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お別れ確定の恋なので、こっそりあなたの子を授かろうと思います 3

第三話

 

「――早く、逃げろ!」
 ランスが剣をオオカミの鼻っ面に叩きつけて怯ませているが、撃退するにはとても至らない。圧倒的に力も速度も負けているのだから。
 その間にも、格闘するランスと猛獣の足元に血がボタボタと落ちる。
 ランスの止血をしなくちゃとか、逃げなくちゃとか、パニックになって冷静な判断ができなくなったが、ひとつわかることは、ルナルーシアがおろおろしていると、ランスがその場から逃げられないということだ。このままでは、ふたりとも食われてしまう。
(……森の中で取って食われる……?)
 ふと、昨晩のメディシスとの会話が思い出された。
 ルナルーシアは無我夢中で震える手を鞄に突っ込み、つかんだ小瓶からコルクを抜く。
 その拍子に、無意識に握りしめていた金の指輪が鞄の底に落ちたが、それには気づかなかった。
「ランスさん、伏せて!」
 あらん限りの声でルナルーシアが叫ぶと、オオカミの注意がこちらに向く。
 別に計算していたわけではない。すべて偶然の産物である。
 ランスが何かを言っているのは意識の外で聞いていたが、今のルナルーシアにはオオカミの凶悪な姿しか映っていない。
「えいっ!」と気合一閃、その鼻っ面めがけて瓶の液体をぶちまけていた。
 同時に、獣の咆哮が空へと吸い込まれていく。
 だいぶへっぴり腰だったが、中の液体は幸いにもオオカミの鼻先から目に命中していた。
 しかし、ほっとしたのも束の間、オオカミがこちらに突進してきたではないか。
「ルナル!」
 ランスの声と同時に彼の身体が思いっきりぶつかってきて、その腕の中に掬い上げられる。そしてそのまま派手な水飛沫を上げて、もろとも川に倒れ込んでいた。
 ぎゅっと目を閉じ、オオカミの攻撃を諦め気分で待ち受けるが、それ以上の衝撃は一向にやってこない。
 代わりに、悲鳴に似た吼え声をあげたオオカミが遠ざかる気配があった。
「…………?」
 ルナルーシアはランスに抱き留められていたのだった。
 じっと息を殺していたルナルーシアがおそるおそる目を開けると、ランスが血まみれになっていた。
「大変……!」
「大丈夫。ほとんど返り血だから」
「か、返り血……?」
 半泣きになって上体を起こしたら、彼も痛みを堪える顔をしながら起き上がる。浅い川の真ん中にふたりで座り込んでいて、全身ずぶ濡れだ。
 ランスが自分の両手を広げて見せる。確かに、上腕以外に布が裂けている様子も傷口も見当たらない。
 オオカミの立ち去った方に目を向けると、かなりの量の血痕が点々とつづいていた。
「うまく喉に剣が刺さりました。たぶん致命傷です」
 彼らの足元に落ちた血は、そのときのものだったようだ。
「……オオカミを撃退しちゃうなんて、ランスさんすごいです!」
「運がよかったんです。それより、ルナルーシアさんこそ怪我は? いきなり後ろから来たから、思わず手を放してしまって。すみませんでした」
「いえ、私は全然! ご無事でよかった……」
 膝の上で握りしめた手がぶるぶる震えている。でも、彼の腕に赤い色を見た途端、薬師としての責任を思い出した。
「怪我したのはランスさんですよ! 腕、手当てしないと!」
 彼の左の上腕部は、服ごと引き裂かれた傷口がぱっくりと開いている。
「こんなの、かすり傷です。大丈夫」
「大丈夫じゃないです、早く消毒しないと! 血の匂いにつられて他の猛獣が来たらいけないので、急ぎましょう。服、脱いでください」
 しっかりした足取りの彼の手を引き、ルナルーシアはよろよろと川から上がると、オオカミの血で汚れたチュニックを脱がせた。
 本人も気づいていない小さな傷口に、獣の血が触れてしまったら不衛生だ。
 さっきお昼を食べた岩の上にランスを座らせ、鞄の中から乾いた布を出してランスに手渡した。
「これで傷口の血を拭き取ってください」
 その間、ルナルーシアは鋏を取り出すと、濡れたスカートを捲り上げてペチコートの裾を引っ張り出し、それをざくざく切りはじめる。
 仰天する彼に「いいから座ってて!」と、ルナルーシアにしては鬼気迫る顔で命じた。
 切ったペチコートの裾を固く絞り、返り血で赤く染まったランスの身体に傷がないか、目視しながら拭う。
