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とにかく顔がいい上官(じつは魔王)に結婚を迫られてます! 2

第二話 

 

 ――あー、疲れた! 毎日、一日中座って書類仕事ってけっこうつらい。肩がこるし、脚がむくむ。
 寮に戻ったケイティは、狭い自室の簡素な寝台に勢いよく倒れ込む。
 どう贔屓目に見ても、豪華な部屋とは言い難い。しかし、この場所はケイティが文官として軍で働いているから与えられた部屋だ。自分の力で勝ち得た居場所。そう思うと、よく軋む寝台も、扉がはずれかけたクローゼットも悪くない。愛しいと思うほどだ。
 それにしても、研修中の座学では感じなかったが、ずっと同じ姿勢で仕事をするというのはひどく全身に負担がかかるらしい。
 ――わたしも、もっと運動をしておくべきだったかな。同期の男性たちなら、座り仕事をしても筋力があるから……
 と、想像してから、彼らの場合は一日中座っていることにそもそも耐えられないのでは、と気づく。
 適材適所。人には得手不得手がある。
「よし! ちょっと寮の中を歩いてこよう」
 独身寮とはいうものの、新米隊員から佐官まで八十名以上の隊員が暮らす建物だ。廊下をくまなく歩くだけでも、じゅうぶんな距離になる。なんなら、室内訓練場に行って体操をしてもいい。
 もぞもぞと寝台から起き上がり、鏡の前で帽子をかぶり直す。この制服はケイティのお気に入りだが、帽子が特に好きだ。髪を短くしたからこそ、実用的な帽子がよく映える。
 居室を出て鍵をかけると、ケイティは女性隊員たちの暮らす棟をじゅんぐり歩いて、階段をのぼって屋上へ向かう。途中、運動不足のせいか息切れしはしたが、しっかりとした足取りで屋上に出ると、星空が広がっていた。
 しばしそこで風に当たってから、建物の西側にある室内訓練場へ行くことにする。この時間なら、もしかして稽古をしている者もいるだろうか。夕食前の自由な時間に、自分以外の隊員たちが何をしているのか、少し気になる。
 ――イーヴ大佐は、お部屋でくつろいでいるのかしら。
 勤務中のリアムしか、ケイティは知らない。
 彼がプライベートでどんな趣味を持っているのか。どんな本を読むのか。どんな休日を過ごして、どんな女性と交際しているのか……
 ――上官のプライベートを詮索するなんていけないわ。それに、大佐がおつきあいされる女性なら、きっとステキな人に決まっているもの。
 やわらかな黒髪に触れる、白い指先を想像して、ケイティは自分が恥ずかしくなる。
 彼の髪に触れる女性というイメージが、ひどく淫猥な気がしたのだ。リアムは清廉潔白な男性で、勝手にそんな想像――あるいは妄想をする自分が下品に思える。
 ――新婚みたい、だなんて言って照れていた大佐、かわいかったなあ……
 だが、気づくとつい彼のことを考えてしまう。無理もない。今のケイティは、ほかの隊員と接することがほとんどない生活だ。
 文官たちの執務室で仕事をしていればまた違うのかもしれないが、しばらくは隊長室での書類整理が続く。だから、彼のことばかり考えてしまうのも致し方ない。
 考えごとをしながら歩いていくと、室内訓練場に続く拱廊まで来ていた。開け放した扉の向こうから、男性の声が聞こえてくる。この時間でも訓練に励む者がいるらしい。
 ひょいと中を覗くと、壁際に立つ者が数名、その中心で剣を握る者がふたり。
 その片方は、リアムだった。
 ――えっ、大佐が剣の稽古をつけているの!?
 彼が剣技に長けているという話は以前から耳にしていたが、その腕前を見たことはない。
 ケイティは、訓練場に入ってほかの見学者同様、壁際に立って目を瞠った。
 右手に構えた剣を、彼が振るう。動きはじめたときは、ゆるりと見える。けれど、その剣先が一瞬でヒュンと風を切った。
 一歩前に踏み込むのと、切っ先が相手の喉元に突きつけられるのはほぼ同時。
 わあ、と歓声があがり、リアムが剣を下ろす。剣先を下に向けてから、軽くひと振りして鞘に戻す所作が優雅だ。
 気づけば、ケイティは呼吸すら忘れてリアムを見つめていた。
 ――すごい。相手のほうがずっと腕が太くて、胸板も分厚いのに、大佐のほうが強いんだ。
 剣さばきまでしなやかで、ひとつの芸術として完成している。素人のケイティの目にも、彼が秀でているのは明らかだ。
「ケイティ」
 こちらに気づいたリアムが、右手を挙げて近づいてくる。
「イーヴ大佐、もう一戦お願いしますっ!」
「ずるいぞ、今度は俺だ!」
「俺だって!」
 離脱しようとしたリアムを、一斉に若い隊員たちが引き留める。それに気づいたリアムは、「今日はここまで」と笑って答えた。
「見に来ているとは思わなかった。ケイティも剣に興味があるのかい?」
「いえ、ちょっと寮内を散策していたらここにたどり着いた感じで」
「ああ、わかるよ。寮は広いから、散策のし甲斐がある」
 一日中同じ姿勢でいて、体が凝り固まったから散歩をしている――とは言いにくかった。そんなことを言ったら、リアムはきっと申し訳なさそうな顔をする。
 別に、彼のせいで書類がたまっているわけではない。
 だから、謝罪をしてほしくはなかった。
 ――それにしても……
 汗で黒髪が湿った彼はいっそう美しい。普段よりも色を濃くした髪は、色香を感じさせた。大人の男性にしてはかわいい発言も多い人だが、考えてみればケイティよりも年上で鍛え抜いた体の持ち主である。かわいいよりは、かっこいいが適切なのかもしれない。
 ――だけど、いちばんぴったりなのは『美しい』かな。
「あー、腹減った!」
 同期のリーダー格、ライアンが大きな声で天井を仰ぐ。
「夕食前がいちばんつらいよなぁ」
「夕飯まで、持たないんだよ」
「わかる」
「俺も」
 口々に空腹を訴える隊員たちを見て、リアムがかすかにため息をついた。
