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ただ貴女に触れたくて 護衛騎士の秘めやかで蕩ける情熱愛 3

第三話

 

 それからというもの、サラが寂しかったり心細く思うことがあったりすると、必ずといっていいほど夜更けにネフリルが現れた。
『今夜も来てくれたの? ありがとう、ネフリル』
 黒猫はサラの前で、くるりと回ってみせる。ときには本物の猫にはできないような技を披露することもあった。
 そのふしぎに愛嬌のある姿に、どれだけ慰められただろう。
 無口なリオウが自身の影を愛らしい黒猫に変え、曲芸までさせているのだと思うと、胸の内がくすぐったかった。
 夏は、花々があでやかに咲き乱れる庭で。
 冬は、サラの私室の窓辺か、あるいは天井まで届きそうな書架の並ぶ図書室で。
 たったひとつ母から譲り受けたイヤリングを紛失し、母とのあいだに決定的な亀裂が生じた夜も、ネフリルはサラに寄り添ってくれた。
 リオウ自身は姿を現すときも、そうでないときもあった。
 おそらく、ほかの護衛騎士の手前もあったからだろう。だが、気配はいつも近くに感じていた。
 サラは何度か、劇場での出会いを口にしかけたが、そのたびに思い止まった。
 リオウに胸を張って名乗れる自信がなかったのだ。
(いつかわたくしが立派に国を背負えるときがきたら、打ち明けよう)
 サラはその思い出を、ひっそりと胸の内であたため続けた。
 同様に、リオウに口止めされるまでもなく、ネフリルとの逢瀬についても口をつぐんだ。
 軽々しく口にできる内容ではなかったのもあるが、ふたりだけの、とっておきの秘密にしておきたかったのだ。
 かつて見ててあげると言った少女は、偶然とはいえこんなに近くでサラを見守ってくれていた。
 そのおかげでサラは、前を向くのをやめずに生きてこられたのだ。
 それだけでじゅうぶんだった。
 
