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アンジェイの日記 ~眠ってはいけない王宮勤め24時~

――前書きに代えて――

 

 私はアンジェイ。シルヴァルーシ帝国第十一代皇帝、ローマン・ルイシュコフ陛下の身辺些事の采配を任されている近習です。
 お仕えする陛下は弱冠二十二歳でいらっしゃいますが、眉目秀麗、文武両道で、意志がお強く、危機にも動じない豪胆さを持ち、政務への取り組みは真面目そのもの。この身に代えてもお守りしたいと心から思える、たいへん尊い主君です。
 ただ、ご自分にも他人にも厳しく、容易に人に付け入られないようにふるまわれる御方ですので、後年の歴史書には、冷酷無情な君主、『氷帝陛下』との評価が強くしるされるのではないか、そう危惧した私は、実際に陛下のおそばで仕える者として、日々の横顔を書き残しておこうと、つたないペンを走らせてきました。
 それがこの日記なのですが――もしかしたら不要な役目だったのかもしれません。
 陛下はこの頃、すっかりお変わりになったからです。
 カザンス公国でともに穏やかな子ども時代をお過ごしになった幼なじみの姫、ミラナさまと再会なさってからというもの、陛下はすっかり態度を軟化なさいました。しもじもの者の失敗に寛大になられ、いつも陛下を包んでいた張り詰めた雰囲気は緩んで、ふとした瞬間に笑顔までお見せになるようになりました。(それはかつて、真冬の太陽よりも珍しいとされていたものです。)
 ミラナさまは、陛下のお心、ひいてはこの国に、雪どけを呼んでくださったのだ――と評判になっています。
『氷帝陛下』の呼び名が過去のものとなるのであれば、臣下としては何よりなことと、嬉しく思う限りです。

 

 

 

――ある一日の抜粋――

 