「寮の夕食は遅いからね。一日中、体を動かしている若い隊員たちは、この時間になると空腹なんだ。合間に何か食べられたらいいんだけど」
「イーヴ大佐でも、お腹が減るんですか?」
 紅茶を飲む姿ばかり見てきたせいか。
 あるいは、彼がガツガツと食事する姿を想像できないせいか。
 つい尋ねてから、ケイティは失言だったと反省する。
 誰だって、腹が減るのは当然だ。人間は食事をしないと生きていけない。
「そうだね。今日のように夕食前に稽古をつけていると、たまにお腹が鳴るよ。これは同期のみんなには秘密にしておくように」
「はい、大佐!」
 後半は冗談めかしたリアムに合わせ、ケイティもわざと真顔で敬礼をひとつ。
 ふたりはどちらからともなく笑い出した。

 

 室内訓練場でリアムが若い隊員たちに剣の稽古をつけているのを見た翌日、ケイティは休憩時間を利用してとあることをしようとしていた。
 昼食後の自由時間は、基本的に皆、趣味に使っている。読書をしたり、縫い物をしたり、たまに洗濯をする猛者もいるほどだ。文官執務室には女性隊員が多いこともあって、空いた時間を皆うまく活用している。
 その日、ケイティは昼食を手早く食べ終えると寮の厨房に顔を出した。
「すみません、ジェンキンスです。昨晩お願いした件なんですが……」
「ああ、王子の護衛隊の新人さんだね。ほら、材料は用意してあるよ!」
「ありがとうございます」
 昨晩のうちに相談して、昼休みに厨房を使わせてもらえるよう頼んでおいたのだ。
 ――大佐もお腹が減ると言っていらしたし、手軽にたくさん作れて、日持ちする焼き菓子を準備しておこう。
 紅茶を淹れるときに、一緒に出してもいい。
「あんた、その細腕で生地をこねられるのかい」
「実家では弟妹たちにおやつを作るのはわたしの仕事だったので」
「へえ、そりゃいいや。どれ、少し手伝ってやろう」
 料理長が手伝ってくれるとなれば百人力だ。
「それで、何を作るつもりかね」
「日持ちするように、ビスコッティにしようと思います」
「なるほど。あれなら十日くらいは持つ」
 しかも、成形がラクなので比較的手間が少なく作れる。弟妹のためによく作っていたので、レシピも頭に入っていた。
 ビスコッティとは、焼き菓子の中でも二度焼きして作る固い菓子である。バターを使わずに作れるところも便利だ。
 乾燥させた木の実と小麦粉、砂糖、卵をよく混ぜて練り合わせる。ヘラでさっくりと混ぜたところに軽く砕いた木の実を入れて、粉っぽさがなくなるまでよく混ぜて、調理台で棒状に伸ばす。
 これをオーブンで軽く焼いたら、冷めるのを待ち、手でつまみやすい大きさに切り分けていく。その後、切った断面が上に来るように並べて二度焼きする。
「……困った。冷めるまでけっこう時間がかかりそう」
 一度目の焼き作業は終わったものの、大量に作っているせいでいつもより生地が大きい。その結果、焼くのにも冷ますのにもだいぶ時間が必要になる。
「すみません。休憩が終わってしまうので、また夕方に来てもいいですか?」
「構わないけど、その時間は夕食のしたくで厨房は忙しくなる。よければこのあとの作業はしておいてやろうか」
「いいんですか?」
「ああ、あんたの作り方を説明していってくれ」
「はい。生地が冷めたら、だいたい一センチくらいにスライスして――」
 説明が終わると、ちょうど昼休憩の終わり近い時刻になった。
 料理長に頭を下げて、ケイティは仕事に戻る。勤務が終わるころには、二度焼きも終わってしっかり冷めているはずだ。
 ――イーヴ大佐、今日も訓練に参加されるかな……?
 午後は隊長室で作業をする予定になっている。タイミングがあったら聞いてみようかと思っていたのだが、その日にかぎって彼は忙しなく出入りをしていて、訓練について確認はできなかった。
 午後も無事、十数枚の書類を処理し、ケイティは寮へ戻る。
 自室に帰る前に厨房に寄ると、大きなバスケットにビスコッティがいっぱいに詰まっていた。
「料理長、ありがとうございます!」
「ああ、いいから持っていきな。試食にふたつほどもらっといたよ」
「味はどうでした……?」
 料理長が、いい笑顔で親指を立てた。プロの味覚で確認してもらえたら、自信がつく。
 ケイティはもう一度お礼を言って、夕食のしたくで忙しい厨房をあとにした。
 一度、自室に戻ろうか。それとも、このまま室内訓練場を覗きに行こうか。
 廊下を歩きながら考えていたのだが、思った以上にビスコッティを詰めたバスケットが重くて、ケイティは訓練場に直接向かうことにした。
 拱廊を歩いていくと、訓練中の声が聞こえてくる。マッチョだらけの同期を少々鬱陶しく思っていたけれど、筋肉自慢が暑苦しいだけで彼らの努力を否定するつもりはない。それどころか、毎日あれだけ勤勉に体を鍛えつづける根性に敬服の気持ちもある。
 ――ただ、場所を問わず脱ぎはじめるのはやめてほしい!
 ふう、とため息をひとつ。
 ケイティは入り口の開け放たれた室内訓練場を覗き込んだ。
 厨房に寄り道してきただけなのに、訓練中の隊員たちはすでに皆、汗だくである。ものすごい運動量と熱量に、目の前から熱い風が吹いてきた錯覚に陥る。
 邪魔しないよう、しばらく壁際で彼らの様子を見ることにした。残念なことに、今日はリアムの姿はない。
 ――大佐、今日は来ないのかな。
「ケイティ、今日も来ていたんだね」
「えっ!?」
 背後から声が聞こえて、ケイティはその場で跳び上がりそうになる。
 振り返ったところに、美しい男が立っていた。これまででいちばん距離が近い。見上げたところに、彼の顎先が見える。
「あ、あの、大佐がいらしているかと思いまして」
「僕?」
「はい、昨日、夕食前は空腹だとおっしゃっていたので、ご迷惑でなければこちらを」
 こんな美しい顔を間近にすると、人間はどうも平常心を維持できない。少なくともケイティは落ち着いていられなかった。
 ――いきなりお菓子を渡すって、上官相手にすることかしら?
