白薔薇の花嫁 異国の貴公子は無垢で淫らな令嬢に溺れる 1
第一話
ルリアネール・ギューゼント。愛称ルル。
ルルの指はいつでも踊っている。夜会は嫌いだけれど、指先だけはいつもダンスしているのだ。
考え事をしているとき、無意識のとき。いつでも気づけばルルの指は踊っている。行儀作法の先生にも散々言われた。けれど、誰かに指摘されても、止めることはできない。それは呼吸をするのをやめろと言われるのと同じことだ。ルルの指たちは生きている限り、勝手に踊ってしまうのだから。
今夜もルルの指が舞っているのは賑やかな広間ではなく、書物の白い紙の上。時折ずり落ちる眼鏡を元の位置に戻す以外は、ルルの白い指先はいつでも本の上で楽しげに旋律を奏でている。
「ルルったら、またこんなところに一人でいて」
「サリア」
友人の声に顔を上げると、そこには幼馴染のサリア・サリ・ラーストが美しい木槿(むくげ)色のデコルテを着て立っている。琥珀色(アンバー)の髪に緑玉(エメラルド)の瞳。美しい伯爵家の長女サリアは社交界の華だ。
目の前に誰かが立つ度に、ルルは緊張する。けれどそれがサリアだとわかると、ふんわりと温かな心地に包まれる。
「どこにもいないから、どうせまたバルコニーで本を読んでいるんだろうと思ったら、案の定ね」
「すみません。あの喧騒の中にいると、どうしても頭がいっぱいになって、どうにもならなくなってしまうんです」
「そうよね。最初に夜会に来たときは、硬直してしまってまるで彫像みたいだった。思い出すわ」
サリアは鈴を転がすような声で笑うが、ルルにとっては笑い事ではなかった。
社交界デビューした日、初めて夜会服を着て訪れた宮殿で、たくさんの人々に話しかけられて、楽団はずっと音楽を奏でているし、食事の音、衣擦れの音、何もかもがルルの頭に一度に入ってきて、処理しきれずに凍りついてしまったのだ。
「あんなのは、もうたくさんです。私はここにいた方がいい」
「知っているわ。ルルは静かな場所が好きなんでしょう。私も本当はそうよ。でも、少しも慣れることはできないの? そんなに綺麗なドレスを着ているのに、全然踊らないなんてちょっともったいないような気がするけれど」
「できません。別人にでも生まれ変わらない限り」
率直に答えるルルに気分を害することなく、サリアは笑う。ルルが婉曲表現を使えず、こういう受け答えしかできないことを知っているからだ。
「相変わらずね、ルル。わかったわ。それにしても寒くないの? 早春の夜は冷えるわ。何か温かい飲み物でも取ってくる?」
「いいえ、いりません。ありがとう、サリア。私は毛皮のケープを羽織っていますし、寒くはありません」
「そう。体を冷やして風邪をひかないようにね」
いつも通りの会話を交わし、サリアは広間へ、ルルはバルコニーの椅子に留まって読書を再開する。
ルルは夜会だけでなく、人の集まる場所が大の苦手だった。音を必要以上に拾い過ぎてしまうルルの耳は、多数の人々が会話したり、同時に音楽が鳴っていたりすると、情報を整理し切れなくなってパンクしてしまう。
(夜会にだって本当は全然来たくないのですけれど、お父様のお言いつけなので仕方がありません)
今年十八歳になるルルは、ようやく社交界デビューしたばかりだ。二年前から父、アーカスタ・ギューゼントに急かされていたのだが、ギリギリまで引き延ばしていたのだ。
今年は婚約者のエルシと結婚する予定なので、その前に世間へ顔見世をしなければということで、渋々夜会などへ繰り出すことになった。
けれどいつもルルは最低限の挨拶をした後は、誰とも交流せず、飲み食いもせず、もちろんダンスもせず、いつも一人きりになれる場所を求めて徘徊し、そこで時間が過ぎるのを待つばかり。
公の場所に出る前から、家同士の交流などですでに変わり者の令嬢として知られていたルルは、大したお咎めもなく、そのまま放置されている。
父も、ルルがこういった場に出向きさえすれば後は無関心だし、ただ「出席しろ」としか言わないので、ルルは言いつけどおりに夜会に出向き、いつでも読んでいる最中の本を小脇に抱えて、それを読み終えるためにやって来るのだった。
(本当に、無意味で、何の益にもならない時間の浪費です。ギューゼント家は貴族でもないのだし、無理に参加する必要など本来はないというのに、私が公爵家のエルシと結婚することになってから、お父様はやたらと張り切ってしまわれました。私が文句を言える立場ではないけれど、私がここにいることで一体誰が得をするというのでしょうか)
