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最強辺境伯さま(※ただし、DTヘタレです!?)は捨てられ令嬢をひたすら真摯に愛したい 1

第一話

 

 まばゆい明かりの灯された庭園の隅っこから、星の瞬く晴れた夜空を見上げるミュザは、暗く重たいため息をついた。
 生まれて初めて着せられたドレスは、深い青色の豪華で美しい意匠だが、痩せた身体にはいかにも不似合いで、浮かれる気持ちにはなれないでいる。
 ミュザの背後にそびえる公爵邸は、彼女がこれまで過ごしてきた孤児院の、古く汚れの染みついた建物とは比べようもないほど広く、清潔で、贅沢なものだ。
 現在、向こうの中庭では夜会が開催されている。美しく装った紳士淑女がワイングラスを片手に語らい合ったり、ダンスをしたりと楽しげに過ごしている音が、風に乗って聞こえてきた。
 しかし、未だにこの豪華な邸の雰囲気に慣れず、萎縮するばかりだ。

 ここはメルディス王国の王都ファレンにある、エブロス公爵邸の庭園である。
 エブロス公爵家は、メルディス王国の高位貴族だ。国王家の直系として何代も続く由緒ある家柄で、公爵は現国王の妹を妻としていた。
 その妻は十年以上前に早逝しているが、ふたりの間に生まれた息子は文官として王宮に仕えている。
 ところが、ミュザ自身は――。
 これから先のことを思い小さくため息をついたとき、ふと足元に何かの気配を感じたミュザはびっくりして飛び退いた。
 目を凝らすと、白いかぎしっぽの黒い子猫が、ミュザのドレスの裾に擦りついている。
「わ、猫ちゃん! こんなところでどうしたの、迷子?」
 猫を撫でようと、布のたっぷりしたドレスを押さえて屈もうとしたら、背後から人の足音が聞こえてきたので急いで振り返った。
 人目についてはいけなかったのに。
 だが時すでに遅く、ふたりの若い男性が、花壇の前に佇むミュザの前にいた。
「お嬢さん、おひとりですか?」
「どちらのご令嬢ですか? 見かけないお顔ですね」
 背の高い男性ふたりに囲まれる威圧感に、小柄なミュザはますます小さくなった。
「こんな愛らしいお嬢さんを夜会で見かけるのは初めてです。いかがですか、我らと一緒にワインでも」
 青年はそう言ってミュザの手にワイングラスを押しつけてくる。人にみつかってしまうとは思わず、ミュザは途方に暮れた。
「私、お酒は……」
「一口だけでいいから飲んでごらんなさい。とても甘くて飲みやすいものですから。もし酔ってしまわれても大丈夫、ちゃんと介抱しますよ」
 そう言って彼らはニヤニヤとよからぬ笑みを浮かべる。
 こんなとき、どうやって逃げればいいのだろう。困惑しているうちに、押しつけられたワイングラスを反射的に手にしてしまった。
「お名前は? この白銀色の髪、王家に連なるお血筋でいらっしゃる?」
「今日の招待客で王家の親戚筋ですと、マイヤー伯爵かランドル伯爵、あるいはルゼルト公爵でしょうか」
「ローゼン公爵家の遠縁の方も今日はいらしていますね。おお、もちろん夜会の主催者たるエブロス公爵閣下も!」
「しかし、エブロス公爵閣下にはご子息だけだ。お嬢さんはどちらの家の方で?」
 矢継ぎ早に質問攻めにされ、ミュザはほとほと困り果てた。
 髪飾りで盛られた髪に触れられ、必要以上に密着されて恐ろしかったので「ごめんなさい」と口の中でつぶやき、その場から立ち去ろうとする。
 しかし、ふたりに行く手を阻まれ、腕までつかまれてしまった。
「せっかくの夜会です。そんなに怯えないで、楽しみましょう?」
「お願いします、離してください……」
 孤児院に戻りたいと切実に願った。どんなにひもじくても寒くても、意地悪な修道女やいじめっ子がいても、孤児院にはミュザに懐いてくれる小さな子供たちがいる。こんな見知らぬ場所で、見知らぬ男たちにつかまって恐ろしい思いをすることなどなかった。
