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自称・保護者の騎士様が後方腕組み彼氏面で私(聖女)のお見合いを邪魔してきます! 1

第一話

 

 

 

「オーロラ嬢! 俺と結婚してくれ!」
「いや待ってもらおう! 結婚するなら私とだ! うちは代々魔法使いの家系で、間違いなく聖女の力になれる!」
 王城の敷地内にある聖教会の礼拝堂で、輪になった男たちがじりじりと、ドレスを身にまとったオーロラに迫ってくる。
「えっと……その……皆様、とりあえず落ち着いて……」
オーロラが震えながら絞り出した声は、周囲の熱気にかき消されてしまった。
 ほんの数日前まで普通の人間だったオーロラは、今や貴重な人材である【聖女】として、国家で保護されるべき存在になった。
 稀血を残すため、今、目の前にいる数十人の男の誰かと結婚して子を産むのがオーロラの役目――というのが、お偉方の命令だ。
 好きでもない男と結婚し、子供を産む。
 もはや国家事業と言ってもいい。
 そんなのはいやだという焦りと、不穏分子として殺されるよりはマシかもという現実逃避と、だがこれはある意味『区切り』になるのではないかという諦めの中で、感情は振り子のように揺れていたが、最終的には覚悟を決めている。
(そうよ……私はお見合いするって決めたの……! 決めたんだけど……)
 絶対に実らない片思いをし続ける限り、オーロラは幸せにはなれない。
『彼』がオーロラを女として愛する日など来るはずがないから。いっそ勢いでも結婚して子供を作り母親になったほうが、幸せになれる可能性がよっぽど高いだろう。
(なのに、どうしてここに来たの。フェリクス……!)
 オーロラは泣きそうになる自分を必死で励ましつつ、自分を背にして立つ最愛の男――養父の背中を見上げたのだった。
『オーロラのことはなんでも知っている』
『オーロラのことならまず俺に相談するべき』
 十二年間の長きにわたって、周囲にそんな態度を貫き通してきた、後方腕組彼氏面で立っている男の名は、フェリクス・ディエゴ・リドレイ、三十二歳。
 神聖フォンデル王国の誉れある白煌騎士団の団長にして、このたび聖女に認定されたオーロラ・リンセ・リドレイの養父である。
 見上げるほどのたくましい長身を純白の騎士服で包み、後頭部で高く結い上げた金色の豪奢な髪が波を打ってキラキラと輝いている様子は、まるでよくできた彫刻のように美しい。空の青よりも青い瞳、細く高い鼻筋に、意志の強そうな唇が、陶器よりもなめらかで美しい肌に完璧なバランスで配置されている。
 彼は国一番の美男子と名高く、季節ごとに発売される団長ブロマイドのおかげで騎士団の財布が潤いっぱなしというのは有名な話で、ほかの騎士団からは「俺もフェリクスの顔に生まれたかったぜ……」とやっかまれるほどだ。
 しかも顔面国宝のこの男、死ぬほど強い。国内最高峰の魔法使いであり、騎士でもある。
 もとは平民で実家はパン屋という至って平凡な家の出なのだが、幼少期から魔法の天才と呼ばれ、末は大魔法使いだという周囲の期待をよそに、彼が選んだのは魔法も剣も使える白騎士だ。
 魔法一筋に修練すれば、いずれ歴史に名を残す偉業を成しただろうと皆に惜しまれたが、本人は「魔法使いっていつも暗くてじめじめしたところに閉じこもって研究してる陰キャの集まりだろ。なんかダサいから嫌」とそれを一蹴し、騎士の道を選んだ。
そして剣の道でもめきめきと頭角を現し、若干二十五歳で、騎士団史上最年少の団長に就任したのである。なんのコネも持たない平民が、だ。
 さすがになにかしらの爵位があった方がよかろうと、公爵家出身の前団長が便宜を図ってくれて、フェリクスは王領の一部であるリドレイ領を拝領し子爵に叙爵されたのだが、本質はやはり平民ガキ大将のフェリクスくんだ。
