愛のない契約結婚は、世界一甘い罠でした。 1
第一話
──綺麗事だけじゃ大事なものなんて手に入らないだろ。
意識が覚醒したのと同時に窓を打つ大粒の雨音が耳についた。それから、地鳴りを伴う激しい雷の音も。
そういえば昼間から、ずいぶん雲行きが怪しかった。
寝台で眠っていたジスランは、真っ暗闇の中、ゆっくりと瞼を開ける。
隣で、こちらに背を向け寝ているルイーズの姿を見つけ、自然と口元が緩んだ。
(あれは……ああ、ロミクの言葉じゃないか)
目覚めの瞬間、脳裏に呼び起こされたのは、かつて喧嘩別れした旧友の声だ。
刹那、窓の外が白く瞬き、耳をつんざくほどの雷鳴が響いた。
「っ……!」
ルイーズが息を呑む。そこではじめて彼女も起きているのだと知った。
声をかけようとして、ルイーズの細い肩が小さく震えていることに気づく。
(やっぱり今も雷が苦手なんだな)
だったら助けを求めればいいのに、ルイーズは決してそうしない。
きっと甘え方を知らないのだ。環境がそれを許さなかったから。
「んん……」
ジスランは喉の奥で微かにうなると、ごろりと寝返りを打った。
そしてそのまま、自分の胸にすっぽりとルイーズを抱き込んでしまう。
「あ……」
ルイーズが反射的に声を漏らす。突然後ろから抱きしめられて驚いたのか、身体がかちこちに硬直している。
(ばれたか?)
寝ているふりをしたつもりだったが、さすがに芝居がかっていただろうか。
薄目を開けてルイーズの様子を観察するが、しかし狸寝入りを指摘されることはなかった。
そのうち緊張が和らいだのか、身体の強張りが解けていく。
小さな身体はまだ微かに震えていた。
雨音がなるべく耳に入らないようにと、ジスランはそのままさらにルイーズへ覆い被さる。
自分のぬくもりで、少しでも恐怖が解消されればいいのだが──。
そのとき再び、閃光とともに雷鳴が轟いた。
「ひっ」
喉に張りついたような悲鳴を上げて、ルイーズは身体を縮こまらせる。
密着したところからがたがたと震えが伝わってきた。
意地っ張りな彼女は、雷を怖がっているとこちらに知られたら余計に頑なな態度を取るだろう。だから寝たふりをしていたが、そろそろ落ち着くような言葉をかけてやりたい。
そう思ったとき、ルイーズがもぞもぞと身じろぎを始める。
そしてくるりと身体の向きを反転させるとジスランにぴたりとくっついたのだ。
「っ……!?」
今度はジスランのほうが息を呑む番だった。
ルイーズがまさか自分から胸に飛び込んで来てくれるなんて。
(これは……起きているときには絶対してくれないな)
自分のはだけた胸元にルイーズが頬を寄せていることを感じながら、目を開けたい気持ちをなんとかこらえる。
(もしかして心臓の音を聞いてるのか?)
ほかの音で雷から気を紛らわそうとしているらしい。
しばらくするとルイーズの震えは止まっていた。
「ううん……」
寝惚けたふりをして甘い香りのする柔らかな身体をかき抱く。
ルイーズのほうもそれに応えるようにジスランのシャツをぎゅっと掴むものだから、愛おしさが胸に迫ってくる。
(お前の言う通り、たしかに綺麗事だけじゃ手に入らないものもあるかもな)
ジスランは胸中で、行方知れずの旧友に呼びかけていた。
世界で一番欲しかったものをこの手に収めるには、正攻法だけでは無理だったろう。
けれど狡い手はもう使わない。
彼女への気持ちは濁りのない愛情なのだと、痛いくらいのときめきが告げているから。
うわあ、空ってこんなに青かったんだ──。
書斎のライティングチェアに深く腰掛けたルイーズは、背もたれに身を預けて天を仰ぐ。
逆さまの窓枠の向こうに、晴れ渡った空が広がっていて、その青に思わずすべての思考を委ねた。
目の前に積み上がった問題は、もはやルイーズの処理できる許容量を超えていた。
これから一体どうすべきなのか──いくら考えても解決策は一つも思い浮かばない。
ルイーズ・フェリヨンはフェリヨン伯爵家の長女である。
二十二歳という、結婚していてもおかしくない年齢だが、浮ついた話の一つもない。
未婚なのは彼女の見た目に問題があるわけではなかった。むしろルイーズの容姿はどのパーティーでも男性の目を惹いた。
蜂蜜の輝きに似た艶のある金髪は腰の下まで真っ直ぐに流れ、無造作なハーフアップにしているだけでも充分に美しい。瞳は吊り目がちでぱっちりと大きく、空の色をそのまま流し込んだような透き通ったブルーが印象的だ。
