白薔薇の花嫁 異国の貴公子は無垢で淫らな令嬢に溺れる 2
第二話
「やあ、初めまして、ルル。君と会えて嬉しいよ」
目の前に立つと、オラントは小柄なルルに比べて随分と背が高い。
トスケは平均身長はコサスタよりもやや上だが、こんなに大柄な男も珍しいのではないか。身の厚さやどっしりとした腰つきなど、骨格そのものがこの国の者とは違い、なるほど異国の人間であるとルルはまじまじと観察してしまう。
近くにいるとムスクにも似たトスケ特有のスパイシーな香水の香りと、男の体臭が混じった独特な匂いが漂う。あまり強い匂いは好まないルルだが、オラントの香りはふしぎと不快ではない。
「先程いらした従者の方はどちらですか」
「従者とわかったのか」
「ええ、身につけているものとあなたへの態度からそう判断しました」
「そうか。彼は少し用事があるので出て行ったよ。気にしなくていい。立ち話も何だから、まずは座ろうじゃないか」
促されて長椅子に腰掛けるが、二人用の椅子がオラントと座ると随分窮屈だ。人と触れ合うのが苦手なルルは圧迫感を覚えたが、とにかくトスケ古語の話が聞きたかったので、必死で我慢する。
「オラント、あなたはなぜトスケ古語が喋れるのですか。あんな母国語レベルで古語を操っている人なんて見たことがありません。従者の方も」
「本当に言語の話が好きなんだな。まあ、俺に関しては近所のじいさんが古語を喋る変人だったんだよ。それで覚えた。だから君の言っていた正確な文法だとかそういうものとはまた違うと思う」
「まだ喋れる方がいたのですね! それはかなり貴重です。それで地方の訛りのようなものが加わって書物に残されている古語とは違いが生じたのでしょうか」
「そうかもな。言葉は生き物だ。使われていく内に徐々に変わってゆく。今では君の言う通り喋れる人間が少ないから、内緒話のときなんかは助かるんだ。だから君みたいな人がいるとびっくりするけどね」
「そうですか。しかし内緒話は他に誰もいない場所でするべきです。どこでもその言語がわかる人間がいる可能性はゼロではありませんから」
至って真面目にアドバイスをしたつもりが、オラントはいかにもおかしなことを聞いたように声を上げて笑っている。
「君は本当に面白いなあ、ルル」
「面白いことは言っていませんが……」
「面白いよ。君みたいな人には会ったことがない。そうだ、乾杯がまだだったな」
オラントは少し中へ入り、グラスを二つ持って帰って来る。
ルルはアルコールが飲めないので断ろうとしたが、「ほんのおしるしだけだ」と押し切られ、やや緑がかった琥珀色の液体の満ちるグラスを持たされてしまった。
「二人の出会いに」
そう言ってグラスを合わされて、オラントに飲むよう促される。仕方なく少しだけ口に含むと、甘い芳醇な味わいが口の中で細かく弾けた。
「アルコールは久しぶりなのか?」
「ええ。苦手だとわかってから一度も口にしていません」
「そうか。でもこれはジュースみたいで美味いんじゃないか」
「そうですね。これは美味しいと思います」
勧められるままに二口、三口と飲んでしまう。最初に飲んだときはただ強い衝撃を感じて二口目など飲めたものではなかったが、この甘い液体はアルコールを含んでいるのかと訝るほどに飲みやすい。
「しかしどうしてバルコニーであんなに静かにしていたんだ? 具合でも悪いのか」
「いいえ、私は夜会に来るといつもこうなんです」
「いつも? そりゃ驚いたな。じゃあ、一体何のためにここへ?」
「父に言われているからです」
「夜会へ行けと? なぜ」
「婚約者がいるからです。彼が恥ずかしくないようにせめて参加だけでもしろと言われています。ですので、参加はしているのです」
「つまり君は夜会は嫌いだが、お父上に言われて最低限の参加をしているのだと」
「そういうことになります」
父、アーカスタは常にルルに言い聞かせてきた。
『この家の栄光はお前にかかっているのだ、ルル。お前がエルシ殿と結婚することで、ギューゼント家の地位は揺るぎないものとなる。お前はとても大事な役割を担っているのだ』
(お父様はエルシの話をするときだけ、私を見てくれます)
愛人の子として引き取られたルル。ギューゼント家の者として恥ずかしくないようにと、様々な習い事をさせられ多くのことを指導されたが、ルルには何ひとつまともにこなすことはできなかった。
やがて皆が呆れてルルを放り出したとき、彼女の居場所は家の書庫になった。暇さえあれば書庫に引きこもり本を読んでいる。そこで勝手にいくつもの言語を覚えたが、誰もそれを気にかける者はなかった。
