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執着系公爵さまの激重感情に翻弄されてます 偽装婚約のはずが、なんで本気で溺愛してくるんですか!? 1

第一話

 

「リリー、よかったな。なかなか婚約が決まらず一時はどうなることかと思ったが、これで私たちも安心だ」
 私の目の前でニコニコと笑う両親の顔には安堵が見える。
 彼らが本気でよかったと思っているのが伝わってきて泣きたくなった。
 ――どうしよう。絶対に嫌なんだけど。
 天井を見上げ、溜息を吐く。
 まさかこんなことになるとは思いもしなかった。

 

  ◇◇◇

 

 二週間ほど前の話だ。
 私、リリーベル・アントンは長い茶色の髪を結い上げ、お気に入りのドレスを着てクロップド侯爵主催の夜会に出席した。
 伯爵位を持つ父に連れられ、主催者である侯爵に挨拶をし、その日は何事もなく終わったのだけれど。
 今から一時間ほど前、突然、両親に呼ばれた。
 自室で寛いでいた私は首を傾げながらもふたりの待つ一階の談話室へ向かったのだが、そこで聞かされたのは私の婚約話だったのだ。
「先日の夜会でイエーガー侯爵様がお前に一目惚れしたそうだ。是非、お前を貰い受けたいとおっしゃっている」
「え……イエーガー侯爵様、ですか……?」
 父と同じヘーゼル色の目を見開く。
 かの人を思い出した私は、絶対に嫌だと強く思った。
 イエーガー侯爵は、元近衛騎士団の団長で、人格者だという噂の人物だ。
 夜会で、彼に挨拶したことは覚えている。
 何せ主催者のクロップド侯爵とは友人関係らしく、その側にいたのだから。
 背が高く、侯爵位を持ち、元近衛騎士団長というくらいだから戦いの心得もある。
 柔らかな話し方をする人で、私にも丁寧に接してくれた。
 だが、彼とは結婚したくない。
 それはどうしてか。
 イエーガー侯爵の年が、五十を超えているからである。両親よりも年上なのだ。
「……あの、さすがにちょっと……」
 いくらなんでも御年五十超えの相手と結婚は遠慮したい。
 だって私はまだ十九才。
 父がいずれ結婚相手を見繕ってくることは分かっていたし、ある程度は我慢しようと決めてはいたが、これはあまりにもあまりではないだろうか。
 イエーガー侯爵は頭の毛もフサフサだったし、太ってもいなかった。だけど、何事にも許容範囲というものはある。
 それに、それにだ。
 これはさすがに失礼だから口に出したりはしないが、実は私は彼にどうしようもないほどの生理的嫌悪を感じていたのだ。
 不細工というわけでもない。酷い態度を取られたわけでもない。それなのに、彼を見た瞬間、耐え難い嫌悪感に襲われた。
 理由はうまく説明できない。だけど彼の視線を感じればそれだけで全身に鳥肌が立ち、今すぐにでも逃げ出したくなった。
 もちろん父の名誉を傷つけるわけにはいかないので、その場ではなんとか取り繕ったが、二度と彼には会いたくないというのが本音だった。
 ――無理! 絶対に無理!
 生理的嫌悪感のある男と結婚なんてあり得ない。
 想像しただけで虫唾が走る。
「……お父様、申し訳ありませんがお断りして下さい」
 貴族の結婚なのだ。
 父の持ってきた話にケチを付けるつもりは毛頭なく、我慢できるものなら我慢した。でも、イエーガー侯爵だけはどう考えても無理。
 心の底から申し訳なく思いながらも首を横に振る。
 私が頷くに違いないと思っていたのであろう両親は「え」という顔をした。
 父が焦ったように私の肩を掴む。
