戻る

ただ貴女に触れたくて 護衛騎士の秘めやかで蕩ける情熱愛 1

第一話

 

 サラが両手を握り合わせて決然と告げるのを、リオウはもどかしい気持ちで聞いた。
「……わがままは言えないわ」
 皆が寝静まった夜に、声が儚く溶けていく。
 だが言葉そのものより、引き結ばれた唇のほうが雄弁だった。あふれる思いを押し止めようとして、かすかに震えている。
 長く繊細な睫毛が揺れ、陶器のような肌に濃い影を落とす。
(貴女は……こんなときでも美しい)
 誰より尊く気高い王女は、流罪を言い渡され失意の底にあってもなお、リオウに神々しさすら抱かせる。
 サラがそう口にした自分を恥じる風にうつむく。リオウは考えるより先に口を開いた。
「どうして。なんでもおっしゃればいいのです。戻してくれとひと言、俺に命令してください。そうすれば、どんな手を使っても俺が貴女をダリア宮に戻します」
 リオウが使うであろう手を想像したのだろう。サラが即座にかぶりを振り、朝日を映したような金色の髪が揺れた。
「だめよ、それはだめ。力にものを言わせるやりかたは望まないわ。そんなやりかたで戻ったとしても、民はわたくしを支持しないでしょう」
「存じています。……貴女はそういう御方です」
 だからこそ歯がゆい。
 サラが、我慢して諦めて手放すばかりなのが、悔しい。
「貴女が周りに気を遣って、無理して笑うのが……俺は見てられないんです。立派に振る舞おうとなさらないでください。辛いときは辛いと正直におっしゃってください。それでも言えないというなら、俺が言わせます」
 サラがひゅっと息を吸う。視線がさまよい、とうとう足元に落ちた。
(どうか、言ってください。貴女がひとりで抱えてしまったら……一介の護衛に過ぎない俺には、なにもできない)
 リオウは心の内で祈りながら、サラが切りだすのをじりじりと待つ。
 果たしてどれほど時間が経ったころか、サラが小さく息をついた。
「……怖いの」
 顔を上げたサラの声が揺れる。
 この世の誰よりも美しいとリオウが思う顔が、歪む。
 まろやかな曲線を描く頬を、ひと筋の涙が伝った。
「怖くてたまらない。明日がくるのがこんなに怖いなんて、思いもしなかった」
 サラがまばたきをする。また涙がこぼれ落ちた。
 いよいよこらえきれなくなったのだろう。透明な涙はせきを切ったようにサラの頬を伝い落ちていく。
 王女にはとうてい相応しくない質素なワンピースに包まれた、華奢な肩が震える。
「ひとりだけ、世界から弾かれた気分よ。ほんとうは誰にも離れてほしくない……ひとりにしないで……っ」
 それは旅のあいだ我慢を重ねてきたサラが、初めて弱さを出した瞬間だった。
(貴女をひとりになど、俺がさせない)
 リオウはたまらず、衝動のままにサラに手を伸ばす。しかし、まさにサラに触れようというそのとき。
 ――リオウは息をつめ、その手をきつく握りこんだ。
 奥歯を噛みしめたがそれでも足りず、頬の内側をきつく噛む。
 そうでもしなければ、この衝動をやり過ごすことなどできそうになかった。
(今すぐ……貴女を抱きしめたい。俺の腕の中で、貴女を安心させたい)
 だが、今のリオウにはできないことだ。
 ならば、サラが手放さざるを得なかったものを、すべて取り戻したあとでもいいから、と祈るように思う。
(貴女がほしい)
 サラに仕え、守れるだけでいいと思って生きてきた。しかし……とリオウはさらに強く頬の内側を噛む。
 サラを諦めるという選択肢だけは、もはやその胸の内には存在しなかった。


