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自称・保護者の騎士様が後方腕組み彼氏面で私(聖女)のお見合いを邪魔してきます! 2

第二話

 

 

 蝶骨亭を飛び出したボリスの箒は弾丸のように王城内に飛び込み、オーロラをのせたまま城内を滑るように低空飛行を続ける。まさに絶技だが、今のオーロラはなにも感じなかった。
(フェリクスが死にかけてる……?)
 そんなはずがない。あの人が死ぬはずがない。
 十日前の朝、オーロラが作った朝食をおいしそうに食べ、純白の騎士服に身を包み、いつものように丁寧に身だしなみを整えたあと『じゃあ行ってくるな』 と微笑んで、箒にひらりと飛び乗って家を出たのだ。
 いつもとまったくかわらない、いやな予感も悪い虫の知らせも、なにもなかった。本当に普段通りの朝だった。
(そんなはずない……だって、フェリクスは、この国一番の騎士よ、なにかの間違いだわ……!)
 ボリスはなにか勘違いをしているのだ。そうに決まっている。
 目的地に着いたのか、箒が減速し、ぴたりと止まる。
「ボリス様!」
 開け放った大きなドアの前に、血だらけの医者や看護師、そして医療を専門にした魔法使いが真っ青な顔で立っていて、箒の後ろのオーロラを見て、全員が悲しみを押し殺したように視線を逸らした。
 唯一、フェリクスの部下である白騎士が箒から降りたオーロラに駆け寄ってきて、
「最後に一目、あなたに会いたいと……フェリクス様が……」
 と、声を絞り出した後、詰まったようにうつむいた。
 彼の騎士服は血で真っ赤に染まっていた。それこそ白い部分がほとんど見えないくらいに。
 だが彼は自分の足でちゃんと立っている。
「ッ……」
 もしかしてこれがすべて、フェリクスの血だというのだろうか。
「そ、そんな……まさか……」
 こんな現実があっていいはずがない。たちの悪い夢を見ているような気がして、オーロラはフラフラしながら部屋の中に足を踏み入れる。部屋の真ん中には大きなベッドがあり、そこに上半身裸のフェリクスが寝かされていた。
「フェリクス……!」
 彼の名を叫びながらベッドに駆け寄る。見れば首から胸、腰に掛けて白い包帯が巻かれているが、傷口が塞がっておらずどくどくと血が流れている。シーツも彼の血でぐっしょりと濡れていた。
「ど、どうして……? どうして血が止まらないんですか!?」
 オーロラは周囲を見回し叫ぶ。
 ここには王国で一番の優秀な医者や魔法使いがいるはずだ。なのになぜこんなことになっているのか、訳が分からない。
「ヨーレン山脈の魔獣には、呪いがかかっていたらしい」
 ボリスが箒の柄を握ったまま、オーロラの隣に並ぶ。
「呪い……?」
「ああ。魔獣は長い間人に恐れられ、負の感情を積み上げ祟り神と化していたのだろう。魔獣が村を襲うのを食い止めるため、フェリクスが先頭で戦った。どうにか魔獣を退けることはできたが、いくら魔法をかけても受けた傷が塞がらなかった。それで騎士団の中で一番箒の速いこいつが、フェリクスを背負って飛んで帰ってきたんだ」
 ボリスの発言に、血まみれの白騎士が小さく頭を下げた。
「でも……でも、ほかになにか、できることは、ないんですか……?」
 オーロラはかすれた声で周囲に尋ねる。目があった医者が苦しげに口を開いた。
「傷跡は完璧に縫合しました。ですが血が止まらないんです」
「呪いは魔法ではどうにもできん。成り立ちも形態も違う、神の領域だ。だから医学の力でなんとかと思ったが……」
 ボリスは妖艶な赤い唇を引き結んだ。
 医学もダメ。魔法もダメ。では、いったいどうしたらフェリクスは助かる?
「そんな……ああっ……嘘でしょう!?」
 オーロラは震えながらフェリクスの頬に手のひらをのせていた。
 彼のひんやりした肌にふれたその瞬間、オーロラは理解した。
 フェリクスは助からない。
 伊達に二年間も国家防衛局で働いていない。助かる命と助からない命、両方をたくさん見てきた。
 魔法は死の淵にいる人間の魂を呼び戻すことはできない。魔法で傷は癒せても、神の領域には手が出せない。
「さきほどまで、フェリクス様はあなたのお名前を呼んでいましたが、もう意識が……」
 医者が唇を震わせながら、うつむく。
 それで王城内にいたボリスが、オーロラを迎えに来てくれたのだろう。
「フェリクスにとってお前は最愛の娘。……声をかけてやれ」
 ボリスはどこか決意に満ちた声でシーツの上に投げ出されたフェリクスの手を取り、オーロラに握らせた。
 自分は『お別れの挨拶』に呼ばれたのだと、ここでようやく気が付いた。
「そんな……」
 彼の手にはもはや力が残っていなかったが、オーロラは身を乗り出すようにしてフェリクスに向かって叫ぶ。
「フェリクスッ! 起きて! あなたはこの国一番の騎士でしょう! ダメよ、呪いなんかで死んではだめ、起きてっ!!」
「――」
 オーロラの呼びかけに、フェリクスの金色のまつ毛の先が、かすかに震える。
「あなた、私を勝手に助けて娘にしておいて、先に死ぬつもり!? そんなのだめよ、まだ私、あなたになにも恩返しができてないっ!」
 そう、かつてオーロラは白煌騎士団に命を助けられた『実験体』だった。
 物心ついた頃にはすでに怪しげな実験施設にいて、日々ありとあらゆる非道な行いをその身に受けていたらしい。
 らしい――というのは、その頃の記憶があいまいだからだ。
 痛みと苦しみを日常的に与えられ、感情を失っていたオーロラは人ではなく『モノ』だった。
 だが白煌騎士団によって実験施設は壊滅し、オーロラは救い出された。そのまま孤児院に預けられるルートもあったはずなのだが、いろいろあって二十歳の若者だったフェリクスに『うちの子になるか』と言われ、うなずいた。
