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白薔薇の花嫁 異国の貴公子は無垢で淫らな令嬢に溺れる 3

第三話

 

「オラント、お察しのこととは思いますが、私は少し……いえ、大分普通とは違うようなので。皆さんが誰かに教わらずともわかるようなことが、私にはとてつもなく難しいのです。主に人との交流について、私はいつもひどく困惑します。だからいつも一人です」
「それじゃ、友人はいないのか。君と話をしてくれる人は?」
「一人だけ。サリアというとても優しい人で、私を理解しようとしてくれます。それと、エルシ……婚約者も、私を変だと言って攻撃したりはしません。私を受け入れてくれています」
「いいじゃないか。一人でいることは全然悪いことじゃない。そして少しでも君に寄り添ってくれる人たちがいるなら、それほど最悪な環境でもないな。それに、君の理解者に俺も加わるわけだし」
「あなたが?」
「今色々と話を聞いたじゃないか。そして俺はもっと君を理解したい」
 オラントは黄金色の瞳を輝かせルルの肩に触れた。
 あ、と声を上げそうになった。温かい、大きな掌。毛皮のケープ越しにも伝わるその感触が、人に触れられるのが嫌いなルルを驚かせたが、ふしぎと振り払おうという気にはならなかった。恐怖や混乱ではないが、鼓動が速い。これは何なのだろう、とルルは内心興味深く思う。
「トスケ古語がわかる女性がこの国にいるだなんて思いもしなかったし、今夜出会えたことは奇跡だ。運命だよ」
「あ、あの……断言してしまうのはいかがなものかと。奇跡は目には見えませんし、運命も科学的に実証されてはいませんので」
「あはは! そういうところだ。本当に面白い。いいんだ、根拠がなくたって、俺がそう感じているんだから」
「そうなのですか」
「ああ。形がなくたって見えなくたって、人は何かを信じることで幸福になれるのさ。今夜は本当に思わぬ収穫があった。来た甲斐があったよ」
 ふと、オラントは何をしにここへ来たのだろう、とルルは思う。夜会に出るということは社交界で顔を広げるだとか特定の誰かに挨拶をするだとか、様々な思惑があるものだ。特に、異国から来たオラントには明確な目的があったはずである。
 けれど、彼もルル同様に、人目を避けるようにバルコニーで従者と密かに会話をしていた。そしてルルのことを思わぬ収穫と言っているのなら、新しい誰かとの出会いを求めていたわけでもなさそうだ。
 そんなことを考えながらぼんやりしていると、ふと自分が今何杯飲んだのかわからなくなっていることに気づいた。そしていつの間にかオラントに肩に腕を回され、彼の分厚い胸板にもたれかかっていたが、酔いの回っているルルはまるで平気だった。
(新しい発見です。人に触られるのは大嫌いなはずなのに。そうか、アルコールですね。人は酔うと普段理性で抑圧している人格が出てきたりするようですが、私にはそういう効果があるようですね)
 アルコールで感覚が鈍り、普段ぁら感覚過敏なルルはそれが和らぐのだろう。以前は酔うまでもなく飲むのをやめていたので気づかなかったのだ。
 そんな分析をしながらルルはオラントの声を近くで聞いている。
 喋っている誰かと接触していると、体自体が楽器になったように一緒に響く。オラントの声が皮膚から入り骨を伝わり、鼓膜を震わせる音と共に情報としてルルの中に入ってくる。人と普段接触しないルルの、初めての非常に興味深い体験であった。
「もっと違う感じ方があるのでしょうか……」
「え?」
「あなたの声が、私の中に。もっとあなたを深くで感じるとどうなるのでしょう」
 疑問に思っていることを口にすると、ふっとオラントの表情が甘く、優しくなる。
「それは……俺を誘っているのかな」
「誘う? 何に誘うのですか。あなたを違う形で感じる手段を探っているのです」
「独特なアプローチだな。面白い」
 オラントの大きな手がルルの頬を撫でる。ルルはどきりとしたが、そのぬくもりの心地よさに思わず目を閉じた。
「いいよ、二人で探そう。しかし、ここは寒いな。ずっとはいられない。俺の家に来ないか」
「あなたの家? まさかこれからトスケに戻るのですか」
「いや、ここに別荘のようなものがある。度々来るので毎度宿を取るのも面倒でな」
 異国に家を持つ方がずっと面倒なのでは、と思ったが、どうやらオラントは随分裕福な貴族のようなので、家を買うのもりんごをひとつ買うのと同じような感覚なのだろう。
「それとも真っ直ぐに家に帰らないとだめか」
「夜会に行った後すぐに家に帰れとは命令されていません。ですが私には他に行く場所もありませんから、いつもは好きなときに迎えを頼んで帰ります。私はあなたがいなければ予定していたページ数読んですぐに戻るつもりでおりましたし、ここから屋敷まで近いので散歩でもしていくつもりでした」
「じゃあ、俺の家に来ても問題はないな」
「あなたの家はとても興味深いのですが、責務以外の場所へ行って大丈夫なのでしょうか。退屈な夜会よりもずっと面白いとは思うのですが」
「だって君の父親は夜会に顔を出せと言っているだけなんだろう? それが終わったのだから、後は君がどこに行こうと問題ないはずだ。まあ……噂好きの連中に見られたら面倒かもしれないな」
 そう言うやいなや、オラントはルルを抱え上げた。
 急に体勢が変わってルルは目を白黒させる。人ひとりをいとも容易く持ち上げる腕も胸も、力強く揺るぎない。まるで熊にでも抱きかかえられているようだ。
「声を出すなよ」
 言われるままにルルが口に両手を当てると、なんとオラントはルルを抱え上げたまま、二階のバルコニーから飛び降りた。