「ど、どうしてだ、リリー。確かにイエーガー侯爵様は五十を超えているが、お前のことは大切にすると約束して下さったし、何より人格者としても有名な方。きっとお前は幸せになれる!」
「そうよ、リリー。それにこれはなかなか縁談のないあなたにとってまたとないお話。ここで受けておかないと、次がいつになるか。行き遅れとなってから後悔しても遅いのですよ」
「……そう言われましても」
 どうやら母も味方にはなってくれないようだ。
 行き遅れとなるのを避けたいのか、両親はどうしたって私をイエーガー侯爵に嫁がせたいみたいで、まさに絶体絶命のピンチ。
 ここまで言われれば、さすがに「分かりました」と答えるしかないのだろうが――いや、やっぱり嫌だ。生理的嫌悪を覚える相手と一緒に暮らすとかあり得ない。
 下手な妥協で頷いて、あとで後悔するのは自分。
 それが分かっていたので、私は今が踏ん張りどころと頑張った。
「お父様、お母様、ごめんなさい。でも、本当に無理なんです。イエーガー侯爵様はお断りさせて下さい」
 キッパリと告げる。父は納得できないようで、しつこく食い下がってきた。
「だからどうしてだ。イエーガー侯爵様はとてもよい方だぞ。それはお前も分かっているはずだ」
「お父様より年上の方と結婚というのは、さすがに遠慮させて欲しいのです。お母様だって、嫌ではありませんか? 自分の父親より年上の男性と結婚なんて」
 母に目を向けると、彼女は私から視線を逸らした。
「それは……で、でも、それ以上に立派な方です。年齢だけで男性を判断するのは違うと思いますよ」
「年齢は十分理由になると思いますけど」
 本当は、生理的嫌悪感があるから嫌だ、が正解なのだが、さすがにそれは言えないので、年齢で押していくしかない。
 しばらく両親との言い合いが続く。
 私も退かないが、両親も諦めなかった。
 如何にイエーガー侯爵が立派な人であるかを語り、なんとか私を頷かせようとしてくる。
 埒があかないと感じた私は、自分の決意を示すべくあえて大声で言った。
「とにかく! 私はイエーガー侯爵様と結婚したくありません!」
 売り言葉に買い言葉とでも言おうか、父もカッとなって大声で言い返した。
「この我が儘娘が! よし、分かった。そんなに彼が嫌なら、結婚してもいいと思える相手を今すぐ連れて来い!」
「えっ……!」
 まさかそんなことを言われるとは思わなかった。言葉を失う私に父が告げる。
「他に相手がいるというのなら、お断りもできるだろう。だが、年が離れているから嫌では理由にならん! 侯爵様も納得されないはず。それほどまでに嫌だと言うのなら、お前が自分で相手を連れて来るんだ。いいな!?」
「い、いいなって……」
 そんな無茶苦茶なと思ったが、父の顔も声も冗談を言っているようには見えない。
 しまいには母までもが父に追随した。
「そうね。結婚相手を連れて来たのなら、私たちも仕方のないことと納得しましょう」
「だが、相手を連れて来られないのなら、話は終わりだ。イエーガー侯爵様との婚約話を進めさせてもらうからな」
「そんな……」
 ふたりの言葉を聞き、愕然とする。
 結婚相手を連れて来いなんて、無理難題にもほどがある。
 だって私は、今まで恋人のひとりだっていたことがないのだ。それを両親は知っているし、知っているからこそ、こんなことを言い出したと分かっていた。
 私に、イエーガー侯爵との結婚を了承させるために。
 そこまでイエーガー侯爵と結婚させたいのかと思うと同時に、深い怒りと絶望を感じた。耐えきれず、談話室から逃げ出す。
「リリー!」
「リリー! どこへ行くのだ!」
 両親の声がしたが、答えなかった。
 頭の中が真っ白になった私は、そのまま屋敷を飛び出した。

