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様子のおかしい陰キャを助けたら、ハイスペックイケメンだった件 王太子様は愛しの彼女を射止めたい 2

第二話

 

 男はまた木桶の水を飲んでいる。
 立ち上がらないから、よっぽど疲弊しているらしい。さぞかし腹も減っているだろう。
 ポンペオ砂漠を横断するだけで、二日はかかる。この憔悴ぶりを見ると、おそらく道に迷って、数日、彷徨っていたのだろう。
「命が助かってよかったわね」
 マルティナはぶしつけに、話しかけていた。
 まさに命からがら、ここにたどり着いた、という状況ではないだろうか。
「ポンペオ砂漠に、一人で踏みこむ無謀な旅人を見たのは久しぶりよ。どうしてポンペオ砂漠に入ったの? あそこは死の砂漠。普通なら、避けて通る難所なんだけど」
 男は立ち上がる気力もないようだったが、格好をつけるように膝を片方だけ立てて抱えこんだ。
「いや、その……」
「ポンペオ砂漠に行くって言ったら、その手前の宿屋の主人や、他の旅人も、こぞって止めるはずでしょう。旧道は砂漠に向けてまっすぐ伸びているけど、あれは噴火前のものよ。途中で砂漠をぐるりと回避する道が作られているのに、どうしてあえて踏みこんだの?」
 純粋に疑問だった。
 ポンペオ砂漠のどこに、この男があえて踏みこむ理由があるのか知りたい。
 男は答えに窮したように沈黙してから、深い吐息とともにつぶやいた。
「好んで踏みこんだんじゃない。知らなかっただけだ」
「え? 知らないなんてことある?」
 ギョッとして、マルティナは思いを口に出す。
 旅をするのなら、その先の宿で情報収集をしながら進むのが鉄則だ。ポンペオ砂漠の手前の宿に泊まったら、ポンペオ砂漠や迂回路についての話題は必ず出るに決まっている。
 マルティナは腰に手をあてがい、疑念をこめてぐっと乗り出した。
「もしかしてあなた、宿の人と話をせず、ろくに情報収集もせずに、旅を続けてたってわけ?」
 貴族の子息だからという傲慢な考えがあって、庶民とは会話しなかったのだろうか。
「え? え? いや、その、あの、だな」
 口ごもる男を見て、マルティナの目つきは厳しくなる。傲慢な男は好きではない。このまま見捨てていくかどうかの瀬戸際だ。男はマルティナのその空気を察したらしく、慌てて言った。
「いや、その、……っ、あの、……つまり僕は、……人としゃべるのが、……得意ではなくて」
 ――得意ではない?
 傲慢な考えからではなくて、苦手だから人としゃべらなかったというのか。
 ――そんな旅人いる?
 そうは思ったが、男のあやしい風体や振る舞いを眺めていると、さもありなんと思えてきた。
 ぼさぼさの前髪で顔を隠しており、動きもきょときょととしていて落ち着きがない。
 命がかかっている非常事態だったからマルティナは男に話しかけたし、男もそれに応答した。
 だがそうでなければ、会話が成立しない類の人間なのだろうか。
 それでも、旅行先での情報不足は命に関わることだ。
 疑いが消せずにいたときに、男がさらにつぶやいた。
「本当に、ポンペオ砂漠について、……僕は何も聞かなかったし、聞こうともしなかったんだ」
 男はそう言って、深々とうなだれた。
「苦手なんだ。知らない人と、……会話をするのが」
 そんな男の肩に、馬が慰めるように顔を近づけた。馬は水を与えられて元気になったようだ。主人の無事も確認できて、喜んでいるようにも見えた。
 男はハッとしたように馬を振り返り、腕を伸ばして、馬の頭やたてがみを愛おしげに撫でた。
「うちのキャロリーヌに水を与えてくれて、感謝する」
 馬への愛情が伝わってきた仕草に、悪い人ではないのかもしれない、とマルティナはようやく思い直した。
 だが、お節介がすぎた。貴族の子息なんて、労働力にならない。
 男を宿屋にぶちこんで、それで終わりにしよう。
「あなた、この街に来るのは初めてなのね。バルカン市にようこそ! 歴史のある、素敵な所よ。たっぷり見て回るといいわ。このバルカン市には、古代遺跡目当てに国内外から大勢、旅人が集まるの。ろくでもない宿もあるから、まともな宿を紹介しましょうか?」
 バルカン市は観光都市でもあり、死ぬまでに一度、バルカン市を見ておけ、ということわざがあるぐらいだ。
 ただ、旅人を騙して身ぐるみ剥ぐような悪質な宿もあると聞く。
 だからそうではないところを紹介してやろうとしたのだったが、途端に男はハッと顔を強ばらせた。
「ひどく疲れているし、とてもお腹も減っている。本心では、宿に入ってたっぷりと温かな食事をしてから、柔らかい寝床で心ゆくまで眠りたい」
「素敵ね。ぜひそうして」
「だが、……路銀がない」
「え?」
 男はごそりと懐を探った。そこに何もないのを再確認したらしく、身体中から力が抜けたかのような深いため息を漏らす。
「先ほどここに到着して、道端でへたりこんでいたら、親切そうな女性が近づいてきた。ボーッとしていてよくわからなかったが、おそらく、あの店で食べ物と飲み物を買ってきてあげる、と言ったはずだ。頼んだら、金を出せと言われ、金を差し出そうとしたら、革財布ごとつかんで逃げられ――」
「盗まれたの? 全財産を?」
「ああ。追いかけようにも、気力がなかった」
「それで、道端にへたりこんでいたのね。つまり、あなたは一文なしってこと?」