 ― ― ― ◇ ― ― ―


 サラは、豪奢なひじ掛け椅子に憤然と腰かけた母の前で、普段は穏やかな光を灯すヘーゼルの目をしばたたいた。
「わたくしが、流罪……?」
 繰り返す声が上ずる。母であり王妃であるヘレーネが、ぞっとするほど冷たい声で告げた。
「お前は国の重要機密を漏洩させた。それだけでなく、私利私欲のために国庫から繰り返し金を引き出した」
「そんな……なにかの間違いです! わたくしはそんなことしておりません! 機密の漏洩も横領も、わたくしにはまったく身に覚えのないことばかりです、お母様!」
 金色の髪が振り乱れるのもかまわず、サラは母に取りすがる。
 しかし、目の醒めるようなロイヤルブルーのドレスの裾をつかんだ手は、パン、と乾いた音を立てて振り払われた。
(何年ぶりかの、ちゃんとした面会だと……それもお母様から呼んでくださって嬉しかったのに)
 先ほどまで心を弾ませていたのが嘘かと思うほど、血の気が引いていく。
 母からのむき出しの憎悪が、心臓の中心に突き刺さる。
「この期に及んで言い逃れを図ろうとは、汚らわしい。お前など産まなければよかったと後悔し続けてきたが、今日ほど強く思ったことはないわ」
 憎悪の刺さった場所から、どくどくと血が噴きだすようだった。鼓動が乱れ打ち、サラは小さく喘ぐ。
 ヘレーネが隣の宰相に顎をしゃくる。宰相が落ちくぼんだ目を光らせ、手にした書状の続きを読みあげた。
「以上の罪状により、ラーゼンノール王国第一王女、サラ・リージュ・トア・ラーゼンノールは、ビストリニテ島へ流罪とする。また、本日をもってサラ・リージュ・トア・ラーゼンノールの王位継承権を剥奪する」
 サラの顔はみるみる蒼白になった。
「お待ちください! お母様、わたくしはラーゼン神に誓ってそのようなことはしておりません! 今一度、調査のやり直しをお願いいたします……!」
「お黙りなさい! 前々から性根の腐った子だと思っていましたが、お前には失望しました。陛下が療養中で、私も離宮から出てこないのをいいことに、これほどの勝手な振る舞い。でもこれでやっとお前の顔を見ずに済みます。お前など、もはや私の子ではありません」
 母は敬意ではなく蔑みを示すためにあえて敬語を使い、顔の前で美しい房飾りのついた扇を開いた。
 顔も合わせたくないのだと気づき、サラは唇を噛む。
「話は終わりです、サラ。下がりなさい」
「お願いです、どうか審議のやり直しを……! わたくしは国を裏切るような真似は決して、しておりません! 調査していただければ、おわかりいただけ……きゃぁっ!」
 言い終わる前に、サラは音もなく前に出た王室師団員に肩をつかまれた。
「これはもはや王族ではない。つまみ出して」
「はっ」
「お母様!」
 しかし呼びかけに応じたのは、ヘレーネではなく宰相だった。
「それ以上の抗弁は、反省の色なしとしてさらなる刑に処す。死罪もあり得ると心得よ」
 両脇を屈強な騎士に固められてはどうすることもできず、サラは離宮から、普段の住居と執政場所を兼ねるダリア宮にすごすごと戻った。
 しかしサラを待ち受けていたのは、それだけではなかった。
「陛下との面会は認められません」
 王室師団長のにべもない拒絶に、サラは廊下で膝から崩れ落ちそうになるのをどうにかこらえた。
 父は為政者として突出した実績はないながら、穏やかな人柄もあって民から慕われている。だが、先ごろ過労が祟って倒れたのである。
 それ以来、父は典医による厳密な健康管理下で療養しており、心労をかける恐れがある
からと、サラでさえ見舞いを許されなかった。
 現在、政務の大部分を担うのは、父の乳兄弟でもある宰相である。
 ともあれ、こんなときでも面会すら叶わないとは。
 胸に鉛を沈められた心地がしたが、サラは背筋を伸ばした。
「では、手紙を書きます。お父様に渡してくださいますか?」
「サラ殿下……いや、あなたは陛下との接触をいっさい禁じられている。今後、接触を図れば重い量刑が課される場合もあるということを、お忘れなきよう」
 サラは父に無実を訴えることもできず、私室に戻された。
 仮にも元王女であり抵抗や逃亡の恐れはないだろうという判断により、私室の使用を許可されたのである。
 しかし、サラが私物を手にすることは叶わなかった。
「配流先である島への出立は、あさっての早朝である。それまでに身辺を整理するように」
 事務官が通達するそばから、下級師団員が壁に据えつけられた胸の高さまであるチェストの引き出しを無粋な手で開けていく。
 続き部屋のクロゼットも乱暴に開け放たれた。
 押し花で作った栞や、心躍る色とりどりのリボン、義兄が存命中にくれたカワセミの羽根。
 あでやかなドレスに、うっとりするような手触りの絹の靴下、淑女らしい踵の高い靴も。
 サラが大切にしまってきたものを、師団員が次々に運び出していく。
「どうして、こんな……っ」
 胸の奥で渦巻いた感情は、喉を重く塞ぐばかりで言葉にならなかった。
 サラは王女として、己の言動を律するよう強いられてきたからだ。
 代わりに漏れるのは、くぐもった悲鳴とも呻き声ともつかない音だけ。
 みるみるうちに引き出しもクロゼットも空っぽにして、師団員は引き上げていく。
 そのあいだじゅう、サラは呆然と立ち尽くすしかなかった。