 当時の自分が彼の言葉の意味をわかっていたとは思えないが、オーロラは『王国一治安が悪い男』と呼ばれていたフェリクスの娘になったのだ。
 忌まわしい虹色の瞳を憎まなくて済むよう『オーロラ』という美しい名前を与えられて。
「フェリクス……!」
 オーロラの何度目かの呼びかけに、指先にほんのりと力がこもり、うっすらとまつ毛が持ち上がる。
 声は届いている。
 その瞬間、体に希望が湧いてきた。
 そうだ、諦めてなるものか。
 彼の青い瞳に力はなかったが、オーロラはその瞳を至近距離で覗き込む。
「わかる? 私よ、オーロラよ! 呪いになんて負けちゃダメ、あなたは傲慢で、偉そうで、いつだって自信満々で、自分がこの国で一番ハンサムだって思ってるような、『俺が死んだら国中の女が喪に服して婚姻率が下がる』って本気で思ってるような、図々しい人間なんだから! 殺したって死なない人なんだからっ!」
 そう言い切った瞬間、彼の唇がかすかにほころんで、気が狂いそうになる。
 いつもの彼なら、オーロラが憎まれ口を叩くや否や、頬をつねったり唇をつまんだり、してくれるのに。命の灯が消えかけているフェリクスは、笑って許すだけ。
 騎士団が尊敬されているのは、その命を懸けて民を護るからだ。わかっている。自分は絶対に死なないと思っている騎士はひとりもいないだろう。
 だが――フェリクスは死なないと思っていた。誰よりも強いこの人が、自分を置いて死ぬはずがないと。
「フェリクスッ!」
「……」
 彼の唇が、ゆっくりと『オーロラ』の形に動く。
 声にならない声で名を呼んだフェリクスは、満足気に微笑んで目を閉じる。
 ああ、彼が連れていかれてしまう。決して手の届かないところに、行ってしまう。
「ばかフェリクス、起きろ! 私を生かしておいて、勝手に死ぬな……!」
 オーロラはいてもたってもいられず、ベッドに乗り上げていた。眼鏡が鼻からずり落ち、血まみれのシーツの上に転がり、虹色の瞳から、涙があふれ零れ落ちる。
「あっ、ちょっと……!」
 医者や看護師が慌てたようにオーロラをベッドから下ろそうとしたが、オーロラは子供のように両手を振り回しそれを振り払うと、フェリクスの血まみれの手を引き寄せ、自分の頬に押し付け、喉も破れんばかりに叫んでいた。
「フェリクス、生きて……! 死なないで……! 私は絶対に認めない……! あなたが死ぬなんて、絶対にダメなの……! ねぇ……置いていかないで! やだ、私をひとりにしないでよ!」
 オーロラは悲鳴じみた声で叫ぶ。
「あなたを愛してるのよ、フェリクス!」
 彼を好きだと自覚しても、思いを告げることなんて考えたことがなかった。
自分の気持ちを伝えても困らせるだけだから。一生伝えずに、墓までもっていくつもりだった。
 だが今はなんでもいい。たとえ彼にとって嬉しくない告白でも、命の火が消えかけている彼のこころのひっかかりになれば、と思って叫んでいた。
「ねえ、フェリクス、知らなかったでしょう!? でも、私はずっと、あなたに命を救われてから、ずっと、ずうっと、あなただけが好きなの! あなたがいるから、毎日生きていられたのよ……!」
 神様に本気で祈ったことなんか、一度もない。町の教会にはお菓子を貰えるから行っていただけで、神様の存在を信じたことはなかった。
 オーロラが信じているのは、ただまっすぐにオーロラを愛してくれたフェリクスだけ。
 だが今だけは、違う。もし神が存在するのなら、自分が持っているものはすべて差し出したっていい。
 かつて彼に救われたこの命をすべて、神に捧げられる薪として、燃やし尽くしたとしても――!
「フェリクス……!」
 彼の名を叫んだ次の瞬間、オーロラの目の前が、真っ白になった。
 部屋全体が光に包まれて、それこそ太陽が落ちたような衝撃を受ける。
 熱い。眩しい。苦しい。息ができない。喉がやける。全身の毛穴という毛穴が開いて、そこから溶けた鉄が噴き出していくような、感じたことのない質量がオーロラの内側からあふれてくる。
『オーロラ、魔法はな……別の次元からやってきた力なんだ』
 大昔のある冬の日、暖炉の前でフェリクスがオーロラに文字を教えながら話してくれたことを、唐突に思い出していた。
『世界はひとつのエネルギーから始まった。時間と空間の連続した繋がりから因果が生じ、今、俺たちが生きている世界が誕生した。それは同時に、世界が作られる前から別の形、別の次元でエネルギーが存在していたことの証明でもある。そして俺たち魔法使いは、最初の高位エネルギーのことを、特異点……便宜上、神とし、その力の一端を魔法と呼んでいるんだが、魔法使いは多くの因果を超えた力のごく一部を使っているだけで、特異点と直接繋がることはできない』
 暖炉の火が彼の完璧なカーブを描いた頬に、美しい影を作る。
『俺たち魔法使いの本能に刻まれている願いは、ただひとつ。特異点に繋がり、ひとつになること。永遠の……完璧な世界を作ることだ』
 彼の言っていることは、字も読めないオーロラにはほぼ理解できなかったが、我々の世界からうんと遠くにいる神様は大きく、熱く、世界を作り出せるほどのエネルギーの塊で、もし繋がることができたら、どんな願いでも叶えられる――ということだった。
(生きて)
 そう、どんな願いでも。
(死なないで)
 願えば叶うのだと――……
 オーロラの意識は、そこでぷつん、と途切れる。
 ああ、私は死んだのだと、思った。
 だがフェリクスの命が助かるなら、それでいい。
 彼より大事なものなど、オーロラにはなにひとつないのだから。