 それに、他人と接触していることがエブロス公爵に知られたら、きっと叱責を受けてしまう。公爵からは、夜会に顔を出してはならないと厳命されていたから。
 ただ、外の空気を吸いたくて、会場から離れた庭園に出てきただけなのに。
「逃げられると、余計につかまえたくなるなぁ」
 そんなミュザを嘲笑うように男たちは示し合わせ、前後で挟んで逃げ場を遮る。
「もう、帰るので。お願いです」
 弱々しく懇願するも、男たちは意地悪く笑ったままだ。
 そのとき、庭園の奥からこちらに近づいてくる足音があった。三人は同時にそちらに顔を向ける。
 現れたのは、黒く短い髪に黒い詰襟、黒い長靴、腰に長剣を吊るした姿――騎士だった。
 彼は、鋭く昏い瞳でまっすぐ男たちをにらみ据えると、芝生の上でさえツカツカと足音が聞こえそうな足取りでこちらに向かって歩いてきた。
「何をしているか。娘ひとりを取り囲んで、見苦しい。おまえたちは彼女に嫌われていることに気づいていないのか? だとしたらかなりのボンクラだし、わざとやっているなら度し難いクズだ」
 彼の声は低く静謐さすら感じさせたが、いきなり強い口調で非難されて黒い瞳に睥睨されたふたりの青年は、いきりたって騎士に詰め寄ろうとした。
 しかし、片方が何かに気づいてそれを制する。
「やめとけ、フォレストの騎士だ」
 その途端、ふたりは反論もせず、驚くほどあっさりと夜会の会場へ尻尾を巻いて逃げ去った。勝ち目がないと判断したのだろう。
 夜と同じ色の短い髪、すっと切れ長の黒い瞳がとてもきれいな青年だったが、眼光だけではなく全身から発する気配が鋭く、不必要にさわったら切れてしまいそうなほどだ。
 恐ろしく造作の整った美しい騎士だった。ミュザのいた田舎では、こんな立派な騎士を見たことは一度もない。
(なんて、きれいな人――)
 不思議とミュザは彼が怖くなかった。
 ただただ騎士の顔立ちがあまりにきれいなので、声もなくじっと見惚れていた。
 しかし、彼は不快そうに眉根を寄せている。
 初対面の人の顔をじろじろ見るなんて、失礼ではないか。ミュザは我に返って、あわてて頭を下げた。
「あ、ありがとうございました……」
 黒い騎士は彼女を一瞥したが、返答することなくミュザの手からワイングラスを奪って踵を返すと、中庭へと向かっていった。
 その後ろにぴこぴこと揺れて見える白いものは、さっきの子猫のかぎしっぽだ。せっかく撫でようとしたのに、猫は騎士と一緒に立ち去ってしまった。
 一瞬の嵐が止み、静寂に放り込まれた気分だ。
 でもあの騎士は、困っていたミュザを見かねて助けてくれたのだろう。王都に来て、初めて人の親切がうれしいと思えた出来事だった。
 しかし、男たちは彼を「フォレストの騎士」と言っていたが……。
(フォレストの騎士――フォレスト辺境伯さまの……?)
 その名を思い出して、背中に冷たいものが走るのを感じた。
 それは、ミュザ自身の運命を変えてしまう恐ろしい名。
 安堵と恐怖に挟まれて、唇をきゅっと結んだときだった。
「ミュザさま! こんなところで何をなさっておいでですか!」
 ようやく訪れた静寂をつんざくように、今度は甲高い女性の声が響き渡った。
 次にやってきたのは、侍女のロザリーだった。長くエブロス公爵家に仕えており、現在はミュザの教育係でもある。
 三十代後半で、主のエブロス公爵に似てとても厳しい表情の女性だ。口調も、態度も、同様に厳しい。
「外へ出てはいけないとあれほど言っておいたではありませんか! さあ、エブロス公爵閣下がお呼びです。急ぎますよ」
「はい……申し訳ありません」
 早足のロザリーについていくため、慣れない裾の長いドレスと踵の高い靴で、必死に小走りになった。