ルルの婚約者、エルシ・サリ・デンペルスはこのコサスタ王国でも古い歴史を持つ由緒正しい公爵家の次男だ。
現在の王族であるティンザー家に支配される前の王の血筋で、素晴らしい伝統を持ち、本来ならば平民の娘であるルルとなど結婚することはあり得ない高貴な立場である。
しかしコサスタ王国では最早階級社会が豊かさとイコールではなくなっていた。戦を繰り返し周辺地図が頻繁に塗り替えられていた血なまぐさい時代は終わり、それぞれの国が自立し豊かさを追求するようになった果てに、文化は成熟し民は平和を謳歌し、貴族がその地位の上にあぐらをかき、ただ爵位を持っているだけで富が集まってくるような制度は前時代的とされてなくなってしまった。
ゆえに、近年では貴族同士で婚姻関係を結ぶのが当たり前ではなくなり、貴族は富を、富裕な平民はブランドを求め、身分の垣根を超えた結婚が増加の一途を辿っていた。
ルルのギューゼント家は、父、アーカスタが興した宝石商であり、一代で成り上がり巨万の富を築き上げた。今では古くから存在する同業者たちを押しのけ、ちゃっかり多くの貴族や王家御用達の国随一の宝石商の座に収まっている。まさしく成金であり、敵も多い。ゆえにアーカスタは家の名を貴いものとする歴史ある地位、栄誉を切望していた。
一方、エルシのデンペルス家は長い歴史のある公爵家、旧王家でありながら、制度の改正のために数々の特権を失い、資産が少しずつ減り、現在表には見せぬが実情では困窮に喘いでいる。
よって、両家が婚姻によって結びつくことは、双方にとって利益のある慶事であった。
「あ、エルシ様がいらしたわ!」
広間の方から、華やいだ声が聞こえてくる。令嬢たちの黄色いざわめきがバルコニーにいるルルにまで伝わり、婚約者のエルシがやって来たことがわかった。
挨拶くらいはするべきなのだろうか、とルルは迷う。しかしすぐ近くで始まった密やかなお喋りに、体が硬直してしまう。なぜ声を潜める喋り方というものは、却って周囲によく聞こえてしまうのか。
「エルシさまもお可哀想。よりによって、あの変人ルルと結婚されるのよ」
「本当に、災難としか言いようがないわね。確かにギューゼント家は国内でも有数の資産家だけれど、それにしたってあんな妙な子と夫婦にならなくてはいけないなんて……。ギューゼントにだって他に娘たちがいるでしょう?」
「さあね、丁度よい年頃というだけで選ばれたのではないの? あの高潔なエルシ様が成金のギューゼントに……なんて想像するだけでも悲しいけれど、皆の憧れの方が『あの』ルルとだなんて……この世を呪ってしまうわ」
喋っているのは貴族階級の令嬢たちなのだろう。ギューゼント家を成金と蔑んでいるからだ。
(別に気にしません。いつものことですから)
そう自分に言い聞かせても、勝手に傷ついてしまう心の動きはどうしようもない。
彼女たちに言われずとも、当のルル本人だって同じように思っているのだから、世の中うまくいかないものだ。
ルルはギューゼント家の五番目の末娘である。アーカスタが愛人に生ませたのがルルで、幼い頃母親が病で亡くなってしまったために本家に引き取られたのだった。
子どもの頃から変わり者だったルルは、ギューゼント家という後ろ盾のためにいじめられこそしなかったが、友達など一人もできず、煙たがられ、冷笑される存在だった。
ルルの方でも一人で本を読んでいるときの方がよほど楽だったので気にも留めていなかったが、そんな中で、ただ一人、声をかけてくれて、友人になってくれたのがサリアなのである。
ルルが特別というわけではなく、サリアは誰にでも分け隔てなく優しく接する人柄だった。誰もがサリアを好ましいと思っている。もちろん、それはルルの婚約者、エルシとて同様だ。
「ルル、こんなところにいたのかい。探したよ」
「エルシ」
ハッとして立ち上がる。同時に、膝に置いていた本がバサリと音を立てて落ちた。
エルシは優雅な動作でその本を手に取る。表紙を眺めて、「これは僕には読めないな。随分古い言語だろう」と肩をすくめた。コサスタ王国の公用語ではなく、隣国のトスケ王国の古語で書かれていたからだ。
エルシがいるだけでその場が明るく華やぐ。人が自然と集まり、和やかな空気が流れるのだ。朝焼けの太陽が纏う黄金の光そのもののブロンドに、雲ひとつない空のような澄み渡る青い瞳は、さながら青玉(サファイア)のように輝いている。
