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アレクサンダーの悪夢

 十歳離れた兄王子は、全てが美しい人だった。
 所作が洗練されて気品があり、誰に対しても温厚で、そして誰よりも勇敢だった。
 父は、正妃に王子が生まれても、兄を王太子にと考えていた。だが第二妃だった母が固辞した。正妃の産んだランドルフ王子こそが、正統な後継者であるべきだ、と。

『アレクサンダー、お前は自由に生きなさい』

 父よりも母よりもずっと、兄は自分のことを見てくれた。
 異母弟ランドルフのように正妃腹でもなければ、兄には何もかも敵わない。そんな自分が、僻みも妬みも感じずにいられたのは、兄のおかげだった。

『私は王族として国と民に生涯尽くす。しかし、それは私の生き方だ。たとえお前がどんな道を選ぼうと、私は応援し、祝福する』

 初陣を翌朝に控えた夜。十八になった兄がそういった。
 前線に赴くこともなければ、後方で指揮すら執らない。全て武官に任せ、安全圏で堂々として三日ほど過ごせばいいだけだが、母は酷く心配していた。
 次の王は正妃が生んだランドルフだろう。だが、高潔な精神を持つ兄こそ、王冠を戴くのに相応しいはずだ。
『……はは、湿っぽくなったな。さすがに緊張しているようだ。もう寝よう。おやすみ、アレクサンダー。帰ったら、また稽古をつけてやる』
 優しく頭を撫でてくれた兄の手は、いつもと変わらず温かかった。
 だから、一週間後もまた、頭を撫でてくれると信じていた。

 後方で待機していた兄は、奇襲で窮地に陥った部隊を救うため、少数の兵を率いて前線に打って出たらしい。
 敵部隊を引きつけて、殆どの兵を逃し終えた直後──敵の矢を受けた。
 即死しなかった兄は救い出され、帰城できた。
 しかし傷口が化膿し始め、数日後、苦しみぬいた末に帰らぬ人となった。

 兄の出撃がなければ、隣国との国境線は変わっていた。
 誰もが兄を『救国の王子』と讃え、あまりに早すぎる死を悼んだ。

 翌年。母方の祖父であるシルヴェスター伯爵が王城を訪れた。
 兄の葬式以来だった。一気に老け込み、顔色も悪かった。
『殿下もご存じの通り、領内には温泉がございます。病人の気も晴れることでしょう。どうか、じいじにお任せくだされ』
 祖父のいう病人とは、母のことだった。
 兄を喪った母は、すっかり別人になっていた。
 虚空を見つめていたかと思えば、突然泣き叫んで部屋のものを壊し尽くす。当代一の淑女と評された母は、もうどこにもいなかった。
 兄の死からしばらく経ったある日、暴れる母を止めようとした時だった。

『どうしてお前が生きている! 完璧なあの子が死んで、役立たずのお前がなぜ!』
『だからいったのよ! 戦場に行くなと! どうしてお前も引き止めなかったの!』
『正妃様がやっと王子を産んでくださったのに! あの子が逝ったら意味がない!』

 あれは母ではない。
 母の身体を乗っ取った悪魔が叫んでいるのだ。
 でなければ、こんなことをいうまい。
 兄と全く同じ血が流れている、もう一人の息子に。
 ……しかし、本当は分かっていた。あれは、紛うことなく母なのだ、と。
 兄の立太子を誰よりも反対していたのは母だ。もし兄が王位を継ぐなら、王家の規定上、正妃の継子になる必要があった。
 幼心に否定したかった。
 母にとって、兄だけが全てだったなど。
 母を城に留めておくのは限界だった。父は、多額の金を与え、シルヴェスター伯爵に娘である第二妃を療養に出させたのだ。事実上の離縁だ。
 王城を発つ前、母は、罵った息子の肩を掴んで叫んだ。
『アレクサンダー、私を見捨てないで! 私にはもう、お前しかいないのです!』
 懇願されて、戸惑った。だが母と一緒に居るのは、酷く恐ろしかった。
 迷った末に首を横に振ると、母の瞳から完全に光が消え失せた。
 侍女二人に引きずられて、母は王城を去った。
 それが、今生の別れとなった。

 廃人になった母も病に倒れた祖父も、相次いで身罷った。
 正妃のもとでランドルフとともに過ごしていた俺は、これで全ての後ろ盾を喪った。
 だが正妃は、俺を哀れみ、できる限り引き立ててくれた。
 ランドルフが十一歳で王太子となった年、俺は十六になり、成人を迎えた。

『アレクサンダー、お前は自由に生きなさい』

 俺は臣籍に下り、王位継承権を完全に放棄した。
 今は亡き『救国の王子』の人気に目をつけた一部の人間が、同母弟の俺を担ぎ出そうとしている動きがあったからだ。
 ただでさえ、隣国との緊張状態が続いている。内部で後継者争いなどしている場合ではなかった。
 王家が預かっていた祖父の伯爵位を継承して、シルヴェスター姓を名乗り、父から餞別として侯爵位を追贈された。貴族として二つの爵位を持っていれば、収入面で生活に困ることはない。