「これは……」
 バスケットを受け取ったリアムが、上にかけていた布をふわりと取り払う。
「ビスコッティじゃないか!」
 彼の目が、きらきらと輝いているではないか。      
 もしかしたら、気に入ってもらえたのかもしれない。作ってきてよかった。ほぼ料理長が焼いてくれたものだけれど。
 ――いやいや、まだ食べてもらってないんだから、期待しすぎずに!
「僕は、以前からビスコッティを食べてみたかったんだ。これは、ミルクティーと一緒に食べるとおいしいと聞いたけど、間違いないかな?」
「そうですね。コーヒーと食べることが多いですが、実家の家族は紅茶に添えるのが好きでした」
「ぜひ、ケイティに紅茶を淹れてもらいたいんだけど、お願いできるかい?」
「もちろんです!」
 ふたりが話していると、食べ物の香りにつられたのか隊員たちが集まってくる。
「大佐、それは差し入れでありますか?」
「いい匂いがしています」
「焼き菓子か? パンか?」
 若い男性たちが、鼻をひくひくさせてリアムの持つバスケットに狙いを定めていた。
「これは、ケイティからの差し入れだ。皆、訓練を終えたらいただこう」
「「「はい!」」」
 訓練場の天井まで響く大きな声。
 隊員たちがこれほど喜んでくれるなら、また機会があれば焼いてもいい。だが、昼休憩だけで作るのは無理があるから、休日に厨房を借りるべきだろう。
「ケイティ」
 不意に、リアムが顔を寄せてきた。耳元に、彼の唇が触れそうな距離だ。
「ひっ!?」
「あ、ごめん。驚かせてしまったね」
「いいいいい、いえ、なんでもないです。すみません!」
「じゃあ、あらためて」
 今度は逃げないよう、彼がケイティの腕をそっとつかんで顔を近づけてくる。
 ――宣言されても、近いと緊張するっ!
 彼が顔を寄せているのは右側だ。首の右半分の肌が、ひりつくほどに粟立っている。肌感覚が鋭敏になり、彼の吐息がかすめるだけで体が震えそうになった。
「僕の分を寄せておいてほしい。あとで、きみの淹れてくれた紅茶と一緒に食べたいんだ。皆にはバレないように、こっそり頼むよ」
「わっ……わかりました……っ」
 小声がくすぐったくて、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。全身が発熱したときのように熱くなり、膝がカクンと崩れそうになる。
「ありがとう。楽しみにしているからね」
 爽やかな笑顔で、リアムが腰の剣に手をかける。
 バスケットとともに残されたケイティは、かろうじて壁に寄りかかって体を支えた。そうでもしなければ、このまましゃがみ込んでしまいそうだった。
 もともと、彼に食べてもらいたくて作った焼き菓子である。ケイティだって、ほかの隊員たちに食い荒らされる前にリアムの分を確保しておくつもりだった。
 ――でも、あんな、耳元で!
 破壊力満点のささやき声を聞かされては、腰も砕けるというもの。これはケイティが悪いわけではない。だからといってリアムが悪いと言いたいわけではないけれど、しいて言うなら彼の顔と声がよすぎるのが悪い。
 はあ、と息を吐いて、皆が訓練に没頭している間にこっそりハンカチにビスコッティを包む。
 上着の内側にそっとしまい込むと、潤んだ目でリアムを追いかけた。彼は今日も、涼しい顔をして後輩指導に当たっている。
 ヒュンと風を切る切っ先が、みるみるうちに幾人もの男たちを倒していく。やわらかな黒髪が、次第に汗で肌に張りつく様子が妖艶だ。
 形良い目も、細く優美な鼻筋も、かすかに微笑んでみえる唇も。
 何もかもが、ケイティの心を奪って離さない。
 ――研修生のころから心の安寧、目の保養のためにイーヴ大佐を見てきたけれど、あれほど近い距離でご尊顔を拝謁することになるとは思わなかったわ。
 黒髪をわずらわしげにかき上げたリアムが、ちらとこちらに目を向けた。
 その瞬間、ケイティの心臓が大きく跳ね上がる。彼はそんなことに気づきもせず、ひらひらと左手を振ってみせた。
 まったく、近くにいても遠くにいても、彼の言動に動揺してしまう。きっと、リアムの魅力が理由だ。誰もが彼に心動かされてしまうに違いない。
 夕食の時間が近づき、隊員たちが並んでリアムに敬礼する。今日の訓練が終わったらしい。
「ジェンキンス、焼き菓子をくれ!」
「俺にも!」
 同期を筆頭に、戦闘職の男性たちがわらわらと近づいてくる。
「いっぱいあるから、安心して」
「あー、腹減った!」
「おっ、うまそうだな」
 軍人になる者は基本的に体が屈強だ。背が高く、筋肉質な男たちといると、小柄なケイティはまるで肉の壁に囲まれている気分になった。まったく周囲が見えない。目の前には、訓練用の甲冑を身に着けた筋肉たちである。
「こら、そんなに取り囲むと彼女が怖がるよ」
 そこに、ケイティを救出してくれるリアムの声が聞こえてくる。
「大佐」
 思わずほっとして、彼を見上げた。近づいてきたリアムが、ケイティの手からバスケットを受け取り、隊員たちに手際よく配りはじめた。
「はい、ひとりにつきふたつ。知らないふりして二回もらおうとしてもバレるよ」
