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とにかく顔がいい上官(じつは魔王)に結婚を迫られてます! 1

第一話

 

「ほんとうにいいのですか、お嬢さま」
 ジェンキンス家に長く務める侍女は、震える手でハサミを握っていた。
 鏡に映る艶やかな金髪は、ほのかにピンクがかっている。ストロベリーブロンドと呼ばれる、稀有な髪色だ。
「切ってちょうだい。ばっさりと」
 ケイティ・ジェンキンスは、楚々とした外見とは印象の異なるアルトの声で答えた。
 貧乏男爵家の長女に、人生の大きな岐路が訪れる春。
 腰まで伸ばした美しい髪を、侍女がおそるおそるひと房持ち上げ、ハサミを入れた。戸惑う刃先が、肩口で髪を切り落とす。シャキ、シャキン、と小気味良い音がして、徐々に頭が軽くなっていくのを感じ、ケイティは小さく安堵の息を吐いた。
 ――これで、お父さまもお母さまも納得してくださるはずだわ。
 大陸でもっとも広い領地を誇るフェイデルグ王国には、近隣諸国とは違って騎士団がない。その代わりに、王立軍が国を守っている。
 軍人の多くは貴族や商家の次男、三男で、家督を継ぐ権利を持たない者が生計を立てるために入隊することが多い。
 近年は戦闘もほとんどないため、軍人が市井で飲み明かしているのは平和の証、などと揶揄されるが、それはあながち間違いではない。平和は何よりも尊ばれるべきものなのだ。
 そんな平和なフェイデルグ王国において、ケイティの実家はある意味常に戦闘状態だった。
 実際に戦争が起こっているわけではないし、いがみ合っているわけでもない。
 しかし、間違いなく毎日が臨戦態勢。
 その理由は、仲の良すぎる両親にある。
 先日十八歳になったケイティは、長子で長女だ。下には弟妹が、合計六人。末の弟に至っては、まだ六歳になったばかり。
 貧乏男爵の家計に、七人の子どもは過酷としか言いようがない。それでなくとも、父はお人好しで知人の借金を肩代わりしてしまうような人だ。一時期は借金で弟妹たちの食費すら削ったほどである。
 つまり、ジェンキンス家は毎日が食糧戦争なのだ。
 ――今は、なんとか借金は返済したけれど、そのために農地を手放したせいで収入も減っているのよね……
 目先の問題は解決しても、今後のことを考えると不安しかない。
 去年、社交界デビューをかろうじて済ませたケイティに、両親はほのかな期待を寄せていた。
「ケイティ、家族思いのステキな結婚相手が見つかるといいわね」
「任せたぞ、ケイティ。いい男を捕まえてくれ」
 歯に衣着せず言うならば、結論は金満家と結婚して家を援助してほしいということだ。
 貴族令嬢として生まれたからには、家のために結婚するのは仕方がない。ケイティだってそのつもりでいたものの、一年がんばった結果、無理だと気づいた。
 生まれつき色白で華奢な体躯なこともあり、社交界の男性たちからは声をかけられることが多かった。
 一見、おとなしくて御しやすいと思われるのだろう。稀有な髪色も、興味を持たれる一因になる。
 その結果、遊び相手を探す者も、トロフィーワイフを探す者も、皆がケイティに近づいてくる。
 実家を支えてくれる資産を持つ男性を選ぶべし。
 頭ではわかっていたが、十七歳になったばかりの令嬢がそんなにうまく感情を制御できるわけもない。
 結局、社交界で出会う男性の誰ひとりにも愛情を見出せず、ケイティはいつも一歩退いて彼らの恋愛ゲームを見ていた。
 ときに、強引にケイティとの縁談を望む男性もいなくはなかったが、見た目の清楚さほどケイティはか弱い女性ではない。そして、酒で酔わせてどうにかしようとする不届き者に引っかかるほど、愚かなタイプでもなかった。
 簡単に言えば、若い令嬢を好きにしたいと思うような男性相手に、自分の、ひいては弟妹たちの人生を預けられないと判断したのだ。
 そして一年後、ケイティは招待状に返事を書くのをやめた。
 弟ふたり、妹四人が成人して無事に暮らしていけるよう、準備しなければいけない金額はわかっている。今すぐに全額が必要なわけではない。
 合計額は目が飛び出るほどだが、一年ずつで考えれば無理のない金額である。
 だったら、働いて稼いだほうが心と体にいい。誰かのお金に頼って自分の心を殺すより、よほどましだ。幸いなことに健康な体と、貴族としてそれなりの教育を受けてきている。
 問題は、どこで働けば十八歳の男爵令嬢が家族を養える給金を手に入れられるか。
 そこで白羽の矢が立ったのが、王立軍だ。
 フェイデルグ王国では古くから女性を軍に登用する歴史がある。もともと男女の能力差を認めた上で、双方の得意な部分を担うという文化があるおかげだろう。
 女性は主に文官として働くけれど、中には戦闘職の者もいる。体を動かすのが得意な人間には、性に限らずその者の能力をいかした配属を行うからだ。
 この国の誰もが、軍人になる道を許されていた。

 ケイティは一念発起して、王立軍の門戸を叩き、入隊試験に挑んだ。軍は入隊当初こそ給与は安いが、何かあったときの保証が厚い。寮もあるので、住まいにも困らない。何より王立ゆえ、安心感がある。そして、三年目以降となると給与はぐんと上がることが決まっていた。
 ――これで、わたしが結婚しなくたってきょうだいはみんな、幸せに暮らしていけるわ!
