身代わり花嫁の離縁大作戦 クールな辺境伯の溺愛からは逃げられない!? 3
第三話
ルシアーナが目を開けると、爽やかなオレンジ色に同系色の糸で刺繍がされている美しい天蓋の布が見えた。
(……あら、いつの間に……ベッドに運ばれたのかしら)
馬車から城の中にある部屋に、運ばれた記憶が全く無かった。
ベッドで使われているリネンからは、清潔そうな石鹸の香りがする。
顔を動かすと、椅子に座って本を読んでいるフロックコート姿のレナルドと目が合った。
「あぁ、目が覚めたか?」
人がいるとは思っていなかったので、ルシアーナの心臓が飛び跳ねた。
「──レナルド様っ、は、はい、ずっとお傍にいてくださったのですか?」
「熱を出している婚約者を、放ってはおけない」
彼は長い睫毛で縁取られた黄金の瞳を、ルシアーナに向けてきた。
「……恐れ入ります。このご恩は三倍にしてお返しいたしますので」
大真面目に言うと、レナルドが黒髪を揺らしながら笑った。
「いや、気にする必要はない。ただ傍にいただけだ」
「ですが、レナルド様の貴重なお時間を、私が奪ってしまいました」
「君は大袈裟だな、丁度読みかけの本もあったし、いい休息になった。アニエスはずっと大人しく寝ているだけだったから私は何もしていない」
(アニエス。そうだ……私は、アニエスなんだ)
いけない、高熱のせいで入れ替わっていることが頭の中から一瞬飛んでしまっていた。
「ルーズワルド侯爵家から付き添ってきた従者たちには、帰ってもらった」
「……そうでしたか……熱を出したばかりに、長旅に付き添ってくれた皆を労えず残念です」
そう言うと、レナルドがまっすぐに見つめてきた。
「彼らには臨時の給金を渡しておいた。それで良かったか?」
「それは……お心遣いに感謝いたします」
「気にしないで良い。何か食べられそうか?」
彼の形の良い唇がゆっくりと動くのを、ルシアーナは見つめる。なんて美しい唇なのだろう。
「……私の口に何かついているか?」
「あ、いいえ、レナルド様は何か召し上がったのかと思いまして……」
本当は見惚れていただけだが、そんなことを言えるはずがなかった。
ルーズワルド侯爵家の資料ではレナルドという人物は、王国内では黒い獅子と恐れられるぐらいの剣の達人だと書いてあった。
確かにその体鏸はルシアーナよりも数倍大きかったが、顔の造りが今まで見たどの人間よりも整っていて、目を見張るほど美しかった。
宿屋ではその顔さえも、恐ろしいと感じたのに。
──今は軍服を着ていないから恐ろしく感じないのだろうか。
「私も今朝はまだ食べていない、ここに食事を運ばせよう」
「一緒に食べてくださるのですか?」
ルーズワルド侯爵家では一人で食べていたので、思わず嬉しくなった。
少し長めの前髪の隙間から見える黄金の瞳が、僅かに笑うように細められた。
「君は面白いな」
(……変ってことかしら。そういえばアニエス様は我儘な性格と言っていたから、私の対応がおかしいのかもしれないわ)
居心地が悪くなって、ベッドの中に少しだけ潜り込むと、レナルドの手が額に乗せられた。
ひんやりした大きな手に触れられると、不思議と安堵感が湧いた。
「だいぶ熱は下がったようだな、良かった」
「……ご迷惑おかけします……」
「結婚式まであまり時間がないけれど、君の体調に合わせて日程を変更しても構わない。王都からの招待客も義務で来るようなものだ。そうだな、どうせなら身内だけでの結婚式のほうがいいとは思わないか?」
彼が突然そう言ったが、ルシアーナからすれば、下手に王都の人間がやってきて偽者だとバレてしまうよりはいいと思えた。
「レナルド様にそれでいいと仰っていただけるのでしたら、私もそのほうがありがたいです」
レナルドは唇の端を少しだけ上げた。
「美しく着飾った君を、他の男に見せるのが惜しくなった」
彼の手の甲が頬にそっと触れてくる。
なんだか恥ずかしいことを言われている気分になり、頬が熱くなった。
「君はずっと、私だけのものでいてくれるんだろうね?」
「も……もちろんです」
「ふふ……そうか」
ルシアーナの頬にレナルドの唇が触れる。
子供同士がするような軽いキスでも、ドキドキしてしまう。