 リアムの手からビスコッティを受け取った者が、早速頬張ってボリボリと咀嚼している。飲み物なしで食べるには、固くて水分が足りないかと懸念もあったけれど、空腹の彼らにはそんなこと関係ないようだった。
「これは腹にたまるな!」
「よく噛むから、食べた感じがある」
「両手いっぱいに食べたいぞ!」
 そして、気づけばバスケットは空っぽになる。
 最後のひとつを、リアムが手に取った。
「はい、どうぞ」
「えっ……んぐ!?」
 声をかけられて、反射的に彼のほうを見上げると、ケイティの口にビスコッティが放り込まれる。せっかくひとつ残ったのだから、今ここで食べてもらえるかと思ったのに。
 ――大佐のために作ったんですよ、とは言えないし……
 それにしても、突発的に作ったにしてはよくできている。やはり料理長は偉大だ。
「よかったんですか? 大佐の分が」
「僕の分は、ケイティが寄せておいてくれたと信じてるからね」
 言われたからには、準備してある。だが、夕食前の空腹時に食べてもらおうと作ったものだ。最後のひとつは彼に渡したかった。
「それに、きみは味見していなかったんじゃない?」
「! どうしてわかったんですか?」
 目を丸くしてリアムを見上げると、彼がふわりと微笑む。
 噛み砕いて呑み込んだはずのビスコッティが詰まっているのかと思うほど、喉元で心臓の音が大きく聞こえた。
「なんとなく、そう思ったんだ。きみは弟妹が多くいると言っていただろう?」
「はい」
「献身的な長女は、自分の分を食べずに差し出すような気がしたから。せっかく作ってくれたのに、ケイティが食べないのはもったいないよ」
 意識して、そうしてきたわけではない。だが、たしかにケイティは自分の分を弟妹に分けてあげることが多かった。小さな弟、妹たちにとってお菓子は何よりの楽しみだと知っていたからだ。
 ――どうして、大佐にはわたしのことがわかるんだろう。不思議な人。
 彼の外見や優しさに魅了されていたけれど、リアムにはもっと内側に魅力がある。人をよく見ている観察眼だ。
 誰かが自分に気づいてくれるというのは、嬉しいことだと思う。
 ケイティは特に長子として育ったため、小さなお母さんの立場だった。それを当たり前だと受け入れてきたし、弟妹たちのためにはそうあるべきだと自分に言い聞かせていた部分もある。
 ――胸が、じんとあったかくなる。イーヴ大佐は、ほんとうに尊敬できる上官だ。
 この人の役に立てるよう、もっともっと尽力しよう。心の底からそう思い、ケイティは空のバスケットを受け取る。
「あの、大佐、よろしければなんですが」
「うん?」
「夕食後に、紅茶をお部屋に運ぶというのはいかがでしょうか?」
 執務中に来客があって紅茶を淹れることはある。だが、この提案は意味が違った。
 ビスコッティとミルクティーを試してもらいたい。優しい彼には、特別な準備をしたいのだ。
「もちろん、喜んで。きみのほうこそ、いいのかな?」
「はい。大佐の分は確保してありますので」
 いたずらな笑みを向けると、リアムも嬉しそうにうなずく。まるで、ふたりだけの秘密を共有している気持ちになる。
「では楽しみに待つことにしよう」
 隊員たちとともに、リアムが訓練場を出ていく。
 その背中をぼうっと見送ってから、夕食の時間が間近だと気づき、ケイティも拱廊を歩いて寮に戻ることにした。足取りが軽いのは、彼との小さな約束のおかげだとわかっている。
 軍に置いてある茶葉ではなく、ケイティが選んだお気に入りの一品を開けよう。ミルクティーにぴったりの香りが濃い茶葉があるのだ。彼の好みに合うといいのだが――

 

 その夜、夕食を終えて入浴を手早く済ませると、ケイティは髪も濡れたまま厨房で湯を沸かした。やかんはふたつ、片方は強火でもう一方は中火にしておく。こうすることで、ふたつのやかんの湯が湧くタイミングをずらす。
 紅茶を淹れるには、何はさておき熱湯が必要だ。沸騰するまでの間に、自室から持ってきたティーセットを洗って、水気を拭き取る。ティーワゴンに菓子皿を用意し、ビスコッティを並べた。
 強火にしておいたやかんの湯が沸いたら、ティーポットに熱湯を注ぐ。茶器を温めてから使うのは、茶葉が開くまでの間にお茶が冷めるのを防ぐため。
 ティーポットを温めている間に、残りのやかんの火を強める。こちらは、紅茶を淹れるために使う。沸騰したらすぐに使いたいから、茶器を温めるのとは別に準備するのだ。
 沸騰させてしばらく置いた湯は味が変わってしまう――と、紅茶の淹れ方の本に書かれていた。ケイティ自身はそこまで気にするほうではないけれど、昔から紅茶を淹れるときにはやかんをふたつ使うと教わってきたので、理由がわかって納得したものである。
 さて、ふたつ目のやかんが沸騰したら、ティーポットの湯を捨てる。ポットをやかんのそばに持っていき、茶葉を適量入れてから沸騰したての湯を注ぐ。茶葉に均等に湯がかかるよう留意する。あとはポットに蓋をして、ティーワゴンにストレーナーとカップと一緒に載せたら、リアムの部屋へ向かう。
 紅茶は三分程度蒸らすのがいい。移動中にできあがる算段だ。
 ――あまりもたもたしていたら、紅茶が渋くなっちゃう!