 だが、合格証をもらったケイティに、両親は顔を曇らせた。
 結婚して家を出ていくのと、就職して家を出ていくのは、貴族の令嬢としてはまったく意味合いが違ってくる。前者は祝福されるが、後者は周囲から白い目で見られる。
 それを知っていても、ケイティは軍に入ると決めたのだ。誰かの意見ではなく、自分の人生を自分が責任を持って生きていかなければいけない。むしろ、弟妹の未来もケイティの肩にかかっているのだから。
「切った髪は、まとめておいてもらえる? あとで売りに行く約束なの」
「はい、かしこまりました」
 肩口で揺れる短い髪が、ケイティに自由の軽やかさを教えてくれる。物心ついたときから伸ばしてきた。令嬢の嗜みだから、何も考えずそうしていた。
 けれど、長い髪はもう要らない。手入れに必要なオイルも、櫛も、結い上げるための手間も不要になる。これだけで、年間どれだけの節約ができるか考えると、ずいぶん心が軽くなった。
 もっと早く切っておけばよかったとさえ思うほどである。
 無駄にお金がかかる、ひらひらと揺れるフリルも、布をたっぷり使ったドレスも、装飾品も流行の羽根飾りも帽子も靴も、何も必要なくなった。
 ――だってわたしは、軍人になるんだもの!
 鏡に映る新しいケイティ・ジェンキンスは、短い髪の爽やかな女性だ。
 今までの自分を脱いで、初めて出会うこれからの自分。
 見通しは、明るいとは言えない。自分の甘さも知っている。それでも、前を向いていこう。走る力はなくたって、まずは一歩ずつ歩くことはできるはずだ。
 ――わたし、きっと立派な文官になってみせるわ!
 余談だが、美しいストロベリーブロンドはなかなかの値段で取引してもらえた。

 

 フェイデルグ王国は、緑に囲まれた自然豊かな国である。この百年で産業が発達し、経済的にも発展を遂げた。
 百年間ずっと平和な時代が続いているのが、文化の成長に大きく寄与している。
 国の豊かさは、平穏と相関関係にあるのだ。
 それより以前、この国は魔王軍との長き戦いに疲弊していた。そのため、土地こそ豊かなれど人々は苦しい生活を強いられていたのである。
 魔王軍は、魔王城からやってきていたと文献には書かれている。しかし、どの書物にも魔王城の所在は記述されていない。人々は、彼らの暮らすどことも知れぬ場所を魔界と称した。
 しかし、ある日を境に魔王軍の襲来は終わった。理由はわからない。そもそも、なぜ攻めてきていたのかも不明だった。
 ――とにかく、今はもう魔王軍は攻めてこない。だから、王立軍は平和の象徴!
