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ワケあって悪女を演じていますが、犬系年下騎士にめちゃめちゃ愛されてしまいました 3

第三話

 

 サロンでの出来事から数日後。エルシーは母親の部屋に呼ばれた。
「ああ、もう。エルシー。あなた、なんということをしてくれたの?」
 あのときマーキスが言ったセリフは瞬く間に社交界に広まってしまったようだ。エルシーはいわゆる「あばずれ」というやつで、とっくの昔に処女を失っており、大勢の男に身体を許している──と。
 マーキスが大げさに吹聴した可能性もあるが、噂には尾ひれがつきまくって広まっていったようだった。
 母はこめかみを揉みながらエルシーに問う。
「噂は、事実なの? あなた、もう乙女ではないの?」
「ええと……お母さま。マーキスに啖呵を切ったのは事実よ。でもそれはしつこいマーキスを振り切るためであって……わたしに男性経験があるわけではないわ」
「まったく。断るにしたって、もっと方法があったでしょうに……慎重に振る舞いなさいと、いつも言っているでしょう? 社交界に居場所がなくなったらどうするつもりなの?」
 確かにこんなことになっては、しばらく外には出られないだろう。そうしているうちにどんどん月日が経って、異性から求婚される機会も失われ、エルシーは結婚できないまま年齢を重ねてしまうのではないか。母はそういうことを言っているのだ。エルシーはしばらく考え、ふと思い当たってぽんと手を打った。
「あっ、そしたら、お父さまの会社で雇ってもらおうかしら」
 父はグリーリルド王国のコメット侯爵家の次男だった。先代の侯爵が亡くなったとき、父の兄が爵位を継ぎ、父は侯爵家が所有していた造船会社を継いだ。オーナーとして所有していればじゅうぶんだったのに、父は自ら経営に乗り出し海運業もはじめてしまったと聞いている。最近では男性用の小物ブランド「コメット」を起ち上げており、評判もなかなか良いらしい。
「女性用の小物も扱ったらいいのにって思ってたのよ」
「エルシー、いけません!」
 母は腰に手を当ててくどくどと説明した。オーナーの娘がしゃしゃり出てきたら現場の人間が気を遣うだけだと言うのだ。
「商売や経営の勉強をした人ならともかく、あなたは違うでしょう」
「……はあい」
 可愛い巾着や日傘がお店に並んでいる光景を思い浮かべてちょっとワクワクしてしまったが、母の言うとおり自分は商売について何も知らない。
 エルシーがやる気のない返事をすると、母は大きなため息をつきながら、便箋を手に取った。
 現在マーズ家の男性──エルシーの父と兄──は仕事で異国に長期滞在中だ。だから生じてしまったこの醜聞をどうするか、母が決めなくてはならない。
「エルシー。あなた、ラインディアの私の実家にお行きなさい。兄夫婦に手紙を書いておきますから、しばらくの間そこで過ごすの……いいわね?」
 母の兄はウィングフィールド伯爵で、その妻がアニスだ。エルシーはまったく気取らないアニス伯母のことが大好きだった。彼女の娘のペネロペは素直で純粋ですごくいい子だし、伯母と従妹に会えると考えればラインディアに身を隠す作戦はそう悪くない。
「まあ。おばさまとペネロペに会うのが楽しみ!」
「遊びに行くのではありませんからね。おとなしくして過ごすのよ?」
 父が帰国したら事態の収拾をお願いするつもりだが、でもエルシーが異国でおとなしくしているうちに噂は収まるかもしれない。母はそう説明した。
 エルシーもサロンでのお喋りには飽き飽きしていたところだ。何より異国に行けばマーキスと顔を合わせずに済む。まあ、向こうもエルシーにはもう会いたくないだろうけれど。
 母は何度も何度もため息をつきながら手紙を書きはじめている。
 一方、エルシーは張り切って荷造りに取り掛かったのだった。

 