 急ぎ足で彼の居室へ向かい、ケイティは扉を前に呼吸を整える。ノックしようと右手を握り、妙に緊張している自分に気がついた。
 ――当たり前だけど、上官の私室に来るなんて初めてだ。
 入浴を済ませたケイティは、普段使いのドレスを着用している。軍の制服よりスカート丈が長いのは、足首を見せないように。足元は室内履きに履き替えていた。
 よし、と気合いを入れて扉を二回、コンコンとノックする。
「はい」
 すぐに、室内から返事が聞こえてきた。
「イーヴ大佐、ジェンキンスです。紅茶を運んでまいりました」
 言い終わると同時に、内側からゆっくりとドアが開く。
「ケイティ、ほんとうに来てくれたんだね。ありがとう」
 気品があって丁寧な口調のリアムが、嬉しそうに口角を上げて言った。
 湯上がりらしい彼は、髪がうっすら濡れていて色気がすごい。服装も、普段の軍服ではなくリラックスした様子だ。寝間着ではなく普段着なのは、ケイティが訪ねてくる約束になっていたからだろう。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「遅くなんかない。さあ、入って」
「はい、失礼します」
 室内に足を踏み入れたケイティは、居室を見回して目を瞠った。
 ――さすが大佐の居室! わたしの部屋とはぜんぜん違うわ!
 広さは、およそ倍程度だろうか。しかし、寝室は別になっていて居室に寝台はない。大きな長椅子と、美しい木目の丸天板が印象的なテーブル、壁際には書棚が並び、書庫かと見紛うほどの本が詰め込まれている。窓には高貴な紫色のカーテンがかかっていた。リアムの瞳の色を彷彿とさせる色味である。
「よければ座って」
 リアムが長椅子に座り、隣の座面をぽんと叩く。
「あ、いえ、ちょうど茶葉がほどよく蒸れたところです。すぐに紅茶を! 大佐、ミルクティーでよろしいですか?」
「うん、ありがとう」
 ティーワゴンをテーブルの横に運び、ケイティはカップにミルクを注ぐ。今日はミルクティーの予定だったこともあって、大きめのカップを選んだ。ストレーナーで茶葉を濾しながらゆっくり注ぐと、白いミルクに透明な紅茶が混ざり合う。
「ああ、いい香りだ。これは、いつも出してくれるのとは異なる茶葉を使っているね」
「はい。新しい茶葉を使ってみました。大佐のお口に合うといいのですが」
「すでに、かなり心をつかまれているよ」
 ティーセットと菓子皿をテーブルに並べると、彼が再度ケイティに向かって長椅子の座面を叩いてみせた。
「迷惑でなければ、一緒にどうかな。せっかくの紅茶だ。ひとりよりふたりで飲みたい」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
 自分の分も紅茶を注ぐと、彼の隣に浅く腰掛ける。ほんとうならば上官の隣に座るなど畏れおおいことだ。しかし、ひとり部屋のせいか長椅子はこれしかない。
「いただきます、ケイティ」
「お召し上がりください」
「ふふ」
「?」
「きみは、なんだかときどき僕の侍女みたいな話し方をするね。僕は上官ではあるけれど、きみの雇用主じゃない。もっとリラックスして過ごしてほしいな」
「リラックス、ですか……」
 そう言われても、上官を隣にどう過ごすのが正しいのかケイティにはわからない。
 隣り合った席に座り、ふたりで紅茶を飲み、焼き菓子を食べる。ただそれだけの時間に、緊張で指先がおぼつかない。
 ――イーヴ大佐と個室にふたりきりなのは、普段から慣れているけど……
 それはあくまで、任務だ。仕事だ。執務なのだ。
 こうしてプライベートの空間にふたりだなんて、相手がリアムでなくとも今までなかったことだった。ケイティには、異性とふたりきりで過ごした経験がない。社交界で遊び慣れた女性ならまだしも、男女の機微に関する経験値は赤子に等しい。
「思ったとおりだ。紅茶と一緒だと、たまらなくおいしいね」
 軽やかな音を立ててビスコッティをかじると、リアムが明るく話しかけてくれる。
「気に入っていただけて嬉しいです」
 初めて、これほどゆっくりリアムと過ごす。彼はいつも優しく紳士的で、すばらしい上官だ。研修生のころのケイティには、こんな時間が訪れるなんて想像もできなかった。
「それに、この紅茶は初めて飲むよ。少しスモーキーな香りがあって、ミルクティーにはとても合う」
「大佐は紅茶にお詳しくていらっしゃるので、たまには珍しいものもいいかと買っておいたんです」
「僕のために、わざわざ買ってくれたのかい?」
 リアムがまっすぐにこちらを見つめていた。
 その目で射貫かれると、息もできなくなる。魔法でもかけられてしまったかのように。
 ――そうだ。大佐の目は真っ黒じゃなく、少し紫がかっているんだったわ。
 リアムは異国の貴族だ。成人してからフェイデルグへやってきたと聞いているけれど、見た目は三十二、三歳にしか見えない。経歴を考えたら、もっと上かもしれないが、彼の美貌が年齢を曇らせている。
 実際は何歳なのだろう。いつからフェイデルグにいるのだろう。なぜ、祖国を捨ててまでフェイデルグへ来たのだろう。
 気になることばかりだけれど、上官に対して質問攻めをする勇気はない。ケイティは曖昧な笑みを浮かべて、紅茶を飲むことに集中した。正直、味はよくわからなかった。ケイティの舌の性能というより、リアムが気になってしまうせいだ。
「さっきから、何か気になることでもあるのかな」
「ど、どうしてですか?」
「ちらちら僕のことを見ては、目をそらすから」
 ふふ、と彼が笑う。まるでケイティの心を見透かしているような、甘く謎めいた笑い声だ。
「……あの、大佐は」
「うん」
 ――どうしよう。尋ねて失礼にならない質問は……?