 本日は朝から働き、十三時に午前の仕事を終えると、長めの仮眠休憩をいただきました。最近陛下には信頼できる近臣が増えたので、午後の雑務には別の近習があたります。
 昼食を約十分で流し込み、仮眠室で横になりましたものの、私は飛び飛びに四時間ほど眠れれば充分な短眠体質なので、十六時半ごろには誰かに起こされるでもなく、浅い眠りが覚めました。
 まだ陛下が居殿に戻って来られる時間ではないのですが、貴顕に仕えて十年余の勘が、そろそろ起きた方が良い、と伝えてくるのです。
 身だしなみを整えた後、廊下を歩いていると、ミラナさまに個人授業をしに来られた経済学の教授にばったりお会いしましたので、少し探りを入れてみました。
「皇妃殿下は……いつもはもっと集中力がおありなんですが、本日は見落としが多くて。熱心さは常通りだったので、お気落ちなさることでもあったのでしょうか?」
 あのミラナさまが。珍しいこともあるものです。
 陛下とは、相変わらず仲睦まじくていらっしゃるので、それが落ち込みの原因というわけでもなさそうですが……。
 私は教授と入れ違いに、皇妃殿下の居殿に向かいました。
 少し前までは、とある事情により、皇帝陛下と皇妃殿下の居殿をつなぐ廊下には両側に武装した衛兵が立ち、物々しく警備されていたのですが、今は誰もおらず、がらんとしています。
 皇妃殿下の居間に入ると、テーブルで侍女や女官たちとカードゲームをしていらしたミラナさまが、わざわざ立ち上がって出迎えてくださいました。
「まあ、アンジェイ! びっくりした。まだ陛下は公務から戻られないんでしょう? ゆっくり休んでいたら?」
 豊かに波打つ金髪を幅広のリボンで結って背中に流し、淡いアプリコット色のドレスをお召しになったミラナさまは、いつものように、快活な笑顔とほがらかなお声を私に向けてくださいます。
 が、本日の日付、そして少し青白いお顔の色に、ピンと来るものがありました。
「ご機嫌伺いにまいった……のですが、今、きりが良さそうですので、一度手を止めていただきましょうか。誰かたらいに足湯の用意を。別の者は、足湯の後に履く柔らかいスリッパと、手触りの良い毛布とクッションを持って来なさい。ミラナさまはあちらのソファへ、遊戯は横になってできるものにいたしましょう」
 皇妃殿下付きの女官たちに指示を出すと、ミラナさまは手を振り、慌てて固辞なさいます。
「ええっ? アンジェイ、どうしたの? 私は元気よ、気を遣わないで……」
「今晩か明日あたりから、月のものが始まりそうですね? ミラナさまは腹痛が先に来る体質ですから、そろそろお体がおつらいのではないですか?」
 敢えて遠回しにせずにはっきり申し上げると、ミラナさまは面食らったのちに、顔を赤く染め、しどろもどろになりつつも、肯定なさいました。
「……あ、あら、そうだったかしら……。そうね、そろそろかも……」
 ミラナさまをソファに誘導する私に、女官たちの視線が突き刺さります。何よ、男のくせにデリカシーがないわね、と言いたげです。
 それはもちろん、デリケートなお体のことなので、同性が対処した方がミラナさまにとっても心安いのでしょうが、彼女たちが気付かないのですから仕方ないではありませんか。
 元離宮女官のミラナさまは、皇妃殿下となっても遠慮深いお人柄は変わらず、世話人に頼らずにご自分のことはご自分でなさろうとします。よほどのことでなければ、自らご不調を切り出すこともなく、周到に隠されますが、皇帝陛下の唯一無二の愛妃殿下に不都合を感じさせるようでは、宮廷官の面目は丸つぶれ。ご本人がまだお気付きにならないうちから、障りを取り除いてさしあげることができるようになれば、貴顕のおそば仕えとして一人前だと思うのですが、皇妃殿下付きの女官たちは、まだまだ経験が足りないようです。
「ご要望やご不便は、どんな小さなことだろうと、何なりとお申し付けください。そのために宮廷官がいるのですから」
 男として意識されない。大いに結構。侍従は男も女もなく、無味無臭の空気のような存在感を保ち、お役にさえ立てば良いのだと、私は考えております。
 経験豊富な皇帝陛下付き女官と比べるとずいぶん余裕を欠いていたものの、なんとか皇妃殿下付き女官たちが、私の指示通りことを終えました。
 ソファの上で横向きになったミラナさまは、体にかかった毛布を触りながら、ほっとリラックスした表情をしてくださいます。
「こんなに色々……。おおごとにしてしまったけれど、すごく楽になったわ。ありがとう、アンジェイ、皆」
「女性は足腰を冷やしてはいけないと聞きます。服や靴の締め付けもできるだけ減らして……本当は、夜着にお着替えになった方が、楽になるかと思いますが」
 一応申し上げてはみましたが、ミラナさまは即座に却下なさいました。
「それは、だめ。昨日も一昨日もレセプションだったから、ローマンさまと向かい合って夕食をご一緒するのは三日ぶりなの。お話したいことがたくさん溜まってるわ」
「陛下も、本日は必ず定時に戻るとおっしゃっていました。きっとミラナさまと同じお気持ちなのでしょう」
「そうかしら……ローマンさまはあまり感情をお顔に出されないから。そうだと嬉しいのだけれど!」
 たった中二日ですが、新婚ほやほやのご夫婦には、それすら長いということでしょうか。