そんな様子を、レナルドが楽しげに眺めているのに、ルシアーナが気付くことはなかった。
その後、魚介がたっぷり入ったトマトリゾットが運ばれてくる。
ルシアーナはベッドの上で身体を起こし、背中に沢山のクッションを置いてもらうと、ベッドでも食べられるようにミニテーブルの上にお皿が用意された。
レナルドの分は、ベッド横のサイドテーブルに置かれる。
「食べさせようか?」
「だ、大丈夫です」
魚介が好きなルシアーナは、リゾットを食べることでかなり気持ちが上向いた。
「とても美味しいです」
イカがプリプリとしており、エビやアサリからいい出汁がとれていて、こんなに美味しいリゾットは初めて食べた。
お給金を貯めてたまに外食をしたこともあるが、そこの食堂のリゾットより遥かに美味しい。頬が落ちてしまいそうだ。トマトの酸味が食欲をそそる。
「ここの食事が口に合うようで良かったよ」
レナルドがからかうように言うから、はっとしてルシアーナが彼のお皿を見ると、まだ半分以上残っているのに、自分のお皿は既にからっぽだった。
そんなにはしたなく食べてしまったのだろうか。
「あ、あの……えっと……」
「まだ食べられるのなら、おかわりを持ってこさせようか?」
満たされぬ胃袋が喜んだ。
「は、はい。是非」
レナルドはククッと笑って、ベルを鳴らした。
ルシアーナはリゾットのおかわりを貰って、今度はゆっくり味わった。
(あぁ、美味しい)
ここまでの道中の料理も、教会で食べていたものよりは遥かに美味しかったが、このリゾットに勝るものはなかった。
何より、偽者としてモンドベルト辺境伯と対峙しなければいけないことが、心労を増やしていた。モンドベルト辺境伯領が近付くにつれて体調が悪くなっていったのは、そのせいだろう。
今は、彼がこちらをどう見ているのかはわからなかったが、取り敢えず怒鳴られたり殴られたりはしないで済んでいる。
黒い獅子は穏やかな表情で、ルシアーナを見つめてくる。
今は、偽者ということを追及されずにすんで、ほっとしていた。それと同時に優しくしてくれる人を騙している事実が胸を痛めた。
(早めに離縁して、ちゃんとした貴族の方と結婚していただかなければ申し訳ないわ)
離縁してもらうにしても、偽者とバレてはいけないのが絶対条件だ。
辺境の地に行きたくないという我儘な理由で、他国の子爵と駆け落ちしてしまうような令嬢とは、いったいどんな性格なのだろうかと考えてた。
(……本当は、こんなまずいリゾットなんか食べられないわ! とか言うのが正解だったのかしら)
二杯目のリゾットを頬張りながら、ルシアーナは思う。
(……我儘って難しいわ)
なにせ、ルシアーナは我儘を言うことが許される立場ではなかったし、幼い頃から家族がいなかったため、我儘を言う相手もいなかったのだ。
「どうかしたか?」
食事の手が止まったルシアーナを心配するように、レナルドが声をかけてくる。
「あ、いいえ、その」
ここで、もうお腹いっぱいですの、などと言えば我儘に当たるのだろうかと、ふとルシアーナは思ったが、おかわりしておいてそれはないと思ったし、まだまだ食べたかった。
「そろそろ味に飽きてきたか? 体調が悪くないなら、チーズでもかけるか?」
そう言いながら、レナルドは侍女に目配せする。
ワゴンにはパルメザンチーズの塊とチーズ削り器が載っている。
「……チーズ……」
食堂でもオプションでチーズをリゾットに入れることは出来たが、安くはないので諦めていたのだった。
「かけるか?」
「ええ、是非!」
はしたなくも、やや大きな声が出てしまった。
侍女がルシアーナのリゾットの上でチーズを削ってくれる。美味しそうな香りが漂う。
ルシアーナは銀のスプーンでリゾットを口に運び、頬に手を当てた。
「あぁ、なんて美味しいのかしら」
「そうか」
温かいリゾットの中で溶けているチーズは絶品だった。魚介の味と良いハーモニーを生み出している。
もうこれが最後の晩餐でもいいと、本気で思った。
◇◇ ◇◇◇ ◇◇
馬車に乗らないせいか、悪夢にうなされなくなった。
快眠快食で、ルシアーナはすっかり健康をとり戻した。元気になったらなったで、モンドベルト辺境伯の城内では暇を持て余した。