「な、なにが起こっている、オーロラ! フェリクス!」
 一方、光の渦の中で唯一意識を保っているボリスが、嵐の中心になっているオーロラの体に手を伸ばす。
 エルフの血を引く彼の瞳には、かろうじてオーロラと、彼女に抱きしめられたフェリクスが見えるが、ここに渦巻いているのはまさにエネルギーの塊で、ただの人はとても意識は保てない。
 現にこの場にいた医療従事者や騎士たちは、強いエネルギーに当てられて昏倒していた。おそらく前後の記憶も飛んでしまっただろう。とても普通の人間の脳には耐えられない負荷だ。ボリスが立って正気を保っていられるのは、彼に古代エルフの血が流れているからである。
『オーロラが、特異点に、繋がってるわ……!』
 そして使い魔であるミルクもまた、必死に翼をばたつかせながらボリスの襟元に飛び込む。
『オーロラがっ……フェリクスの体を……! もとに、戻そうとして、る……!』
 使い魔であるミルクの発言に、ボリスは手で庇を作りながら光の渦を見据えた。
「はぁ……!?」
 まさか現代においてそんなことができるはずがない。現代の魔法では死は覆せない。できるとしたら、数千年前の伝説の魔法使いか、とうの昔に滅んで久しい古代エルフの長老レベルである。
「おいおいおい……! だとしたらオーロラは……!」
 宗教上は神と呼ばれる高位エネルギーに直接繋がり、人知を超えてフェリクスを癒していることになる。
 そのまばゆい光は、ものの数秒で消え――もしくはもっと長く続き、もはや時間の概念すら破壊するかのようだった。
 はっと我に返ったボリスは気が付けば床に倒れこんでいて、跳ねるように飛び起きるとベッドの上のふたりを確認する。
「フェリクス! オーロラ!」
 あれほどのエネルギーが発生して、人間が無事でいられるはずがない。塵となって消えたのではないかと思ったのだ。
 だがボリスの目に映ったのは、ベッドの上ですやすやと眠るフェリクスと、オーロラの姿で。
 ボリスはごくんと唾を飲み込みながら、フェリクスの首筋に指をのせて脈を確かめた。
「――生きてる」
 紙よりも白く青ざめていたフェリクスの顔は、今や頬が薔薇色に染まって、むしろ健康そうですらある。
 念のためオーロラの呼吸も確かめたが、彼女もすやすやと眠っているだけだった。
「奇跡が起こった……本物の、奇跡だ」
 ボリスははぁ、とため息をつきつつ、ほっそりとした腰に手を当てて考え込む。
(フェリクスを失わずに済んだことは僥倖だったが……この奇跡、国はどう処理するのか……)
 オーロラの起こした奇跡は、まさにこの国始まって以来の前代未聞の事件の幕開けでもあった。