未だ上流階級の女が仕事をすることは恥と思われているこの国では、女が何ヵ国語喋ることができようと無意味だったからだ。周辺国の言語くらいは嗜みの内だったが、それよりも、行儀作法やダンス、歌、楽器、裁縫、社交術などをこなすことが重要だった。
だが女として最も大事なのは、結婚して子を成し、育てることである。人と目も合わせられずまともな会話もできず挙動不審で、一人で本ばかり読んでわけのわからない言葉を喋るルルが結婚などできるはずもないと思われ、その時点でルルに価値はなかった。
しかし、どういうわけかルルはエルシの婚約者となったのである。エルシ本人が、ルルを選んだのだ。
ルルの唯一の拠り所であり、その一言でルルの運命を決めることができる父は、この変わり者の娘に、何よりもエルシとの結婚を最優先するようにと命じた。
『何事も、エルシ殿の意に沿うように。言われた通りにしていれば何の問題もない。エルシ殿はお前を気に入ってくださっているのだから、そのお気持ちを損ねないように』
(そう、私はエルシを第一に考えなくてはいけません。その規則がまず最優先。お父様は明確な指示を与えてくださいました。私はそれに従っていればいいのです)
具体的な命令をされることはありがたい。ルルは婉曲表現や空気を読むことなど、言外の意図を察することがとても苦手だ。すべて言葉の通りにしか解釈できないので、ストレートに物を言ってくれた方がずっとよく理解できる。
「しかしここにこうしているんじゃ、夜会に参加していると言っていいのかわからんな」
「いいのです、婚約者にも挨拶は済ませました。これ以上のことは私にはできません」
「その婚約者とダンスはしなくてもいいのか? 同じ場所にいるのに、挨拶だけしておしまいなのか」
「夜会に参加するという以外に具体的な指示をされていませんので。彼も忙しいので私にだけ構ってはいられません。私が彼といて有益なことは何もありませんし、私の父も私の能力を知っていますので、必要最低限以上のことは求めていないと思われます」
オラントはまじまじとルルを観察する。
「なるほど、婚約者といっても、純粋に家同士の契約のようなものなのかな。君はその相手に好意はないのか?」
「結婚は義務です。女性であれば必須です。結婚し子を成し家を存続させることが存在意義ですので」
「君はそのような枠に嵌められるような人には思えないが」
「ええ、私もそう思っていました。ですが婚約者として求められた以上は責務をまっとうしないといけません。何よりこれは父の命令です。私の生活費はすべて父が出しています。父の言うことは絶対です」
「ふふ、そうか。そう言われるとわかりやすいな。まあ、君ならば他に活路を見出すことも可能だとは思うが、コサスタでは無理か……」
オラントはやや同情的な眼差しでルルを見た後、ふとおかしそうに頬を緩めた。
「しかしこの国はそういった前時代的な風潮がありながら、男女関係にはなかなか緩いのがふしぎだ。婚前交渉は普通だと聞くし、年頃になって恋人の一人もいなければ、人格に問題があるのではと捉えられる。結婚後も愛人の一人や二人を持つのはむしろ上流階級では男女ともに嗜みとさえ聞く。姦通罪も存在しないし、実に興味深いお国柄だな」
「オラント、あなたの言っていることはよく理解できません」
「女性によき嫁、よき母であれと強制する一方、貞節を求めていないことが面白いと言ったのさ。通常、女を子作りの道具としか捉えていない場合、人権も軽視され行動を制限されているものだ。ところが、この国では性に関して女性も奔放であることを許されている。家の『もの』でありながら、他の種を孕んでしまう可能性があることはどうでもいいらしい」
ルルは首を傾げた。
(確かに私の亡き母もお父様の愛人でした。でも、公式にその関係が許されていたなんて聞いたことはありません。そんな状況が蔓延しているとも思えないし……オラントは何の話をしているのでしょう)
これもまた、皆の言う『暗黙の了解』というものなのだろうか。
ルルには言葉に隠された意味がよくわからない。はっきりと直接的に言ってくれないと理解できないのだ。だからもしもオラントの言うようなことが現実にあるのならば、友人もほぼおらず隠語も解さないルルには知り得ない世界である。
「そういったことは私にはわかりません。ですが、私は父に純潔であるようにと固く言いつけられています」
「そりゃ、どこの父親もそう言うだろう。自分がどれだけ不倫していようが、愛する娘にだけはいつまでも幼く愛らしくあって欲しいものだ」