 ついに入隊式を迎え、初めて着る軍の制服に心が躍る。
 フェイデルグの軍服は、孔雀色だ。フリルもレースもない代わりに、美しい緑青の濃淡がデザインを際立たせている。ミリタリーコートを模したような制服は、襟元と袖口とベルトが深みのある色で、スカート部分は一般的なドレスよりも二十センチほど短い。
 淑女は、足首をさらしてはいけないとされているが、動きやすさを重視した制服なので、ドレスの裾ではなく編み上げの長靴で足首を隠すようになっている。
 制服と同じ色の帽子は、社交界で見るような華美なデザインではなく、シンプルで機能性に優れていた。
 軍に入ることを決めたのは主に給与が理由だったけれど、この制服を着られるのが嬉しい。
 フェミニンなデザインより、ケイティは機能性の高いデザインを好ましく思っている。
 ――わたし、かわいらしいドレスよりも上品でシンプルな乗馬服のほうがもともと好きだった。
 令嬢たちに囲まれ、お茶会や音楽会に出席し、愛想笑いと流行のファッションの話ばかりしていたころ、朱に交わっても赤くなりきれなかった自分をここでは隠す必要がないのだ。
 同期入隊は、男性が八名。
 女性はケイティひとりなので、入隊式の会場で横一列に並ぶとひとりだけ頭の高さが違う。今年は女性隊員がひとりだけなのが残念だけれど、先輩隊員には女性もいる。軍全体における女性の割合はおよそ二割だ。その中で、貴族令嬢ともなると両手の指で足りる程度だろう。ただし、ケイティひとりでないことは知っている。
 男性の制服も、色味やデザインは同じだ。スカート部分がトラウザーズで、膝下まである編み上げの黒い長靴を履いている。
 ――みんな大きい。それに、逞しい。
 身長だけではなく、体つきもいかにも軍人といった屈強な同期たちを見上げて、間違いで戦闘職に配属されたらどうしようと一瞬だけ不安になった。
 だが、一瞬だ。
 これだけの人材がそろっているのに、わざわざケイティが戦闘に駆り出されることなどありはしない。
 むしろ、そんな状況になるとしたらフェイデルグ王国はたぶん手の施しようがない状態だろう。
 ――うん、大丈夫。我が国は平和!
 気を取り直して、式典に集中する。新隊員歓迎の挨拶をしているのは、髭をたくわえた筋骨隆々の壮年男性だ。名前を聞き逃してしまった。
 軍人となれば当たり前のことなのかもしれないが、同期だけではなく会場にいる男性のほとんどがムキムキに鍛えた体つきをしている。右も左もマッチョだらけ。その中で、ふと目に留まったのは長身ながらもすらりと細身の青年だった。
 彼の両隣に並ぶ男たちと比べて、体の厚みは半分ほどしかないのではと思わず余計な心配をしてしまう。それに、手足が長く顔が小さい。
 華奢にも見えるが、それは周りが異様に骨格逞しい者ばかりなせいで、その男性もじゅうぶんしなやかな筋肉をまとっているのだろう。
 ――階級章からすると……大佐? あんなに若くて、きれいな男の人が?
 ケイティが驚くのも当然だ。
 その青年は、艷やかな黒髪の持ち主だった。だが、彼の美しさはそれだけで語れるものではない。
 すべらかなひたいに、彫りの深い顔立ち。左右対称の目は、髪と同じく純黒だ。けれど、よく見ると黒いだけではなくほのかに紫がかっているのがわかる。いや、それも彼の美しさのすべてではない。
 精悍でありながら、どこか中性的な魅力を兼ね備えた輪郭と、顔が小さいゆえなのか長く見える首。細身であってもしっかりと鍛えられた体は、肩が張って軍人らしさも醸している。やはり、それすらも彼の美を表現しきれない。
 どうしようもないほどに、美しい。
 野獣たちの群れに放り込まれた姫君にすら見える。というのは大げさだが、あの美しい人が戦闘職だとは考えにくかった。聡明そうな顔立ちをしている。もしかしたら、文官かもしれない。
 ――ゴリラみたいな人ばかりだと思ったけど、そうじゃない人もちゃんと働いているんだ。わたしもがんばろう!
 マッチョ軍団へのかすかな不安を感じつつ、ケイティは新米軍人としての気持ちを引き締めた。

 入隊式が終わり、説明会の会場へ移動するよう指示があった。
 その間に多少時間の猶予があって、新隊員たちにとってはわずかな休憩となる。
 たった九名の新人たちに対して、集まったお偉方は三十名を超える状況だ。儀礼や規律を重視する軍ならではと思いつつ、ケイティは広間を出ていこうとその場を離れた。
「きみ、ケイティ・ジェンキンス」
 急に名前を呼ばれて、足を止める。
 先ほど全員が名を読み上げられたので、そこでケイティの名を知ることはできただろう。だが、いったい誰がケイティに用があるというのか。
「はい、ジェンキンスです」
 教えられたばかりの敬礼で、声をかけてきた相手に振り返る。
 するとそこには、式典の最中につい目を奪われた黒髪の美しい大佐が立っていた。
「突然失礼。私はリアム・ドゥ・イーヴ大佐です。きみの入隊志願書を読んだのだけど」
「は、はい」
 ――入隊志願書、何か不備があった? まさか今さら、入隊取り消しなんてことになったらどうしよう!