本来、女主人となるべく学ばなければいけないことが多々あるのだろうが、レナルドの提案で、結婚式が終わるまでは、婚約者のアニエスには休息を取らせるという話になってしまったのだ。
働かずにいた日などほとんどなかったため、どうしていいかわからない。
元気になってからは、レナルドとは顔を合わせていなかった。
辺境伯領主としての仕事が忙しいのだと、執事が教えてくれた。
レナルドに会えないのは別に構わなかったが、暇が辛いのと、我儘令嬢っぷりを発動させるタイミングを逃してしまっている気がした。
(我儘令嬢を発動させるのは、結婚後でもいいかな)
ルシアーナが使わせてもらっている客間には、豪奢なウエディングドレスがトルソーに着せられている。純白のシルクを幾重にも重ねたスカート、そのスカート部の後ろの裾は長めに出来ていて、銀糸で豪華な刺繍が施されていた。
胸元の刺繍にはダイヤモンドが丁寧に縫い付けられていて、キラキラ輝いている。
ティアラや首飾りに使われている宝石も、見たこともないような大きさのものだ。
身内だけの結婚式になったというのに、こんなに豪華なドレスが必要なのだろうか。
ウエディングドレスは、この二週間でモンドベルト辺境伯家が急遽準備してくれたものだ。
花嫁のドレスはルーズワルド侯爵家が持たせてくれた物があったのだが、レナルドが何故か新しく作らせた。
デザインか何かが、気に入らなかったのだろうか?
ともかく、なんだかんだであと一週間で結婚式である。
他の領地で隠居生活を送っている、レナルドの両親も来るという。
国王陛下の特使も来るらしいので、身内だけ、といいながらも式やパーティは盛大なものになりそうだと思うと、少しだけ気が重くなった。
パーティ好きの我儘令嬢とは、どういった感じで演じればいいのだろうか。
淑女としての教育は受けたが、我儘令嬢の教育は受けていない。
(……取り敢えず、結婚式やそのパーティが終わるまでは大人しくしていよう。それでいいわよね。どんなに我儘なご令嬢でも、結婚式の時ぐらい、猫をかぶるだろうし)
ルーズワルド侯爵夫妻も結婚式にはやってくる。そのときに我儘とはどうすればいいか聞いてみようか? いや、駄目だ。もうここは敵の陣地である。
(ルーズワルド侯爵家にいるときに、アニエス様の性格と行動を詳しく聞いておけば良かったな)
一応、聞く努力はしたが、侍女たちにしか聞けず、決まって返事は「辺境伯とはお会いしたことがないそうですから、レディとしてお振る舞いいただければ、それでよろしいかと思いますよ」というものだった。
──そうして一週間が過ぎ去り、結婚式当日となった。
聖堂で結婚式用のドレスに着替える手筈になっていたので、ルシアーナはコルセットが必要ないくるぶし丈のワンピースを着用していた。
馬車でモンドベルト辺境伯の城から聖堂に移動をする最中も、少し具合が悪くなった。
緊張しているからという以外にも、どうも自分は馬車が苦手なのかもしれない。
馬車に乗っていると、身体が小刻みに震えてくる。はっきりと恐怖心を感じていた。
(シスター・マリーが、私は教会に来た時大怪我をしていたと言っていた。もしかして直前に馬車の事故にでもあっていたのかしら)
誰と一緒に乗っていたのだろう? その人は無事だったのだろうか? どうして自分は一人だけで教会にいたのだろうか。考えないようにしていたことが一気に溢れてくる。
(……いけない、こんなタイミングで)
今日だけは、何があっても失敗が許されない日だ。
青い顔をしているルシアーナを見て、侍女のイリスが声をかけてくる。イリスはレナルドが手配してくれたルシアーナ付きの侍女だ。他にも数名の侍女は付いているが、用事はイリスが代表して聞いてくれる。
「アニエス様、お顔の色が悪いです……馬車酔いのお薬を飲みますか?」
イリスは薬の知識がある侍女だった。
最初に高熱を出したことで、レナルドに虚弱体質だと思われたのだろうか、イリスによってルシアーナはしっかり体調管理をしてもらっている。食べすぎただけでも、すぐに胃薬が出てくるくらいだ。
「いただいておくわ」