 


  ◇◇◇

 


 馬車にも乗らず、勢いだけで屋敷を飛び出した私は、とりあえず商店が集まっている大通りの方へ向かうことを決めた。
 貴族の館が建ち並ぶ貴族街からほど近く、人も多く賑わっているから安全だと思ったのだ。
 こんな状況なのですぐに屋敷に戻ることはできないし、帰ったら最後、イエーガー侯爵との結婚が待っているので、どうしたって帰宅する気にはなれない。
 どこかで一度落ち着いて、今後について考えてみたかった。
「うう……お父様もお母様も酷い……」
 とぼとぼと歩く。
 ちなみに今の私の格好はドレスで、髪はハーフアップにしている。くせっ毛なので、少し括った方が格好がつく。
 ドレスは夜会に出たり登城したりする時に着るようなものではなく普段着として使っている品だが、庶民とはやはり違う。
 ひとめで貴族令嬢と分かる女が、供も連れずひとりで歩いているのだ。
 擦れ違う人たちがギョッとしたように私を見たが、敢えて気づかない振りをした。
 着替えに戻るわけにもいかないし、大通りに出てしまえば人も多いからきっと目立たなくなるはずだ。……頼むからそうであって欲しい。
 悄然と項垂れながらも歩を進める。
 十九年生きてきたが、まさかこんな酷い話が自分の身に起こるとは思ってもみなかった。
 いや、結婚自体はいつかはしなければいけないと覚悟していたが、その相手が生理的嫌悪を覚える人だなんて誰が思うだろう。
「悪い人でないことは分かってるんだけど……」
 イエーガー侯爵を思い出す。
 優しい話し方をする、白髪のおじさま。だけど彼に見つめられると、どうしようもなく気持ち悪かった。軽く手の甲に口付けられるだけでも、嫌悪感で吐き気がしたのだ。あの人が夫になるとか想像もしたくない。
「でも、仕方ないのかな……」
 基本的に貴族の結婚に、妻となる女性の意思は関係ない。
 父が了承すれば話は進むのだ。それにもかかわらず、両親は一応私の意思を確認してくれた。
 それだけでも有り難いと思わなければならないのに、私ときたら「断って下さい」である。客観的に見て、私のしたことの方こそあり得ない。
 とんでもないことをしてしまったと落ち込むも、嫌だと思う気持ちは消えなかった。
「……あの人だけはどうしても無理なのよ……」
 年齢のことはこの際仕方ないと呑み込もう。だが、生理的嫌悪はどうしようもないではないか。
 我慢しようとして、できるものとも思えない。
 特に結婚はただ一緒に暮らすだけではないのだ。
 妻となったからには、当然夜のお勤めもあるだろう。
 手の甲の口づけすら吐き気がしたというのに、その相手に肌を晒し、身を委ねるなんて絶対にできる気がしなかった。
「はああああ……」
 溜息が止まらない。憂鬱な気持ちがどんどん膨らんで行く。
 なんとか自分で折り合いを付けなければならないのは分かっているが、考えれば考えるほど無理という結論しか出なかった。
「……ねえ、そこの君。少し良いかな」
「……え」
 突然、トントンと肩を叩かれ、我に返った。
 どうやら思索に耽りすぎて、現実の方が疎かになっていたようだ。
 こんなに近くまで人が来ていたのに気づかなかったとか、不用心にもほどがある。
 全く周囲が見えていなかったと反省しながらも、肩を叩いてきた人を見上げた。
「なんでしょうって……あ」
「ん?」
 こてんと首を傾げているのは、金髪碧眼の男性だった。
 年は私と同じくらいだろうか。
 一重の青い瞳は寒い冬の日を思わせる暗く冷たい色で、金髪も鮮やかというよりは、落ち着いた色合いだ。
 髪は男性にしては長めで、肩まである。
 精巧に作られた人形のように整った顔立ちをしているが、ちゃんと生きている人間に見える。たぶん、一癖も二癖もありそうな雰囲気が、人間味を醸し出しているのだろう。
 そんな雰囲気だが、冷たいという印象は抱かない。声音が穏やかで、温かなものだったからだと思う。あと、表情も柔らかい。
 おそらくは貴族。貴族の子弟が町歩きに好んで着る格好をしているし、上品な顔立ちと発音、そして上流階級の人間だけが持つ独特の雰囲気が全身から滲み出ていて、とてもではないが庶民には見えなかったからだ。
「え、ええと……私に何かご用、ですか?」
 どこの誰かは分からないが、とりあえずは敬語で返す。私が不審に思っているのが伝わったのか、彼は焦ったように両手を振った。