   ***

 馬車で三十分ほど走っただろうか。貴族らの住まいが並ぶ閑静な郊外にオラントの別邸はあった。
 外見はそうこの国の家々と変わりないが、中に入ればそこはまさしくトスケ王国の宮殿をそのまま持ってきたかのような、コサスタにはない異国情緒あふれる美しく輝く内装が施されている。
 鮮やかな青と金の文様で彩られた繊細なタイルが壁や天井を覆い、素晴らしいステンドグラスが燭台の明かりの中、神秘的に浮かび上がっていた。
 物珍しげに部屋を見回しているルルに、オラントは少し心配そうに声をかける。
「ここに来るのは嫌だったか」
 無言で首を横に振る。オラントという人物に興味があったので、もちろん家に行くことは嫌ではない。
 しかし馬車の中でもルルはずっと無言だった。少し強引に連れて来てしまったために、ルルが腹を立てているのではとオラントは気遣っていたのだ。
「じゃあなぜ何も喋らない」
「……喋ってもいいのですか」
「もちろんだ」
「あなたが声を出すなと言ったので」
「あ……、なんだ、そういうことか」
 オラントは破顔し、大きな声で笑った。その顔を見ながらルルは僅かに微笑む。
(大きな人なのに、笑うと子どものようです。表情もたくさん変わって、面白い。見ていて飽きません)
「あのときは、飛び降りるのに悲鳴でも出されたら、ちょっとした騒ぎになると思ってな」
「本当に驚きました。私を抱えて二階から飛び降りるだなんて。私なら間違いなく両脚を複雑骨折しています」
「あのくらいの高さならどうってことはない。柔らかい芝生の上も選んだし、このくらいで怪我をするような鍛え方はしていないさ」
「あなたは普通の貴族のお家の出ではなさそうですね。そんなに鍛えて誰と戦うのですか」
「戦うというよりは、身を守る、かな。まあ、あとは単純に俺が昔からそういうことが好きだったのさ。体力が有り余っていてね。生来のものはどうしようもない」
 オラントは使用人に言いつけてチーズやドライフルーツなどの簡単な食事と飲み物を持ってこさせた。
「ルルは甘いものが好きなようだから、俺の国の甘い酒を飲んでみて欲しい。ツイという酒で俺も好物だ」
「いえ、でも、もうアルコールは」
「少しでいいよ。優しい味で美味いんだ」
 乳白色の酒を口に含むと、やや酸味があり舌に細かな炭酸が感じられ、爽やかな甘さだ。これもまたいくらでも飲めてしまいそうである。
「美味いだろ?」
「ええ、美味しい。お酒といっても色々あるのですね。私は最初に飲んだものが本当に不味かったので」
「俺もどの酒を飲んでも酔いはしないが好き嫌いはある。自分の舌に合った酒を選べば人生はもっと豊かになるぞ」
 長椅子に隣り合って座り酒を飲んでいると、視界がゆるゆると回り始める。
(これ以上はだめです……わかっているのに、美味しくてやめられない……このまま眠ってしまいそうです……)
 あまりに心地よい酔いに身を任せながら、ルルは気づけばドレス一枚になり、オラントと密着している。
「あれ……? 私のケープは……」
「暑そうだったから脱がせた。そこに置いてあるよ」
「あ……それは、どうも……」
「ルル、大丈夫か? 結構たくさん飲んでるけど」
「そ、そうですよね、美味しくて、つい……、あっ」
 指先まで覚束なくなり、持っていたグラスから酒が胸元にこぼれてしまう。
 ルルのドレスは胸元が大きく開いている。それはルル本人の希望ではなく、ギューゼント家お抱えデザイナーがルルを最も魅力的に見せるデザインがこれなのだと主張し、いつもそういったものを着せられているのだ。父アーカスタもこれでエルシ殿に気に入られるのなら、とどんな衣装でもデザイナーの言うままにさせる。ルルは自分のために作られるやけに露出度の高いドレスが嫌いで、いつも肩から何かを羽織ってそこを隠しているのだ。