本当は馬車に酔ったわけではないが、自分の気が付かない起因も考えられたので、イリスから粉薬と水を貰って飲んだ。
「本日はずっとお傍におりますので、何かあればすぐにお申し付けくださいませ」
「……ありがとう、イリス……心強いわ」
ルシアーナがそう言うと、イリスはぱぁっと明るい表情を見せた。
「はい! お任せください」
イリスは亜麻色の髪に、薄茶色の瞳の少女だった。ルシアーナと年齢差がないようだが、同じぐらいの年齢で、薬学に精通しているのは凄いと思えた。
きっとたくさんの努力をしてきたのだろう。そしてそんな優秀な彼女を付けてくれているレナルドにも感謝しかない。
(こんなにいい人たちを、私は裏切っているのね……)
ルシアーナはワンピースにつけていた、花モチーフのブローチを外した。
ルーズワルド侯爵家が持たせてくれたジュエリーの一部で、サファイヤの宝石が中央に飾られている。
「……イリス、いつも良くしてくれてありがとう。これはお礼よ、受け取って」
自分はいつ彼女の前からいなくなるかわからない身であったので、お礼ができるときにしておこうと思い、ブローチを差し出した。
「こ、こんな高価なもの、いただけません」
「いいのよ、沢山持っているし……ブローチを売ったお金で、あなたの役に立つものを購入して頂戴」
イリスは迷いながらも、ルシアーナからブローチを受け取った。
「……それではありがたく頂戴いたします。実は欲しい医薬書があって……それの購入に充てさせていただきます」
「それは素晴らしいわね、イリスの役に立てるのなら嬉しいわ」
馬車酔いの薬が効いてきて、体調がましになった。
(これなら、結婚式用のドレスを着ても大丈夫そうね)
馬車は暫く石畳の道を走り、結婚式が行われる聖堂に到着した。
王都の大聖堂ほどの大きさではなかったが、造りが立派な聖堂を前にして恐縮する。
(……どうか、お許しを)
心の中で祈り、ルシアーナは支度部屋へと向かった。
聖堂内の支度部屋では数名の侍女が既に控えていて、ルシアーナの着替えや化粧を手際よく進めていく。
いよいよ、引き返せないところまで来てしまったのだ。
(……私は、アニエス・ルーズワルド侯爵令嬢……)
何度か心の中で呟いてから、深呼吸をする。
身支度が整った頃、娘を嫁に出す親を演じるために、ルーズワルド侯爵夫妻がやってくる。
周りに人がいるので、それらしい会話を少しだけして立ち去っていった。
その後、レナルドが支度部屋に来る。
彼の登場で空気が変わる。侍女たちの緊張がルシアーナにも伝わってきて、いっそう緊張させられた。
「久し振りに見る君は、美しいな」
「……お褒めくださりありがとうございます。レナルド様に作っていただいたドレスのお陰だと思いますわ」
光に反射して輝くダイヤの首飾りや、豪奢なティアラ。
偽者のくせに、本物の花嫁のようだ。
「君は何も着ていなくても美しいと思うよ」
そのレナルドの言葉にはさすがにどう返していいのかわからず、ルシアーナは顔を赤らめ、俯いた。
自分を美しいと褒めてくれた彼の方こそ、真っ白の式服がよく似合い、綺麗だった。
騎士の勲章は胸元に飾られている。
嘘でも、短い期間でも、平民の自分がこの人の伴侶になっていいものかと思ってしまうが、引き返せない。
断れない状況であったとはいえ、彼との偽の結婚は了承したことだ。
後は、いかに偽者だと気付かれないまま、離縁するかが最大のミッションになってくる。
レナルドはスツールに座っているルシアーナの前で膝を突き、彼女の手の甲に口付けた。
「……レナルド様?」
「国王陛下が決めた結婚ではあるが、私は君を一生大事にするよ」
「え、あ、あの……は、はい……」
「では、後ほど」
彼は魅惑的な笑顔を見せて、颯爽と支度室を出ていく。
(……一生大事にだなんて……)
そんなことを言われれば、胸が痛んでしまう。
これが本当の結婚であれば、花嫁として舞い上がってしまうほど嬉しい言葉なのだろうが、一生なんてとんでもない。
できれば明日にでも、離縁して欲しいくらいなのだから。
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