 だから国で保護するべき『聖女オーロラ』の結婚に、なんのためらいもなく口を挟んで騒ぎを大きくしてしまう。
 オーロラの秘めたる片思いにも気づかずに――。
 光の化身。太陽神の具現化。神の寵児。ありとあらゆる賛辞を一身に受けるフェリクスは、この場で唯一オーロラにのぼせ上っていない貴重な男だった。
「なんなんだ、この騒ぎは……まったく」
 フェリクスは軽くため息をつくと、腕を組んだまま肩越しに一度だけオーロラを振り返ると、心配はいらないという顔で微笑んだ。
「大丈夫だ、オーロラ。お前のことは俺が守ってやるからな」
 フェリクスの口の中で、きらりと小さな石が光る。
 彼の舌には魔力を増幅させるピアスが飾られている。いわゆる舌ピというやつだ。
 十年に一度のマジカルムーンの夜に採取した、百年以上生きた夜光貝が生み出す真珠を削り出したピアスは、魔力を一層高め言霊の力を増幅させるという。
 だがそんな力があろうがなかろうが、フェリクスの言葉はオーロラにとって特別だ。
「……うん」
 こくりとうなずくと、彼は手を伸ばし「いい子だ」と手袋をはめた指先でオーロラの頬を優しく撫でる。
 いつもなら子犬のようにきゃんと吠えて彼の愛撫(なでなで)に身を任せたはずだが、今日はその慈愛に満ちた優しい眼差しに、オーロラの胸に甘い痛みが走る。
 十二年前となにひとつ変わらない、保護者然とした彼の微笑み。
(この人にとって、私はいつまで娘なのかしら……)
 出会ったとき、彼はまだ十九歳の青年だった。そしてオーロラは彼に命を救われてから、一度だって父親だと思ったことはない。
「いいか、お前たち、よく聞け!」
 そんなオーロラの切ない気持ちにまったく気づいていないフェリクスは、気持ちを引き締めるように背筋を伸ばすと、右手を前に突き出し、高らかに宣言した。
 瞬間、周囲の男たちの足がピタッと止まり、何十もの瞳がフェリクスに注がれる。
 彼は自分に注目が集まったのを確認し、それから目じりが吊り上がった切れ長の目をカッと見開くと、
「オーロラの夫にふさわしいのは、俺より剣も魔法も強く、顔がよく、育ちがよく、紳士で金を持っていて、愛人も持たない、オーロラになにひとつ苦労をさせない男だ!」
 と、よく通る声で言い放ったのである。
「フェリクス……?」
 この男は何を言っているのだろう。完全に不意打ちをくらったような気になって、オーロラは目をぱちくりさせる。
 だが驚いているのは自分だけではなかった。堂内にいる男たち全員が、雷に打たれたように立ち尽くし、隣同士で顔を見合わせた。
「えっ……マジ?」
「愛人云々は別として……フェリクス様より上って……それはいくらなんでも無理じゃね……?」
 熱狂の渦に包まれていた彼らから、みるみるうちに熱が引いていく。
「なんだ、もう怖気づいているのか? オーロラへの思いはその程度というわけか!」
 引き続き煽るように叫ぶ声が、朗々と白亜の城のエントランスに響き渡る。
「だったらまとめてでもいいぞ! 野郎ども! オーロラが欲しかったら、俺の屍を越えていけ!!!」
 この場の誰よりもけんかっ早いフェリクスが、魔法の杖代わりの短鞭をベルトから引き抜き、高らかに宣言した次の瞬間、
「な、なあ……い、いくら団長でも、これだけの人数ならいけるのでは?」
 「そうだな、万が一ってコトもある、かも……?」
「よしッ、やるぞ!」
「とりあえずっ、いっけえええ~~!!!」
 フェリクスを遠巻きに見ていた一部の青年が、己を鼓舞しながら半ばやけくそでわああああと叫び、フェリクスへと飛びかかっていく。魔法の光や剣戟が入り乱れる大混戦だ。あっという間に、オーロラからは何も見えなくなった。
(なんだこれ……)
 完全に毒気を抜かれたオーロラは、呆れつつも、ため息をつき神々の祭壇の階段に腰を下ろす。