着ているものは何年も前に購入したほつれのあるデイドレスだというのに、そんなことが気にならないほどの美人である。
日頃の澄ました表情は人形めいているが、今のルイーズは口を半開きにし、呆けた表情でひたすら空を見つめていた。
フェリヨン家は二年前にルイーズの父である当主を亡くした。
すぐに爵位を継いだのは、ルイーズの四歳上の兄、ロミクだった。
これでフェリヨン家も安泰だとほっとしたのもつかの間、ロミクはあろうことか当時交際していた、街の酒場で働く女性と勝手に結婚してしまったのだ。
相手は貴族社会についてなどなにも知らない平民である。おまけにロミクは妻に甘く、女主人としての仕事を教えようともしない。
結婚するにあたって、相手が誰であろうと家族への相談は必須だ。しかしそんな言葉をぐっと呑み込んで、ルイーズは女主人の仕事を肩代わりしてきた。
ルイーズの苦労は兄に伝わっていると思ったし、迷惑はこれきりにしてくれるのなら水に流そうと思ったからだ。
しかし。
電撃結婚から二年経った現在、ロミクは別の恋人を作って駆け落ちしてしまったのだ。
『俺は愛に生きる。二度と戻らないから、どうか俺のことは忘れてくれ』──そんなふざけた書き置きを残して。
これにはルイーズも怒り心頭だった。
この家を──自分の弟妹をどうするつもりなのか、と。
ルイーズ以下、フェリヨン家には女の子が三人と男の子が一人いる。
まだ成人していない彼らまで放っていくなんて一体なにを考えているのだろう。
しかし怒ったところで、行き先すら知らせないで旅立ったロミクが戻ってくる可能性は限りなく低い。
つまりフェリヨン家は次の当主を立てないといけなくなった。
ここロシェルト王国の法律では、半年以上当主が行方知れずで不在ならば、爵位を剥奪すると決められている。
責任の所在をはっきりさせ領地運営の透明化を図る目的なのだろうが、フェリヨン家にとってはこれが非常にまずい。
爵位が与えられるのは男性のみで、順当にいくのならば、ロミクの次に当主となるのはルイーズの弟であるティモテだ。
そのティモテは現在六歳。
法律では、当主となるものが成人を迎えていない場合は、後見人を立てる決まりになっている。
そしてこの後見人も男性でなくてはいけないのだ。
ティモテが当主になった暁には精いっぱい支えようと思っているルイーズだが、法の壁は厚く、家族愛だけではこの状況を乗り切れそうになかった。
普通ならば後見人は親族がなるものだが、この家にいる男性はティモテただ一人。それにフェリヨン家はとある事情により、親戚筋からほとんど関係を絶たれている。
後見人になってほしいとお願いしても、すっぱり断られるのは明らかだった。
兄の駆け落ち、そしてティモテの後見人が見つからないこと。
一ヶ月ほど前にロミクが行方をくらませてからルイーズの頭を悩ませている問題がこれだ。
そして解決の糸口が見えないまま、新たな問題が発生した。
「シグネットリングがないと、そもそも公的な書類が作れないじゃない……」
呆然とつぶやいたとき、書斎の扉がノックされた。
「姉さん、ここにいるの?」
ルイーズははっとして居住まいを正す。
この声は妹のモニカのものだ。
途方に暮れて口をだらしなく開けたまま現実逃避しているところなんて、見られるわけにはいかない。
(わたしはこの子たちのお姉さんなのよ。みんなきっと不安がっているはず。わたしがしっかりしないでどうするのよ)
「いるわ。入って」
きりりとした表情を作って返事をすると、モニカが扉を開けた。
モニカはルイーズの六つ年下で、現在十六歳である。
ふんわりとした黒髪に凜とした切れ長の目は彼女を年齢よりも年上に見せている。顔立ちはあまり似ていないが、モニカもルイーズとは違うタイプの華やかな美女だ。
唯一、青い瞳の色はルイーズとよく似ていた。
「珍しいわね、姉さんが書斎にいるなんて」
「ええちょっとね……」
「どうしたのよ、浮かない顔して」
「モニカ……落ち着いて聞いてくれる? シグネットリングがなくなっているわ」
「うそっ!?」
日頃は落ち着いた物腰のモニカが素っ頓狂な声を上げる。
「大変じゃない! 泥棒ってこと?」
「いいえ……おそらく、兄さんが持っていったんだと思う。金庫の暗証番号はわたしと兄さんしか知らないし、金庫に入っていたほかのものは手をつけられていないから」
「あのばか兄……!」
モニカが憤怒の形相で歯噛みしている。
無理もない。シグネットリングは貴族の家に代々伝わる、家宝ともいえる代物だ。