 心拍数が急激に上がりはじめる。軍の独身寮に引っ越しも済ませたあとだ。放り出されてのこのこ実家に帰ろうものなら、あとは好色な金満家に嫁ぐくらいしか道はなくなってしまう。
 ――お願いします。わたしをここにいさせてください!
 色素の薄い青色の瞳で、ケイティはじっとリアムを見上げる。その目に心のすべてを賭した。
 目の前に立つ彼は、遠目に見るよりさらに完璧な美貌の持ち主である。肌には毛穴すら見当たらず、髭一本も生えていない。つるりとした白い肌は陶器のようななめらかさだ。
 だが、今、そんなことはどうでもいい。
 自分の進退がかかっている。
「特技欄に、紅茶を淹れることと書いていたね」
「はいっ、書きましたっ」
 必死に軍人らしさを出そうとした結果、スタッカートの利いた大声になってしまう。これでは、軍人らしいというよりもやや粗野な印象を与えるのではないだろうか。
 ――紅茶? 紅茶に問題が? でも、ほかに特技らしい特技もぱっと思いつかなくて書いてしまっただけで、わたしは紅茶といつでも縁を切れます!
 混乱しつつも、ケイティは息を呑んでリアムの言葉の続きを待った。
 紅茶だなんて軍人らしくないと叱責されたら、もう一生紅茶を飲まない覚悟までしたところで、リアムはふわりと微笑む。ときが止まったように、周囲の喧騒が聞こえなくなった。
 心を引き込まれる――そんな、芸術品のような笑みだ。
「すばらしい特技だ。私は、紅茶好きが高じてフェイデルグへやってきたほどでね。研修期間を終えて、正式に配属されたあかつきには、ぜひ紅茶を淹れてもらいたい」
 ――ああ、なんて美しいのかしら。天使のような微笑み……!
 それまでの緊張が一気に緩和され、ケイティはリアムの微笑に見蕩れてしまった。
「なんだ、イーヴ大佐。新人を捕まえて紅茶教育か?」
 声をかけてきたのは、いかにも軍人といった風情のひたいに傷を持ついかつい男性だ。体の厚さはケイティの三倍もありそうに見える。重量級のわりに、口調は軽妙だった。
「サロンズ大佐、教育ではなく私のほうが彼女から学ばせてもらいたいという話だよ。彼女は紅茶を淹れるのが特技だそうでね」
「ふむ。貴殿の強さの秘訣が紅茶にあるのだとしたら、私もぜひ紅茶を学びたいところだ」
 巨躯のサロンズ大佐が、リアムを強いと評する。正直なところ、ケイティはリアムを文官なのではと思っていたくらいだ。とても戦闘職には見えない。
 ――だけど、先ほどのお話から察するともともとはフェイデルグの方ではないのよね。それにこの若さで大佐だなんて、よほどの功績をお持ちと考えるのが普通だわ。
 優れた文官もいるだろうが、三十前後にしか見えないリアムを考えれば、さすがに大佐までの出世は難しい気がする。
「きみは、今年の紅一点、ケイティ・ジェンキンスだな」
「は、はい!」
 再度の敬礼で、ケイティはごくりと息を呑む。
「私はジョージ・サロンズ大佐だ。イーヴ大佐の優男ぶりに騙されてはいかんぞ。彼は美しい笑顔で、軍随一の剣の使い手だ」
「そうなのですか……」
 返事をしながらも、サロンズ大佐の言葉をどこか信じきれていないケイティだった。
 天使のように美しい青年が、屈強な男たちの中で屈指の強者だとは話だけではピンとこない。
「なんだ。何も知らないのだな。イーヴ大佐は、ヒューゴ殿下の護衛隊隊長を務めているのだぞ」
「! 殿下の、護衛隊隊長ですか!?」
 軍のことは詳しくないケイティだが、自分の国の王太子の名前は聞き間違えたりしない。
 ヒューゴ殿下は、フェイデルグ国王の長男で伝説の勇者の再来と呼ばれる人物だ。明るく健康的で、国内でも非常に人気の高い人物である。民への愛情豊かな若き王子。フェイデルグ王国の誰もに愛されるヒューゴの護衛隊となれば、選りすぐりのエリートなのはケイティでもわかる。
 ――そのトップに立つ、護衛隊隊長!?