「フェリクス、めちゃくちゃなこと言ってるわねぇ……」
 呆れたように声を発したのは、使い魔の白文鳥ミルクだ。いつの間にかオーロラの頭の上にいて、薄桃色のくちばしで羽繕いをしつつ、くつろぎムードである。
「そうねぇ……」
 オーロラは、養父が男たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げをしている様子を頬杖をついて見下ろす。
「でも、いいの? あなた、本当はフェリクスと結婚したいんじゃないの?」
「――フェリクスは私のことを、娘としか思ってないから」
 オーロラは笑いながら、頭の上から膝に飛び移ったミルクに指を差し出して顔の前にもってくる。
「本当に好きな人と結婚できないなら、あとは誰だって同じじゃないかしら」
 そう――オーロラはずっと、命の恩人であるフェリクスに報われない恋をしている。

 事の起こりは、一か月ほど前のことだった。
 オーロラはその日もいつも通り、朝から神聖フォンデル王国の『国家防衛局』所属の事務官として働いていた。
 仕事内容はおもに王国騎士団のお財布係で、武器防具の購入・修繕費や薬草の売買という日々の取引の記録と、未払い金や建て替え金の処理雑務である。ちなみに今日は経費申請の締め日で、朝から事務局は昼休み返上でてんやわんやだ。
「申し訳ないんですが、領収書のないものは経費として認められないんですよ」
 オーロラは眼鏡を押し上げながら、はっきりとした声で言い放つ。
 同情して融通をきかせると、あとで困ることになるのは経験から明らかだ。どれだけかわいそうだと思っても、冷徹に振舞うしかない。
「そこをなんとか、オーロラちゃん! これね、盗賊一団を追いかけて、ほんともうとにかくめちゃくちゃ急いでてねっ、領収書もらうの忘れてただけなんだってば……! 不正とか絶対にないからッ!」
 カウンター越しに土下座せんばかりの勢いの騎士に向かって、
「もちろん、清廉潔白な騎士であるあなたが、嘘をついているとは思いません。でも規則なんです、例外はありません」
 オーロラはニコッと笑いながら『移動費 75000イェン』と書かれた殴り書きのメモを押し返し「次の方、どうぞ」と行列の後ろの騎士を手招きする。
「うわぁぁ~~~!」
 悲鳴を上げ、床にダンゴムシのように丸まっている騎士には申し訳ないが、本人が書いたメモ紙が通るなら経理など必要ない。
(75000イェンの自腹はきついわね……同情するわ)
 そうやって、てきぱきと事務仕事をこなしていると、終業を告げる鐘の音がゴォォォン、と響き渡る。
 その瞬間、奥の席に座っていた上司がすっくと立ちあがって、
「はい、お疲れさん!」
 と手を叩き、二十人ほどいる事務官が「お疲れ様ですっ!」といっせいに立ち上がった。
「おい、俺たちまだ並んでるんだぜ~!」
 男たちが一斉に不満の声をあげたが、上司が「あんたたちはギリギリに来ただろ。来月もう一度申請しな」ときっぱりと言い切って、さっさとカウンターにカーテンを下ろしてしまった。
 ちなみに上司の名はオルガといい、年齢不詳のセクシー美女だ。事務官は全員同じ、地味で野暮ったい制服を着ているのだが、同性のオーロラでもドキドキしてしまうくらいの色気がある。若干口は悪いが、仕事は正確で指示も的確なので、一緒に働く事務官からは尊敬されている。
 オルガのけんもほろろな返答にぶうぶうと文句を言う声が聞こえたが、オルガが「さっさと解散!」と叫ぶと静かになった。彼女に嫌われたら男として純粋に傷つくし、仕事もやりにくくなるからだろう。
(カッコいい……私もああなりたいわ)
 どう考えてもキャラの方向性は違うのだが、人は自分にないものを求めてやまない生き物なのだ。
「今日は忙しかったね~!」