「け、怪我は腕だけみたい……よかった……。とにかく、応急処置をします」
 採ったばかりの薬草を籠から取り出し、それを切った布で包むと手で揉んだ。
「この薬草の水分で、消毒ができます。野生動物の爪や牙には悪いものもありますから」
 説明しながら、急いで草露の滲んだ布で傷口を拭う。
「う……」
 沁みたらしくランスが顔をしかめたが、容赦なく強く押し当てた。
「止血するまで我慢してください。あんまり深い傷ではなさそうでよかったです。ちょっと押さえててくれますか?」
 軟膏を塗りたくった亜麻布(リネン)の包帯で、手際よく傷口を縛る。その作業を終えると、ようやく安堵して草むらの上にへたり込んだ。
「手当て、ありがとうございます。さすが薬師ですね。薬や包帯、いつも持ち歩いているのですか?」
「常備薬とかんたんな手当ての道具はいつも持ってます。薬師として、いつでもお役に立てればと思って。ですが、手当てと言ってもただの応急処置です。私は医師ではないので、後でちゃんと診てもらってくださいね。でも、オオカミ相手にこの程度ですんで本当によかったです。剣を使うお仕事をされているのですか?」
 彼の怪我の手当てで頭がいっぱいになっていたが、今さらランスの服を脱がせたことを思い出し、その身体つきを観察した。
 思ったとおり、見た目とは裏腹に、胸も腹部もしなやかな腕もけっこう鍛えられている。
 メディシスの家で人体についても勉強したが、実際に男性の生身を目にするのは初めてのことなので、遠慮と恥じらいを横に置いて凝視してしまった。
 そんなルナルーシアの視線に気づいているのかどうか、手当てのすんだ包帯に触れてはにかんでいたランスが、ふと真顔になってこちらを向く。
「さっき、オオカミに何をかけたんですか?」
「あ、トウガラシエキスです。その……猛獣撃退用にって、お師匠が渡してくれて」
 本当は、ランスに襲われたらぶっかけてやれと言われたのだが。
 あえて持参したのは、もちろん彼を疑ってのことではなく、師匠の厚意を無にしてはならないという精神からである。
「と、とにかく、早くここから離れないと……あれ?」
 立ち上がろうとしたのだが、完全に腰が抜けていて、もう二度と立てる気がしないくらい脚がガクガク震えていた。
 あたふたしていると、たんまり薬草を詰めた籠をランスに手渡される。反射的に両腕にそれを受け取ったら、ルナルーシアはランスに抱き上げられていた。
「あ、あの……っ、重たいので……! それに、傷に障ります!」
「ちっとも重くないですよ。そんなに深い傷じゃないから大丈夫。それより急いで帰りましょう。雨、降ってきました」
 空を見上げると、いつの間にかどんよりした雲に覆われていて、ぽつぽつと雨が降りはじめていた。
「お師匠さんの予言、どうやら外れたようですね。夕方じゃなくてまだ昼過ぎだ」
「雨降りは当たったので、やっぱり的中率は七割です」
 ふたりで笑い合う間にも、雨脚がどんどん強まっていく。
 川に落ちたため、すでにふたりともずぶ濡れだったが、空気もひんやりしてきたので凍えてしまいそうだ。
「すぐそこに、崖が張り出している場所があるんです。ふたりくらいなら雨が凌げると思います。そこで雨宿りを……」
 ルナルーシアの提案を、ランスは首を横に振って遮った。
「長く降ったら、本格的に凍えてしまいます。どのみちもう濡れてるし、早く街に戻ったほうがいい。風邪を引きます」
 ランスが歩き出したので、黙って彼に任せることにした。こんな腰抜けの状態ではろくに歩けなくて、かえってランスに迷惑をかけてしまう。
「ルナルーシアさん」
 冷たい雨粒が葉の上に落ちる音を聞きながら、あたたかなランスの肩に無意識に頭を寄せていたら、名を呼ばれてハッと顔を上げた。
「あなたに助けてもらうのは、これで二度目だ。ありがとう」
「私、なんにもしてませんよ? むしろオオカミから助けてもらったのは私です」
「僕の身を案じて手当てをしてくれたこと、本当にうれしかったから。それに、母にくれたあの薬は、母の苦痛だけではなく、僕の心痛も和らげてくれた」
 薬師として当たり前のことをしただけなのに。
 そう言おうとしたが、彼のくれる謝意を否定する必要はない。ランスがそう感じてくれたのは事実なのだ。
「お役に立てて私もうれしいです。こんな私でも、誰かのためになれるなら」