 また、お顔映りの良さそうな明るい色のドレスは、侍女や女官はもちろんのこと、一番は、陛下に貧血気味なのを気取られないためであるのでしょう。
 これが、恋、というものなのでしょうか。結婚したのちまで、初々しい恋心を持ち続けていらっしゃる、いじらしい奥方さま。陛下の溺愛もむべなるかな、といったところで――たいへんごちそうさまです。
 主君の命令が人生のすべてという、独り身の臣下にはまるでわからない感覚ではありますが……お仕えする方々の幸福が私の幸福。どうか、いつまでも、お幸せにお過ごしください……この国のすべての民のためにも……。
「……ねえ、アンジェイって、すごく気が利くし、優しいわよね。ちょっと厳しいけれど、そのぶん頼りになるし」
 突然ミラナさまが皆に向かって私の話などを始めるので、己が孤独から目をそらし、仁愛の精神に目覚めんとしていた私は、挙動が変になってしまいそうになりました。
 あまり個人的に褒めていただくのも、考え物だ……。
 そう思ってしまうのは、何も、ミラナさまに他意があるわけではありません。
 性格や仕事ぶりを評価していただけるのはありがたいことなのですが……個人的な好意となりますと、色々と差し障りが……。
 いえ、己の器に余るような勘違いなど、いたしませんとも。しかし、その……ミラナさまの夫君……我が敬愛する皇帝陛下は、一時期、ミラナさまと私の仲を、恐れ多くも、誤解なさっていた節がありまして……。
 それは、ともに陛下に隠し事をせざるを得なかった、その共犯関係といいますか、同郷のよしみといいますか、やむにやまれぬ事情あってのことと、今はご理解いただけているものと思いますが……。
 ミラナさまは陛下の、かけがえのない掌中の珠。不届き者がたわむれにでも触れようとすれば、『氷帝陛下』の逆鱗に触れることは必至なのですから、何の疑念も介在する余地なく、慎みをもって過ごすのは、臣下の義務でございましょう。
 というわけで、可及的速やかに、特別なお言葉をかけていただくのを止めていただきたい気持ちでいっぱいだったのですが、ミラナさまはなおもお続けになるのでした。
「アンジェイは仕事熱心で、きっとローマンさまのもとでたくさん出世するでしょうし、責任感を持って一生大切にしてくれそうで、女の子の思い描く、理想の夫という感じがするわ。ねえ、皆もそう思わない?」
 訊きます、それ、全員に?
 ミラナさまのお言葉で、侍女、女官たちのたくさんの双眸が、私の方へ向けられます。
 ……何ですか、この、落ち着かない感じ。
 言い訳いたしますと、私はローマンさまのような美貌の持ち主ではなく、武骨なじゃがいも男でございますので、女性に注目されることに慣れていないのです。
「いえ、あの、良いように言っていただきすぎで……恐縮でございます」
「謙遜しないで。そうね、たとえばなのだけれど……、アンジェイは、付き合うとしたらどんな子が良い? 好みのタイプの女の子って、たとえば、ここにいる中だと……」
 はひ? と上ずった声があがりそうになりました。
 何ですか、本当に。何が始まったんですか、これは。
「ええ……と……」
「えっ、もしかして、この中にはいない?」
「い、いえ、とんでもない。しかし私のような仕事人間にはもったいないお嬢さまばかりですので……。このお話、何か重要なご相談にかかわったりいたします?」
「ううん、ただの雑談よ。腹痛のせいでお勉強もはかどらないし、横になってしまっては、気晴らしのカードもできないのだもの。となると恋バナをするしか」
「恋バナですか……」
 ご自分が今まさにめいっぱい恋を満喫なさっているでしょうに。
 そんな私の内心を読んだように、ミラナさまはおっしゃいます。
「他の人の恋バナは恋バナで、すごくときめくし、聞きたいのだもの!」
「そういうものなのですか……」
 良家のご令嬢には禁止されている、ロマンス小説の代わり、と言ったところなのでしょう。
「ね、だから、アンジェイのお話も聞かせて」
「そうおっしゃいましても、私には、特に決まった相手もおりませんし……」
「いないのね! だったら……そう、建設的な、未来の話をしましょ。アンジェイは乗馬が得意なのでしょう? 彼女ができたら、遠乗りに連れて行ってあげるの?」
「……私的な休暇がいただけるかどうか……陛下に伺ってみないと、何とも……」
「そうだわ! ローマンさまが、いずれ狩猟園での狩りを催してくださるとおっしゃってたの。その時、さりげなく気になる子を連れ出してみたらどうかしら?」
「陛下のおそばを離れるわけには……」
「ローマンさまは私が足止めするわ! 連携作戦でいきましょ。ね……」
 何故、ミラナさまが必死になって、私の恋愛計画を立てようとなさるのかはわかりませんが、ご自身でおっしゃったようにただの雑談、暇つぶしの気楽な恋バナに過ぎないのでしょう。
 たとえば陛下のお達しを受けた機密局の者がどこかの覗き穴から監視しており、嘘発見器を使って、私によこしまな願望がないか確認している、というような可能性も……ゼロではないですが、想像だけでぞわりと鳥肌が立つような心地がするので、できるだけ考えたくはないですね……。
 そう考えてみると、ミラナさまのご様子も本日はどことなくおかしいというか、空回りしていらっしゃるような……と、一度疑い出すと、何もかも疑わしく見えてきて、ずいぶんと落ち着かない心地になることです……。