 ラインディアとグリーリルドは古くからの友好国で、陸路でも海路でも繋がっている。今回は船旅を選んだエルシーだ。ラインディアの港まではエルシーの世話役としてマーズ家の年長のメイドが一人。そして荷物持ちとして、従僕の男の子も一人同行してくれた。
 港にはアニスとペネロペが出迎えに来ており、そのまま馬車に乗ってウィングフィールド伯爵邸へ向かう。
 客間で着替えを済ませたエルシーがリビングへ顔を出すと、アニスは改めて歓迎のハグをしてくれた。この屋敷の男性──ウィングフィールド伯爵とその息子──は領地に滞在中で、いまは女性だけの暮らしらしい。偶然にもエルシーの実家と同じ状態だった。
 アニスは「女性だけだから気楽にいきましょ」と前置きしてから言った。
「あなたのお母さまからの手紙、読んだわよ! スキャンダルの渦中にいるんですって?」
 彼女はエルシーの醜聞に興味津々のようだ。「早くお掛けなさい」と着席を促し、エルシーが座るなり顔を寄せてくる。アニスは貴族の女性にしては珍しいショートカットで、しかも会うたびに金だったり黒だったりと髪の色が変わっている。最近は赤に染めているようだった。そして爪も髪の色に合わせて塗っているのだろう。伯母はほんとうにお洒落な女性だ。エルシーはピカピカに整えられたアニスのワインレッドの爪に見入った。
「それで、エルシー。どうしてそんなことになったのかしら? 聞かせてちょうだい!」
「お母さま。面白がるのは失礼だと思うの。エルシーねえさまは傷ついているかもしれないんだから……」
 女学生のように瞳を輝かせるアニスを、娘のペネロペが窘める。従妹のペネロペはエルシーより四つ年下の十九歳。おとなしくて思慮深い娘だった。アニスとは正反対の性格といってもいいだろう。
 エルシーは前衛的なアニスのことも大好きだが、心優しいペネロペのことも大好きだ。
「いいのよ、ペネロペ。そりゃ向こうでは色々あったけど……でも、今回のラインディア滞在はとっても楽しみだったんですもの。人生、悪いこともあれば良いこともあるんだなって考えていたところよ」
 母がアニスに出した手紙には、エルシーが遊び人だという根拠のない噂が広まってしまったこと、噂が収まるまでラインディアに滞在させてほしいことが書いてあったらしい。でも、そこに至るまでの詳しい経緯は記されていなかったようだ。そこでエルシーは出されたお茶を飲みながら母国で何があったかを語った。
「……で、そのマーキスがあまりにしつこいものだから、わたし、思い切って言ってやったのよ。そしたら……」
「なんてひどい男なの……? エルシーねえさまが気の毒だわ」
 ペネロペは眉を顰めたが、アニスはエルシーに拍手を送った。
「よく言ったわ! そういう男にはガツンと言ってやらなきゃダメなのよ」
「お母さま。今回はエルシーねえさまの犠牲が大きすぎるわ。私、納得がいかない」
「それはそうだけれど。でも、いまの話を聞いてなんだかスカッとしたわ~」
「もう、お母さまってば……エルシーねえさま、ごめんなさい……」
 エルシーは笑いながら「いいのよ」と手を振った。自分に同調してもらえて救われた気がしたし、マーキスの悪口を吐き出すことで気分も良くなってきた。ラインディアに来てよかったなあと思う。
 すると、この部屋には自分たちしかいないというのにアニスがちょっと小声になる。
「で、エルシー? ほんとうのところは……どうなの?」
「え? どうって……?」
「マーキスに告げたのはまったくの出まかせなの? それとも……」
 アニスの言いたいことを悟ったのはエルシーとペネロペ、ほぼ同時だった。ペネロペは頬を赤く染めて「お母さまったら!」と窘める。エルシーはまた笑いながら「いいのよ」と言って伯母の問いに答える。
「出まかせだわ。わたしはまだ乙女だもの」
 男性のアレがどうなるか知ってはいるけど、それは七年も前に目にした出来事だ。あの少年との間に起こったことは、アニス相手でもちょっと言いにくい。だからエルシーは自分が処女であることだけを伝えた。
「なあんだ」
 案の定アニスは残念そうである。いつもお洒落に着飾っているが、心そのものには飾り気がない。エルシーはアニスのそういう性質が好きだった。
「おばさまが喜ぶような話じゃなくて申し訳なかったわ」
 するとアニスはまっすぐにエルシーを見た。
「実はね、エルシー。あなたが経験豊富な女性だったなら、今回、ぜひともお願いしたいことがあったんだけど……でも、どっちだって構わないわ。話を聞いてくれる?」
「え? ええ。何かしら?」
「もうすぐ、ラインディアの社交シーズンでしょう?」
「ええ」
 エルシーが姿勢を正すと、アニスは身を乗り出してきてエルシーの両手をつかんだ。
「ペネロペの付添役をやってほしいの」
「付添役……?」
 意外な申し出であった。未婚の娘が夜会に出席する際は同行する人間が必要だ。婚約済みであれば婚約者がそれを務めるが、たいていは親や既婚の親戚が同行する。娘についているマナー教師が付添役を務める場合もある。
 日中のイベントなら送迎さえあれば一人で行動しても構わない。しかし夜の催し物に未婚の若い娘が参加する際は色々と制約がある。グリーリルドではそうだった。言葉や文化を共有するラインディアでもそれは同じなのではないだろうか。
「わたしが付添役……? それはアニスおばさまではだめなの?」