 ランスの碧眼を前にして笑ったら、彼は目を細めて微笑した。心なしか、ルナルーシアを抱える彼の手に力が入り、抱き寄せられた気がする。
「さっきも呼んでしまいましたが、今後もルナルとお呼びしてもいいですか?」
「えっ、もちろん! 迷惑なんて全然。お友達になってもらえたみたいでうれしいです」
 彼女を愛称で呼ぶのは母だけだったので、これは素直にうれしかった。
「ねえ、ルナル」
 さっそく呼ばれたと思った瞬間の出来事だった。ランスが顔を寄せてきて、ルナルーシアの頬にそっとくちづけた。
 本当に一瞬のことで、何が起きたかよくわからず目を丸くする。
「君が好きなんだ。ルナルが僕を嫌いでなければ、友達じゃなくて、恋人に名乗り出たい」
「え、え……?」
「だめかな」
 立ち止まったランスにじっと顔を覗き込まれて、目を逸らすこともできなくなった。
「こい、びと……私が、ランスさんの?」
 その単語の意味はもちろん心得ているが、自分に関係のある言葉だと思ったことは一度もない。
 これまでの人生、母とメディシスと薬作りに全身全霊を注いできたので、異性と親しくなる機会もなかったし、機会が欲しいと思ったこともなかった。
「逃げられない状況で、こんなこと言ってごめん。でも、この先もルナルと一緒にいたいって思ったんだ。このまま別れたら、次もうまく会えるかわからない。なんの約束もない関係が、すこし怖くて……」
 彼のような大丈夫(だいじょうふ)の口から『怖い』なんて言葉が出てくるなんて、驚く以外に反応しようがないではないか。
「で、でも、ランスさんは、貴族――なんですよね? 私は父が騎士でしたが、実質平民と同じで、身分が……」
「確かに貴族の家に生まれたけど、こないだも言ったとおり、僕は次男で家督は兄が継ぐ。もしルナルが貴族はいやだというなら、別に僕は家と縁を切っても構わない。身分とかそういうこと抜きにして、僕のことをひとりの男として見てもらいたい」
 碧い瞳が真剣にルナルーシアをみつめてくるから、絶対に逸らせない。
 でも、ふとその強い目元が緩んだ。そして恥じ入るように、ランスの方から視線を外してしまった。
「ほんと、ごめん。いきなりこんなこと言われたって困るよね。無理強いするつもりはないけど、これが僕の本心なんだ。それだけは知っておいてほしい」
 ランスの肩から力が抜けたと思ったら、彼はふたたび歩を進める。
 その振動に揺られて、ルナルーシアは今の言葉を何度も何度も頭の中で反芻した。
 彼と親しく言葉を交わすようになってまだ一ヶ月くらいだが、ランスが店を訪れてくれるのはうれしかったし、来なかった日は内心でガッカリもした。
 今日だって、楽しみだったから張り切ってお昼も用意したのだ。ランスが喜ぶ顔が見たいと思って作ったし、彼によく思われたくておめかしもした。
 好意は自分の中に間違いなく存在しているが、それを恋心だと自覚したことはない。
(ううん――今、しました……)
 自分も、次に会う約束が欲しいと思えるから……。
 言葉のないままうつむいているうちに西の森は切れて、待ち合わせをした橋の袂へ戻ってきた。
 いつの間にか雨は止んでいて、ランスが足を止める。
「ルナルは家に戻る?」
「いえ、一度おばあちゃんの家に薬草を持っていきます」
「途中まで送ってあげたいけど、こんな格好だし、僕はここで帰るよ。もう歩ける?」
 ランスの脱いだチュニックは持ち帰ってきたものの、ずぶ濡れの上に血まみれだし、着て帰るわけにはいかないだろう。
「は、はい。もう、大丈夫です」
 そっと地面に降ろしてもらったら、なんだか足元がふわふわしていたが、どうにか歩くことはできそうだ。
「じゃあ……」
 すこし離れ難そうにランスは言って、ルナルーシアを見たまま後退し、やがてこちらに背を向けた。
 でも、遠ざかる背中を見ていたら、胸の奥の方がずきりと痛んだ気がして、思わず彼を呼び止めていた。
「明後日。私、明後日またお店にいます! 会いに来てくれたら、うれしいです……」
「それは次の約束?」
 足を止めたランスが振り返り、確かめるように聞いてくる。
「あ、ランスさんのご都合がよければ、ですが。私も……ランスさんが好きです。また、会いたいです!」
 どきどきしながら言ったら、ランスの表情がまるで雲間から射す陽光みたいに輝いた。
「行くよ、必ずルナルに会いに行く! また明後日!」