 ミラナさまの質問攻勢をなんとか無難に受け流して居間を退出した私は、廊下に出る前にその場で深呼吸をして、乱れた心を落ち着かせていました。――すると。
「皇妃さまのばかっ! わざとらしすぎる!」
 居間の中から幼げな怒声が響いてきます。何か、揉めているのでしょうか。皇妃殿下付きの女官たちは、年齢も近く、親しみやすいミラナさまのお人柄に甘えていて、貴顕に仕える自覚やけじめが足りないようです。
 やはり、一度言って聞かせないと、と思っている間に、ものすごい勢いで背後の扉が開きます。
 うお、と反射的に声があがりそうになりますが、近習の品位にかかわりますので、気合いで押し留めました。
 そこにいたのは、ミラナさまの侍女、エミリアでした。
 あまりの勢いに、急用だろうか、と道を開けてみますが、彼女はその場で立ち止まったまま動きません。私がまだここにいるとは、思わなかったのでしょうか。
 かわいそうに、エミリアは震え始めました。先ほどの「ばかっ!」を私に咎められると思ったのか、確かに私は彼女より官位が上の先輩格、しかし、日常的に怯えられるほどひどい叱責は与えたことがない筈ですが……。
 立場上、苦言を呈さなくてはいけないのです。しかし、この時は彼女の緊張し切った様子に、それが頭から飛んでしまっておりました。
「アンジェイさん……!」
「エミリア。どうかしましたか」
「あの、……あの、…………。……アンジェイさんに、お伝えしたいことが……」
「はい、伺いましょう」
「……その……。直接申し上げづらいことなので、お手紙を書きましたので、これで……」
 思いつめた顔をしたエミリアは、つっかえつっかえ、こちらが焦れるほどの時間をかけて消えそうな声で言うと、私に、折りたたまれた紙を押し付けるように渡してきました。
 何でしょう。先ほどのミラナさまとのやり取りといい、辞職願などではなければ良いのですが、まあ、たとえそうだとしても、止めようがありません。
「ほ……他の誰にも、お手紙の内容は……漏らさないで、いただきたいのですが……」
「――了解しました。本日はまだ勤務が残っておりますので、終わってからの確認になりますが、それで良いですか? もし至急の件なら……」
「……いえ!! 急ぎでは……ないです。いつでも……良いので……。もう、見なくても……何なら、見ずに捨てていただいても……」
 エミリアは真っ赤になり、何かを訴えかけるような潤んだ目をしています。
 どんな訴えかはわかりませんが、私は彼女を安心させたいと思い、努めて穏やかに微笑みかけました。
「そんなことはしませんよ。必ず見ます。何も心配しなくて良いですからね」
 そりが合わない女官がいるとか、男性の宮廷官にセクハラを受けているとか、しもじもで対処できる案件ならば、私などでも力になってあげることができると思います。……皇帝陛下や皇妃殿下にかかわる件であれば、こちらの一存ではいかんともしがたいことと思うのですが、その場合も、彼女の言い分を聞いてから、何ができるか考えましょう。
 内心の緊張が伝わらないように、何でもないような顔で手紙を宮廷服の内ポケットにしまい、私はその場を後にしたのでした。