 腕前を見ずとも、リアムの実力が保証される事実を前に、ケイティは目を瞠った。
「この平和なご時世だからだよ。誰が護衛をしたところで、殿下の安全に変わりはないじゃないか」
 謙遜するリアムに、サロンズ大佐が「何を言う」と一歩詰め寄った。
「リアム・ドゥ・イーヴといえば、未来の元帥候補筆頭だろうに。我が国では初となる、国外出身貴族の元帥誕生と皆が噂しているのを私が知らんと思ったか?」
「サロンズ大佐は大げさだよ。私はただの紅茶好きのいち軍人だ。ケイティ、臆することなく紅茶を淹れてもらえるね?」
 話を聞けば聞くほど、リアムに対して自分とは遠い存在だという感覚が募る。
 ――軍には、すごい人がたくさんいる。ムキムキに鍛えている人だけが強いわけではないのね。
 ケイティはその事実を目の当たりにし、緊張気味にうなずいた。
「わたしでよければ、喜んでご用意させていただきます」
「ありがとう。楽しみにしているよ。研修期間はつらいことも多いだろうが、がんばって」
「はい、ありがとうございます」
 靴の踵を打ち合わせ、ケイティは敬礼の姿勢で頭を下げる。
 リアムとサロンズ大佐は談笑しながら、式典会場を出ていった。
 ――王太子殿下の護衛隊隊長で、国外の貴族で、剣の使い手で、紅茶好きで、天使みたいな微笑みのイーヴ大佐……
 情報過多な若き大佐は、その日からケイティの目の保養となった。

 

 半年の研修期間を終えるころには、同期の男性八名はすっかり筋肉信者になっていた。
 新米軍人たちの朝は早い。
 日が昇ると同時に彼らは部屋から飛び出し、ほぼ八名そろって寮舎の周囲を十周ほど走る。全身たっぷり汗まみれになってから、彼らは地面に伏して腕立て伏せを始めるのだ。
 寮の朝食は、研修生たちは朝七時から七時半の間に食べることが決められている。だが、七時半から正隊員たちの食事時間なので、研修生は時間の五分前には食堂を出るのが暗黙の了解だった。
 ケイティ以外の男性隊員たちは、食事開始の直前まで朝の運動をこなし、汗だくで食堂へなだれ込んでくる。半年間、毎日繰り返されるその光景は、ケイティがマッチョを苦手になるのに多大な貢献をしてくれた。
「ジェンキンス、おまえは相変わらず小さくて細っこいな。文官希望だからといって、体を鍛えなくていいわけじゃないだろ? まずはもっと食べないとな」
 同期の中でもリーダー格で、とりわけ体を鍛えることに夢中なライアンが、ケイティの正面の空いている席に食事のトレイを置く。パンもサラダもチキンもスープも卵もフルーツも、山盛りだ。見ているだけで、胃が重くなる。
「人にはそれぞれ得意分野があるものよ。それに、実践訓練だってきちんと合格をもらったから、わたしはこれでいいの」
 パンをちぎって口に入れ、ケイティはもぐもぐと咀嚼する。この寮の食事はおいしい。栄養バランスもいいのだろう。だからこそ、同期たちは半年で全員が立派なゴリラ体型に育っていた。
 ――わたしがライアンたちと同じくらい食べたら、まるまる太るのが目に見えてる!
「なんだ、ライアン。ケイティと食べていたのか」
「俺たちも座らせてくれ」
 寮舎に暮らす八十名余が一斉に座っても足りるだけの席があるのに、同期がわらわらと同じテーブルに集まってくる。
 ただひとりの女性研修生であるケイティに、皆が気を遣ってくれているのはわかっていた。社交界で見てきた男性たちと違い、自ら軍にやってくる者たちは女性を色眼鏡で見ることがない。ともに半年を過ごすうち、その点については彼らをとても好ましく思った。
 だが――
「見てくれ、この上腕二頭筋。最近、腕のトレーニングを重点的にやってるんだ。いい具合になってきただろ」
「実践には腕の筋肉も大事だが、握力も欠かせない。俺の握力はすごいぞ。握手一発で、相手の手を粉砕する!」
 食事の席だというのに、男たちはこぞって自身の筋肉自慢を始める。
 もりもりむしゃむしゃガツガツと、山盛りの食べ物が一瞬で消えていくのを見ているだけで、ケイティは満腹になってしまいそうだ。
 しかも、これが毎朝なのである。
 ――マッチョとは、仲良くなれそうにないわ。会話の緒がまったくわからないもの。
 今日も今日とて筋肉談義に花を咲かせる同期たちに、気づかれないよう小さく息を吐く。
「肉弾戦に持ち込もうとしているうちはまだまだ。俺の剣技は、先日イーヴ大佐にお褒めの言葉をいただいたんだぞ」
 ぴくっ、とケイティの耳が反応した。
