結婚式の前夜、アンジェリカの元に父が訪ねてきた。
 ――お父様? 明日の挙式の段取りを再確認しにいらしたのかしら? それともなにか、私に説き忘れた心得がおありとか……?
 式次第を必死で見直していたアンジェリカは、慌てて応接室で待つ父の元へ走る。
「お父様、お待たせいたしました」
 律儀にも、父は椅子に座らず起立したままアンジェリカを待っていた。
『武門貴族の人間は、王族をお待ちする間は座らない』
 父はアンジェリカに教えた通りの振る舞いを、未だに忠実に守り続けている。
 ――私はお父様の娘なのだから、王族に対する敬意など必要ないのに。
 父の融通のきかなさは確実に自分に遺伝している。
 そう思いながら、アンジェリカはドレスの裾をつまんで一礼する。
「ごきげんよう、お父様」
「夜分に失礼いたします、妃殿下」
 他人行儀に言われ、アンジェリカの胸に寂しさがこみ上げる。
 ――お父様らしいけれど、他人扱いされるのは嫌だわ……。
 侍女の手で扉が閉められるのを確かめ、アンジェリカは小声で父に告げた。
「お願いですから、今まで通り『アンジェリカ』とお呼びくださいませ。お父様は、ずっと私のお父様なのですから」
「……そうか。では二人のときは、変わらずそう呼ばせてもらおう」
 アンジェリカの言葉に、父がわずかに口の端を持ち上げる。
 微笑んでいるようだ。
 父が自発的に微笑むなんて珍しい。
 おかしいときも、嬉しいときも、愛想を振りまかねばならないときも、父の表情は常に『凍てついた無表情』だった。
 アンジェリカと親子で会話する様子は『誰かを陥れる密談でもしているのかな?』と囁かれかねない有様だったのに……。
「お父様、今も顔面体操を続けていらっしゃるのですか?」
「ああ」
 頷きながら、父が椅子を手で示す。先に座れ、ということだろう。アンジェリカは椅子に腰掛け、父に言った。
「私も続けております。最近は、侍女を怯えさせることが減ったような気がしますの」
「なによりだ。王太子妃には威厳と愛想、どちらも大事だからな」
 父はそう言うと、アンジェリカの着座を確かめ、音もなく椅子に腰を下ろした。
「ところで今日はどうなさいましたの? 明日の式次第を確認しにいらしたのですか? それとも、私に説きたい心得がおありとか……?」
 父は改めて、娘に王家へ嫁ぐ心構えを説きに来たのかもしれない。覚悟を決めて、アンジェリカは姿勢を正した。
「違う」
 では何をしに来たのだろう。
 ――雑談? まさか、お父様が……?
 首をかしげるアンジェリカに、父は言った。
「先日、十八年ぶりに、ある箱を開けたのだ」
 父は懐から、リボンを取りだした。
「ある箱……とは……?」
「母様が大切な小物をしまっていた箱だ。嫁ぐお前に渡せるものはないかと思って、中を検めた」
 ――お母様の……?