「締め日だもんね。てかなんで当日ぎりぎりに持ってくるんだろ。騎士って学習能力ないのかな」
「ここで働いてると、全然カッコいいなんて思えなくなっちゃうよね!」
 同僚たちが笑いながら、口々に厳しいことを言い始める。ちなみに職員には男性も多いが、反対意見など思いつかないようで、苦笑するばかりだ。
「ねぇ、オーロラ。帰りに『蝶骨亭』のパンケーキ食べて帰らない?」
 隣の席のマイヤが弾んだ口調で顔を覗き込んでくる。
 彼女はひとつ年上の二十一歳で、オーロラが十八で働き始めてからずっと親しくしている一番の友達だ。栗色のショートカットはくせっ毛で、そばかすが鼻の上に散らばっていて、とてもかわいい。どちらかというと引っ込み思案で奥手なオーロラを引っ張ってくれる、勝気なタイプで、オーロラも頼りにしていた。
 そして蝶骨亭は城下の繁華街からは少し離れた場所にある、若い女の子に人気のカフェテリアで、少し張り出した丘の上に町を見下ろすように建っている。たまのご褒美にオーロラも通っている素敵なカフェだ。
「じゃあ甘いのとしょっぱいの、半分こしない?」
「それだ! チーズとフルーツと生クリーム増量しちゃおう!」
 オーロラの提案にマイヤはぱちんと指を鳴らしてウインクする。
 今日は忙しすぎて二人とも昼食抜きだった。このくらいは許されるだろうと、いそいそと蝶骨亭へと向かったのだった。
 季節は春。神聖フォンデル王国は大陸のほぼ中心に位置し、周囲を山脈と深い森に囲まれた山岳地帯にある美しい国だ。国としての歴史は古く、王は『君臨すれども統治せず』で立憲君主制度を長らく維持しており、貴族と平民が入り混じった議会と、武力集団である騎士団によって長らく平和が守られている。
 そよ風に吹かれ、美しく舗装された石畳の道を歩きながらおしゃべりしていると、小高い坂を上った先に目指す『蝶骨亭』が見えてくる。今日もたくさんの女の子たちで賑わっているようで、外にも楽しげなおしゃべりが聞こえてきた。
「マスター、バルコニー席は空いてますか?」
 店のドアを開けてカウンターの奥に声をかけると、エプロンをつけたひげ面の筋骨隆々とした男が、にっこりと笑いながら親指を立てる。
「運がいいねえ。ちょうどテーブル席が空いたとこだよ」
「やった! じゃあ季節のフルーツパンケーキとチーズと卵のパンケーキお願いします!」
 オーロラはそう言って、マイヤと一緒に二階へ続く階段をのぼる。
 テーブル席の間を通り抜けてバルコニーに出ると、さわやかな春の風が頬を撫で、仕事で張りつめていた気分が少しずつ落ち着いていく。
「風が気持ちいいわね」
 オーロラは後頭部に手を回し、ふわふわのわたあめのような黒髪をひっつめていたピンを抜き取る。きちきちに織り込まれていた髪が、風になびいて気持ちよさそうに広がった。
 それを見たマイヤが、
「あんたがちょっと野暮ったく見えるようにしてるのって、なんか意味あるの?」
 と不思議そうに首をかしげる。
「え?」
 いったいなんのことかと目をぱちくりさせると、彼女はどこか不満そうにこちらを見つめる。
「髪だってすっごくきれいな黒髪なのに、いつもぎゅうぎゅうにしばってさ。その眼鏡も度が入ってないでしょ。外したらきれいな虹色の瞳なのに、どうして隠すのよ」
 マイヤはオーロラの緩く波打つ黒髪を見て、ため息をついた。
「ああ……これはね、自衛なのよ。魔眼保持者だと勘違いされたら、素材として生きたまま目ん玉くり抜かれちゃうんだって」
 あまり怖く聞こえないよう軽いノリを装い、オーロラは肩をすくめた。
 普通の人間にはあまり関わり合いのないことだが、この世界には魔眼と呼ばれる瞳を持つ人間がいる。未来がわかる千里眼だとか、人の心が読める読心など人知を超えた力がその例だ。