 サラが島へ出立する前夜になっても、無実の罪は晴れなかった。弁明どころか、父にひと目、会うことさえ叶わなかった。
「ごめんなさい、ナターシャ。あなたの受け入れ先が……まだ決まらなくて」
 サラはどうにか用意させた紙と鵞ペンで手紙を書いていたが、寝支度のために私室に入ってきた侍女に頭を下げた。
 各所への嘆願は聞き入れられず、サラはせめてもと自分付きの侍女に次の勤め先を見つくろっていた。
 すでに皆がサラの元を去っている。残るは筆頭侍女であるナターシャだけだ。
「サラ様が私を拾ってくださったときから、私の居場所はサラ様のおられる場所にございます! ぜったいについていきますからね」
 ナターシャが垂れ目気味の目を吊りあげた。サラより八歳上の二十七歳であるナターシャは、感情がすぐ顔に出る。
 癖があるから扱いづらい、と自身の赤みのまじった茶色の髪はひっつめにするだけなのに、サラの細い髪は嬉々として複雑に編みこみたがる侍女である。
 仕事熱心で、主人思いのナターシャにこそ、サラは幸せになってほしかった。
 とはいうものの、ナターシャは事情があって生家とは断絶状態である。
 そのため、サラはナターシャの生家にも連絡を取りつつ、別の働き口がないかとほうぼうに掛け合っている。
 だが、今のところ色よい返事はない。
「それに、こんなの丸きり濡れ衣ですよ! 明日にも潔白が証明されるはずで、そのときには、サラ様の代わりに思う存分罵倒してやるんですから! 今おそばを離れたら、やり返せないじゃないですか……うっ、ううっ」
 しゃくりあげるナターシャのために、サラはドレスのポケットからハンカチを取りだす。
 しかしそれを渡すより早く、ナターシャはお仕着せのエプロンで目元を拭い、勢いよく鼻をかんだ。
(ナターシャはいつもわたくしのために怒って、泣いてくれる……)
 サラは、思いのままには感情を出せない。だから代わりに泣いてくれるナターシャの存在に救われる。
「ありがとう、ナターシャ。……心強いわ」
 サラは微笑むと、ナターシャを抱きしめる。
 しかしサラにはあともうひとり、今後の処遇について話さなければならない相手がいる。
 影のように付き従い忠誠を誓う、二十五歳の無口なサラ専属の護衛騎士。
 その鋭くも美しい顔立ちが頭に浮かび、サラは彼と出会ってからの時間を思った。