          *

 走馬灯のように、これまでの夢を見ていた。
 リオウと過ごした時間の夢だ。
 サラは鈍く痛む頭を押さえ、寝台の上で身体を起こすと窓辺に近づいた。
 夜明けまではまだ時間があるようだが、空の色は寝台に入ったときよりうんと薄い。いよいよ、流刑地に向けて旅立たなければならない日がきたのだ。
 サラが自室のドアを開けると、ナターシャが銀の洗面ボウルと石けん、タオルなど一式を載せたワゴンを押して入ってくる。一応、それなりに身なりをととのえることはできるらしい。
「おはようございます、サラ様。目の下に隈が……」
 そう言うナターシャこそ、目が腫れている。これ以上、心配させたくなくてサラはおどけた。
「でもこれから移動が続くから、馬車でたくさん寝られると思えば幸運よね。わたくしが馬車の中で鼾を掻いていても、聞かなかったふりをしておいて」
「サラ様ったら」
 冗談めかしたおかげか、ナターシャが忍び笑いをする。
「そうだわ、これからは、ひとりで服を着られるように特訓するわね。そのうち、わたくしのほうが上手になって、あなたの着付けをできるようになるかもしれないわよ?」
「まあ! 私は侍女歴十年以上ですよ? まだまだ勝ちは譲りません」
 ナターシャがこらえきれずに声を立てて笑い、モスグリーンのコットンワンピースを差しだした。サラは内心、ほっと息をついて受けとる。
 事務官から支給されたというワンピースに装飾はなく、首元までを隠す立ち襟に長袖の質素なものだ。
 市井の娘が似た形のワンピースを着ていたのを、サラも見た覚えがある。
 胸元を胡桃ボタンで留める作りで、これならサラひとりでも着られそうだ。
 ナターシャに教わりながら着付け終えると、ナターシャがサラの髪を手のこんだ髪型に結いあげる。
「島までの同行を命じられました、ロイストンです」
 迎えにきた王室師団員は、栗色の短髪に翠色の目をした二十代前半らしい若者で、歩きかたや敬礼の仕方などから、同行を不服に思っているのが見てとれた。
「わたくしは、サラ・リージュ・トア・ラーゼンノールです」
  ラーゼンノール王国には王室師団のほか、地方ごとに地方師団が置かれている。その全
師団員のうち、王族の護衛を務める騎士だけが黒の師団服の着用を許されている。ほかの
者はグレーの師団服だ。
 ロイストンもグレーの師団服だった。つまりは、サラの護衛ではなく監視のためにつけ
られたのだ。
「わたくし、初対面のかたとは必ずフルネームで挨拶をすると決めているの。あなたの名前は? ロイストン……なんというの?」
「ロイストン・レフォールです。サラ」
「呼び捨てですって!? 不敬罪で訴えるわよ!」
 横から口を挟んだナターシャとロイストンを見比べ、サラは微笑む。
「いいのよ、ナターシャ。一度、サラと呼ばれてみたかったの。ね、わたくしもロイと呼ばせて」
「……仲良しこよしの旅は勘弁ですが、まあ、はい」
 ナターシャとロイストンを連れ、いよいよ私室をあとにする。
 廊下はまだ薄暗い闇に沈んでいた。ブーツの音が絨毯に吸いこまれていく。見送る者はいない。
 一歩ごとに身体が床にめりこみそうな気分にかられながら、サラは東翼の裏にある玄関を出た。
 精巧なレリーフの嵌めこまれた正面玄関とは異なる、簡素な造りが今は侘しく目に映る。
 護送用と思われる黒塗りの二頭立て馬車は、すでに横付けされていた。
 そのうしろには、鞍をつけた馬が二頭。
「二頭?」
 サラが思わずつぶやいたとき、背後から低く鋭い声がした。
「俺を置いていかれるつもりでしたか? そうはさせません」
 王族専属の護衛だと示す黒の師団服姿の男が、サラの前に回りこむ。サラの専属護衛の――リオウだ。
 切れ長の深い黒目が鋭さを増し、綺麗な顔立ちに、ますます凄みが加わる。
 耳の下で結い、片側に流した長い黒髪が揺れる。
 師団服の上衣の裾は腰で分かれて広がり、リオウのすらりとした身体を引き立てた。銀糸の縫い取りと胸元に斜めに走る銀ボタンは、抑えた華やかさを添える。
 しかし今は、美しい顔が怒気を浮かべて歪んでいた。
 日頃は胸へ静かに落とすように響く声も、常にはないほど尖っている。
 サラがたじろぐと、リオウはさらに踏みこんでくる。サラは、今にもリオウに文句を言いそうなナターシャを先に馬車へ乗りこませ、リオウに向き直る。
 リオウは、サラが処遇を告げるまでもなく、すでに専属護衛の任を解かれていた。
 サラとしても、流刑地になど同行させたくない。
「だめよ、リオウ。あなたはここに――」
 しかし命令は最後まで続けられなかった。
 唇が、サラの意思に反して急に動かなくなったからだ。
 まるで、目に見えない微細な針で縫い止められたかのようだった。
「リオウ……っ!」
 やめて、と言いたいのに、やっぱり唇が動かない。
 ロイストンは荷を積むのに忙しいのか、サラの様子には気づかない。
「連れていく、とおっしゃってください。おっしゃるまで、このままです」
 操ったわねと、尋ねるまでもない。
 リオウは影を縛り、影を通して相手を操る。あらかじめ影を縛っておけば、意のままに相手を操ることができる。
 今も唇を震わせることすらできないのが、その証拠だ。
 サラはやめてと目で訴えたが、リオウは小さく首を横に振った。
「どうかお願いです、連れていくとおっしゃってください」
 その声が先ほどと違い、焦燥に焼かれそうな調子を帯びたのに気づいて、サラははっとした。
(わたくしは、あなたには誰よりも幸せになってほしいのに。どうしてそこまで……)
 唇が痺れてくる。
 サラは見えない力に抗って言葉を発そうとするが、一向に動かせない。
 このままでは無理やり言わされてしまう。
 普段のリオウは、忠実な護衛だ。ほかの護衛騎士と異なり、リオウは帯剣しない。勤務も変則的で、表には滅多に出ない。
 リオウのような異能を持つ者を、少なくともサラはこれまで見たことがない。幼いころに目にしたおとぎ話で読んだくらいのものである。
 リオウ自身も異能を固く秘しており、その術を知るのはサラだけだ。
 しかし護衛のために操ることはあっても、リオウがサラの意思を遮るために異能を使ったのはこれが初めてであった。
(それだけ、本気なのだわ)
 リオウはサラが命令を撤回するまで、動きを封じる気だ。
「お供させてくださいますよね?」
 たっぷり数十秒は見つめ合う。サラがどれだけにらみつけても、懇願を視線でぶつけても、リオウの表情はいささかも揺らがない。
 サラはとうとう観念して目を伏せた。それが承諾のしるしだった。
「ありがとうございます。……よかった、承諾を頂けるまで生きた心地がしませんでした」
 見えない拘束の気配が消え、リオウが一転してさっさと歩きだす。
 心底ほっとした面持ちで言われるから、たまらない気分になった。
「……ずるいわ、こんなの」
 忠実な臣下だったのに、こんなときだけ主であるサラの影を操って意のままにするなど。
 抗議したいが、すでに馬に乗っていたロイストンから何事かと視線を向けられては、うかつに術のことを言うわけにもいかない。
「これだけは、引けませんから」
 サラのつぶやきを拾ったリオウが、目元をわずかにゆるめる。
 そのやわらかな変化に、サラの胸がなぜかかすかに跳ねた。
「ところで殿下、手を」
「手?」
 サラが怪訝に思いつつ手を出すと、リオウが一枚の羽根を乗せた。
 透き通るような青色に、サラははっとしてリオウを凝視する。
「これ……」
「すみません、これしか取り戻せなくて」
 ぶっきらぼうに言って馬車へ向かったリオウの背を見やってから、サラはもっとも大切にしていた私物に――カワセミの羽根に目を落とした。
 目の奥がじわりと熱くなる。
 考えたくはないが、万が一にも流罪が覆らず、ダリア宮に戻れなかったら、とサラはそっと手で羽根を包む。
(ナターシャもそうだけど、リオウ。あなたは……ずっとわたくしの支えだった、あなただけは)
 島に着くまでに、解放する。
 道連れにはしない。
 馬車の扉を開けたリオウがふり返り、サラを目でうながす。いよいよ乗りこむ直前、サラは朝靄に包まれたダリア宮を振り仰いだ。
(だけど、島に着くまで……もう少しだけ)
 サラは早朝の張りつめた空気を深く吸いこみ、リオウのほうへ足を向けた。

 

 

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