 いわゆる『神の恩寵』と呼ばれる能力だが、オーロラの虹色の瞳にはそんな力はない。目の色が多少変わっているだけで普通の人間だ。なので誤解を生まないよう眼鏡に魔法をかけてもらい、他人の認識を阻害しているのである。
「ええ~、こっわ……でも魔法使いならありうるわね。気を付けないとね……」
 マイヤは苦笑しつつ、両腕で自分を抱きしめながら震えあがった。
「そういえば、オーロラのパパだけど、まだ戻ってこないの?」
「数日中には帰ってくると思うよ」
 養父であるフェリクスは、十日ほど前から王都を離れて東の森の向こうにあるヨーレン山脈へ魔物討伐に行っている。
「寂しいでしょ~」
 ニヤニヤしながら顔を覗き込んできたので、笑って首を振った。
「もうそんな年じゃないったら」
 確かに幼い頃は遠征のたびにフェリクスの実家に預けられ、フェリクス恋しさに泣いていたこともあったが、王城で働き出してからはひとりで彼の帰りを待っている。過保護なフェリクスや彼の両親は『危ないから』と心配するが『私はもう一人前の大人ですから』とそれを突っぱねていた。
「まぁ、それもそうか。問題なのは、あんな男がすぐそばにいると、婚期が遅れるってことくらいよね。あ~あ、どっかに金持ちで優しくて、あたしを死ぬほど甘やかしてくれる最高に都合のいい男いないかな~! 悠々自適な生活がした~~い!」
『都合のいい男』と言っているあたり、そんな人はいないとわかっての発言だろう。
「あら。マイヤは結婚したら仕事辞めちゃうの?」
 オーロラがくすっと笑って問いかけると、
「え、辞めないよ。貴族じゃあるまいし、結婚して無職になるとか怖すぎるじゃん。お金はなんぼあってもいいものよ」
 マイヤはふるふると首を振る。
「そういうオーロラはどうなの?」
「いや私も辞めないと思う。っていうか……そもそも結婚できないと思うけど」
「またまた~あんたのこと、かわいいって言ってるやつら結構いるわよ」
「それは私が、フェリクスの娘だから注目されているだけよ」
 オーロラは肩をすくめ、ぼんやりと夕暮れの街並みを見下ろした。
 日が落ちるまでもう少しあるが、日没前の空を赤く染める夕焼けや濃紺の澄んだ空が入り混じるグラデーションの美しい空――いわゆるマジックアワーと呼ばれる時間だ。
「私じゃなくても、フェリクスが結婚するときは、家を出るつもりだけど……」
 オーロラは自分に言い聞かせるようにつぶやく。
 養父のフェリクスは三十二歳の男盛りで、騎士団長であり爵位を持つ貴族だ。
 話したこともないどこぞのご令嬢が、舞踏会でフェリクスに一目ぼれして病に臥せっているとか、他国にお嫁にいった貴族の未亡人が、フェリクスの元カノで元サヤに戻りたがっているとか、黙っていても、フェリクスの噂はいくらでも耳に入ってくる。
 当のフェリクスは『あることないこと言われるうちが華だろ』と笑って、まったく取り合わないが、彼は国中のどんな美姫よりも、まさに社交界の華と呼ぶにふさわしい男だった。
「フェリクス様はあんたを追い出したりしないでしょ。すっごい過保護じゃん」
「それでも、出て行った方がいいかなって思ってる。奥様に悪いでしょう?」
「まぁ、確かに嫁の立場だったら、娘というには年が近すぎてなおかつ溺愛されている女の子が家の中にいたら、気が気じゃないかも」
 マイヤは冗談めかしていたが、それは事実だった。
 フェリクスはオーロラを引き取ってから十年以上、それこそ目に入れても痛くないほどに溺愛し、過保護に育ててきた。
 二年前、十八で成人した時も、働きたいと言ったら即反対されたが、粘り強く交渉した結果、自分の目の届く王城内で働くならいいと、国家防衛局に入局したのである(要するにコネ)。
(家を出るんじゃなくて……もしフェリクスが結婚したら、思い切ってこの国を離れてもいいかもしれない)
