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欲しいのは貴方だけ

【本編ネタバレあり。未読の方はご注意ください】

 

 

 

 

 

 

 


 夜も更けた頃。
 朱色の組紐で封じられた黒漆の高級な文箱を前に、マルスはアカリとともに円座に座っていた。
 お互い寝間着姿だ。褥の前で、脇には酒瓶と杯が置かれている。
 ちょうどお互い二杯ほど飲んだ後だった。

 グリーンベルト王国を遠く離れ、さらに豐水分源國[とよみずわけみなもとのくに]に着いて二ヶ月ほどが経った。
 マルスは現在、留学生であると同時に、特別官吏として王宮に出仕している。同行してくれた恋人のアカリは、皇帝の妹の側仕えとして働くことになった。
 皇帝から都の一角に邸宅を与えられており、二人で一緒に暮らしている。
 文化の違いはたくさんある。家の中で靴を脱ぎ、直接床に座ることに最初は戸惑いがあった。が、今はかなり慣れた。

「アカリ、いったいなんだい? これは」
「私が仕えている宇埜媛[ウノヒメ]様からいただいたの。中身はね、『もらい物なんだけど私は要らないわ。あげるから、“まるす”楽しんでね。ただし、開けるのは夜になってからよ』っていわれただけで、私も知らないのよ」

 どうやら、律儀に夜になるまで待っていたらしい。少しばかり二人で酒を飲んでから寝ようと思った時、アカリが持ってきたのだ。

「持ってみた感覚からして、多分、干物じゃないかなぁって。どう思う? マルス」
 アカリの眼がキラキラしている。確かにこれから晩酌なのだ。肴はありがたいが──。
「食べ物ならこんな箱に入れないんじゃないかな」
 貴重な食材や薬の材料ならまだしも、干物をわざわざ漆塗りの箱に入れるだろうか。
「そうだよね。とりあえず、夜になったから開けよう」
「いや待ってくれ。そういえば聞いたことがある……かつて、浜辺で苛められていた亀を助けた男の末路を……」

 亀を助けた礼に、海底の宮で美しい姫から歓待を受けた男は、数年後に地上へ戻ることにした。
 姫から「決して開けないで」と渡された文箱を携え、故郷に戻るとすでに何百年も経った後。
 悲嘆に暮れた男は、海底での暮らしと姫を懐かしみ、文箱を開けた──すると、地上と同じ時間がその肉体にも降りかかって……。

「私は亀なんて助けてないし、媛様からは開けろといわれたのよ。関係ないわ」
 だがマルスの制止を全く気にせず、アカリが紐を解いて蓋を外した。

「……何これ?」

 箱の中身は、一つだけではなかった。
 最初に眼に入ったのは、上質な和紙で包まれた太い棒状のものだ。

 紙には『芋茎』と書かれていた。

 それ以外に、赤や青などの布で作られた小さな袋が数個。
 これはこの國では、主に薬を保管や携帯するのに使うと、マルスは聞いたことがあった。それと、折りたたまれた白い紙が一枚。

「もしかして私、正解だったんじゃないの?」
「これ、いもくき……と読むんだろうか。芋の茎なら、食べられるかもね」
「やった! あ、でも調理しないとダメかしら」
「待った。その紙が気になる。中身、何か書いてないかい?」
「もしかしたら調理法かもしれないわね。はい、読んで!」
 ウキウキとした顔でアカリは紙を広げたが──すぐにこちらに渡してきた。どうやら読めないようだ。
 まだ読み切る自信はないが、基礎はもうたたき込んである。マルスは受け取って、文面に眼を落とした。

「えーと……『芋茎とはズイキなり。どんなに固く秘された花蕾も、たちどころに満開に咲かせ、歓喜の蜜を溢れさせるもの』……。…………」

「どういうこと? “いもくき”は食べ物じゃないの?」
 続きは、より具体的な内容だったが──これをアカリに読み聞かせていいものだろうか。
「一応、食べられなくもないけど、どうも別のことに使う道具のようだね」
「えっ、食べられる道具なの? 何に使うの?」
 ますますアカリが眼を輝かせる。

 ──俺の恋人は可愛いなぁ、と、見とれている場合ではない。

 コホンと咳払いをして、続きを読むことにした。
 変に誤魔化すより、きちんと説明した方がよさそうだ。

「まず、人肌より少し熱い湯を用意する。そこにこれを浸けて、しばし待つ。それを」
「それを?」
「女人の秘部に尖端を宛がって擦りつけ、挿れたらゆっくりと抜き差しする」
「えっ!」
「どんな純潔の乙女でも、次第に抜き差しを繰り返して嬌声をあげながら腰を激しく動かし、愛液をしとどに溢れさせ、涙を流しながら何度も絶頂を迎える」

 つまり、これは淫具だ。

 少なくとも、マルスには全く縁がないものだった。きっとアカリもそのはず。顔を真っ赤にしていたら──見てみたい、なんて思うのは不謹慎か、と思った時だった。

「あ、ああーっ! これって、あのズイキなの?」

「え、知っているの……?」
「芋の茎でしょ? それを乾燥させたのを、神殿ではズイキと呼んでたの思い出したの。でも、私は非常食って聞いたんだけど……?」
 さすが緑と花の女神ユースラーの神殿。花や草に関わるものなら何でもありか──だが、アカリはこれが淫具だとは教わっていなかったようだ。
(恐らく、見習いじゃなくなったら、改めてそちらの使い方を教わるはずだったんだろうな……)
 一人でやらされるのか、それとも神官が手ほどきを──いやいやいやいやいや前者もダメだが、後者は絶対に許してなるものか。