 連れて行かれた応接室では、父のエブロス公爵が客と難しい話をしているところだった。
「陛下が……」とか「王家の血筋が……」などなど、扉越しに断片的に聞き取れる会話だけでも、ミュザとは縁のない世界が繰り広げられているのがわかる。
 雷が轟くような公爵の声と、それに負けず劣らず空気をびりびり震わせる野太い客の声に、ミュザはいちいち肩をすぼめ、時折びくっと身体を震わせた。
 大きな声は昔から苦手だった。怒声を聞くだけで心臓がきゅっと縮み上がり、どきどきして、呼吸まで苦しくなるからだ。
 ふたりは怒鳴り合っているわけではないが、ピリピリした雰囲気と強い言葉の応酬でミュザの心を疲弊させた。
 だが、そんな彼女の様子になどお構いなく、ロザリーはミュザを連れてきた旨を扉越しに告げた。扉の向こうのエブロス公爵が、重々しい口調で入れと命じる。
 豪華な設えの室内に足を踏み入れたミュザは、父の正面に座していた男性を見るなり息を呑んだ。
 口元を強(こわ)い髭で覆った巨漢が、値踏みする目つきでミュザを観察しているのだ。
 この男が、フォレスト辺境伯アスタリオンだろうか……。
 こちらをねめつける彼は、もじゃもじゃした顎髭のせいか老けて見えた。ただ、年齢は二十四と教えられている。実際、目には力があるし、肌には張り艶があったから、見た目よりずっと若いのは間違いない。
 フォレスト辺境伯は、近隣国との長い戦に終止符を打った王国の英雄、軍神とさえ呼ばれる青年。公爵家にやってきてから、毎日のように聞かされている名だ。
 険しい目、内心を決して見せない厳しい表情、一打ちでミュザを吹き飛ばせそうな大きな手。声が大きく、口調は強い。
 まるで、彼女の苦手を選りすぐって集めたような男性だった。
「ミュザ、ご挨拶なさい。この方はアスタリオン・ヴィル・フォレスト辺境伯。今年になってお父上から辺境伯を引き継がれた、メルディス王国きっての若き英雄だ」
「――はじめまして、辺境伯閣下。ミュザ・ヴィル・エブロスと申します」
 ロザリーに叩き込まれたとおり、どうにかつっかえることなく自己紹介した。しかし、声が震えてしまうのはどうすることもできない。
「ほう……」
 辺境伯は立ち上がり、大股にミュザの前まで歩いてきた。
(こっ、怖い……)
 彼の視線からのがれるためにうつむきそうになる顔をどうにか上げ、表情も必死に取り繕ったが、心臓が早鐘のように打つ。
 目の前にやってきたフォレスト辺境伯は、見上げんばかりの大男だ。ミュザが小柄なせいもあって、視界には彼の鳩尾あたりしか入らない。
 このままでいたら気絶しそうなほど、辺境伯の威容は圧倒的だった。
「ずいぶん髪を短くなさっているのですな」
 野太い声で指摘され、竦みあがった。短い髪が目立たないよう、結って大ぶりな髪飾りで留めてあるのに、一目で見抜かれてしまった。
 メルディス王国では貴族も平民も、女性の髪は長いものと相場が決まっている。女が髪を短くしているのは主に、神職に就いているか病人か、あるいは罪人のどれかだ。
「子供の時分より病気がちだったゆえ、長く領地で療養しておりましてな。なに、今ではすっかり健康ですから心配はいりません。母親が早逝しておりますので、そのまま修道院で行儀見習いをしておったのですよ」
 もちろんその逸話は、あらかじめ公爵が決めていた嘘の設定だ。
「いかがです、私の自慢の娘です。物静かで心やさしく、働き者です。この娘をフォレスト辺境伯の許に嫁がせましょう。きっと、気に入っていただけるかと」
 ミュザは、このフォレスト辺境伯という巨漢に嫁ぐため、孤児院から連れ出されたのだ。
 昨晩エブロス公爵からそれを聞かされたミュザは、青ざめ、卒倒しそうになった。だがもちろん、拒否や拒絶は許されない。
(どうか断ってください……!)