 驚いた。父が自分から母の話をしてくれるのは滅多にないことだからだ。
 屋敷の人間たちは嬉々として母の思い出を聞かせてくれるようになったが、父から聞けた母の話は三つ。
『明るい人だった』
『笑顔がお前に似ていた気がする』
『掃除が好きで、お前が生まれた日も掃除に励んでいた』
 たったこれだけだった。
 ――お母様を思い出すのは今もお辛いでしょうから、仕方ないと思っていたわ。
 なのに、どういう心境の変化だろう。
「その箱の中から、生前、母様が作りかけていたものを見つけた。刺繍が途中だったから、やり方をばあやに教わって、私が残りを仕上げてきた」
 そう言うと、父は手の中のリボンを、かすかな笑顔と共に眺める。なにかを懐かしむような表情をしていた。
「アンジェリカ、これが母様から嫁ぐお前への贈り物だ」
 そう言うと、父はリボンをアンジェリカに差し出した。ごつごつした父の指先には、赤い点のような傷がいくつも残っている。針の刺し傷だ。
「剣を扱うよりも針仕事のほうがはるかに難しかったぞ。母様がお前の名前を刺繍してくれている」
「お父……様……」
 手渡されたのは『アンジェリカ』と刺繍の入った、レースのリボンだった。
 ――これが、お母様が私のために作って下さったもの……。
 名前の周囲に散っている花模様が、途中から真新しい糸に変わっている。ここは父が仕上げてくれたのだろう。
 母が縫った古い花模様は大きさがちぐはぐで、父が縫った新しい部分は角張っている。両親の性格がよく分かる刺繍だ。
「ありがとう……ございます……」
 リボンを受け取った刹那、目頭が熱くなる。
 不器用な仕上がりのリボンから、顔も声も覚えていない母と、多忙な中、亡き母の刺繍を仕上げてくれた父の愛情が伝わってきたからだ。
「本来なら、お前が物心ついた頃に渡してやるべきだったのに……あの箱を開けることができず、このリボンの存在にも気づけずに長く預かり続けてしまった。母様からお前への贈り物だったのに、すまないな」
 アンジェリカは首を横に振る。そしてこぼれた涙を手の甲で拭った。
 辛い記憶で一杯だったろうに、父は、母の思い出が詰まった箱を開けてくれたのだ。娘の結婚を祝福するために。
「いいえ……お父様とお母様が作って下さったリボン、とても嬉しいです」
「ならばよかった。お前には末長く幸せな暮らしを続けてほしい。母様もそう願っているはずだ」
 父の声はいつもと同じで冷たく淡々としていたが、優しかった。
「ありがとうございます。私、このリボンを身につけて式に臨みたいです。花嫁衣装のどこに結ぶか、エルヴァン様と相談いたします」
「そうか。殿下なら良い位置を考えてくださるだろう。二人で決めなさい」
 父が笑顔で頷いた。
 こんなにはっきりと笑っていると分かるのも珍しい。驚いたアンジェリカの耳に、ノックの音が届いた。
「アンジェリカ、リッカルトが来ているのだろう?」
 エルヴァンの声だ。アンジェリカはいそいで扉を開け、彼を招き入れた。
「はい、父が参っております」
「どうした、アンジェリカ。なぜ泣いている? 何か良くない知らせでも……?」
 エルヴァンが心配そうに手を差し伸べてくる。
「いいえ、父が、母が遺してくれたリボンを届けてくれたのです。それが嬉しくて、つい涙が出てしまいました。ご覧下さいませ」
 アンジェリカは手にしていたリボンを、エルヴァンに差し出す。
「かわいらしいリボンだな、お前の名前が刺繍してある」
「母が私のために施してくれたのだそうです、これを明日、花嫁衣装のどこかに付けたいです!」
 思わず声を張り上げると、エルヴァンがにっこりと笑った。
「なるほど、それはいい案だ。リッカルト、素晴らしいものを届けてくれてありがとう」
 すでに立ち上がっていた父は、胸に手を当ててエルヴァンに一礼する。
「このリボン、どこに付けたらよろしいでしょうか?」
「頭に付ける花飾りの中に結い込もう。そうすれば天国の母君からもそのリボンがよく見える。きっと喜んで下さるはずだ」
 エルヴァンの素晴らしい回答に、アンジェリカは目を輝かせて父を振り返る。
 父はいつもの無表情に戻っているが、嬉しそうだ。若干表情が緩んでいるのがアンジェリカには分かった。
 ――お父様もエルヴァン様のお答えに満足みたいね。
「エルヴァン様、本当に素敵なご提案をありがとうございます。いそいでお花と一緒に飾る支度をいたします!」
「ああ。今から器用なものに形良く仕立てさせよう。よかったな、アンジェリカ」
 愛しいエルヴァンの笑顔に、心の底から温かな幸福感が湧いてくる。
 アンジェリカは満面の笑みで答えた。
「はい、明日の結婚式には、お母様もそばにいてくださいます。嬉しいです……!」