 アカリの淫らな姿を見ていいのは自分だけだ。

(くそっ、あれか、植物で作られたのじゃなくて、ガラスや動物の角で作られたのなら知ってる……猟犬の仕事で大量に回収したなぁ……)
 怪しげな薬を売買していた男が、実はこれまた違法運営していた娼館の持ち主で、あれよこれよと、この手の道具も出てきたのだ。
 その中に、あったのだ。これと似たものがどっさりと。
 殆ど使い方はわからなかったが、後から調べて知った。その場で仲間に訊ねなくてよかった。

 紙には、ズイキの動かし方のコツや、太さの調整方法、作り方まで記されていた。
 薬についても記述があった。感じやすい場所に塗り込める媚薬、交接時の潤滑を良くする塗り薬、男性を奮い立たせる効果がある煎じ薬──とにかく、こちらも、そういった用途の薬ばかりだ。

「……宇埜媛様はなんだってこんなものを……」
 マルスはぼやいた。いや、どう考えてもあれだ。(まだ結婚はしていないが)夫婦和合というやつを勧めている。
 大きなお世話だ。
「うーん。媛様、私のことを気遣っているのかなぁ、って思うんだけど」
「気遣い?」
 これのどこがだろうか。
「私は芙蓉族だけど、この國で育っていないから、言葉や風習が通じにくいの。だから、せめて家では好きな人と仲良くして、心を休めてね、ってことかな、って」
 宇埜媛の宮は、優秀な側仕えが多い。アカリからも、良くしてもらっていると聞いている。だが、やはり壁を感じる瞬間は多いのだろう。
 そして、この贈り物を見て、そこまで察するところが、アカリの優しさというか、本来の気質なのだろう。

「だから、これ一緒に食べようよ。マルス」

「え、食べるの?」
「煮込んでくるね。そっちの袋は塩だと嬉しいんだけど」
「あ、違う、こっちは塩じゃないよ。触っちゃダメだ、アカリ!」
「えーっ、すぐ作ってくるから、貸して!」
 アカリがぐっと寄って手を伸ばしてきた時に、マルスは気づいた。
 彼女の頬が、ほんのりと上気している。
 酔いのせいか? それとも──。

 もしやこれは──照れ隠しで、明るく振る舞っている?

 マルスはひょいっと、ズイキを持つ手を上にあげた。
「あ、ちょっとっ」
「食べてしまうなんて、勿体ないじゃないか」
「え……」
「これを使えば、褥で激しく乱れる君を、いつもと違う角度でじっくりと眺められる」
 袋に包まれたズイキの尖端を己の下唇に軽く当てて、マルスはにっと笑った。
「いつだって君が綺麗すぎて、俺はいつも余裕をなくすんだよ」
「マ、マルス……顔、ちょっと怖いよ?」
「宇埜媛様に感謝だね。そのお心遣いを無下にしないで、たまには趣向を変えて睦み合ってみようよ、アカリ」
 アカリの腰を抱き寄せて、マルスは、その小さくて紅い唇に口づけた。すでに、しっとりと濡れていた。
 唇を離して瞳を覗き込むと、とろりと潤んでいた。
「君は何もしなくていいよ。俺が動かしてあげるから。お湯を持ってこないとね」
「あ、あの……マルス……」
 アカリは口ごもるので、マルスは彼女の言葉を待った。
 恥ずかしいのだろう。だが、愛し合う時はとても情熱的で、淫らな姿を自分にだけは見せてくれる。
 そんなアカリが愛しい。

「……嫌」
 だが、アカリが首を横に振る。
「マルスがいいの」

「アカリ……」
「単なる道具なんだとしても、マルス以外のものが私の中に入ってくるの、すごく怖い……マルスのなら、嬉しいのに不思議ね……」
 上目遣いで告げるアカリから、甘い匂いが立ちこめる──。
 愛する人にこんなことをいわれて、熱くならない方がおかしい。

 晩酌も放り出し、その夜はよりいっそう激しく、二人は一晩中求め合った。
 褥の上で嬌声をあげながら、花蜜を溢れさせるアカリは、今夜もマルスから余裕を奪い去った。
「好きよ……っ、あっ、マルスしか、欲しくない……!」
 そして芙蓉族特有の匂いが、いつもより濃厚に部屋に充満した。

    ***

 朝、宮に出仕したアカリに、宇埜媛が訊ねた。
「アカリ! あれ、どうだった?」
「はい。今朝、美味しくいただきました!」
 アカリがそう返すと、宇埜媛は思いきり前方へずっこけた後、頭を押さえながら起き上がった。
「……そう。うーん、じゃあまた別のあげるわね!」
 だが彼女は、切り替えが異様に早かった。
「ありがとうございまーす! でも、できれば食べ物がいいです!」
「わかった! 山芋と鰻なんてどうかしら?」
 今日も、豐水分源國の都は平穏だった。


【終】