「たっ、大佐の好きな食べ物はなんですかっ!?」
 考えあぐねた結果、口から飛び出したのはそんな問いだった。どうでもいいことを、やけに勢い込んで尋ねてしまった自分が恥ずかしくて、ケイティはその場に穴を掘って埋まりたい気持ちになる。
「……たべ、もの?」
 きょとんとしたリアムが、二秒ほど沈黙する。
 そして、次の瞬間。
 彼は、背をのけぞらせて笑い出す。軽やかなスタッカートが利いた笑い声に、ケイティはつい聴き惚れてしまう。
 ――こんなに楽しそうに笑う大佐、初めて見た。
 なぜだろう。心臓がぎゅっと締めつけられる感覚がある。リアムの楽しげな笑い声を聞けて嬉しい気持ちと、今まで知らなかった彼を初めて見られて光栄な気持ち。それと、おそらく今まで自分といて、リアムが心底楽しく感じてくれたことはなかったのかもしれないという申し訳ない気持ちだ。
「あはは、ごめんごめん。あまりに深刻な顔で考えているようだったのに、ためにためて出てきた質問が好きな食べ物って、つい笑ってしまった。ごめんね」
「い、いえ。わたしがヘンな質問をしたせいです……」
「僕は、紅茶がとにかく好きなんだ。正直に言うと、食事なんてしなくてもいいから紅茶が飲みたい。このせか……いや、この国に来たのもまさしくそれが理由でね」
「紅茶が理由で、故国を離れたんですか?」
 だとしたら、なかなかの猛者である。
 外国の貴族というからには、爵位も領地も領民も捨てて出奔してきたのだろう。貴族にとって、名誉と地位と領土は何より守るべきものではないのだろうか。彼の生まれ育った国は、フェイデルグとは考え方が違っているのか……?
「そう。きみたちにすれば不思議に思うかもしれない。僕の生まれ育った国には、紅茶というものが存在しなかったんだ」
 ――紅茶なんて、大陸のどこにでもある飲み物じゃないの!?
 ケイティが知らないだけで、紅茶のない国もあるのか。世の中は広い。
「自由に紅茶を飲みたいがゆえに、この国へ来て事業を始めた」
「聞いています。イーヴ商会ですよね」
「ああ。最初は自分のための紅茶を仕入れたくて貿易会社を作ったんだ。そのうち、思っていたよりも商会が軌道に乗って、ヒューゴ殿下と知り合うきっかけになった。その後は、殿下に声をかけていただいて、こうして軍人として働くことになったんだけど……おかげで、きみと出会えた」
 紫がかった瞳が、慈愛をにじませてこちらを見つめている。
 ――また、息ができない……!
 心臓が早鐘を打つ。全力疾走した直後のように、体の内側が熱を帯びていた。
「こ、紅茶くらい、いつでも……。あっ、おかわりを淹れますね」
 慌てて立ち上がったケイティは、ティーワゴンに近づこうとしてドレスの裾を踏んでつんのめる。
 あっと思ったときには、もう遅い。絨毯の上に、ティーポットが落ちて割れている。そして、ケイティのドレスのスカートに熱い紅茶が染み込んでいた。
「っっ……熱……ッ」
「ケイティ!」
 濡れたスカートの布地がケイティの脚に張りつく。淹れたてではなくとも、それなりに熱い。とはいえ、ひどい火傷を負うほどではなかった。
 長椅子から立ち上がったリアムが、ケイティの足元に片膝をつく。彼は、すぐさま両脇に手を入れてケイティの体を抱き上げた。
「え、えっ……!?」
 あまりの出来事に、一瞬痛みも熱さも忘れてしまった。だが、すぐに長椅子に下ろされて、ケイティは何が起こったのかわからなくなる。
「失礼するよ」
「あ、はい、あの」
 ドレスの裾が膝までまくり上げられた。
「っっ……!?」
 さすがに、異性の前でしていい格好ではない。だが、上官相手に「何すんのよ!」と怒鳴るわけにもいかなくて、ケイティはただ息を呑んだ。
「火傷をしていないか、確認させて」
「は、はい……お願いします……」
 リアムが靴を脱がせ、脚の様子を見てくれる。肌がうっすらと赤くなっているけれど、紅茶をかぶった瞬間にくらべればもう痛みは引いている。
 何より、彼に触れられていると、痛みが消えていく気がする。
「うん、大丈夫そうだ」
「…………」
 脱がされた室内履きが、絨毯の上に無造作に転がっていた。ケイティは、視線のやり場に困って自分の履物をじっと見つめている。
「よかった。きみの美しい脚が無事で」
「そ、そんな、わたしの脚よりも大佐の顔のほうがずっと美しいです!」
「僕が?」
「はい!」
 ――いや、それはそうなんだけど、今言うべきことではないわ。わたし、動揺しすぎじゃない?
「きみは不思議な人だ。僕の顔なんかより、嫁入り前の淑女の脚のほうが大事だと思うけど」
 少し笑ったリアムだったけれど、じっとケイティを見つめてくる。その目が、なぜかいつもと違って感じた。
 ――大佐……?
「脚だけではないね。きみは、どこもかしこも美しい」
「ご冗談はやめてください」
「冗談に聞こえるなら、まだ僕のことがわかっていないみたいだね」
 リアムがケイティの右手をそっと持ち上げる。触れた指先がくすぐったくて、恥ずかしい。
 ――何をするの? まさか、だってそんな……
 彼はそのまま、ケイティの手の甲に唇を寄せる。
 触れた瞬間、痺れるような甘い感覚が胸の奥に湧き上がった。
 ――イーヴ大佐が、わたしの手にキスしてる。そんなことってある? これは夢じゃないの?
 信じられない情景に、世界から音が消えていく。
 彼の伏せた睫毛が、白磁の頬に影を落としていた。その影さえも美しい。
「この手も、それからバラ色の頬もたまらないな」
「あ、あの、大佐、待ってください。わたしは……」
「待たない。こんな時間に、無防備な格好で男の部屋に来る新人には教えておくべきことがあるんだよ、ケイティ」
 何を言われているのかもわからず、ケイティはぎゅっと目を閉じた。彼が近づいてくる気配を感じる。頬に吐息がかすめて、それから――
「っっ……!」
 彼が、頬にくちづけるのがわかった。
 ――どうして、こんなことに? わたし、何かおかしなことをした?
