのやわらかい唇が触れた場処がじん、と熱く感じて仕方ない。
「それに俺は先輩に絶対服従の奴隷だからね。これはその服従の証」
 イリヤはそう言いながら、もう一度、足の甲にちゅっとキスをする。
「絶対服従って……それ、イリヤ、なんか違う……ッ!」
 いったいなにを言い出したのかとクローディアが慌てて否定しようとすると、イリヤの声は店内のカップルや店員に聞こえていたのだろう。
「……絶対服従ですって」
「奴隷って、そういう意味か? 女性のほうは知ってるぞ。確かサウスベルの王女で……」
「男の子を顎で使うなんて、そういう趣味なのか?」
 店内のそこかしこからあがるざわめきに、クローディアはもう耐えられそうになかった。
「もう帰ります! イリヤってば先輩をからかって……あとで覚えてなさいよ!」

   †    †    †

「先輩ってば……もうとっくに捕食されてるって、いつになったら気づくのかなぁ」
 くすりと笑うイリヤの顔は、愛らしくも獰猛な気配が漂う。
 ひとり足早に部室に戻ってきたクローディアは、ぞわりとした悪寒に襲われた。
 なんだろうと辺りを見回すけれど、初夏の街のうららかな昼下がり。気候は暖かいし、なにかの危険があるわけもない。
「気のせい……よね?」
 訝しく思いながらも、首を振って奇妙な予感を振り払う。
 すると、遅れて部室に入ってきたイリヤが、ゆうゆうとした足取りでクローディアに近づき、にっこりと微笑んだ。
「ね、楽しかったから、また行こうね。先輩」
 かわいい後輩は、どうやらすこしばかりクローディアが怒ったくらいでは、ちっとも堪えなかったらしい。愛らしい笑顔でふたたび脅迫めいた誘惑をしてくる。
「い、嫌に決まってるわよ、あんな恥ずかしいこと……!」
 真っ赤になって反論するクローディアとにこにこと満足げなイリヤ。
 部室の先輩たちは、そんなふたりに生ぬるい視線を浴びせつつ、賭けの精算をはじめたのは言うまでもない。
「あんなこと言って……一週間以内にもう一度連れて行かれるほうに四クヌーブ賭けるぞ」
「じゃ、俺は三日以内に五クヌーブ」
「意外と粘って、一週間は行かないほうに三クヌーブ」
 そんな先輩たちの新たにはじまった賭けをよそに、クローディアは言葉を詰まらせながら叫ぶ。
「ぜ、絶対にもう、あんなところ、い、行かないんだからね!? イリヤってば聞いてる?」
「はいはい。でも先輩、食べさせてもらったりするの好きだし……まんざらでもなかったでしょう?」
 からかうように甘やかな相貌に言われ、クローディアは真っ赤な顔を熟れた林檎よりもさらに赤くした。
「なっ……なっ……」
 その顔には、答えが書いてあるも同然だった。

〔fin.〕