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特訓の成果はいかに

 フィリアムにとって、リースは乳兄弟であり腹心の部下でもある。ともに離宮で育った幼少のころから、血の繋がった兄弟よりも近しい存在だった。
 フィリアムが講義をサボるたびに連れ戻しに現れたリースを、逆にそそのかして離宮を抜けだしたことは数知れない。常にフィリアムを諭し、ときに難癖をつけながらも補佐してくれる乳兄弟には、言い尽くせない恩義がある。口にはしないが。
 そのリースが最近、明らかに変わった。
 なにが変わったかって、この顔だ。
「陛下。そろそろ右下にご署名をお願いします。インクが垂れかけています」
「おっ、と」
 淡々とした指摘に、フィリアムは慌てて鵞(が)ペンをインク壺に戻す。
 これまでと変わらないやり取りではある。が、リースの視線が違う。はっきりどこがとは言いにくいが、やわらかくなった。
 公爵家での潜入調査を無事に終え、側近に復帰してくれたのはありがたい。集中力は抜群だが長時間は続かない、というフィリアムの手綱の取り方を、リースはよく心得ているのだ。
 しかしこうもそばで緩みきった表情を見せつけられては、正直なところ気持ち悪い。
 だがそう感じているのはフィリアムだけらしく、リースは依然として王城内では堅物として通っていた。
 フィリアムが「リースが変になったと思わないか」と周囲に尋ねても同意を得られない。それどころか城勤めの侍女などは、
「近ごろますます貫禄が出てこられましたよね! 包容力がありそうで、あの目で見つめられたら……きゃあっ!」
 とうっとり頬を染めさえする。
 フィリアムはしかたなく、彼女らにリースは結婚間近なのだといちいち釘を刺さなければならなかった。リースのためではない。リースの妻となる女性であり、なによりフィリアムの恩人でもある、エルのためである。
 しかし納得がいかない。
 貫禄が出た。包容力がある。──間違ってはいない。間違いではない、が。
「腹が立つ……」
「どうされました、陛下。手が止まっておられます」
 かたわらで書類に目を通していたリースが、顔を上げた。それ、それだよ、と心のなかでフィリアムはぼやく。
 この、いっけん涼やかな顔で仕事をこなすのが腹立たしい。
 フィリアムは知っている。リースが持参した包みを昼食後に大事そうに広げては、こっそりとクッキーだの飴だのを目を細めて食べていることを。それが、エルからの差し入れであるのは言うまでもない。
 そのときのリースの顔といったら、だらしないとしか言いようがない。普段のつり目は緩み、惚けた顔をしているのだ。
 いっそ誰の前でも目元をだらしなく緩めてくれれば、からかわれるリースを見てフィリアムの溜飲も下がるのだが。
 いったいどうすれば、この男を慌てふためかせられるのか。考えつつ、フィリアムは「なあ」と口を開いた。
「エルはいつも朝なんと言って、おまえを送りだすんだ?」
「は?」
 こいつ、国王に向かってどんな口のきき方だ。と思うが、それが許される関係なのだから本気で怒ることはない。
「『いってらっしゃい、あなた』か? いや、『愛してるわ、あなた』か? しかしおまえの家で暮らしているとはいっても、一応は結婚前だものな。『あなた』は気が早いか?」
「陛下、仕事をなさってください。陛下の裁可を待つ案件がこれだけ積みあがっているのを、気づいていないとは言わせません」
 リースが、政務机の端に山積みになった書類の束をぴしりと叩く。
「なあ、なんと呼ばれているんだ? 『あなた』か? 『ダーリン』か? やっぱりまだ日が浅いから『リース♡』?」
「お答えする義務があるとは思えません」
 ぴしゃりと言うリースに、フィリアムは毒づく。
「昔のおまえは、俺の頼みはなんでも聞き入れてくれたのにな……」
「遠い目をしても騙されません」
 にべもない。フィリアムは戦法を変えた。
「教えろよ。おまえが答えなきゃ、サインしない」
 鵞ペンを置いて腕を組むと、リースが深くため息をついた。
「陛下……あなた一体おいくつですか……」
 げんなりした様子を隠しもしないリースだが、フィリアムとてげんなりしているのだ。これくらいの意趣返しは必要だろう。
「ほら、今日の予定が押すぞ。おまえも早く帰りたいだろ?」
「…………」
 押し黙ったリースはやがて観念したのか、それまで目を通していた書類を置いた。
「『リースさん』です」
「おぉっ? ……なんだその他人行儀な呼ばれ方!? そうなのか? なんでだ?」
 これは仕事どころではない。リースをやりこめる絶好の機会ではないか。
 フィリアムは意気揚々とリースを応接セットに誘う。もちろん、侍従に酒を持ってこさせるのも忘れない。もう夕食どきである、酒くらいいいだろう。
「『さん』は不要だ、と何度も言ったのですが──」
 フィリアムの向かいに腰をおろすと、リースはため息まじりに口を開いた。