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

 それからというもの、ランスと『恋人同士のお付き合い』というものがつづいている。
 とはいえ、ルナルーシアはこれまでの生活を崩すことなく、母の世話とメディシスのところで薬作り、週に二度の露店販売を律儀にこなしていた。
 ランスも家のことがあるので、そういつもいつも暇なわけではないようだ。それでも露店を開くときは時間を作って来てくれて、ルナルーシアの護衛がてらいろいろな話をした。
 聞いたところ、ランスは二十五歳。ヴァナ男爵家の次男で、家は商売をしているそうだ。母親は先日亡くなり、父親はそれを機に身を引くことにしたので、ランスの兄が仕事を引き継ぐことになるのだとか。
「僕は冷や飯食らいの次男坊で、今までは騎士団に所属していたんだけど、家業の手伝いをしろと言われている。もっとも、僕には才能がないけどね。僕としては、小さいながらに地方に領地があるから、そこで兄の代理で領主の仕事でもしようかと」
「領主さんですか、すごいです」
「地方の小さな町の町長だよ。でも、ルナルがいるから、今すぐにとは考えていない。いずれね……」
 その先にどんな言葉をつづけるつもりなのだろう。
 結局、彼は口にはしなかったが、やさしく微笑んでくれたので、ルナルーシアは頬を染めて笑った。
 ランスの持つ空気はあったかくてやさしくて、いつまでも包まれていたくなるのだ。