 

 

 

 


 目を閉じていても突き刺さってくる朝日がまぶしい。
(あぁ朝だ……起きなくちゃ……)
 ゆっくりと瞼を持ち上げて寝返りを打つと、隣のベッドにフェリクスが眠っているのが見えた。
「ふぇり、くす……?」
 なぜ彼が自分の部屋にいるのだろう。願望が夢に出てきたのだろうかと何度か瞬きをした次の瞬間、恐ろしい記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「あっ……!」
 慌てて、半ばぼんやりした頭のまま体を起こすと、
「目が覚めたか」
 壁際の椅子に座っていたボリスが、組んでいた足を下ろしてゆらりと立ちあがった。
「ボリスさま……あの……」
「お前は半日眠っていた。フェリクスも無事だ。傷も塞がっているし呪いも消えている。体力を消耗して眠っているが、そのうち目を覚ますだろう。ボクの見立てじゃ一週間から十日くらいかな」
 彼はオーロラが知りたかったことを先回りして、すべて教えてくれる。
「……本当に?」
「ああ、本当だ」
 ボリスはしっかりとうなずいた。
「よかった……よかったぁ……」
 ホッとして涙腺が緩む。するとボリスは即座に手を伸ばし、オーロラの頭を無言でくしゃくしゃと撫でまわし始めた。
「ちょっ、ボリスさまっ……?」
「いいから、撫でさせろ。本当に心配したんだぞ」
「うっ……すみません……」
 小さい頃から何百回と撫でられてきたが、彼の見た目は十代の少年なので、ちょっと照れくさい。そうやってひとしきり、犬のように撫でくり回されていると、ボリスが改まったように口を開いた。
「昨日のことは、どれだけ覚えている?」
 彼の声はかすかに緊張を帯びていた。いつもさっぱりしたボリスにしては珍しい。なんだか不思議な気持ちになりながら、おそるおそる口を開いた。
「その……だいたいのところは、覚えていると思います」
 自分の身になにが起こったのか、はっきりしないが、自分が何を強く願い、望んでいたかは、はっきりと覚えている。
 死にかけていたフェリクスを、死なせないことだ。
「フェリクスに昔、教えてもらったんです。魔法は別の次元からやってくるんだって。フェリクスはその、特異点と呼ばれる世界の始まりのエネルギーに繋がって、だから死なずに済んだんですよね?」
「ああ、そうだ」
 ボリスは重々しくうなずく。
「ほんと強運の持ち主ですよね。火事場の馬鹿力を発揮したのかしら? まさかあんな奇跡を引き起こすなんて……」
 さすが王国一の悪運の持ち主、理不尽が服を着て歩いている男と呼ばれるだけのことはある。オーロラはへへへ、と力の抜けた声で笑い、それからもう一度眠っているフェリクスの横顔を見つめた。
「それで……フェリクスはいつ家に戻れますか? 私、先に帰って色々準備しておきたいんですが」
 オーロラとフェリクスが住んでいるのは、王都の中心から少し離れた、美しい邸宅だ。
二階建ての屋敷で部屋は全部で八つと、誉れ高き白煌騎士団の長の割にはつつましい屋敷であるが『維持するのが大変だからでかい屋敷はいらない』という、フェリクスの希望で用意された。
 もともとは先々代の王の愛妾が住んでいたと言われる美しい建物で、オーロラは庭仕事を手伝ったり、保存食を作ったりと、日々の仕事の裏で、使用人たちとのんびりとした生活を楽しんでいる。
 だがフェリクスは当分静養が必要だろう。そのために彼の寝室を少々改装しておきたかった。
「う~~ん……そのことなんだが……すぐに帰るのは、難しいかもしれん」
 ボリスは体の前で腕を組むと、うなり声を上げながらどこか困ったように目を伏せる。
「あっ……そうなんですか。まぁ……そうですよね。死にかけたんだし、いろいろ報告とかありますよね……」
「いや、フェリクスじゃない。問題はお前のほうだ」
「え? 私?」
 首をひねると、ボリスは何度目かのため息をついて、くしゃくしゃと己の髪をかき回す。
「特異点に繋がったのは、魔法使いのフェリクスではなく、お前なんだよ」
「――は?」
「魔法使いでもないのになぁ……」
 そして彼はひどく真面目な顔になって、それから苦々しい表情を浮かべた。