「リ、リー、リリー…スさ……リース卿………あっ、違う、グレイヴス卿……じゃなくて! ……すみません」
「きみの口は一体どうなっているんだ。なぜよけいなものをつける?」
「だって、ほら、リースさんは上司だったわけですし……いきなり呼び捨てなんて……!」
 しどろもどろに言い、エルが何度も目を逸らそうとする。リースはその小さな顎を固定し、こちらを向かせた。
「夜は呼べるのにか?」
「そっ、それはまた別の話で……!」
 目を泳がせるエルに向け、リースは眉を上げた。婚約もしたのだから、いつまでも敬称をつけられては困る。というわけで名前を呼ぶ特訓を数日前から始めたのだが、一向に達成される気配がない。
「きみは、私がきみをエレノーラ嬢と呼べばどう思う」
「ひっ……ぞわぞわします……怖い……」
「失礼な。しかし今きみが私にしていることは、それとおなじだ」
「えっ、リースさん、ぞわぞわしてらっしゃるんですか?」
 ぞわぞわとはなんなのか。エルの発想はときどきわからないが、それよりも距離を感じる呼び方のほうが問題である。
「……だから、リースと呼びなさい。夫婦は対等だろう。上司と部下の関係は一時的なものだ。なぜ私だけが敬称をつけられなければならない?」
「リースさん、そんな堅苦しく考えなくても……単にわたしが慣れないだけなんですから……」
 エルは頬を真っ赤にして腕から抜けだそうとするが、もちろん抱き寄せた腕を放す気はリースにはなかった。
「承知した。ではこれでどうだ。きみが私をリースさんと呼ぶたびに、私もきみをエレノーラ嬢と呼ぶ」
「ええっ、やめてくださいっ……! 侯爵家の皆さんに怒られてしまいます」
「私がいるのに、きみが怒られるなどあり得ない」
「怒られますよ! リースさんにそんな風に呼ばせたら、翌朝の朝食が黒パンひとつになってるかもしれません。いえ、黒パンひとつの生活が嫌なわけではなくて」
「エレノーラ嬢、グレイヴスの使用人はそのような低俗な真似はしない」
「ああっ、もちろんです! いまのはただのたとえというか冗談というか! って、だから『嬢』はやめてください」
 エルがほとんど涙目で訴える。
「きみが、私をリースと呼べるまでやめない」
「リースさんったら非道……! 鬼上司!」
「なんとでも言いなさい、エレノーラ嬢。それからもう上司ではない。きみの婚約者だ」
 リースは仕置きとばかりに、エルの耳朶に軽く歯を立てる。耳だけではなく、どこに触れてもやわらかい。耳を甘噛みし、首筋の白い肌にも歯を立てると、エルが次第にリースの腕のなかで甘い吐息を零し始める。
「リっ……リースさっ……じゃなくてリー……そうだわ!」
 だが、ふいにエルがぽんとリースの肩を叩いた。リースは顔を離す。
「なんだ?」
「リー! リーでどうですか!」
 目を輝かせるエルに、リースはすぐさま「だめだ!」と却下した。
「えー、どうしてっ……」
「飼い犬みたいだろう!」
 
「あっははは……! リー! リーか! いいじゃないか! もうおまえ犬でいけよ!」
 フィリアムは膝をばんばんと叩いた。リースが眉間に皺を寄せて、にらみつけてくる。
「おやめください。エルにまで『リースさんは大型犬みたいなんですが』と言われる始末だったのです。まったく理解に苦しむ」
「大型犬……!」
「……黒犬だそうです。膝に乗せて毛づくろいをするのだと……」
「あっはは! はは! は…………」
 フィリアムはひぃひぃ笑いながらお腹を押さえる。腹筋が痛い。しかし、ふと気づいて笑いを止めた。
 渋面で酒を呷るリースは、だが以前よりも格段にやわらかな雰囲気をまとっている。これが、愛する女性を思う最中の男の顔か。
 まったく面白くないではないか。今のは、ただの……。
 からかって困らせてやるはずが、ダメージを受けたのはフィリアムのほうであった。
「……仕事に戻る」
 つぶやいて机に戻れば、リースは「少しは気が紛れましたか?」と言う。それがまた腹立たしい。リースはあくまでも、フィリアムの気晴らしのために話したのだろう。
 優秀な部下だ。それも、以前は往々にして昏(くら)さを感じたのが、エルのおかげで明るい笑いに変えてもらっているようだ。
「おまえも、もう帰っていいぞ」
 窓の外に目をやれば、とっくに日が暮れていた。グレイヴスの家では、エルが婚約者の帰宅を待ちわびているだろう。
「いえ、その書類の処理がすべて終わるまでいますよ」
「おまえに監視されなくても、これぐらいやるさ。ほら、帰れ」
 リースも外を見やり、目元を緩める。おおかた、エルのことを考えたのだろう。リースは、感情が表情に出やすくなった。
 待っている人がいるのは良いなと、ふと思う。──自分もそろそろ前を向くときか。
「……では、お先に失礼します」
 書類の束をそろえ、リースが敬礼する。フィリアムは思いついて声をかけた。
「そうだ、リース。来月の夜会までには、『リース』と呼んでもらえるようにしておけよ。皆の前で試すからな」
 フィリアムが主催する夜会が、いよいよ来月に迫っている。グレイヴス侯爵家当主であるリースは、そこで婚約者を初披露する予定であった。
「私に言われましても」
「なんなら『リー』でもいいぞ」
「意地でも名前を呼ばせます」
 顔をしかめつつ、しかしやはり前よりも柔和になった表情でリースが出て行く。フィリアムは、くつくつと笑いながらその背を見送った。