 心の中で祈りながら、手を握り合わせて震える。辺境伯に断られれば、用なしとして元いた孤児院に帰れるかもしれない。
 しかし無情にも、辺境伯は重々しくうなずいた。
「わかりました、エブロス公閣下。娘御をフォレスト辺境伯の妻として迎え入れましょう」
 公爵の手前、顔が強張らないよう必死に微笑を保とうとするものの、自分でもどんな表情になっているのかわからない。
「おお、気に入っていただけてよかった。では、くれぐれもよしなに頼みますぞ」
「娘御はいつフォレスト領へ?」
「来月にはそちらに向かわせます」
「では、こちらもそのつもりで準備をしておきましょう」
 立ち寄ったついでに、ちょっとした贈り物をもらった。そのくらいの気軽さでフォレスト辺境伯は請け合い、最後にミュザの顔をじっくり眺めると、用は済んだとばかりにさっさと応接室を後にする。
 辺境伯が立ち去ると、エブロス公爵はほっと胸を撫で下ろした。
「なんとか公爵家令嬢として取り繕えたな。いいか、ミュザ。おまえは辺境伯夫人になる。せいぜい彼に取り入って『よい妻』になれ。くれぐれもエブロスの家名に泥を塗ることがないよう、出立までの一ヶ月間、ロザリーに礼儀作法を叩き込んでもらうのだ」
「ですが、公爵さま。私は……私には辺境伯さまの妻なんて、やっぱり無理です……」
 昨晩は仕方がないと承諾してしまったが、彼の巨躯を一目見て心が折れてしまった。
 それに、読み書きはなんとかできるものの、深い教養もなければ、貴族の礼儀も知らない。嫁ぎ先でボロが出るのは避けられないだろう。
 しかし、それに対するエブロス公爵は冷ややかだ。
「反抗するならば構わん。だが、あの孤児院は取り潰す。私が命令すれば、明日にでもあの古ぼけた修道院もろとも、跡形もなく更地にできる」
 その言葉を聞いた瞬間、ミュザの中の小さな希望は完全に潰えた。
(やっぱり、公爵さまが私のお父さんなんて、嘘だったんだ……)
 孤児院では、この白銀色の髪がたいそう嫌われた。他の孤児たちからではなく、修道女たちから。
 なんでも白銀色の髪は、メルディス王国では貴族の血を汲むといわれているそうだが、ミュザは親のいない孤児だ。
 どこかの貴族の私生児として生まれ、邪魔になったので捨てられたのだろうと、悪意を込めた声で言われてきた。
 実際、孤児院にまっとうな志を持つ大人はおらず、食うために仕方なく孤児たちを養育していたから、子供たちは愛情のひと欠片さえ与えてもらえない。
 特にミュザは、貴族男にひどい目に遭わされた修道女から標的にされた。恨みを晴らすための身代わりのように、食事を取り上げられたり、手荒に扱われてきたから、いつも寒くて痛くてお腹を空かせていた。
 ほかの子供たちも修道女たちの振る舞いを見て、同様にミュザを標的にした。「ゴミ」と罵り、髪を引っ張り、わずかな食事も奪っていった。ときには、寒い冬にバケツの水を頭からかけられたこともある。
 それでも、少ないながらに友達はいたからやってこられたのだ。
 しかし、孤児院には十六歳になると置いてもらえなくなる。友達は幸いにして、行商に訪れるやさしい商人の娘として引き取られていったが、ミュザは行く当てもなく、修道院に残って子供たちの面倒を見る側に回るしかなかった。
 古参の修道女からは相変わらず冷たく扱われていたものの、小さな子供たちがミュザを慕ってくれたので、気持ちを奮い立たせて前向きにがんばってきた。
 その運命が変わったのは、一ヶ月前。
 十七年間、孤児として育ったミュザに、父親が現れたのだ。
 残される孤児たちのことは心配だったが、親元に戻るのは小さな頃からの夢だったし、父もミュザを引き取ることを強く望んでくれていたので、王都の大きなお邸に招いてもらった。
 とてもうれしかった。けれど、公爵の目的は、生き別れた愛娘を引き取って父娘生活を始めることではなかった。
 引き取った理由は親子の情からではなく、政略の道具に仕立て上げるため。
 そうと知ってミュザは絶望した。
 このひと月、淑女教育と称して、侍女頭のロザリーからとても厳しい躾をされた。その間にエブロス公爵と親子の会話をしたことはない。
 もしかしたら、髪や瞳の色がたまたま同じだっただけで、本当は血のつながりなどないのかもしれない。
(しょせんゴミだから捨てられたんだよ、おまえなんか)