美貌に加え品行方正な青年であるエルシは由緒正しいデンペルス家の次男だが、四角四面の真面目なだけが取り柄の長男よりも、社交界ではよほど人気を集めていた。
ルルの唯一の友人、サリア同様に、エルシは皆に愛されている。そして、サリアが特別な気持ちを彼に抱いていることも、ルルは知っていた。
「ここにいるのをサリアに教えてもらったのですか」
「いいや、自分で見つけたんだ。何しろ君は目立つからね。そんな風に夜の帳をバックにして立っていると、さながら輝く月のように美しいよ。眩しいくらいだ」
「私は美しくなんてありません。眩しく見えるのは、単純に私の色素が欠落しているからでしょう」
「君にかかると美への称賛も型なしだな」
エルシはサリアのように、ルルの事務的で客観的なだけの、切って捨てるような物言いにも笑顔で返す。そして他の誰にも向けないような慈悲の籠もった温かな目でルルを見つめるのだ。
「でも、いいんだ。そんな偽りを知らない率直な君が、君なのだから。そして僕は、純白のものを美しいと感じる。君は心も体も真の白そのもので、この世の何よりも美しいよ。その素直な心を口にしただけなんだ」
エルシの言う通り、ルルは闇夜に佇めば月かと思うように白くぼうっと光り輝く。それは、ルルがコサスタでも珍しい水晶(クリスタル)のような銀髪であるからだ。そして、不健康なほどの青白い肌に、青みがかった灰色の目は、色彩を忘れ去ってしまったかのようだった。
(エルシは美しいと言ってくれますが、私はこんな見た目は少しも好きじゃありません)
エルシのように、ルルの外見を綺麗だと言ってくれる人もいる。けれどルルにとっては、まるで亡霊のようだと感じる姿だ。
血の通った温かな色がひとつも自分には存在しない。肖像画を描かれても、きっとぼんやりと白いものがキャンバスに宿るだけだろう。白い服などを着ると本当に紙の人形のように見えてしまう。けれど父アーカスタはエルシがルルの白いことを何より喜ぶのを知っているので、夜会服も白や銀の色調のものばかり作らせる。
周りから見えないもののように扱われることも、ルルがこの真っ白な外見を嫌う原因のひとつだった。子どもの頃からそうだ。家族にも存在していないかのようにみなされ、外では触れないよう、目も合わせないよう、皆が通り過ぎていく。
時々それを強く感じて悲しくなるが、誰にも顧みられないことは気楽でもあった。
ルルも他人が好きではない。嫌いではないが、どう接すればいいかわからない。反応を求めず拒絶もせず、婉曲のような意味のわからない技法を『常識』として強いてくることもなく、ただ明確な事実として存在する書物だけが、唯一のルルの拠り所だった。
はたと、周囲の視線がそれとなく自分たち二人に注がれていることに気がついた。多くは、ルルに向けられる令嬢たちの突き刺すような冷たい眼差しだ。
多くの人に見られることが苦手なルルは、思わず後ずさる。
嫉妬、悪意、憎悪。ルルはあらゆる負の感情を敏感に感じ取ってしまう。
そのとき、一人の令嬢がついと進み出て、エルシの袖をささやかに引いた。
「エルシさま。お話し中失礼いたします……。異国にて仕事をしておりましたわたくしの父が久しぶりに帰国しまして、ぜひエルシさまに挨拶をしたいと申しているのですが」
「ああ、そうですか。それでは、今参りましょう」
ルルにではまた、と丁寧な礼をし、エルシは去って行った。そしてすぐに周囲のルルへの関心は薄れ、再びの静寂がやってくる。
ルルはホッとした。
(怖かった……。エルシが優しいのは嬉しいのですけれど、彼といると周りの視線がとても怖いのです。どうしてあんな恐ろしい目で私を見るのでしょうか……私は彼女たちに何もしていないというのに)
エルシへの挨拶も済ませたのだし、これでようやく本当に一人になれるだろう。後は夜会が終わる頃に適当な時間で帰ればいいだけだ。ルルはそう安堵し、再び椅子に座って本を開いた。
だがしばらくすると、今度は何やら密やかな男たちの話し声がルルの耳に届いた。
怪訝に思って本から顔を上げると、隣のバルコニーで見慣れない長身の男が従者らしき男と喋っている。服装はコサスタとは明らかに異なる、袖の長いガウン風の、上等な生地に金糸などで豪華な刺繍を施した美しい衣装だ。
そして彼らの話す言語に、ルルはハッとした。
現代では滅多にない、雅やかな旋律。緩やかな抑揚。素晴らしい竪琴を掻き鳴らしたかのような舌の響き。
(トスケ王国の古語……! まさか、そんな。現代ではマイナーな学問でしかなく、生活で使用するトスケ人などほとんどいないというのに!)