「いいえ、そういう感情面からのことではありません。私の婚約者がそう強く希望しているからです」
「そうなのか。それは表向きのことだとは思うが……」
まあ、もっと飲めとオラントは気づけば空になっていたルルのグラスを奪い、二杯目の飲み物を持ってくる。もういらないと思っているのに、魅惑的な甘い香りが漂うと、どうしても再び口をつけてしまうルルである。
「とりあえず、君がどうしてここにいるのかはわかった。運よく面白い令嬢に出会えて俺は嬉しいよ」
「そういうあなたはなぜここにいるのですか、オラント」
普段は他人の行動になどまったく興味が湧かないルルだが、流暢にトスケ古語を操る彼のことは多少なりとも気になった。また、久しぶりに飲んだアルコールの影響も大きいかもしれない。普段ならば初対面の人間とはまともな会話も難しいが、言語への興味と酔いと火照りがルルを変えていた。
「俺か? 俺は見聞を広めるために外遊中なのさ。その途中でここに招待された」
「招待、ということは、やはりあなたはトスケの貴族ですか」
「まあ、そんなようなものかな。やはりっていうのは、君は俺の身分をわかっていたのか」
「まず第一にトスケ古語は富と時間を持て余した階級の人間しか学ぶことはありません。そしてお連れの方の言葉遣いからあなた方が主人と従者であると判断したことと、あなたの服装から、身分の高さが窺い知れました」
「裕福な平民という可能性もあるんじゃないか」
「裕福でも平民であれば、まず実用的な言語を学ぶでしょう。それに、あなたの現代トスケ語の特徴として、限られた上流階級の間でしか見られない発音があります。富裕な平民もそういった発音を学ばせようとわざわざ教師を雇って子どもに習わせることもあるようですが、それだけでは身に着けられない、訛りの一切ない純粋な発音です。具体的に言うと、平民では弾音もしくは声門閉鎖音になる発音があなたは」
「待て待て、頼むから待ってくれ。わかった、君の言っていることは正しいよ、ルル。完璧な推察だ」
二度目の中断に、ルルは思わずムッとする。最初もトスケ古語のことを話そうとして止められた。結局、喋りたかったことはほんの少しだけしか口にできていないままだ。
「……オラント、あなたは私が言語のことを喋り始めると必ず遮ります。私はもっと喋りたいのに、強制的に止められるととても気持ちが悪いです」
「あのな。君は言語学のことになるとあまりに専門的になるんだ。俺にはわからないから話を中断した。君だって興味のないお喋りをしたくないから、こうして夜会で他人を避けてバルコニーにいるんだろう?」
それはその通りだった。聞きたくもない興味のないお喋りに、どこまでが本音で建前なのかわからないお世辞、阿諛追従。常に裏の意図を探って気を張る時間は苦行でしかない。
ルルはオラントの言葉を理解した。そして、彼の率直な言葉が偽りでなく、正直に自分の気持ちを伝えてくれるものであることが、自然と感じられた。
「あなたの言う通りです、オラント。確かに意味のわからない話は苦痛ですね。教えてくださってありがとうございます」
そうお礼を言うとオラントが飲んでいたものを危うく噴き出しかける。何かおかしなことを言っただろうかとキョトンとしていると、異国の男は白い歯を見せて笑った。
「そんなことで礼を言うなよ。君は本当に面白いな、ルル。嫌味かと思ったがそういう顔でもないし。喋っていてこんなに新鮮な気持ちを感じたことはない」
「あの……礼を言うな、とは? 普通は言わないものなんですか」
「普通が大多数という意味ならば、そうだろうな。俺にとっては些細なことだからわざわざ礼を言ってくれるなと口にしただけのことだ」
そうですか、とルルは小さく吐息する。
いつもそうだ。どうしてここでそういう反応をするのか、なぜ今そんな話をするのか、と奇異な目で見られたことは何度もある。
今の言動は間違っていたのか。じゃあ、正しいものは何なのか。
戸惑っても、正解は誰も教えてくれない。教わらずともわかるのが普通だからだ。ルルは喋る度に『変な子』と距離を置かれてずっとそのまま一人ぼっちである。だから、会話など楽しくない。他人に興味がなくても、嫌われたりおかしいと思われるのは嫌だ。次第に、誰かと喋ること自体が怖くなった。
(でも、オラントにはそれを感じません。異国の人だから、ということもあるでしょうか。私が何を言っても何をしても、この人なら大丈夫、と私はどうして思っているのでしょう)
それはルル自身にもわからない。他人も、自分も、心の動きに関することはすべて苦手だ。理解できない。