 孤児院の意地悪な修道女たちの声が聞こえた気がして、ミュザは泣きそうになる顔を持ち上げて、涙を涙腺の奥へと逆流させた。
 つらい記憶ばかりではあっても、そんな中で小さな幸せをいくつも見つけてきた場所だ。今もまだ、たくさんの幼い子供たちがあそこに預けられているから、取り潰しになどさせるわけにはいかない。
「……辺境伯さまに、嫁ぎます」
「それでこそエブロス公爵家の娘だ。今夜はもう遅い、早く休みなさい」
 機嫌よく言うと、公爵もすぐに部屋を出て行った。まだ中庭では夜会が盛況なので、そこへ戻るのだろう。
 ミュザは震える唇をぎゅっと噛みしめたが、公爵の命令には逆らえなかった。

   *

「エブロス公爵の白ダヌキめ、気持ち悪いくらいに露骨でしたな。新辺境伯をなんとしてでも味方に引き入れようって魂胆が見え見えです」
 エブロス公爵家の夜会から帰還し、居間へ戻った髭モジャの騎士ライオルドは、自らの主人にそう報告した。
 先ほど、フォレスト辺境伯を名乗ってエブロス公爵と面会していた巨漢である。
 ここはメルディス王国王都にある、辺境伯の邸宅(タウンハウス)だ。
 今回の王都行きは、新辺境伯の挨拶のための初訪問だったが、残念なことに国王不予とのことで謁見は叶わなかった。
 国王は、先日の狩りで落馬してから体調が思わしくないらしく、巷では、命に関わる大病に発展したなどという噂すらある。
 公式の謁見ができなくなった代わりに飛び込んできたのが、エブロス公爵からの夜会への招待であった。
「いつも以上に声がデカいぞ、ライオルド。見え見えもなにも、先方はそれを隠そうとしていないだろう。これまでもさんざん、自分に味方しろとうるさく手紙がきていたからな。だが、辺境伯は代が変わろうと中立の立場で、誰にも与することはない。ちゃんとそう伝えてきただろうな?」
 居間に戻ったアスタリオンは、剣やマントを外しながら髭モジャの臣下を見上げ、ため息をついた。
 先日来、エブロス公爵から自分に味方するよう親書が幾度も届けられており、そのたびに中立という立場を伝えてはいるのだが、公爵はめげなかった。
 アスタリオンが王都入りするのに合わせて夜会を開き、彼を懐柔しようと画策してきたので、面倒になってライオルドを代わりに行かせた。
 名代ですらなく、彼に「我こそがフォレスト辺境伯である」と名乗らせたのだ。
 アスタリオン自身は、辺境伯に追従する親衛隊に扮して、公爵家や夜会に招待されている客たちの様子をつぶさに観察してきたところだ。
 その夜会の場で、若い娘に絡む低能どもを見つけたので、ついでに追い払ってきた。
「もちろんですとも、アスタリオンさま。公爵の要求はこうでした。『国王陛下不予に際し、軍務長官アウザード公が私利私欲に走り、あろうことか己の息子を次期国王に据えようとしている。だがアウザード公のご子息は王家の血から遠く、己の息子こそ国王陛下と直接の血縁関係にあり、次期国王としてふさわしい。フォレスト辺境伯は、王家の血を守る騎士として、エブロス側につけ』ってことです。彼こそ自分の息子を王位に就かせたいのでしょうな」
「それはわかっている。だが、フォレスト辺境伯は代々国王にのみ仕える身。それ以外の貴族の派閥には一切関わらない。それを明言してきたかと聞いている」
「ええ、ええ、ちゃんと言いましたよ。あちらがどう受け取ったかまでは責任持ちませんがね」
「無責任な……」
 アスタリオンが白い目を向けると、巨漢はわざとらしく話題を変えた。
「ところで、その白黒の猫(ミャオ)は?」
 アスタリオンの足許に黒い子猫がおり、真っ白なかぎしっぽをゆらゆらさせながら喉を鳴らしている。
 しかし、ライオルドがチッチッと舌を鳴らして猫に手を伸ばしたら、白黒猫はすっとんで逃げていった。
 その後ろ姿を見送る髭モジャは、どこかさみしそうだ。
「公爵邸の庭にいたんだが、ついてきたので連れてきた。公爵家の飼い猫ではないというから、迷子の野良だろう」
「ほう、女性には手厳しいのに、猫にはおやさしいのですな。あっ、雄猫でしたか。だから新辺境伯は男色だなんて噂をされるのです。そうそう、それでですね、閣下に朗報をお持ちしたんですよ!」
「朗報?」
 ライオルドはむさくるしい髭面の下で、ぱぁっと花開くような笑みを作った。