 リアム・ドゥ・イーヴ大佐は、憧れの人だ。
 このムキムキマッチョだらけの軍において、一輪の花のように美しい男性。筋肉で目を慣らされている日々の、唯一無二の和みである。目の保養には、あの人の姿を見るよりない。
 ――だけど、あの体格で護衛隊の隊長なんだもの。ほんとうにすごい剣技をお持ちなのね。
 決して楽ではなかった、半年の研修期間。
 数日に一度、偶然見かけるリアムの姿がどれだけ励みになったことか。
 見たからといって、何かいいことがあるわけでもない。ただ、心の栄養だった。なんだかんだ言っても、ケイティだって年ごろのご令嬢育ちなのである。胸筋バーン! 脚力ドーン! 膂力ズーン! みたいな男性たちの中にいたら、美しいもので目を潤したい。
 ――この日々も、やっと終わる。
 研修が終われば、正式配属が発表される予定だ。これだけ戦闘職向きの体を作った男性たちがいるのだから、ケイティの文官希望は通るはず。通ってほしい。心から願う。
 給与のためだけに軍に入ることを選んだケイティも、国を守り、国のために働く意識を持った。研修には意味があると理解し、ここで生きていく決意も新たに、ケイティは騒がしい食堂でスープを飲み干した。

 

 それは、よく晴れた春の朝。
 寝起きから爽やかな鳥の囀りが鼓膜をくすぐる中、新隊員たちの配属先が発表された。
「ケイティ・ジェンキンス、王太子専属特別護衛隊に文官として配属を命ずる」
「はい!」
 ――やった、やったわ! 念願かなって、わたしは文官になれた!
 しかも、王太子専属特別護衛隊だなんて、新人には恵まれすぎた条件である。
 任命式が終わると、ケイティは思わずリアムの姿を探した。これから末永くよろしくしていただくために、まずは挨拶をしようと思ったのだ。
 だが、式典の間はいたはずの彼の姿がない。もう会場を出ていってしまったのだろうか。
「ケイティ」
「ひゃいッ!」
 背後から声が聞こえて、思わずその場で跳び上がる。やっと正式な軍人になったとたん、軍人らしさのない行動を取ってしまった。
 ――情けない……
 肩を落として振り返ると、そこに立っていたのはリアムだ。
「イーヴ大佐!」
 慌てて敬礼すると、彼は微笑んで「いいよ、楽にして」と手振りをつけて言う。
「きみには最初から王太子専属特別護衛隊という、重要な任務にかかわってもらうことになった。いろいろと戸惑うこともあるかもしれないけれど、困ったときはいつでも上官である私に相談してほしい」
「ありがとうございます。よろしくご指導ください」
「それと、ぜひ紅茶もね」
「はい、もちろんです」
 研修期間中、同期の仲間が体を鍛えることに没頭している間、実はひそかに紅茶の淹れ方を勉強してきた。基本的な茶の淹れ方はわかっているけれど、家族以外に淹れた経験はない。紅茶好きでフェイデルグに来たという彼に、満足してもらえるよう努力したのだ。
「前任の文官が昨秋に退職してしまい、護衛隊では書類仕事がずいぶんたまっているんだ。きみにはたっぷり働いてもらうよ」
「精いっぱいがんばります!」
 その日は、リアムについて護衛隊のメンバーに紹介してもらい、文官の執務室にも案内してもらった。
 護衛隊の面々は、王太子のそばに仕える機会も多いからか、あるいは隊長であるリアムに影響されてなのかはわからないが、皆一様に落ち着いて上品な人物が多い。ケイティの同期たちよりずっと鍛錬を積んだ体をした男性でも、急に脱ぎ出して筋肉自慢をしそうな者はいなかった。
 当たり前といえば当たり前のことなのに、それだけで感動してしまう。
 別に体を鍛えている男性を嫌悪しているわけではないのだが、年がら年中筋肉の話題ばかりだった半年に辟易しているのは事実だ。
 ――軍人としては、立派なこと。国を守るために、自身の身体能力を上げるのが大事なのはわかってる。
 この百年、平和の続くフェイデルグ王国ではあるけれど、だからといって軍人たる自分たちがサボっていていいわけではないのだから。
 最後にリアムは、自身の隊長室へ案内してくれた。整理整頓された、彼の温厚な性格がにじみ出たような室内だ。執務机の上には、羽根ペンが優雅に置かれている。
「さて、ケイティ。来週には、ここにきみ専用の机が入る」
「えっ、わたし専用の机が、大佐の個室にですか!?」
 意味がわからず目を瞬くと、リアムが口角をほのかに上げてうなずいた。
 ――紅茶担当の机……という意味ではないのよね?