          *

 それは、まもなくサラが八歳の誕生日を迎える六月、義兄のミハイロが亡くなって二年後のことだった。
 ミハイロとは、母が父に輿入れする前にひそかに産んでいた、別の男性との子だ。
 義兄はダリア宮ではなく、王領の西にある離宮に隠れ住んでいた。
 義兄の存在が発覚したのは、母が王妃になったあとらしい。一時は離縁寸前までいったそうだが、母の妊娠がわかるとともに問題は棚上げになった。
 王子の誕生を待ち望まれた先に生まれたのが、サラである。
 その後は弟妹が生まれることもなく、母の愛情の大半は義兄へ注がれた。
 しかしその義兄は、流行り病にかかって他界した。
 おなじ流行り病に倒れたサラは、一命を取り留めた。王位継承権を持つ正当な王族として、サラの治療が優先されたためである。
 それからというもの母は離宮から出ず、サラの前に姿を見せなくなった。
 サラは何度となく離宮を訪問したが、面会は叶わなかった。ついには訪問そのものを禁じられた。
 代わりに、サラにはダリア宮でありとあらゆる教養を詰めこまれる日々が待っていた。
 そんな折りだったので、サラは自分の耳を疑いナターシャに訊き返した。
『ほんとうに? ほんとうにお母様とご一緒していいの?』
 なんでも、公演をしながら国から国を渡り歩く有名な劇団が、ラーゼンノールで公演をするという。
 演者は女性のみというその劇団は、巷の女性のあいだで大人気らしい。
 座長は、ラーゼンノールでの公演に、王妃とサラを招待してくれたのである。
『ええ、ですからその日はうんと着飾りましょう!』
『じゃあ黄色のドレスがいいわ! 袖が膨らんで、裾が三段になったやつ! チューリップみたいなの』
『素敵ですねえ……! でももっといいものがありますよ? これをどうぞ。陛下から、少し早いお誕生日祝いです』
 桃色のシフォンがふんわりと広がる裾に、微細なルビーのビーズ刺繍がちりばめられた、春の花々のようなドレスを着せられ、サラは胸をときめかせて劇場に向かった。
 貴人専用の入口からロイヤルボックス席に通され、離宮から直接向かうという母親の到着を待つ。
 観客も女性のみ。護衛は目立ってしまうため、ホワイエで待機していた。
 ところが。
 幕が上がっても、幕間の休憩にも。カーテンコールが終わっても、母は来なかった。
『本日はお招きくださりありがとうございました』
 舞台の余韻も冷めやらぬまま観客が帰っていくなか、ロイヤルボックス席にやってきた座長を、サラも最高の賛辞で労った。
 すでに王族らしく感情を抑えた振る舞いを身につけていたサラにとって、にこやかな笑みはお手の物だった。
 だが正直なところ、舞台の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
『ナターシャ、帰りましょ』
 隣の空席に目を落としてから、サラはうしろに控えていたナターシャとともに席をあとにした。
 ナターシャはなにか言いたそうにしたが、サラは大丈夫だと笑った。笑えたのだ。
 だから、ほんとうに……魔が差してしまったとしかい言いようがない。
(お母様は、わたくしが帰らないほうがいい?)
 ふとその考えが頭に浮かんだとたん、廊下を歩く足が止まった。ナターシャが視線を外した一瞬のうちに、サラは関係者用の通路を曲がっていた。
 本来なら、誕生日の祝宴が開催されてもおかしくない夜、サラはひとりで舞台裏の細い通路を走った。
 誰もが皆、千秋楽の撤収で忙しいらしく、うつむいて走る少女を気に留める者はいなかった。子役のひとりと思われたのかもしれない。
 気がつけば、サラは裏口から外に出ていた。
 ラーゼンノールの六月の夜は、八時を越えてもほの明るい。
 正面玄関とは異なり、裏口は立ち話に興じる観客もなくひっそりとしていた。
 細い裏通りをとぼとぼと歩くと、ぽつぽつと灯り始めた街灯が、サラの影を石畳へと長く伸ばすのが目に入った。
 生ぬるい夜風になびいた髪が頬に貼りつき、サラはやや乱暴に髪を払う。惨めな気分が増した。
 ナターシャに心配をかけてしまう、戻らなくちゃと頭ではわかっているのに、足は勝手に劇場から遠ざかる。
 惨めさから気を逸らそうと、サラは足元の石畳の枚数を数えた。
『泣いてるの? 迷子?』
 声をかけられたのは、サラが石畳の枚数をちょうど百まで数えたときだった。
 サラはぎくりとして顔を上げ、正面に立つ美少女に目をみはった。