 そう訊ねるとアニスはペネロペにちらりと視線をやる。ペネロペは「お母さま、エルシーねえさまに無茶を言わないで」ともごもごと呟き、真っ赤になって俯いてしまった。
「この子、去年デビュタントしたのよ。けれども、この性格でしょう?」
 アニスの言わんとしていることは理解した。ペネロペは非常におとなしくて引っ込み思案だ。夜会では異性とうまく接することができなかったのだろう。
「私がハンサムでお金持ちの男性に声をかけて、ペネロペとダンスをするように仕向けたりしたんだけど……何も! 何も進展がないのよ」
 ペネロペはいずれの男性とも会話が続かず、別のパーティー会場で再会しても彼らから声をかけてもらえることがなく、社交シーズンの終盤は誰とも踊る機会がなかったという。
「あ、ああー……なるほど」
 その光景は想像が容易かった。エルシーはつい相槌を打ってしまう。
「たぶん私のやり方と、この子の性質が合わないのよ。私が付添役をしたら、今年も去年と同じことになるわ。だから、エルシー。あなたにお願いしたいの!」
 エルシーの手を握り続けていたアニスだが、そこでさらに力がこもった。
 未婚の女性が付添役を務めるとしたら、それはもっと年かさの女性だ。いわゆる「オールドミス」と呼ばれている人たち。エルシーもあと数年経てばそう呼ばれるだろう。しかしまだちょっと早い。
 そこでエルシーは、付添役のためだけに雇われた女性とペネロペが夜会に出席する様を想像してみた。ペネロペの性格上、異性とうまくやる以前に、よく知らない女性と一緒に行動するのは難しそうだと思う。
 それにアニスは自分のやり方が娘と合わないことは重々承知しているようだ。だからといって、娘のペースに自分が合わせるのも難しいと考えているのだろう。
 アニスがエルシーを頼りにしている気持ちはよくわかった。
「わかったわ、やってみます」
「まあ、ありがとう!」
「けど、わたし……夜会用のドレスを持ってきていなくて……」
 ラインディアの社交界がどんなものか見てみたい気持ちはあった。しかし母親から「おとなしくしていなさい」ときつく言われていた手前、夜会用のドレスや靴はトランクに詰められなかったのだ。ちょっとした外出のときに着るドレスならば何着か持ってきているが、さすがに夜会用には使えない。エルシーが持ってきたトランクの中身のことを考えていると、アニスが言う。
「そんなの、心配しなくても大丈夫! 生地とデザインに拘らなければ、パパパッと仕立ててくれるお店があるのよ! 既製服のフリルや袖をちゃちゃちゃっと付け替えてくれるところもあるわ。あとは、私のドレスをあなた用にリメイクしてくれる店とか!」
「わあ。おばさまのドレスを? いいの?」
 エルシーは自分だけの一点ものには拘らない性質だ。別にオーダーメイドでなくてもいい。自分が気に入っていて、自分に似合っているものを身に着けたいと考えている。それにお洒落なアニスのドレスにはすごく興味があった。
「じゃあ、まずは私の衣装部屋に行きましょう? そこであなたに似合いそうなものをいくつか見繕ったら、お直しに出かけるわよ!」
「ええ!」
 アニスは立ちあがり、衣装部屋のほうへいらっしゃいと言って階段を上っていく。エルシーも後に続こうとしたとき、ペネロペがエルシーの服をつんと引っ張った。
「あの、エルシーねえさま」
「うん?」
「付添役のことなんだけど……あの、私、私……」
 ペネロペはそこで口ごもってしまう。言いづらいが、伝えたいことがあるようだ。エルシーは先ほどの自分の振る舞いを思い返し、青ざめる。
「ペネロペ……もしかしてわたしが付添役をするの、嫌だった?」
 恥ずかしがり屋な彼女のことだ。身内に付添役を務めてもらうよりは、ドライな関係を築けそうなまったくの他人のほうがよかったのかもしれない。いや、ペネロペは社交界自体を忌避している可能性もある。ほんとうは夜会に参加せず静かに過ごしたいとか……。エルシーは色々と考え、ペネロペの真意を引き出そうとした。
「あなたの気持ちも考えずにはしゃいでしまってごめんなさい。付添役について……ううん、それだけじゃなくて社交シーズンについて、何か……思っていることがあるの?」
「違うの。エルシーねえさまと一緒に参加できるのはすごく嬉しいの。でも、あの……お母さまにはまだ秘密にしていてほしいのだけど……」
「ええ。どうしたの?」
 一緒に夜会に参加するのは嫌ではないらしい。では、ぺネロペはいったい何を憂慮しているのだろう。エルシーは彼女に顔を寄せ、声のトーンを落とす。
 そのとき階上からアニスの声がした。
「ねえ、早く衣装部屋へいらっしゃい!」
 あまり待たせてはアニスが変に思うだろう。しかしここで話を切りあげてしまったら、今度はいつペネロペの本音が聞けるかわからない。
 エルシーは二階に向かって声を張りあげた。
「ごめんなさい、ドレスのリボンが解けてしまったの。いま、ペネロペに結び直してもらっているから、少しだけ待ってちょうだい」
 そしてペネロペに向き直る。
「さあ、あなたのお話を聞かせて」
「あの、あの、私……好きになった方がいて……」
 ペネロペは顔を真っ赤にしながら口にし、そこで言いよどんでしまった。エルシーとしては「まあ! いったい誰? どんな人なの!?」と大騒ぎしたい気分であったが、こちらが興奮するわけにはいかない。
 まずはペネロペが何を思っていて、どうしたいのかを聞き出さなくては。
「ええ」
 エルシーが澄ました顔で相槌を打つと、ペネロペは訥々と語りはじめた。