 そもそも、上官の個室に机が入る理由がわからない。文官たちの使う執務室が、ケイティの職場となるはずだ。
「先ほども少し話したとおり、うちの隊はしばらく文官不在だったんだ。その結果、書類仕事が私のところにたまっていてね。まずはそれを片付けてもらうところから、きみにお願いしようと思う。最初のうちは私に確認しないとわからないことも多々あるだろう。執務室とこの部屋を行き来するのも手間かと思って、勝手に机を手配したんだけれど――」
 説明を受けて、やっと事情を把握して。
 ケイティはほっと安堵の息を吐く。
「わかりました。ちなみに、たまっている書類というのはどういうものですか? もしご迷惑でなければ、少し拝見したいのですが」
「ありがとう。目を通してみてほしい」
 棚から大きな木箱を持ち上げたリアムが、応接セットのテーブルにどすんと音を立てて置いた。たしかに、この木箱いっぱいに書類が入っているとしたら大量だ。
 そう思ったところに、さらに二箱の追加が並べられる。
「……ほんとうに、大量ですね」
 蓋を開けてみると、三箱ともぎゅうぎゅうに書類が詰められているではないか。文官がいなかったからといって、これほどの書類をため込んでいては業務に支障が出る。
「最低限、どうしてもすぐに提出しなければいけないものだけは、私が業務の合間に処理しておいたんだ。ただ、聞いているかもしれないが、私はこの国の生まれではないものでね。話をする分には困らないんだが、文字を読むのはあまり得意じゃない」
 なるほど、と腑に落ちるものがあった。
 識字が苦手ならば、書類仕事は苦痛だろう。まして軍内部の書類というものは、研修で学んできたかぎり、特殊用語が多用される。母国語ではない書面というのは、想像しただけでも読みにくい。
「わかりました。では、大佐のご迷惑にならないよう気をつけて作業をさせていただきます」
「とても助かるよ。護衛隊では、皆がきみを歓迎している。これからよろしく頼む、ケイティ」
 ――これだけ書類がたまっていたら、文官を待ち望む気持ちも……わからなくない、かな。
 窓際に立つリアムは、軍帽を脱いで胸元で腕組みし、彫像のように美しい笑みでこちらを見つめている。その紫がかった黒い瞳に自分が映っているのだと思うと、妙に心臓が高鳴った。


 週明けに、早速ケイティの専用机がリアムの隊長室に運び込まれた。
 研修である程度、書類仕事の処理については学んでいたが、現場に出てみるとわからないことだらけだ。その都度、リアムに質問をしての作業となるため、彼には迷惑をかけてしまう。
 ――大佐が隊長室にいる時間は、あまりない。訓練、演習、新人教育に、佐官以上が参加する定例会議と、いつも慌ただしくしていらっしゃる。
 リアムは人当たりがいいこともあって、若い軍人たちから相談を持ちかけられることも多いようだった。
 隊長室で書類仕事をしているとき、リアムのもとに人が訪れることも多々ある。そういうときには、紅茶を淹れることにした。来客もリアムも喜んでくれる。
 自分の業務外ではあるけれど、時間があれば焼き菓子も準備したいほどだ。
 ――だって、紅茶を飲むときの大佐はあまりに嬉しそうで、美しすぎて……!
 これまで研修期間に、偶然見かける彼を目の保養としてきた。今は、すぐそばで麗しい顔面を堪能させてもらっている。最近では、今後ともリアムが顔に怪我など負うことなく、いつまでも美しいままでいてくれるよう、寝る前に神に祈りを捧げるほどだ。
 今日はサロンズ大佐が訪れ、来月の式典における王族警備について話し合っている。
 顔に大きな傷のあるサロンズ大佐を悪く言うつもりはない。戦う者にとって、体の正面の傷は名誉なのだ。それは敵に背を向けなかったという証明になる。
 応接セットに向き合って座るふたりの大佐は、テーブルに広げた会場図を指さしては検討を繰り返していた。
「よろしければお茶をどうぞ」
 ケイティが紅茶を運んでいくと、とたんにリアムの口元が緩む。
 ふわりとやわらかそうな黒髪をかすかに揺らし、彼は「ありがとう」と破顔した。
「いつも助かるよ、ケイティ」
「いえ、そんな」
 サロンズ大佐は、およそ軍隊らしさのないのどかなふたりを見て、かすかに右眉を歪めた。
「ここはずいぶんと雰囲気が違う。もともとイーヴ大佐は軍人離れしたタイプだと思っていたが、秘書官がつくといっそうほのぼのしているな」
 いかついサロンズ大佐の口から出てくるには、ほのぼのという表現はあまりにかわいらしい。
「秘書官ではありませんよ。彼女は護衛隊所属の文官です。以前にも紹介したでしょう。紅茶を淹れるのが得意な……」
「覚えているさ。それを理由に、イーヴ大佐はジェンキンスを自分の隊にほしがっていただろう」
 ――えっ、そうだったの?