 自分の気持ちを打ち明けるつもりなどさらさらないが、彼の幸せな結婚生活を見て平気でいられる自信もなかった。フェリクスは王国一のモテ男だし、子供も大好きなのである。いずれ家族を持ちたいと思うのは自然の流れだろう。そう遠くない未来、離れなければならない。覚悟は必要だ。
 それからしばらくの間、最近のドレスの流行だとか来月から始まるお気に入りの劇団のお芝居の話などの、とりとめのない会話を繰り広げていると、ウェイトレスの女の子が両手にパンケーキを持ってやってきた。フルーツや生クリームがもりもりのものと、たっぷりのチーズがとろけたしょっぱいケーキの二種類だ。
「おいしそう~!」
 目を輝かせながらオーロラが皿を覗き込んだところで、肩の上に『ピ!』と言いながらミルクが姿を現す。使い魔の彼女は普段は見えないように姿を消しているのだが、なにかしらの自己主張がある時は、こうやってどこにでも現れる。
 それを見たマイヤが「ミルクさんも女子会に参加したいの?」と親しげに目を細めた。
『まぁね~!』
 ミルクも答えているが、普通の人間は使い魔と意思の疎通はできない。ただお互いに顔なじみなので、雰囲気で声をかけあっているだけだ。ミルクは肩の上でぴょんぴょんと二度跳ねた後、テーブルクロスの上にのってお皿をじっと見つめた。
「少しだけよ」
 オーロラは小皿にカットしたオレンジ、リンゴをよけるとパンケーキを少しだけ切り分けて一緒にのせる。ミルクは『やった~!』と尻尾を振りながら、そのまま機嫌よくオレンジに赤いくちばしを差し込み、おいしそうに果汁を飲み始めた。
「使い魔って食事が必要なの?」
 それを見たマイヤが首をかしげる。
「ううん、全然。きれいな空気とか、水とか火とか、自然に溶け込んでいる大気中の魔力を糧にしてるんだって」
 もともとミルクはフェリクスの使い魔だ。一緒に暮らすようになってから、フェリクスがオーロラのために召喚してくれた。見た目は白文鳥だが中身は違う。純粋な魔力の塊である。
 彼女の見た目が小さくてかわいいのは、子供だったオーロラが怖がらないようにというフェリクスの気遣いで、かれこれ十年以上そばにいる、もはや身内のような存在だった。
『あら、おいしいものはおいしいってわかるわよ』
「はいはい……」
 少々口うるさいが、彼女がいてくれるから普段は孤独を感じないで済む。オーロラは笑ってうなずき、パンケーキを口に運んだ。
 ふわふわのパンケーキは最高においしかった。まさに空腹に染み渡るうまさだ。
「おいしい~……」
 と、ほっぺたをふにゃふにゃさせていると、
「見て。魔法使いたちが帰っていくわ」
 マイヤがお城のほうをちょいちょいとフォークを持った手で指さす。
 そちらに視線を向けると、箒にのった老若男女が次々にお城の窓や廊下、バルコニーから飛び出して、流れ星のように町の方に消えていくのが見えた。
「ほんとだ」
 日が暮れ始める黄昏時、魔法使いが箒で飛んでいく姿を見ると、無性に懐かしい気持ちになる。
 幼い頃、フェリクスの実家の二階の窓から、彼の帰りを待って、お城をじっと眺めていたことを思い出すのかもしれない。
「やっぱり魔法使いって素敵よね~。私も仕事で疲れた時とか、恋人の魔法使いに箒で迎えに来てもらいたいわ。そして夜空を箒でランデブーするのっ!」
 マイヤが目をハートにして乙女チックなことを口にする。
 確かに恋人が魔法使いで、いつでも自分を箒にのせて空を飛んでくれるとなったら、どんなイケメンも金持ちも太刀打ちできない。女の子は、ほぼ間違いなく魔法使いを恋人に選ぶだろう。
「でも、魔法使いの全員がびゅんびゅんと空を飛べるわけではないわよ」
 普通の人間にも運動が苦手だったり得意だったりするものがいるように、魔法使いにも得手不得手がある。お城に勤めている魔法使いはエリートなので簡単そうに見えるが、箒で地上一メーレも飛べない魔法使いは珍しくないのだ。