「あ、違う違う。私は怪しい者ではないよ。散歩していたら、フラフラとひとりで歩いている君を見かけてさ。君、貴族の令嬢でしょう? お節介かもしれないけど、貴族令嬢がひとりでふらついているのは危ないと思って声を掛けさせてもらったんだ」
「そ、そうですか」
 親切心で声を掛けてくれたのだと知り、警戒心が少し緩む。
 確かに彼の言い分はその通りで、しまったなと思っていた部分もあったから尚更だった。
「昼間だからって油断しない方がいいよ。特に君は可愛いし、ひとりだと分かったら変なのが声を掛けてくるかも」
「すみません」
 尤も過ぎる忠告に小さくなる。謝罪の言葉を紡ぐと、彼は「そうじゃなくて」と困り顔で言った。
「謝って欲しいんじゃないよ。気をつけて欲しいだけ。でも、どうしてたったひとりで大通りまで出てきたの? 家の人は? 迎えには来てくれるのかな」
「……それは」
 もしかしたら捜しにくるかもしれないが、今、帰る気にはなれない。
 どうにも答えづらくて視線を逸らす。彼はじっと私を見つめたあと、今いる場所の向かい側にあるオープンカフェを指さした。
「もし良かったら、あの店でお茶でもどう? 私が誘ったんだから当然奢るし、私のことが信用ならなくても、あの店は見ての通りテラス席がある。大勢の目がある場所だから、そう危ないこともないと思うけど」
「お、お茶、ですか?」
「うん。なんだか君、帰りたくなさそうに見えたから。でも、ひとりだと危ないからね。帰る気になるまで見ていてあげようかなと思って」
「……」
 目を丸くして、彼を見る。
 正直、有り難い提案だった。
 未だイエーガー侯爵と結婚することを決断できない私に、屋敷に帰る選択肢はない。
 だけど何も考えず飛び出してきたので、お金も持っていないのだ。帰らないのならこのまま街を彷徨い歩くくらいしかなく、それが危ないということはさすがに分かっていた。
 チラリと彼を観察する。
 胡散臭い感じはないし、表情は真摯だった。
 着ているジャケットとパンツも質の良さそうなお洒落なものだ。靴もピカピカに磨き上げられている。
 怪しいところはひとつもなく、心から私を案じてくれていることが伝わってくる。
 それに、オープンカフェという場所も有り難かった。彼の言うとおり人目がある。初めて会った人とふたりきりでお茶という状況でも、危険を感じずに済みそうだ。
 それになにより、いい加減足が疲れてきていたから。
「……お願いしても良いですか?」
 かなり迷いはしたが、結局私の出した結論は『イエス』。
 普段の私なら、絶対に頷かなかっただろうが、今日に限っては緊急事態なのだ。
 多少のことは目を瞑ろう。
 ――大丈夫、よね。
 逃げようと思えば逃げられる場所なのだからと自らに言い聞かせる。私の返事を聞いた男は「良かった」と胸を撫で下ろした。
「君をひとりにせずに済んで良かったよ。じゃあ、行こうか」
「はい」
 実に自然な動作で手を差し出される。エスコートに慣れているのだと分かる動きだった。しかも仕草に品がある。
 間違いなく貴族、いや、高位貴族だろうと推察できた。
「……」
「ん、何?」
 じっと彼の手を見ていると、不思議そうな顔をされた。
 ハッとし、笑みを浮かべる。
「いえ、エスコートに慣れていらっしゃるなと思って」
「あーうん。でも、それは君もでしょう。あ、名乗るのが遅れたね。私はテオドア・リンデ。そんなに年も変わらないだろうし、テオと気軽に呼んでくれると嬉しいな」
「テオドア様、ですね。私はリリーベル・アントンと申します」
 リンデという名は聞いたことがない。とはいえ、全ての爵位を持つ家名を知っているわけでもないので、特に気にはならなかった。
 ただ、爵位も分からない状態でさすがに呼び捨てにはできない。敬語は崩さないようにしようと決める。
 男――テオドアは目をパチパチと瞬かせた。
「テオでいいって言ってるのに。そういう君は、アントン伯爵の娘かな? 確か、お兄さんと弟さんがいたよね?」
「え、あ、はい」
 どうやらテオドアは、私の家族を知っているようだ。
「父や兄たちのことを知っているんですね」
「うん。何度か話したこともあるよ」
「そうなんですか」
『知っている』というのは、それだけで安心材料になるものだ。
 家族を知っていると聞いたことで、更に警戒心が薄れた。