 ――この日は、まだ夕方にもならないうちに薬がすべて売れてしまったので、早々に店じまいすることになった。
 仕事が終わると、露店の売り上げを持ってメディシスの小屋へ行くので、あの橋の袂まではいつもランスが送ってくれる。
 でも今日は時間があったので、目抜き通りの屋台でおいしそうな揚げ菓子を買い、食べながらふたりでそぞろ歩きした。
「そういえばルナル、その指輪はどうしたの? 以前はつけてなかったよね」
 揚げ菓子を持つルナルーシアの右手人差し指には、金の指輪が嵌っていた。
「あ、これ。先日、薬草摘みに行ったときに川で拾ったんです。古い指輪でしたが、イニシャルも入っていなかったし、磨いたらすごくきれいだったからつけてみたんですが……やっぱり、持ち主を探したほうがいいですよね」
 これまでアクセサリーを身につけたことがなく、美しく輝く黄金色に目を惹かれて嵌めてみたのだが、考えてみれば落とし物である。勝手にもらったりしたら、窃盗になるかもしれないと思い、あわてた。
「川で? まあ、いつ誰が落としたものかもわからないから、持ち主を探すのは無理だろうね。それよりも、どんないわくがあるかわからないし、古い指輪は気をつけた方がいい」
「お師匠に見せたら、やっぱり同じことを言ってました。でも、邪気払いをしてくれたから大丈夫ですよ。薬草には、悪いものを払う効果があるとされるものもあるんです。大昔、薬師は魔術師とも言われて、お呪(まじな)いみたいなことをしていたんだとか」
 結局、話題は薬草にいってしまうが、ランスは笑ってルナルーシアの頭を撫でた。
「指輪が欲しいなら、ルナルのために作った新しいものをあげるよ」
「え……っ、でも、それは――」
 心惹かれたが、男性に指輪を贈られる意味を考えると、無邪気に「欲しいです!」とは言えなかった。それに、贈り物ならもう花束をもらって……。
「あっ!」
 ルナルーシアがいきなり足を止めたので、数歩先に行ってしまったランスが振り返った。
「そういえば私、ランスさんに謝らなくてはいけないことがあります……」
「え、なんだろう」
 揚げ菓子の包みを両手に持って、ルナルーシアはふたたび歩き出し、正直に白状した。
「実は、先日いただいた花束なんですが、家に持って帰ろうと思ってバスケットに入れておいたんです。でも、オオカミに遭遇して動転していたみたいで……そのまま花を入れっぱなしにして、バスケットごとお師匠に渡してしまったんです――!」
 夜、自宅に帰ってからそのことを思い出し、翌日あわててメディシスの家に取りに行ったのだが、その花はとうに処理された後だった。
 花びらは薬液に漬けられ、茎や葉は細かく刻まれて干されており――。
「本当にごめんなさい! おばあちゃん、あの花はとても珍しくて貴重な薬草だからって、すごく大喜びしていて……」
 小さくなって謝るルナルーシアを見て、ランスは笑い出した。
「そんなこと! 君のお師匠さんの役に立ったのなら摘んだ甲斐があったよ。薬師らしい逸話だね。そんなに珍しいなら、また採りにいこう。たくさん咲いていたよ?」
 他愛もない会話をしているうちに、西の森の近くの橋にたどり着いてしまった。
 メディシスは家の場所を他人に知られるのを極端に嫌うので、いつもここでお別れだ。
「一度、お師匠さんにご挨拶してみたいな」
「やめておいたほうがいいですよ。私が言うのもなんですが、本っ当に口が悪いんです」
「そこまで言われると、逆にどれだけ口が悪いのか気になるよ」
「ランスさんを紹介したいって、言ってはみたんですよ。でも、いやだって」
「そうかぁ。残念」
 本人を前にしていても平気でこき下ろしてくるので、ランスを連れて行ったとしたら、たぶんルナルーシアがいたたまれなくなるだろう。
 あのへそ曲がり薬師のことだ。ルナルーシアの前で、彼に対して「下心があるんだろう」とか「どうせ冷やかしだろう」くらいのことは言いかねないし、勢いでトウガラシエキスをかけかねない。
 そんなことになったら、もう二度とランスに顔向けできなくなってしまう。
 そこでふと会話が途切れた。でも今日はまだ陽が高いこともあって、なんとなくふたりともその場から立ち去れないでいる。
「――ねえ、ルナル。キスしてもいいかな」
 唐突にそう言われて、ランスを見上げる目が丸くなった。
 お付き合いをはじめて一ヶ月とすこし。未だ手をつなぐ以上の触れ合いはない。
 お互いにもういい大人だが、ルナルーシアには病弱な母がいるから、あまり遅くまで出歩けない。時間に制約があってなかなか踏み込んだ仲にはなれないが、それ以上を期待するのはランスだけではなく、自分も同じだ。
 ぽやっとした性格のルナルーシアだが、無知な小娘というわけではない。知識だけは人並みに有している。
「――したことがないのですが、うまくできるでしょうか……」
 もう二十歳なのに、キスもしたことがないなんて、シルヴァーナ王国の女性としてはかなり晩熟(おくて)の部類だろう。
 いくら準貴族だとしても、ちゃんと一家の長が健在で、騎士の家の娘として立ち回っていたら、とうに結婚していてもおかしくない年齢だ。
「こういうの、うまいとか下手とかじゃないから。ルナルが大好きだから、キスしてみたいと思ったんだ。君が許してくれればだけど」
「お、お断りする理由は、ありません……」
 婉曲な了承にランスは笑い、やさしくルナルーシアを抱き寄せると、固まっている彼女の顔に端整な顔を近づけて、ふんわりと触れるだけのくちづけをした。
 ほんの一瞬の出来事だったが、人のぬくもりが身体を覆っていく不思議な感覚に驚き、紅玉の瞳を見開いてランスを見上げた。
「――いやじゃなかった?」
「そんなことないです! すごくあったかくて、気持ちよかったです」
「そう……よかった」
 安堵して肩から力を抜いたランスは、もう一度ルナルーシアを抱きしめて、今度はもっとはっきり重なるキスをした。
 ランスと触れ合う部分の温度が急上昇していく気がする。ついでにほっぺたも熱くなって、心臓の鼓動がものすごく大きく響いてきた。
 呼吸をしたら、鼻息が彼にかかってしまいそう。それはひどく申し訳ない気がして、いつの間にか呼吸を止めていた。
「ルナル、息が止まっちゃってるよ」
 顔を離したランスが苦笑しながらルナルーシアの頭に手を置く。緊張しすぎたせいで、全身に力が入って硬直していたのだ。
「でもっ、ランスさんに失礼があってはいけないと……」
「キスしてそんなことを言われるとは思わなかったよ。むしろ何も考えずに委ねてくれたほうがうれしいかな」
 凛々しく整った顔に間近から覗き込まれて、頬が熱くて仕方ない。
「何も考えないのって、難しくないですか?」
「試してみようか」
 ランスはにこやかに笑ってルナルーシアをもう一度抱き寄せ、さっきよりも慣れた様子でくちづけてきた。
(何も考えないなんて、やっぱり無理……恥ずかしい……)
 どうしても眉間に力が入って、自動的に硬直する。
 しかし、彼の唇がルナルーシアを軽く食んでくるから、驚いて唇を開いたら、その中に彼の舌が忍び込んできた。
「ぁっ――?」
 予想外のことに思わず目を開けると、首を傾けたランスが口の中でルナルーシアの舌を捕らえ、絡みついてくる。
 青空のようにさわやかな彼らしからぬ、ひどく濡れ感を帯びた深いキスに、たちまち頭の中が真っ白になった。

 

 

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