リング、という名の通り指輪の形をしているが、装飾品ではない。平らな台座にはその家固有の精緻な紋章が彫られており、これをスタンプのようにして使う。
リングの彫り師は特別な技能を持つ職人のみ。複製の難しいその印影は「本物」の証明になる。
従って、公的な重要書類には必ずシグネットリングの印が必要になるのだ。
当主をティモテにすること。ティモテに後見人をつけること。こういった書類にももちろんリングの印が必要になる。
そのリングがなくなった。金庫を開けると、リングがあったはずの場所だけぽっかりと空いていたのだ。
これがルイーズを現実逃避させていた、最新の問題である。
「兄さんを疑いたくはないけれど、状況的にそうとしか思えないわ」
「なんでわざわざあんな大事なものを持ち出すのよ……まさか売り払うつもり? 逃亡資金にする気じゃ」
「兄さんの性格的に、さすがにそこまではしないと思う。リングがなかったらわたしたちがどれほど困るか、察せない人じゃないでしょう?」
「姉さんは甘すぎるわ! 現在進行形で困っているのに!」
「それはまあ……そうなんだけど……」
彼の生き方には常々全く共感できないと思ってきたルイーズだが、同時にロミクが根っからの悪人だとも思えないのだ。
自分の気持ちに正直すぎるきらいはあるが、からりとした性格自体はどうも憎みきれない。
「ばか兄さんが醜男だったら良かったのに。なまじ見られる顔のせいでこんな問題が起こってるのよ。呪われているわ、うちの家系」
「……そうかも」
ロミクの外見はルイーズとよく似ている。艶のある金髪にきらきらとした青い瞳は華やかで人目を惹く。おまけに分け隔てなく笑顔を振りまくから、勘違いする女性も多い。
女性受けするような容姿でなければ電撃結婚や駆け落ちなんて問題は引き起こさなかったのかもしれない。モニカの恨み言にも納得する点はある。
フェリヨン家の特性についても、呪いだと毒を吐きたくなる気持ちはよく理解できる。
どういうわけか、フェリヨン家の人間は代々、恋愛至上主義者ばかりなのだ。
前当主のルイーズの父は、そのせいで妻を三人替えている。
最初の妻がロミクとルイーズの母にあたる人だ。両親は互いに愛人を作り、結果母は父と離縁し、屋敷を出て行った。
二人目のフェリヨン伯爵夫人となった女性はそのときすでにお腹に子を宿しており、それがモニカだった。つまり、ルイーズとモニカは異母姉妹なのだ。
七年後、モニカの母も新しい恋人を作って家を出て行き、それからまた一年後、三人目の夫人がやってくる。最後の伯爵夫人となった彼女も、父が病に伏せるとあっさりよそに作っていた恋人に乗り換えた。
自分と同じような価値観の女性を好むのか、父の選んだ人もみな恋愛至上主義で、次々に恋人を作っては別れを繰り返していた。
おかげで離縁の際もあまりこじれることがなかったのは幸いだが、歴代のフェリヨン家の面々の恋愛遍歴はそうとは限らない。手切れ金や、方々への慰謝料などで、財産を手放すことを余儀なくされた。
フェリヨン家は元々、窓の外に見える山の向こうまで広大な領地を持つ家系だったのだと聞いている。それが今ではわずかな領地しかない貧乏貴族にまで落ちぶれてしまった。
常駐の使用人を極限まで減らし、切り詰められるところは節約を重ねて、なんとか貴族としての体裁を保っている。
代々住んでいるこのカントリーハウスは一見立派だが、よく見るとところどころ雨漏りし隙間風が吹き込んでいる。
それでも弟妹の部屋だけはすぐに修理をしたし、彼らの衣食住には不足がないように気を遣ってきた。
ルイーズ自身はぼろぼろのドレスで構わないが、家族にはみじめな思いをさせたくないと、金銭の苦労は隠してきた。
陰で切り詰めた生活をしているおかげで、なんとかわずかな税収だけでもやっていけているという現状だ。
先祖代々、恋にうつつをぬかすなんてことがなければ、血眼で帳簿をつける生活とは無縁だったはずなのに──。
「姉さん、どうする? もう指名手配でもして兄さんを捕まえてもらう?」
「指名手配って……」
「シグネットリングの窃盗は重罪よ。指名手配されても不思議じゃないわ」
「そんな大事にしなくても大丈夫よ。なんとかするから」
ルイーズはにっこりと笑って見せる。
なんとかする方法は微塵も思いついていないが、モニカをこれ以上不安にさせてはいけない。
そのとき、扉が勢いよく開いて、顔をくしゃくしゃにして泣いている男の子が駆け込んできた。