「ちょっと~……夢を見たいだけなんだから、水をささないでよ」
 マイヤが唇を尖らせる。
「ご、ごめん……」
 確かにお城で働いているマイヤが現実を知らないはずがない。
 オーロラは苦笑しつつうなずいたのだった。
 そうやってパンケーキをシェアしておしゃべりに夢中になっていると、遠くからゴォォォォォと、風を切るような轟音が聞こえてきた。
「ん……?」
 紅茶を飲みながら、何事かと顔をあげた次の瞬間、なにか黒い塊のようなものがふたりのテーブルのそばに落下する。
「きゃああ!!!!!」
 衝撃と突風にマイヤが叫ぶ。テーブルが倒れて皿が割れる激しい音がした。
 驚きすぎて声すら出なかった。手元でパンケーキをついばんでいたミルクも『ギョピ――!』と叫びながら、オーロラの頭の上に飛び移って身を隠す。
『なになに、なんなの!?』
 使い魔のくせになんの役にも立たないミルクが叫ぶ。もうもうと土煙が上がると同時に、階下からマスターが鉄のフライパンを握りしめたまま駆け上がってくる。
「なんだどうした、敵襲か!?」
「マスター! なにかがびゅーんと飛んできて、どっかーんってバルコニーに落ちたんです!」
 オーロラはマイヤの手をとって、彼の背後に回りこんだ。戦争などここ百年起こっていないが、異常事態だ。隕石でも落ちたのかもしれない。
 いったい何が起こったのかとマスターの後ろから落下物のあたりを見つめていると、
「悪い、出力を見誤った!」
 と、煙の向こうから澄んだ少年の声が響く。どこか聞き馴染みのある声だった。
「ん……?」
 マスターも同じことを感じたのだろう。咳き込みつつ、手のひらで土埃を仰ぎながら顔を近づけて「なんだ、あんたか!」とのけぞる。その声は驚きよりも親しみがあって、一気に場から緊張感が消えた。
 土埃と煙が消えて中からひとりの少年が姿を現す。
 年の頃は十代半ばくらいか。尖った耳に薄い褐色の肌、エメラルドをはめ込んだような瞳はどこからどう見ても、人ならざる美貌で、柳のようにしなやかな体躯を黒騎士団の制服で包んでいる。そして左手にはほっそりとしたシルエットの漆黒の箒を手にしていた。
 この国に、彼のことを知らない人間などひとりもいない。
「ボリスさま!?」
 オーロラが叫ぶやいなや、マイヤがほっと胸を撫でおろしつつも「なんでボリス様が空から降ってきたのぉ……こわぁ……」と怪訝そうにつぶやく。
 彼の名はボリス・キッチャクード。正真正銘、エルフの血を引く年齢不詳の美少年で、魔法に特化した黒鍵騎士団の団長だ。ちなみに団長歴は驚異の八十年で、団長になる前の年数も含めれば、もはや歴史の生き証人である。
「ボリスさま、どうなさったのですか……?」
 まさかパンケーキを食べに来たわけではあるまい。おそるおそるマスターの背後から出て尋ねると、彼はオーロラの顔を見て血相を変えたように近づいてきた。
「ああ、そうだオーロラ、お前を迎えに来た! フェリクスが瀕死の重傷なんだ!」
 その瞬間、頭のてっぺんを金づちで殴られたような衝撃を受けた。
 オーロラの細い喉から、ヒュッと声にならない空気が漏れる。
 急に足元がぐにゃりと柔らかくなったように眩暈がして、目の前が真っ白になり呼吸を忘れた。
 フェリクスが瀕死の重傷――。
 ボリスの声が頭の中でがんがん響いて、足に力が入らない。
「オーロラ、しっかりしろ! こんなところで倒れている場合か!」
 ボリスは倒れかけたオーロラを抱きとめると、同じく茫然としているマスターとマイヤに言い放つ。
「すまん、オーロラを連れて行くぞ」
「は、はい……っ」
 ふたりがうなずくと同時に、ボリスはオーロラを小脇に抱えて箒にまたがると、瞬く間に、まさに目にも止まらぬ速さで、飛び去ったのだった。