 予告通り、本日は定時で陛下が居殿に戻って来られました。
 本日のご夕食は、『秘密のお食事会』。食堂ではなく、元は配膳用の小部屋にて、皇帝陛下とミラナさまとがおふたりきりのお時間をお過ごしになるのです。
 お食事は、階下のコック長の手元から、昇降機で小部屋に運ばれますので、給仕なし、正真正銘のご夫婦水入らずです。
 ご夕食がお済みになると、夜のご歓談時間、お湯浴み。私たち宮廷官は、ご就寝のお支度まで整え終わると、夜間の御用聞きの女官のみ残して退出します。
 さて、これで近習の仕事もひと段落したように見えますが、ここからが私だけに任せられている、大事な「夜の仕事」。皇帝陛下の寝室に設けられた隠し部屋の中で、朝まで寝ずの見張りを務めるのです。
 もちろん居殿の廊下には衛兵がおりますが、寝室まで賊に踏み込まれない可能性がないとは言えませんし、少し前まで、陛下は身内に足を掬われることを警戒せざるを得ない状況でしたから、できるだけ近くで御身をお守りする者が必要だったわけです。
 ……ただ、今となっては私の方に、少しの罪悪感がないとは言いません。
 なんと言っても、皇帝陛下は最愛の姫君と新婚ほやほや。そしてミラナさまの方は、私が寝台のそばの隠し部屋で待機していることを、おそらくご存じないのです。
 そんなつもりはなくとも、ご夫婦の寝室の秘密を耳にしてしまうことは申し訳なく、こちらの良識も試されるようで……けして、知ったことを口外したり、私的な楽しみを得たりということはいたしませんが……それでも。
 ――葛藤している間に、寝台の上で談笑していらしたおふたりが、お話をお止めになりました。
「ローマンさま、私、そろそろ……。今日は、自分の寝室に戻ります」
「なぜだ?」
「それは……」
 ミラナさまが言い淀まれます。聞いていた私は掌に汗をかいてしまいました。
 本日のミラナさまのお体のことは、陛下にこっそりとお伝え済みです。ご夫婦のことに立ち入るのは野暮と承知の上で、ここは陛下に、寛容な包容力をお願いしたい局面なのですが……果たしていかがでしょうか。
「だめだ。離さない」
「ローマンさま……んんっ……、あ、あの、……今日は、だめ……」
「愛しい妻を、毎日この手で抱きたい。抱いても抱いても足りることがない。その滑らかな素肌に直接、夜通し、愛を囁きかけ、刻み付けたい。悪いことなのか? ミラナ。そう思っているのは、俺だけか」
「それは……。嬉しいの、です。……でも、あの、あ、」
「拒むのならば、はっきり口にしろ。それとも、焦らす気か……?」
 寝台が軋む音と、夜着の衣擦れが響きます。
 ミラナさまは、お体の調子のことを、陛下にはっきりと打ち明けられないご様子。
 ……小部屋の私には何をすることもできないのですが、やきもきして、この日記をしるす羽ペンが止まってしまいます……。
 しばし静まり返った後、掠れた声が、夜の帳を揺らしました。
「痛むのは腹の……この辺りか? こうして触られるのは、不快ではないか?」
「……ローマンさま?」
「障りがあるのなら、はっきり言えば良いのだ。俺が聞く耳を持たん極悪人のようではないか。……確かに、女性の体のことは、教えてもらわねばわからない部分もあるが、愛するお前のことで、俺が知らずに済ませて良いことは何ひとつない。教えてくれ、ミラナ。今日は、そばに人がいるのも厭な気分か?」
「……いえ……そんなことはありません」
「こうして、後ろから抱き締めて、一緒に眠るだけなら構わないか?」
「……幸せです。ローマンさまの手は、あたたかくて……お腹を撫でられると、安心します。……でも……」
「何だ?」
「……ローマンさまこそ、お苦しくはないのですか? その、背中に、当たって……」
「それは不可抗力だ、無視してくれ。それの窮屈さは、お前なしで過ごす夜の苦痛の、せいぜい数十分の一といったところだろう。毎晩お前に触れなければ、俺は、頭がおかしくなりそうだ。困らせるようなことはしないから、一緒にいてくれ。……もうお前なしでは生きていけないようだ」
「……私だって同じです。大好きです、ローマンさま」
「愛している、ミラナ」
 ……本日も、問題なし、ということで。良かった良かった。
 部屋の様子を窺うための覗き穴から確認するまでもなく、甘やかな睦言と無数のキスの気配が交わされたのち、寝室はふたつの安らかな寝息で満たされたのでした。