「そういうことになるな」
 男は絶望のため息を重ねた。
 表情は前髪で隠れたままだが、それでも身体全体の雰囲気から、ひどく消沈して、動く気力を失っているのが伝わってくる。
 砂漠で遭難しそうになって、命からがらここまでたどり着いた。だが、その途端、悪い女に全財産を奪われ、ひどく空腹で死にそうになっている。
 それが、今の男の状況なのだろう。
 救いようもないと男は悟ったらしく、膝をより抱えこみながら言った。
「金がなければ、何もできない。宿にも泊まれないし、食べ物も買えない。……僕はそのことを、旅に出てから嫌というほど思い知った。旅をしている最中に、……金銭感覚も、少しは身につけたつもりでいた」
 金について少し誇らしげに語る男の様子に、マルティナはやはりこの男はどこかの領主の子息だと確信する。
 リパブルク王国は、多くの領主によって分割統治されている。自分の領地内であれば、領主の息子はツケ払いになるから、金を払う必要などないのだろう。
 旅に出て、ようやく流通する金の価値を知った、というわけだ。
 ――無一文かあ。
 マルティナはそれを知って、同情しつつもにんまりする。
 薬草院の経営は厳しく、見知らぬ旅人に路銀を恵むほどの余裕はない。だが、餓え死にしそうな旅人を見捨てていくという選択肢はないし、収穫の時期だというのに、薬草院は人手不足だ。
 若い男は労働力として、とても良い。貴族の子息であっても、路銀がないという事情があれば働いてくれるかもしれない。
 それでも後でガタガタ言われないように、言質を取っておくことにした。
「どうするつもりなの? 普通ならそんなときに備えて、路銀を靴や荷物の中に、いくらか分けておくんでしょう?」
「そういうものなのか?」
 ギョッとしたように言われて、マルティナは呆れ返った。
「そういうものよ!」
 この男は世間知らずなのに加えて、人見知りで情報収集ができず、危機管理能力もない。そんな状態で、これまで旅ができたのが不思議なぐらいだ。
 ――誰よ。こんな箱入り息子を、従者もつけずに旅に出したのは。
「そういうわけで、困り果てている。だが、少し落ち着いたら、良い考えも浮かぶだろう。ともあれ、水を恵んでくれてありがとう、マルティナ。君に神の恵みを」
 長い足を片方だけ抱えこんだものの、そこから動くこともできずに格好をつけたままの男の前で、マルティナはあからさまにため息をついてみせた。
 ――全く……。
「ここで野垂れ死ぬつもり?」
 自分が見捨てたら、おそらくこの男は通りすがる人間の誰にも助けを求められないまま、餓え死にするか、悪い人間に騙されて、ろくでもない犯罪に巻きこまれるかだろう。
「まずは立ち上がって、うちに来るのはどうよ? 食事ぐらいは出してあげるから」
 その言葉に、男は面食らった顔をした。
「いやその、……僕は一文なしだ」
「さっき聞いたわよ」
「君に迷惑をかけるわけには」
「私がいいって、言ってんの。うちは、ここからそう遠くない薬草院よ。これから冬を迎えるから、その前にたくさん収穫して、貯蔵しておかなければならないものを抱えているの。お金がなければ、その身体で払ってくれればいいわ」
「身体で……」
 男が驚いて震え上がったのがわかる。今まで誰も、男に『身体で払え』などと言ったことはないのだろう。
 だが、思い直したようにつぶやいたのが聞こえた。
「薬草院か」
 男はひどくだるそうだったが、ふらつきながら立ち上がった。
「薬草院は、見てみたい」
 その様子に、マルティナは眉を寄せた。
「薬草院に、何かご用なの?」
「バルカン市の薬草院では、古代帝国から伝わった貴重な薬草が今も育てられていると聞いた。だから、一度訪ねてみたかった」
 口調はわりとしっかりしていたが、思っていたより男は憔悴しているようだ。大きな怪我はしていないようだが、歩くのもやっとに思える。
 馬のほうは水を与えたことでだいぶ元気になったのを確認したので、マルティナは男をその鞍に乗せた。それから、馬の手綱を取って歩き始めた。
「確かに貴重な薬草はあるけど、許可無しの持ち出しは厳禁よ。うちには責任者がいるんだけど、今は留守なの。だからって、薬草を盗もうとしたり、私に手を出そうとしたら、容赦なくぶっ刺すから。ぐっさりと」
 マルティナの部屋には、防衛のために師匠から渡された槍が立てかけられている。
 男は馬の背に揺られながら、気力なく言ってきた。
「女はこりごりだ」
 あり金全部奪われた直後だ。それに、男の雰囲気からして、自分によけいなちょっかいを出してこないタイプに思えた。
 マルティナは馬を引いて、薬草院の門をくぐる。
 薬草院も古代帝国時代からの建物だ。高い塀で覆われた広い敷地内に、古い建物がいくつも並んでいる。
 堅牢な花崗岩造りだから、ある程度の補修さえ行えば今も使えた。
 流感や流行病の最盛期には病室となる広い部屋がたくさんあり、男には空いていたその部屋の一つを使ってもらうことにした。
 ベッドの一つに乾いた藁をたっぷりと運び、その上に清潔なリネンを敷いて整えた。さらにその上に毛布をかけたら、立派な客用ベッドのできあがりだ。
「この部屋を使って」
 言い捨てて、マルティナは馬の世話をするために厩舎へと向かう。
 馬にたっぷり飼い葉と水を与えてから、薬草粥を作るために引き返した。