「ルイーズ姉さん!」
ルイーズの弟で、六歳のティモテだ。ティモテはルイーズに駆け寄りその膝に縋りつく。
さらさらの黒髪を真っ直ぐに切りそろえた子供らしい髪形で、こちらを見上げる大きな紫色の目からは涙がはらはらと流れていた。
一見、女の子に見紛うほどのかわいらしい容姿だ。
ルイーズはハンカチでそっと涙を拭ってやる。
「あらあらどうしたの?」
「っ、ひくっ、サシャ姉さんとミシャ姉さんが喧嘩してて……」
「うん、それで?」
「僕怖くなって、それでっ、ひくっ」
蚊の鳴くような声でなんとか説明すると、ティモテはまたしゃくり上げる。
「喧嘩の様子が怖くて泣いているの? いい加減、あなたはそんなことくらいで泣くのをおよしなさい」
モニカが呆れて言えば、ティモテの肩がびくりと跳ねる。
「モニカ、人が泣く理由に善し悪しはないわ。ティモテ、ちゃんと自分の口で説明できて偉かったわね」
頭を撫でてやると、ずびっと鼻をすすったティモテが微笑む。感受性の豊かな子なのだ。
モニカは意志のはっきりした合理的なタイプだから、こういった繊細で涙もろい子は見ていてもどかしいのかもしれない。
「あなたはこれからフェリヨン家を背負って立つ人間なのよ。泣き虫を直して損はないはずだけれど」
モニカの言葉に、ルイーズはそっと人差し指を口にあて、発言を控えるよう伝えた。
成長していく中で泣き虫を直したほうがいいとは思う。けれど、それがフェリヨン家の当主になるからという理由であってはいけないとも思うのだ。
兄の不始末のせいで急に責任ある立場にさせられて、性格まで直せだなんて酷な話だ。
(無理に理想を押しつけたくはないわ。せっかく素直で優しい子なのに。家族は味方だってちゃんと伝えたい)
「サシャとミシャが喧嘩しているんですって? 見に行きましょうか」
ルイーズは立ち上がってティモテと手を繋ぐ。
「モニカも一緒に。ね?」
「ええ……」
「ありがとう、フェリヨン家のことを考えて言ってくれたのよね」
そっと耳打ちすると険しかったモニカの表情が幾分か柔らかなものに変わる。
大人びているが、こんなふうに顔に出やすいところはまだまだ子供なのだ。
三人で書斎を出て、ティールームへ向かう。
部屋に入るなり、甲高い声で怒鳴り合っているのが聞こえてきた。
「ミシャばっかりずるい! サシャはまだ全然食べてないのに!!」
「サシャのほうがチョコレートをたくさんつけてるじゃない! チョコはミシャの大好物なのに!!」
「二人ともやめて。ティモテが怖がっているわ」
ルイーズがあいだに入ると、むっとした顔の二人がこちらを見上げる。
その顔は鏡のように瓜二つだった。
ふわふわにカールした長い金色の髪に、大きな紫色の瞳。サシャとミシャは双子で、現在は八歳だ。
ティモテとは対照的に、双子は男の子も顔負けの気の強さである。
(この三人は正真正銘、同じ両親から生まれているのに、こうも性格が違うなんて面白いわね)
彼らは父の三人目の妻が産んだ子だ。ルイーズともモニカとも母親が異なる。
サシャにミシャ、ティモテも、身内の欲目を除いても美しい顔立ちである。華やかな容姿の両親からそれぞれ少しずつ特徴を受け継いでいるのだ。
「で、二人はどうして喧嘩していたの? まさかどっちがビスケットをたくさん食べたかが理由じゃないわよね? さっき昼食をとったばかりなのに」
サシャとミシャはそれぞれ、ビスケットとチョコクリームの容器を持っている。
二人ははっとなにかに気づいたように顔を見合わせる。
「喧嘩じゃないわ。ちょっと議論していただけ」
「もちろんビスケットを食べてなんていないわ。お茶の時間にみんなで食べる分があるか確認していただけ」
「ルイーズ姉さん、安心して。ちゃんとみんなの分はあるから」
「そう? それはなによりだわ」
ルイーズは悪戯っぽく笑うと、チョコクリームのついた二人の口元をハンカチで拭った。
喧嘩ばかりのくせに、いざというときにはぴったり息を合わせて結託するなんて芸当ができるのも、双子ゆえだろうか。二人のそんな部分もルイーズは楽しくて好きだ。
つまみ食いがばれて気まずそうな双子を見て、ティモテがころころと笑い始める。つられてモニカまで吹き出す。
これがルイーズの大切な日常だ。
母親が違おうがそんなことはちっとも関係ない。
自分を姉さん、と慕ってくれる弟妹が心から愛おしい。
かけがえのない、たった一つの家族。
こんな毎日を守るためならなんだってするとルイーズは心に決めている。