「ねえ、ケイティ。きみの愛らしい唇は、僕が触れてもいいの?」
「わ、わたし……」
 今にも互いの唇が触れてしまいそうな距離で、リアムが尋ねてくる。ふたりの間には、小指一本分しか隙間がない。ともすれば、ほんの些細な衝撃で唇が重なってしまうほど近いのだ。
「どうかな?」
「ダ、ダメだと思います……っ」
「うーん。じゃあ、指だけなら触れても許されることにしよう」
 軽い拒絶をものともせず、リアムがふたりの唇の隙間に人差し指を挟み込んでくる。
 ――こ、こんなの、ほぼキスしているような……。いえ、違うわ。だって唇は触れていないんだもの。
 ケイティの唇を、彼の指腹がゆるりとなぞる。その感覚に、背筋が甘く震えた。
「んっ……」
 往復する指が、唇の輪郭をたしかめていく。ぷっくりと膨らんだ赤い下唇を彼の指がたどるたび、腰の奥に知らない感覚が澱をなしていった。
 どのくらいの時間が過ぎただろう。
 濡れたスカートが、ひんやりと冷たい。
「――ああ、これ以上は危険だ。ケイティが、もう僕に紅茶を淹れてくれなくなるかもしれない」
 そう言って、リアムが体を引いた。
 彼のぬくもりが離れていくと、やけに寂しさが心に込み上げる。
 ――理性的に、冷静に。
 自分に言い聞かせて、ケイティはリアムを見つめる。
「いえ、職務放棄はしません」
 唇以外の場所へのキスについて言及することを避け、これからも紅茶を淹れるつもりはあるし、仕事も当然続けるという意味で宣言した。しかし、彼は、
「それは、続きをしていいという意味?」
 かすかに首を傾げて、甘やかな光を宿した目でケイティの心を撃ち抜く。
「ち、違っ」
「だったら、今夜はここまで。もし続きをしたくなったら、いつでも僕のところに来て。ほかの男ではなく、僕のところに。いいね?」
「わたし、こんなこと、誰とも……」
「ケイティ、返事は?」
 わけもわからずうなずいて、ケイティは部屋を出る。
 廊下に、ぽたり、ぽたりと紅茶のしずくが落ちていた。ティーワゴンを置きっぱなしに、割れたティーポットもこぼした紅茶もそのままで、ケイティは道標を残して自室へ戻る。
 今夜起こった出来事は、現実だったのだろうか。
 あるいは、すべてケイティの白昼夢――いや、紫色の夜の夢だったのかもしれない。

 

 週が明けて、護衛隊に突然の遠征予定が入った。王太子であるヒューゴ殿下の命令で国境視察に出向くことが決まったのだ。
 遠征が一本入ると、その前準備で書類仕事は一気に増える。ケイティは、遠征に自分が出向くわけではないけれど、処理すべき書類がどんと増えた。
 それなのに、先週末からずっとケイティの集中力は家出をしている。
 思い出してはいけないと何度も自分に言い聞かせるものの、気づくとあの夜のことを反芻してしまう。なんなら、一時間以上にわたってひとりで百面相をしつづけていることすらあった。
 ――どうして、あんなことになったの? わたしが転んでティーポットを割ったから? だからって、どうして、き、きき、キスなんて……!
 唇にされたわけでもないのだから、そこまで気にしなくていいのかもしれない。舞踏会でダンスを踊るくらいの――
 仕事に集中できず、気づくとリアムのことばかり考えている。今もまた、そうだ。
「いけない。このあと、大佐のところに紅茶を運ぶんだから!」
 今日は、午後から客人があるとのことでお茶を頼まれているのだ。そろそろ時間になりそうなので、ケイティは書類の山から目をそらし、給湯室へ向かう。
 紅茶を淹れるのは、いい気晴らしだった。湯の沸騰する瞬間を見定めることもあり、目の前のことだけに意識を集中することができる。つい先日、ティーポットをひっくり返したばかりだから、いっそう気をつけて湯を扱った。
 準備をして、隊長室へ。
「イーヴ大佐、ジェンキンスです。紅茶をお持ちしました」
 ノックをして声をかけるも、返事はない。いつもなら、すぐに涼やかな声が聞こえてくるはずだ。
 ――もしかして、わたしが遅かったからお怒りに……?
 いや、時刻は指定された時間の二分前だ。では、何か緊急事態が発生したのだろうか。
「大佐、失礼します。ドアを開けます」
 ひと声かけてからドアを開けると、珍しいことにリアムが執務机で居眠りをしている。客人の姿はない。
 窓が開け放たれていて、心地よい風がカーテンを揺らしていた。
 室内に入り、ケイティはリアムを起こさないよう静かに近づく。ケイティの執務机の上に、一枚の紙がペーパーウェイトとともに置かれていた。
『本日の来客予定はキャンセル』
 なるほど、ケイティが文官の執務室に詰めていたから話が届いていなかっただけで、今日の来客は予定変更になったらしい。
 安堵の息を吐いて、揺れるカーテンを背に眠っているリアムをじっと見つめる。彼が目を開けているときだったら、きっとこんなに凝視することはできない。目が合うだけで、心臓が妙に高鳴ってしまうから。
 ――ふふ、なんだか微笑ましいわ。大佐でも居眠りすることがあるのね。
「ん……」
 小さくうめいたリアムが、右手で頭をかく。やわらかな黒髪が、日差しを受けて艷やかに輝いていた。
 違和感が、あった。
 ――待って、そんなの、おかしい。
 リアムの頭に見慣れないものが存在している。
 それは、人間の頭にあるべきではない。
「どういうこと……!?」
 形良い頭の左右、耳より上のあたりに黒いツノのようなものが生えているのだ。くるりと巻いたそれは、羊のツノにも似ている。だが、ケイティは古い書物で見たことがあった。黒く巻いたツノを生やした種族のことを、人は魔族と呼ぶ。
 ――もしかして、ここにいる大佐は偽者!? 魔族が、大佐に化けているのかも……!