 

 

 準備してもらった藁のベッドに身を投げ出すなり、まだ明るい時刻なのに、アンドレアは旅の疲れと餓えで、ほとんど動けなくなった。
 だがしばらくして、アンドレアの鼻はどこからともなく漂ってきたいい匂いを嗅ぎ取った。
 ――……これは、鳥の鍋の匂い。……鳥肉と、たっぷりの野菜や薬草が、煮こまれている匂い。
 呼ばれるまで待ちきれずに、アンドレアはベッドからのっそり起き上がり、匂いの元である厨房にたどり着いた。
 ここはどこも部屋が広くて、厨房もだだっ広い。
 もしかして、この広い建物にいるのは、マルティナ一人だけなのだろうか。
 厨房の一角にあったかまどの前で、鍋と向き合っているのは、その彼女だった。
 無言で背後から鍋をのぞきこむと、驚かせたのか、キャッと声が上がる。
「ああ。……すまない」
 アンドレアのほうも焦っている。
 彼女の肩と、自分の顎が触れそうになった一瞬に、すごくいい匂いがしたからだ。
 食べ物の匂いではない。どこか花の芳香を思わせる、女性の匂い――。
 それがいつまでも鼻腔に残っていて、鼓動の乱れが収まらない。
 もっと嗅いでみたかったが、不審者と思われるのは避けたい。
 アンドレアは彼女の背後から離れ、隣接した土間にたくさん並んだ大きなテーブルの一つに着席した。
 ここで大勢に食事を振る舞うこともあるのだろうか。食堂のようにも見える。
 ――だけど、この建物には今は僕と彼女ぐらいしかいないようだ……。
 ちょうど料理ができあがるころだったのか、マルティナは棚に置かれていた大きめの椀を一つ手に取り、そこに鍋の中のどろりとしたものをたっぷりと注いでくれた。
 それから、木のスプーンを添えて、アンドレアの前に置いてくれる。
「わりと元気そうね。これは薬草粥よ。元気になるわ!」
 そう言って、彼女は微笑んだ。
 厨房は採光が良く、大きく開いた扉から昼前の光が差しこんできていた。
 あらためて見ると、マルティナは背の高い、すらりとした若い女性だ。黄金色の髪が首の後ろで簡単に束ねられている。その髪がキラキラとまばゆいのみならず、顔立ちも優美で、直視できない。
「あ、……ありがとう。感謝する」
 アンドレアはスプーンを握って、ぐっとうつむいた。マルティナの若さと美しさを突きつけられると、どうして今までまともに会話できていたのか不思議になる。
 椀の中に入っているのは、煮こまれたパン粥だ。たっぷりと入った鳥肉と薬草もとても熱そうだったので、猫舌のアンドレアはふーふーと吹いてかがら、口に運んでいく。
「っあつっ」
 餓えと急ぐ気持ちとがあって、まだ熱いまま口に入れてしまった。舌を灼かれはしたが、それ以上の美味しさが広がっていく。
 三日間も飲まず食わずで、砂漠をうろついた後だ。
 これ以上ない美味しさとともに、飢餓感が満たされていく。
 食べるごとに力がみなぎり、滋養が身に染みた。