 リアムが直々に自分を所望してくれただなんて、今まで知らなかった。思わずリアムに熱い視線を送ってしまい、彼は照れたように頭をかく。まいったな、なんて心の声が聞こえてきそうな表情だ。
「サロンズ大佐、それは秘密にしてくださいと言っておいたのにひどいなあ」
「やあ、そういえばそうだった。ジェンキンス、今の話は聞かなかったことにしたまえ」
「は、はい!」
 敬礼ポーズで生真面目に返事をすると、ふたりの大佐が弾けるように笑い出した。自分の何がおかしかったのかわからず、ケイティは少々面食らう。
「なかなか真面目でよい隊員ではないか。イーヴ大佐は人を見る目がある」
「お褒めにあずかり光栄です」
 ――よくわからないけど、イーヴ大佐に迷惑はかけていない……ってことでいいのかな。
 自分の机に戻って、ケイティは書類を丁寧に並べ直す。これは、昨年の豊饒祭の提出用報告書だ。一年近く放置されていたことになる。前任の文官は昨秋に辞めたと聞いているから、それも仕方ない。
 豊饒祭には参加していなかったけれど、すでに今秋の豊饒祭の計画書が手元にある。それをもとに捏造して書くこともできなくはないが、
 ――さすがに、ありもしないことを書くのはよくないわね。
 ケイティは豊饒祭の報告書類を脇に寄せ、別の書類を箱から取り出した。
 こちらは決算のための支出額をまとめるものだ。これならば、すでにある資料から計算できる。そう、資料があればすぐに書き込める。問題は、隊の支出について金額をまとめた資料がないことだ。
 ――まずは、支出を全部書き出すところから!
 勘定についても、研修で習った。もとよりケイティは数字が苦手ではないので、このくらいならどうにかなるだろう。一年分もあるとはいえ、二日がんばればいける。
 集中してペンを走らせていると、
「ジェンキンス、よく励めよ」
 サロンズ大佐が声をかけて隊長室を出ていくところだった。
「は! ありがとうございます」
 直立して敬礼をひとつ。上官に対しては、何をするにも敬礼が必要なのが軍隊だ。
「ケイティ、僕は少し用事を済ませてくる。戻ったら、書類の手伝いをするよ」
「ありがとうございます。いってらっしゃいませ」
 一礼して頭を上げると、なぜかリアムは不思議そうな顔をしてまだ室内に立っている。何か無礼をしてしまっただろうか。
「あの、イーヴ大佐?」
 ――わたし、何かしちゃいましたか?
「ああ、いや、すまない。なんだか……」
 彼は口元に拳を当て、困ったように微笑んだ。
「まるで新妻から見送りをされたような気持ちになってしまって。男所帯が長いと、こういうとき妙に緊張してしまう。よくないね」
 軽く肩をすくめて、彼が部屋を出ていこうとする。しかし、扉の前で立ち止まり、リアムがこちらを向いた。
「そうだ。特技に書くだけあって、きみの淹れる紅茶はほんとうにおいしいよ。いつもありがとう」
「お口に合ったようでよかったです」
 ひそかに紅茶の淹れ方も勉強した甲斐があった。
「それで、もしよかったらこれからも僕に紅茶を淹れてほしいのだけど」
「かしこまりました。来客があるときだけではなく、という意味でよろしいですか?」
「そうだね。毎日、時間を決めたほうがいいかな?」
 孔雀色のコートを軽く払って、彼が思案顔で天井に目を向ける。
「では、業務に支障が出ない範囲で、毎日十五時にお願いしてもいいだろうか」
「はい。十五時ですね」
「きみの淹れてくれた紅茶を飲めるのは、とても幸せだ。いっそ、ほんとうに――」
 彼はその続きを言わずに、ひらりと手を振って部屋を出ていった。
 残されたケイティは、その場にしゃがみ込む。
「なっ、なんなの? かわいすぎません、うちの上官……!?」
 きれいでかわいくて、優しくて強い。そんな上官を目の当たりにして、胸の中がうずうずする。言葉にできない感情に、新米文官はひとり身悶えた。