 夜空を切り取ったような色の長い髪、同色の涼やかな目、大人びた立ち姿。サラより五、六歳くらい年上だろうか、背が高い。
 神秘的な雰囲気がして、なんとなく静かな夜が似合うひとだと思った。
『……お母様が来なかったの』
 ラーゼン神がことのほか愛して作りあげたのに違いない少女を前に、サラはぽろりと零した。
『誰か、連絡できるひとはいる? それとも辻馬車を拾う?』
 サラは無言で首を横に振る。少女はサラの格好をしげしげと見つめると、だしぬけに手を取って劇場に戻ろうとした。
『舞台を観にきた客でしょ? 劇場まで連れてってあげる』
『やっ、まだ帰りたくない』
 ふたたびかぶりを振ると、少女はしばらく考えるそぶりをしてから劇場とは反対方向へサラの手を引いた。
『……いいわ、ちょっときて。ちゃんと劇場まで帰してあげるから』
『少しならいいけど……でないと、あなたが捕まってしまうわ』
 帰りたくないと言ったのは自分だが、サラはにわかに焦った。
 警戒心がないといえば嘘になる。だが、それよりもサラを連れて歩いたせいで、少女が捕らえられたらと思うと気が気でなくなったのだ。
『自分じゃなくて私を心配するの? おかしな子ね』
 少女はサラの内心には気づかずに喉の奥で笑うと、劇場のある通りからひと筋先までサラを連れていき、花屋の裏口の石段に腰を下ろした。
 サラも隣に座る。
 ドアの上部からの明かりがサラたちを照らし、石段の前に影を作る。
 褪せたブラウスとスカートこそ粗末だったが、少女の出で立ちは理知的な目も相まって堂々として見える。
 王都に住む子だろうか。それなら親がそばにいなくても大丈夫なのかもしれない。
『それにしてもあなた、とってもかわいい。リボンもつけたらどうかしら?』
『やめて、この格好のことは一生黙ってて。ひと言でも他言したら、ピスタチオをその口いっぱいに詰めこむから』
 サラは両手で口を覆い、こくこくとうなずく。
『いい? そこの地面を見てて』
 首を傾げながらも、サラは言われたとおり薄暗い地面に目を凝らす。
 ――くにゃり、と少女の細い影がくねった。
 サラは目をぱちぱちさせた。
 影と少女を見比べる。少女は指先をほんの少し動かしただけだった。
 しかし地面にふたたび目を落とせば、まるで首の部分が折れたかのごとく影がぐにゃりと曲がる。
 小さく悲鳴を上げて少女の腕にすがりついたサラを、少女が口に指を当てて静かに笑う。
 驚きで心臓が騒ぎっぱなしだった。
 影はさらに曲がる。頭が、胴体が、みるみる縮んでいく。
 サラは花屋のドアも見あげたが、照明の位置が変わったなんてことはもちろんない。
 ただ、ほの暗い裏通りの地面に少女の影だけがくねり、やがてそれは可愛らしい姿に変化した。
『……猫だわ! すごい、どんな魔法を使ったの?』
 少女の影は、完全に猫の形に変化していた。
 しかもふしぎなことに立体的だった。少女の影を煮詰めたかのようにしてできあがったその猫は、本物と見まがうほど生き生きと動く。
 ぴんと立てた耳やぴくりと震える髭、すっと伸びた尻尾も猫そのものだ。影だというのに愛嬌のある顔立ちに見えなくもない。
 少女はさらにポケットから取りだしたものを、影で作った猫にあしらう。
『黒以外は作れないから、これで代用する』
 ピスタチオの実で作った、目だ。少女によれば、影を使って実を目の位置に固定したという。
 澄んだ目にはほど遠い。しかしそのときのサラには、影でできた黒猫の驚きのほうが大きくて違和感はさほど抱かなかった。
 あるいはその姿がどこかコミカルで、ぬいぐるみめいて見えたからかもしれない。
 黒猫が尻尾を左右に振ったときには、サラはすっかりこの猫に魅了されていた。わくわくする。
『ラーゼンノールができるずっと昔には、魔法を使えるひとがいたって御本で読んだわ。お姉さんはラーゼンノールの魔法使いなのね?』
『残念ながら外れ。私は魔法使いじゃない。これは……手品みたいなもの、かな』
 では自分にもできるかと思ったが無理だという。
 サラは肩を落としたが、すぐに気を取り直した。
『ね、この子の名前はなんというの?』
『名前? ……そんなもの考えたことなかった』
『名前がないと呼んであげられないわ。そうね、じゃあ……ネフリルはどう? ピスタチオの目が、翡翠みたいでしょう?』
 ラーゼンノールの言葉で、翡翠(ネフリル)。
 少女は困惑した様子だったが、サラはかまわず黒猫に「ネフリル」と呼びかける。名前をつければいっそう可愛らしく思えてくる。