『たとえお前がどんな道を選ぼうと、私は応援し、祝福する』

 さらに好きな職を与えるといわれ、俺は迷わず、軍部を希望した。
 一兵卒から始めたいという願いは却下されたが、前線部隊の隊長として、俺は戦場に赴いた。
 戦は兄を殺し、母を狂わせ、俺の生き方まで決定づけた。
 一矢で千の首を射抜く『戦場の魔術師』として、何度も地図上の国境線を引き直させた。そして隣国が撤退と停戦を決めるほどの存在になった。
 やがてその名は、死者である『救国の王子』よりも広く知られていった。

 いつからだろう。
 満足に眠れなくなった。いや、そもそも昔から眠りは浅かった。
 だがいつしか、睡魔が消えいく代わりに、苦しみ悶える兄が、半狂乱で泣き喚く母が、心労が祟ってやつれた祖父が、戦場で散った敵味方の全てが──それらの姿をした何かが現れ、指を突きつけて叫ぶようになった。

『どうしてお前だけが、のうのうと生きているのだ!』

    ***

 息が詰まるような感覚に限界を覚え、アレクサンダーはカッと眼を見開いた。
「──……っ」
 ひゅう、と、新鮮な空気が入り込んで咽せそうになる。
 声は出ない。戦場で不用意に叫べば、どんな混乱が起きるか分からない。起き抜けに声を出すことだけは、耐えられるようになった。

 ──額を押さえられている。いや、撫でられている。
 これは、人の手? とても柔らかくて、優しい。

 ゆっくりと視線だけ、横に向ける。
「おはようございます、アレクサンダー」
「……リリー?」
 額を撫でていたのは、隣で眠っていたはずの妻のリリーだった。
 彼女は少し身体を起こし、アレクサンダーの顔をのぞき込むようにしていた。
 リリーはブロンソン公爵家の三女で、男児に恵まれなかった父親によって公爵位を継ぐことになっていた。だが後妻が息子を産んでしまった。
 だが彼女は、自分より弱い男と結婚したくないと主張し、見合い相手を全て剣で打ちのめしてきた。
 その記録をストップさせたのが、アレクサンダーだ。
 いくら剣の名手でも、戦場を知らない、十七の娘に負けるはずがない。だが、いくらでも手加減はできた。
 しなかったのは、彼女を欲しいと直感したから。
 元々、彼女のことは昔に一度だけ見かけたことがあった。その時はただ、女の後継ぎはこの国では珍しいなと気になっただけだ。異母弟の勧めで見合いを引き受けたのも、興味本位だった。

 だが美しく成長した彼女を見て──雷が全身を貫いた。

 一目惚れ、というには少し表現がおかしいかもしれない。
 二目惚れ、というのだろうか。
 何より、こんな激しい恋情が一瞬で溢れ出す人間だったのかと、自分自身に驚いた。
 喜びを感じる心は、とっくになくなったと思っていたからだ。
「.....俺は魘されていたのか? 起こしてしまったなら、すまない」
「いいえ。たまたま眼が覚めただけで……もしかして、ずっとこんな調子で……?」
「……いや、そうでもない」
 それは半分嘘で、半分は本当だ。不眠なら夢を見ることはないし、不眠が続いた後はやはり蓄積した疲労からかなり深く眠ってしまう。
 リリーに心配をかけたくなくて、できる限りコントロールしていたのだが、このところだいぶ気が緩んだようだ。
 リリーの隣が、あまりにも安らぐからだ。
「で、これは?」
 アレクサンダーが視線を上に向けて、額を撫でる手を示す。
「あ、すみません。よくマルスにしてあげていたので」
 謝りながらも、リリーは手をどけなかった。
 マルスは、リリーの異母弟だ。後妻が産んだ、ブロンソン公爵家の正式な後継者。
 リリーとは、一回りほど離れている。
「あの子、昔はしょっちゅう熱を出して……苦しそうにしている時に、こうしてやるとぐっすり眠ってくれたんです」
「君が自ら看病を?」
「ええ。エレノラ……継母と乳母とで、交替で看ていました」
「俺は小さい子どもと一緒か」
 ふ、と小さく笑った。するとリリーも、ふふっと微笑みをこぼした。
「確かに。私より十七も年上なのに、時々大人げないですし。可愛らしい嫉妬をすることだってあったわ」
「……忘れてくれ」
「嫌よ。だって、私はそんな貴方もとても愛しいと思うもの」
 リリーからすれば、全く望まない結婚であっただろうに。
 なのに彼女は、心からの信愛を向けてくれている。