 それにしても。
 一応、外の気配に気を配りつつ、こうして日記をしたためていると、この小部屋で過ごした幾多の夜のことが思い起こされます。
 私がシルヴァルーシの皇帝陛下のもとへ駆け参じたのは、五年ほど前。
 陛下は十七歳、既に戴冠なさり、大貴族の近臣に不信感を募らせ、食欲不振や不眠を患っておいででした。
 陛下の話し相手を夜通し務めたこともございます。
 その陛下が、ミラナさまのおそばでは、あれほど速やかに寝入られるとは……。
 あの頃には、想像もしなかったことです。
 陛下の寝顔をご覧になることができるのは、シルヴァルーシ広しといえども、ミラナさまだけの、特権なのだなぁ。
 元女官で、一見気取らない普通の少女のように見えますが、ミラナさまだって、実は凄い御方なんです。本当に。故郷が攻め込まれた時、思い知らされた、常人離れした活力……時々は、空回ることもあるようですけれども……本日は面白い発見をいたしました……。
 そこまで考えて、夕方の出来事を思い出します。
 そういえば、エミリアの訴えというのは、一体何だったのでしょう?
 仮眠休憩に入ったら手紙を読もうと考えておりましたが、午前のうちにエミリアと会うことがあれば、話題にあがるかもしれません。今のところ、王宮内で不審な動きもないようですし、今、読んでしまいましょうか。
 そう思い、内ポケットに手をやった時、小さな囁きが、壁の向こうから聞こえてきました。
「アンジェイ……」
 私!???
 聞き間違えようもなく、ミラナさまのお声です。
 私を……呼んでいらっしゃる……ですと……!? 
 私がこの隠し部屋で待機していることをご存じでないと、呼ぶ、という発想には至らないと思うのですが、もしかしてご存じでいらっしゃったのでしょうか!?
 それとも、げ、幻聴……。そう、私がうっかり、記憶の中の声を、聞いた気になったのかもしれません。本日夕方のお喋りは、なかなかにインパクトがありましたから、鼓膜に焼き付いてしまったのかも。そうだ、きっと、そうに違いな――
「アンジェイったら……そんなに思い切り馬を駆ったら、追いつくのが、たいへんよ……」
 寝言だ。
 ミラナさまは、あの唐突極まりなかった恋バナの延長の、夢を、見ていらっしゃるのだ……!!
 あああああーーー!!
 私は叫び出したい気持ちを抑えるために、羽ペンを持ったまま自分の口を押さえました。
 可能ならば、叫びたい。恐怖を抑えるために、現実逃避のために、叫んで床を転がりたい。しかしできない。何故なら、私がここにいることは、有事の際以外、絶対に隠し通さなければならない秘密だからだ。
 それきり、しん、と、寝室は静まり返りました。
 ……嵐の前のなんとやら、というやつでしょうか。
 はっきりと感じます。尋常でない空気の重さ、背筋に冷気が這い登るような……。
「……そうか。お前は、夢に見るくらい、あれが気に入っているのだな……」
 や、や、やはり陛下も起きていらっしゃった……! 
 激昂なさるでもなく、いつも通りの平坦な声色なのが、逆に怖いです。
 そのお声は、あたかも、永久に溶けない凍土のように冷たくて……。
 違います。誤解です陛下。寝言。ただのミラナさまの寝言でございますから!
 それも、おそらく、私と誰かをくっつけようとしているだけの……。
「明日、アンジェイや女官たちに、詳しい話を聞かせてもらうか……」
 お呼び出しの前に、ミラナさまご自身に話を聞いてはいただけないのですかっ?
 ……というか、陛下は私がここにいて、すべてを聞いていて、でもこちらからは何も言えないことをご存じの上で、この重苦しい空気を、罰としてお与えでいらっしゃる。
 本当に……ミラナさまのこととなると……理屈や道理をすっ飛ばして、本能的に宝物を守ろうとなさるのですから……陛下……。
 私は、小部屋に積まれた五年分の日記帳を、じとり、と黙ってねめつけました。
 皇帝陛下が、不貞の証拠を探すためにこれらの帳面をお読みになれば、きっと私の潔白を信じていただけるだろう。
 加えて、五年前の、夜を徹して故郷の思い出を語り明かした記憶などを掘り返し、君臣間の絆を思い出してくだされば、たいへん助かるのですけれども……。
 せめて最悪の事態には、後世の方々に、筆で真実を訴えることができるのが、せめてもの……。
 いやいや! やはり、最低限のご夫婦の問題は、おふたり間で解決していただきたく。
 ミラナさま、起きてください、不信感の塊みたいになっている陛下を、いつものようにその笑顔で溶かしてさしあげてください……、と、まんじりともしない夜、声にできない思いを、こうして書き綴る次第にございます。