「ん……、ケイティ? あれ、僕は居眠りをしていたのか」
 ケイティの気配に気づいたのか、リアムが目を開けてあくびをひとつ。
 いつもと変わらない彼だ。そう、ツノが生えている以外は、何もおかしなことなどない。
 いっそ、自分の目がおかしいのではないかと、ケイティは両手で目をこすった。しかし、何度見ても彼の頭にツノが生えている。
「た、大佐、ご本人ですか?」
 かすれた声で尋ねると、リアムがふわりと微笑んだ。いつもの美しい笑顔なのに、ケイティは不安と焦燥感が押し寄せてくるのを感じる。
「もちろん、僕だ。ケイティ、どうしてそんなに青ざめて――」
 彼は自分のツノに触れ、「ああ」とケイティの表情の理由に納得したようだった。
 紫がかった目を伏せて、リアムが困った様子で腕組みをする。
「まいったな。そうか、見られてしまったんだね」
 だが、彼はさして動揺している素振りもない。
「あ、あの、あの、そのツノは……」
 もしかして、魔族ということですか――
 聞きたいけれど、言葉にするのが怖かった。
 これまで尊敬してきた上官が、魔族だなんてことがあっていいのだろうか。彼は、王太子の護衛隊隊長だというのに?
 しばし黙り込んでいたリアムが、立ち上がる。そして、まっすぐにケイティを見つめた。
「今さらごまかすわけにはいかないな。ケイティ、誰にも言わないでほしい」
「…………」
 何もわからないまま、返事をすべきではない。その秘密は、国家にあだなす可能性があるのだから。
 ――大佐は、魔族ということ……?
 少なくとも人間にはツノはない。ならば、おそらくそういうことなのだろう。
 覚悟を決めて、彼の言葉を待っていると、予想をさらに上回る事実が告げられた。
「率直に言うと、僕は魔王なんだ」
「…………ま、おう?」
 魔族どころではない。魔王。それは、かつてこの国に攻め入ってきた魔王軍を率いる王を指す言葉である。
 ――魔王、魔王って、魔族の王の魔王!?
「ケイティ、ケイティ?」
「す、すみません。ちょっと思考が追いつきません」
「そうだね。少し待って。すぐにしまうから」
 彼が軽くツノを手のひらで撫でると、すべてが夢だったかのようにツノが消える。
「出し入れ自由、なんですか?」
「意識がある間は、そうだ。眠っているときは、僕の意志が曖昧になるから必ずしも可能とは言えない」
 だから、先ほどはツノが出ていたのか。
 ――って、納得している場合じゃないわ。わたし、彼の正体を知ってしまった。魔王が軍に所属しているなんて、絶対秘密にすべきことじゃない!
 じり、と一歩下がる。
 今までのリアムと同じだとわかっているのに、彼が突然別人のように恐ろしく感じる。
 魔族かもしれないという覚悟はできていた。だが、魔王は話が別だ。
 数百年にわたって、フェイデルグ王国を苦しめた魔王軍。その頂点に立つ魔王が、なぜ今、フェイデルグ王国の王立軍に所属しているのか。
 ――まさか、この国を内側から攻撃するため!?
「えー、ケイティ、表情から何か不穏なことを考えているのはわかるんだけれど」
「っっ……!」
「僕は、出身以外はそれほど嘘をついていない。紅茶が自由に飲める国を求めてフェイデルグ王国にやってきた。紅茶をたくさん購入するために、紅茶の貿易を始めた」
「でも、百年前までフェイデルグ王国に攻め入ってきていたのは魔王軍ですよね」
「それは、父の代の話だ。僕が即位してからは、一度も人間に攻撃なんてしていないよ」
 なるほど、それがこの百年の安寧の理由だったのか。
 ――ってことは、大佐は少なくとも百歳を超えてるの?
「その顔、僕の年齢を推測しているね」
「わたし、そんなに顔に考えが出ていますか? それとも、大佐の能力によるものですか?」
「正直に言うと前者だね」
 ――顔に出すぎでしょ、わたし……!
「と、とにかく、魔王が王立軍にいるだなんて放っておけません。上官に報告させていただき……」
 ――あれ? わたしの上官って、イーヴ大佐よね。だとすると、大佐に「大佐は魔王だったんです!」って報告するの? それは意味ない……
「うん、報告して?」
 リアムが、ずいと顔を近づけてくる。じりじり逃げるケイティの背中が、入り口の扉にぶつかった。このドアを開けて、部屋を出なければいけない。そして、伝えるのだ。リアム・ドゥ・イーヴ大佐は人間ではない。魔王なのだ、と。
「ねえ、ケイティ」
 目の前に薄暗く影が落ちてくる。
「僕は、きみの口止めのために何をすればいいのかな? どうしたら、ケイティは黙っていてくれるんだろう?」
 甘く蠱惑的な声音で、彼がささやく。
 ケイティを籠絡しようとしているのが、すぐにわかった。
 ――だって、いつもなら大佐はこんなふうに誘惑するような笑みを浮かべたりしない。優しくて、人のことをよく見ていて……
 ごくりと息を呑む。今、ここで屈することは簡単だ。
 だが、ケイティはもう軍人の心を持っている。この国を守るため、今やるべきことは決まっていて――
「口止めなんて無駄です。軍内部に反乱分子がいるのを放置するわけにはいきません」
「だったら、実際に唇を奪ってしまうというのはどう? この赤い唇を、キスで塞いだら?」
「!?!???」
 キスされそうになって、ドアにしがみつくと、ちょうどドアノブに手が触れてドアが開く。ケイティは、そのまま倒れそうになった。
「危ない。大丈夫かい、ケイティ」
「さっ、さわらないでくださいっ! 大佐のヘンタイっ!」
 自分でも、子どもっぽいことを言ってしまったと思う。だが、考えるよりも早く口が動いていたのだ。
「ヘンタイって……。キスはそれほど変態行為ではないと思うんだけど」
「うううう、うるさいですっ。わたしは口止めなんてされませんっ。新米だろうと文官だろうと、軍人なんです! この件は、絶対に報告しますからねっ!」
 転がるように走り出し、ケイティは隊長室から必死に逃げ出す。
「うーん、ほんとうに彼女はかわいいな」
 残されたリアムは、唇に甘い笑みを浮かべて扉に寄りかかった。
 その瞳には、彼女を逃さないという意志が浮かんでいたのだが、もちろんケイティはそんなことを知るよしもなかった。