 その後、オーロラはボリスに連れられてありとあらゆる検査を受けた。期間はおよそ一週間ほどだったが、他人との関わりを絶つ必要があるとかで、フェリクスの見舞いもできなかった。
「すまんな、オーロラ」
 王宮内のひときわ美しい中庭で、オーロラとボリスはベンチに並んで座り、空を見上げていた。
「いいえ……ボリスさまがついて下さっているので、まだ……耐えられました」
 下着一枚で凍えるほど冷たい聖水に身を浸して一時間耐えるとか、謎の呪文をかけられたあげく髪を何本か抜かれるとか、そんなことを日を変え、時間を変え、一週間続けるのである。
 規則だと言われ、ボリス以外誰も自分とは口をきいてくれず、三日目くらいで心が折れそうになった。自分が実験体だったという過去を思い出さずにはいられなかったし、オーロラにとっては辛く苦しい一週間だった。
 ボリスがそばにいてくれなかったら、冗談抜きで今頃発狂していたかもしれない。
「それで、私はどうなるんでしょう……殺されたりするんでしょうか……」
 魔法使いでもないのに、異次元の力に繋がってしまった。もしかしたら異端として処刑されるのではないか。
 考えうる最悪の事態にビクビクしながら問いかけると、ボリスはエメラルドの瞳をぱちくりさせて、
「それはない」
 ときっぱりと言い切った。
「まぁ、確かに……今が戦国の世ならえらい目にあっていたかもしれん。なにしろ無限のエネルギーと繋がった存在だからな。当時のボクなら、どうにかしてお前を兵器に転用できないか研究しただろう」
「ひぇ……」
 背筋がぞっと震えあがり、思わず両腕で自分を抱きしめる。そんなオーロラを見てボリスは「運がよかったな」と笑ったが、彼はすぐに苦虫をかみつぶしたような難しい表情を浮かべた。
「かと言ってお前をこのまま放免、というわけにもいかない」
「っ……」
 いったいどんな罰を与えられるのだろう。オーロラは落ち込みながらうつむき、膝の上でデイドレスのプリーツをつかんでいた。
(殺されないにしても、どこかに幽閉とか……されるかもしれない)
 そうなったらフェリクスとはもう二度と会えなくなる。
(でも……フェリクスの命を助けられるなら……私はもう、どうなってもいいって思ったんだもの。それは本当よ)
 彼に救われた命を、彼に返したと思えば耐えられる。フェリクスを失うより、ずっとずっとマシだった。
「ボリスさま、私……大丈夫です。どんな罰でも受けます」
「ん?」
「でも、もしなにかお願いを聞いてもらえるんだったら……幽閉されても、せめて毎日『大空亭』のバケットが食べたいので……差し入れ、していただければ……」
 図々しいお願いだとはわかっていたが、オーロラは「よろしくお願いします」と唇を引き結ぶんだ。
 大空亭というのは、フェリクスの実家のパン屋である。先っちょが黒く焦げたがちがちに硬いバゲット、香ばしい小麦の香り。かみしめればかみしめるほど、塩味が増してきて、鼻をさわやかな香りが通り抜けていく。スープに浸して食べてもよし、カフェオレと一緒に食べるもよし、うんと硬くなったものはパンプティングにしてもいい。
(あっ、ものすごく食べたくなってきた……)
 この一週間は家にも帰っていないし、フェリクスの両親にも会っていない。これまではほぼ毎日パンを買いに行っていたから、きっとものすごく心配しているだろう。
(じぃじとばぁばに、もう一度会いたかったなぁ……)
 フェリクスの両親はいきなり息子が連れてきた少女を、実の孫のようにかわいがってくれていたし、オーロラも彼らをじぃじ、ばぁばと呼んで懐いていたのだ。
 くすん、と涙ぐみながら実家の味を懐かしんでいると、