 だから、気づいたときケープがなくなっていたのには少し動揺した。それも酔いで有耶無耶になってしまっているが、酒までこぼしてしまって、酔い過ぎていることを自覚せざるを得なくなる。
「おっと、せっかくのドレスが汚れてしまうな」
「あ、オラント……」
 オラントはなんとルルの胸元に顔を近づけ、こぼれた酒を舌で舐め取った。ルルは飛び上がって驚いた。
「わっ……」
「すまない、拭くものが近くになくてな。しかしルル、君は実に魅惑的な存在だな……これじゃ、少々食事が大変なんじゃないのか。胸元を汚すのは日常茶飯事だろう」
「え、え、いえ、別に……慣れていますから」
 肌を直接舐められてさすがに驚愕したルルは、ゆらゆらと揺れながら何とかオラントの問いに答えている。
 ルルは思春期以前から乳房が急成長してしまい、妙に前に迫り出しているので歩いていれば足元など見えない。オラントの言う通り、食事も少々厄介だ。食卓についても胸が邪魔でテーブル近くに寄れない。しかしもう何年もこの体型とつき合っているので、不便かどうかは、慣れてしまって自分ではわからなかった。
「夜会ではどうして隠していたんだ。この国では女性の豊かな胸元は最高の美とされているだろう? そのために、それを強調するドレスばかりだ。君のこの夜会服だってそうだろう。あの宴の場で、君より素晴らしい胸の持ち主など誰もいなかったぞ」
「あの、その、嫌なんです、見られるのが。注目されるのは嫌いです。だからいつも隠しています。これは父が作らせたものですので、拒絶することもできませんし」
「なるほど……もったいないな。君ほどのものは俺も見たことがない。これが婚約者のためのものだけになってしまうとは、なかなかに口惜しい」
「わ、私は、こんなものに価値を見出しませんし、別に……あの、お、オラント、あまり触らないで」
 オラントはルルの胸を舐めてからもそこから離れず、なぜかドレスの生地の上からゆるゆると両手で揉んでいる。
 わけがわからなかった。何のためにそんなことをしているのか。
「触られるのが嫌なのか?」
「あの、私、そもそも他人との接触が苦手なのです、昔から」
「そうか。嫌な感じがする? 今も?」
「あの、今は……わかりません。お酒で意識がふわふわと浮くようなのです」
「じゃあ、嫌だと思ったら言ってくれ。そうしたら、俺もやめる」
 思わず頷くルルだが、オラントが何をしたいのかわからない。
(どうしてオラントはこんなことをするんでしょう? もしかして、私が知らないだけでこれが普通の交流なんでしょうか? ああ、何もわかりません。どうしましょう。とにかく、落ち着かなくては)
 酔いに呑まれながらもパニックになりそうになり、ルルは必死で自分が落ち着く方法を考えた。
「あ、あの、オラント」
「うん?」
「あの、あの、トスケ古語を、トスケ古語を喋ってください」
「なんだ、いきなり」
「あの響き、落ち着くのです。うっとりしてしまいます。あなたのトスケ古語が聞けるのではないかと、正直思って、私はここに来たのです」
 オラントは不意をつかれたように目を見開き、そして蕩けそうな甘い微笑を浮かべた。その表情を見てルルはドキンと鼓動が跳ねるのを覚える。
(なんて顔……すべてを受容するような、包み込むような……。私、オラントのこの顔を見ただけで体が変です。表情のよく変わる、面白い人としか思っていなかったのに)