 ──怖いほどに。

「今更だが……君は、恐ろしくないのか?」
「何がです?」
「俺は、この国で最も血で汚れた男だ。君が本気で拒めば、閣下も縁談を白紙に戻しただろう」
「……うーん、父は今度こそと、相当意気込んでいたので……」
 リリーは懐疑的なようだが、公爵が彼なりに娘の行く末を案じていたことを、アレクサンダーは知っている。

「それに、私、貴方を怖いと思ったことはありません」

「……何?」
 耳を疑った。
 上半身を起こすと、さすがにリリーが手を離した。
 彼女が起き上がろうとしたのを押さえ、組み敷く。力は込めていない。抵抗すればアレクサンダーはすぐに退くつもりだった。
 だが、リリーの眼は真っ直ぐに、アレクサンダーを見つめている。
「君は戦場での俺を見ていないから、そういえるだけだろう」
 休戦協定が結ばれた今、そんな姿を見せることはもうできない。いや、そもそも見せたくはない。
「だって、貴方はいったでしょう。私を幸せにする、大事にするって」
「……たったそれだけで?」
 こくりと、リリーが頷いた。
 この肝の据わり方。並みの令嬢ではあり得ない。
 さすがは公爵家の娘でかつての後継者か──と、改めて感心した時だった。
「それに、貴方には戦わなくてはいけない理由があったのでしょう?」
「……理由か。別に、強いられた道ではなかった。俺自身が選んだ」
 戦場に生きる必要はなかった。
 むしろ一貴族として平穏に暮らすことこそ、兄が願った祝福の道だったはずだ。いくらでも、そちらを選べたのに、拒んだのは自分だ。
「俺は自分の意思で、戦いに身を投じた。そこに喜びを見出さなかったとは、断言できない。俺はな、そういう人間だ」
 英雄と呼ばれたいわけではなかった。しかし武功を重ねることに、やはり一種の 快楽や優越を感じていたように思う。

「なぜ、私に嫌われようとするのですか?」

 だがリリーに、怯む様子はなかった。
 むしろ、アレクサンダーの方が、心がざわついた。
「もし怖いといえば、貴方は私を離縁するつもり? そんな手に乗らないわ! 今更白い結婚だと主張しても、誰も認めるはずがないもの!」
「リリー……」
「見くびらないでください。私は、アレクサンダー・シルヴェスターの妻です。たとえ始まりは政略結婚だったとしても、今は貴方を誰よりも愛しています」
 凜とした声は、一切の淀みがない。澄んだ瞳は、自ら強い光を放つ。
 ぞくぞく、と、背中に痺れが走った。
「本当に、子どもみたい。何が怖いの? 私も、ほかにとても怖いものはあるけど、貴方にもあるんですね」
 リリーが腕を伸ばして、背に回してきた。
 彼女に引き寄せられるように、アレクサンダーは寝間着越しに肌を重ねた。もちろん、彼女を押し潰さないように注意しながら。
「大丈夫。私は、どこへも行きません」
「…………」
「貴方が選び続けた結果、今こうして、私を抱き締めてくれている。……貴方が生きていてくれて、幸せよ。アレクサンダー」

 ──やっと、見つけたんだな。アレクサンダー。

 遠くで兄の声が聞こえた気がした。それも、初めて聞く言葉だった。
 業を背負った俺を、兄はまだ祝福してくれているのか。

(ああ、夢に悪魔を呼んでいたのは……俺自身だったのか)

 いい加減、解放してやらねば。
 兄を、母を、祖父を──戦場で散らせた数多の命を。

 もう彼らを悪魔の好きにさせない。
 二度と、一瞬でも、自らの選択を誰かのせいにはしない。
 たとえ、この決意が欺瞞に満ちた、醜い綺麗事だとしても。
 生きて、生きて、生きて──精一杯、生き抜いて。
 この魂が地獄に墜ち、業火に焼かれ、贖罪を終える時が来たら。
 楽園の扉を叩き、リリーと再び巡り逢いたい。その時は、もう永遠に離さない。

「……怖いものは、ある。こればかりはどうしようもない」
「何ですか? 教えてください。一緒に解決していきましょう!」
「君に嫌われて、捨てられること。君には、俺だけをずっと見つめていてほしい」
 軽く唇にキスをすると、リリーはきょとんとした顔をした後、頬を上気させた。
「おや、あんなに熱い告白をしてくれたというのに、やっぱり初心だな君は」
「~~っ! もーっ、知りません!」
 むくれたリリーがふいっと顔を背けた。
 そんな仕草一つとっても愛しくて、アレクサンダーはさらに、柔らかくなめらかな頬に口づけを落とし、耳元で囁いた。

「こっちを向いてくれ、リリー。寝ても覚めても、君と愛し合いたいんだ」

 もう、あの悪夢は見ることはないだろう。
 生きている限り、リリーと共にある限り。

 

【終】