「聞いてください。実はアスタリオンさまに、嫁をもらってきました!」
「よ――、は?」
 長い睫毛の下の瞳をぱちぱち瞬かせ、意表を突かれたアスタリオンは髭面を見返した。
「ですからぁ、嫁ですよっ、ヨ・メ! 二十四にもなろうという男前が、未だに恋人のひとりも作らずに独身ってのは、この世の損失に他なりませんて。先代も口にこそ出しませんがね、孫の顔が見たくて見たくて仕方ないんですよ。それにはまず、結婚しないことには。そこで、エブロス公が娘をくれると言うんで、遠慮なくいただくことにしてきました。いやはやライオルド、お手柄!」
「ちょっと待てー!」
 アスタリオンは立ち上がるなり、るんるんしているライオルドの胸倉をつかんで、その髭面に顔を寄せた。
「おまえなぁ、なに考えてんだ! 人の子をミャオみたいに。だいたい、娘なんかもらってきたら、フォレスト辺境伯はエブロス公についたと内外に知らしめてるようなものだろうが! 中立だって言ってるのがわからんのか、この脳みそ筋肉がッ!」
 人間の娘は、猫の子のごとくかんたんに拾ったりもらったりするものではない。
「まあまあ、そう言わずに。これもなにかの縁。それに、エブロス公側を油断させることもできます。どうせ味方につく気はないんでしょう?」
 あいにく髭モジャのほうが身長が高いので、アスタリオンの威嚇効果も半減してしまうのだが、ライオルドには残りの半分すら無効だった。
 なにしろ、生まれたばかりのアスタリオンの護衛役として、幼少期から傍にいた男だ。いくらアスタリオンが怒りを表明したところで「まあまあ」と丸め込まれてだいたい終わる。
「そもそもエブロス公に娘がいるなんて、聞いたこともないぞ」
「それが、幼い頃は病弱で、領地で療養してたとかなんとか。あぁご心配なさらずとも、白ダヌキ公爵に似ず、線の細いはかなげな美少女でしたよ。だからこそ承諾してきたんですがね。それにせっかくくれると言うんだから、喜んでもらっておきましょうよ。どうせ嫁探しなんてする気ないでしょう? 女は苦手なんですから」
「このっ……」
 アスタリオンは巨漢の胸倉をつかんでいた手を離し、男らしく整えてあった短い黒髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「嫁だなんて外聞のいいことを言ってその実、間諜に決まっているじゃないか。俺はあくまで国王陛下の忠臣だというのに、これでは陛下にいらぬ誤解をされるだろうがっ」
「そこらは事情を説明しておけばいいでしょう。よしんば美少女が間諜だったとしても、閣下の美貌で懐柔しちまえばいいじゃないですか。今さら『やっぱいらない』だなんて言い出したら、逆に白ダヌキに警戒されちまいますからね。この件で最も重要なのは、アスタリオンさまの許に嫁が来るという一点です!」
 アスタリオンは横目にライオルドをにらみ、深いため息をついた。
「……陛下に事の次第をお伝えできるように手配しておけ」
「かしこまりました! いやあ、楽しみですな、新辺境伯にかわいらしい花嫁御寮! ああ、花嫁の部屋も調えなくてはなりませんね」
「で、その娘の名と年齢は」
 つっけんどんに尋ねると、ライオルドは目を丸くして考え込んだ。
「名……たしか、ミュ、ミュア? ミュラ? そんな感じでした。年齢は、そういや聞いてませんが、見たところ二十歳にはなってない……かと。ちょっと気は弱そうでしたが、ちっさくて細くて別嬪でしたよ。最近まで修道院で行儀見習いをしてたとかで、髪は短かったですがね」
 いい加減な臣下に、アスタリオンは肺腑の底からため息を吐き出した。
「ちっ、しょうがない。エブロス公を失脚させたら追い返す」
「閣下、そんな」
「名前も年齢もわからん娘を、城の中に置いておけると思っているのか。実の娘かどうかも怪しいというのに」
「いいじゃないですか、実の娘でなくっても美少女には間違いありません。それよりも、この結婚にはフォレストの命運がかかってるんですよ。女嫌いの閣下に嫁を探せと無理難題を言うより、向こうから飛び込んできた細腕の美少女ひとり手懐けるほうが、臣下としては、はるかに助かります」
「だから、そういう問題じゃないし、俺は女嫌いじゃない。苦手なだけだ!」
「それを女嫌いだというのに……」
 ため息をつきたいのはこっちですよ。そんな顔でライオルドは実際にため息をついた。