「いや、そうはならんだろ」
 ボリスが呆れたように目を細める。彼のエメラルドの瞳が完全に『こいつは馬鹿か?』と語っていた。
「正式なお披露目は数日中に行うが……お前は『聖女』に認定されることになる」
「せいじょ……って、え……?」
 聖女とは神聖フォンデル王国の国教である『神の灯火教』の三千年の歴史を誇る王国聖教会において、いわゆる聖人に並ぶ女性のことだ。
 過去に十二人が聖女として認定されているが、最後は約二百年前の魔法使いだったはずだ。
「私が、生きたまま聖女になるんですか!?」
「まぁ……普通は死後にその功績でもって認定されるが……なにしろお前は『特異点』に繋がり『神の恩寵』をもちいてひとりの人間を死からすくいあげたのだからな。しかもその場に立ち会ったのが黒鍵騎士団の長であるボクだ。これ以上の証人はない」
 ボリスはほっそりした顎のあたりを指で撫でながら、ため息をつく。
「それとな、ここで言葉を取り繕っても仕方ない。はっきり言わせてもらうが、要するにお前は神聖フォンデル王国の固有財産になったんだ。国外に出ることは原則禁止だし、結婚は国が選んだ男としてもらう」
「は……?」
「聖女オーロラには早々に結婚し、その貴重な血を絶やさぬよう、子供を産んでもらいたいというのが国と教会の方針だ」
 意味がわからず目をぱちくりさせたオーロラだが、
「こうなったら仕方ない。諦めろ」
 ボリスはある意味開き直ったように空を見上げた。
「あ、あああ、あきらめろって、ひどいですっ!」
 ついさっきまで幽閉されると思っていたことに比べれば命があるだけマシだが、いくら何でも知らない男と結婚して子供を産めなんて、横暴すぎるのではないか。
 いきりたつオーロラだが、
「その代わり、夫にはフェリクスを推薦してやる」
 ボリスはさらりと口にした。
「――」
 彼の言葉に、オーロラは息をのむ。なぜ、と思ったが思い出した。そうだった。彼はあの場にいてオーロラの告白を聞いていたのだ。
「それは、やめてください……」
 オーロラは弱々しく首を振る。
「なんでだよ。保護者ではなく、男として惚れてるんだろ? あいつは魔力がぴか一高いし、聖女とめあわせるとなれば、周囲も納得しやすい。そもそもフェリクスも断らんはずだ」
 ボリスはオーロラの拒絶に驚いたように目を見開いたが、オーロラはぶるぶると首を振った。
「ええ……確かにフェリクスは断らないと思います。職務に忠実な人ですから……。でも……でも私は彼のことが好きだから、強制されて結婚なんて、いやなんです。そもそも、私を引き取ってくれたのも申し訳ないのに……夫にまで、なんて」
 そもそも二十歳で、小さな女の子を引きとり育てるなんてことが、まかり通ったのがおかしいのだ。
 彼は恐怖で毎晩おねしょをするオーロラを一度も叱らなかったし、字も読めずまともに話すこともできない少女の世話を、ほぼひとりでやってのけた。泊りの討伐や遠征がある日は、自分の両親に任せることもあったが、寄り道など一切せず箒を飛ばして帰ってきたし、オーロラの前では疲れた様子ひとつ見せなかった。
 彼は下町のパン屋の息子でガキ大将で、魔法使いはなんか陰気っぽいから嫌だと騎士になったアレなタイプだが、とにかく子供が好きで、弱い存在を放っておけない、情に厚い男なのである。
「これ以上、フェリクスの人生のお荷物になりたくありません」
 オーロラがはっきりした口調で言い切ると、ボリスは苦虫をかみつぶしたような表情になったが、
「――お前の気持ちはわかった。とりあえず、なるべくいい男を選んでやるよ」
 と、肩をすくめたのだった。