ルルも書物で学んだだけで実際に喋る人間を見たことはない。こんなことがあり得るのだろうかと、ルルは興奮で真っ白な頬に血の気をのぼらせた。
夜会のドレスにも、きらびやかな宝石にも、美味しい食事や美しい音楽、魅力的な異性にもまるで興味を覚えられないルルが、唯一関心を傾けるのが言語である。
幼少の頃から貪るようにあらゆる言語の本を読み続け、今では自然と十五ヵ国の言葉を理解するようになった。日常会話だけ、簡単な文章を読むだけと、つまみ食いした言語を合わせれば、もうそれは何ヵ国になるのかわからない。
トスケ王国の古語はその部類に入る言葉で、発音は音声記号などで理解しているものの、すでに現在では使われていない言語であるため、実際に練習する機会がなかった。
「す、すみません!」
耐えきれず、ルルは思わず彼らと同じ言語で喋りかけた。
男たちは鞭打たれたようにサッと警戒感を走らせ、ルルを一瞥する。
振り向いた男の目は、夕焼けの太陽が纏う神秘的な光のような、見事な黄金色だった。褐色の肌に漆黒の波打つ黒髪。宵闇をバックにしていると、まるでその瞳だけが太陽の如く輝いているように見える。
白い肌の者がほとんどであるコサスタでは目立つ容姿だが、昨今は移民も多く、街を歩く人々も様々な色彩を持つ者が増えてきた。
それでも、このような夜会の場では珍しいことに変わりはない。異国の貴族や富裕層が入り混じっていることもよくあるが、大多数はコサスタ貴族の交流の場なのである。
しかし興奮しているルルには、満足に男の外見や、そして彼の緊張感を把握することはできない。
「あの、あなた方の喋っておられるのは、トスケ王国の古語ですよね?」
「……ああ、そうだが」
「そ、そ、そうですよね! ああ、なんてことでしょう。すみません、私はこれを使い慣れていないのできっとおかしいかと思いますが……」
「現代のトスケ語で結構だ」
「そうですか! ありがとうございます!」
トスケ語ならば母語であるコサスタ語とほぼ同等に喋れる。男の許しを得て、ルルは気になっていることを矢継ぎ早に質問した。
「あの、私が本で読んで学んできたトスケ古語とはいくつか違う箇所が見受けられたのですが、それはなぜなのかお教え願えますでしょうか。具体的に言いますと、トスケ古語には前舌かつ非円唇狭母音(ひえんしんせまぼいん)とそれ以外では必ず対応する接尾語などが異なる、非常に整然とした法則があるはずですが、今伺っていた口語ではそれらが多少乱れているように感じました。それと、現代トスケ語では所有接辞がありますが、古語では……」
「ああ、ちょっと待て。頼むから待ってくれ」
男は自らの額を押さえて、ルルに向かって鎮まれというように手を上下に振る。
ルルはなぜ遮られたのかわからず、しかし男に待てと言われたので、餌を目の前にした犬のように大人しく待っている。
男は重々しくため息をつき、じろじろとルルを観察してから、ああ、と声を漏らした。
「そうか。この白亜の邸宅では君の色が溶け込んでしまい、そこにいることに気づけなかったんだな。しかも座っていたから手すりに遮られて……。夜会でバルコニーに一人でじっとしている者がいるとは考えていなかった。コサスタでも今の時期、普通に夜は冷えるからな」
「確かに夜会は多くの人々にとって会話や踊りを楽しむ場所ですが、バルコニーで本を読んではいけないという決まりはありません」
「その通りだ」
ルルの答えのどこが面白かったのか、男はクスッと小さく笑った。
「まず君の名前を聞こうか。俺の名はオラント・デュマン。見ての通り、トスケ王国から来た者だ」
「私はルリアネール・ギューゼントです。面倒な名前なのでルルとお呼びください」
「なるほど、ルル。君は随分トスケ語が堪能だが、古語もわかるのだな。驚いたよ」
「それはこちらの台詞です。トスケ古語など、今ではトスケでも喋る人はおらず、学問として残っている程度です。それも使い道がないからと人気がなく、教養として王族や一部の貴族くらいしか学ぶ者はいないと聞きました」
オラントと名乗った男は、従者と顔を見合わせた。
「その通りだ。君は随分物知りだな」
「私は言語に関することしか知りませんので、物知りとは言えないかと」
「いやいや、十分だ。君にとても興味が湧いたよ。こちら側に来ないか」
離れたバルコニー越しに会話をしているのは確かにやや不便である。ルルはオラントに言われた通り、こそこそと中に戻って、オラント側のバルコニーに移動した。