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執愛の騎士は孤高の百合を甘く手折る 3

第三話

 

 視界に広がっているのは、見慣れた執務室の壁。
 深い藍色がラナの混乱をゆっくりと、そして着実に鎮めてくれた。
「…………はぁ」
 鼓動がまだ落ち着かない。額に浮かんだ汗を拭うと、デスクの端に置かれたティーカップを手に取る。中身の紅茶はすっかり冷めているが、今はこれくらいが丁度いい。
 勤務終了時間ぴったりに文官達を帰して一人で執務室に残るのはいつものことだというのに、まさか居眠りするとは思わなかった。ラナは一度目をきつく閉じてからぱっと開き、気を取り直すと手にしたままの書類に意識を集中させた。
「あの日」の夢をみてしまったのは、きっと一週間前に起こった出来事のせいだろう。
 プリシラがアレクシス皇太子と密かに逢瀬を繰り返していた件は王宮のあちこちで噂され、輿入れの話は早くも公然の秘密と化していた。
 そうすると当然ながら王位継承権が誰に移るのか、様々な憶測が飛び交うようになってしまうのも無理はない。その中にはラナの王籍復帰を予想している者もいるらしく、廊下を歩く度に好奇の目に晒される日々を送っていた。
 提案した摂政の件はアレクシス皇太子一行がラモルテ皇国に戻り、あちらで話し合いが持たれている。ラナとしては一刻も早く回答が欲しいところだが、未だになんの連絡も来ていなかった。
 実は王宮を抜け出したあの日、ヴォルトに置き去りにされてからどうなったのかをはっきりと憶えていない。しばらくの間は消えていった方向を見つめていたかもしれないが、後は膝を抱えてひたすら助けを待っていただけのような気がする。
 記憶に曖昧な部分があるのは、無事に救出されたものの風邪をこじらせ、一週間ほど高熱にうなされたせいだろう。
 そして、ラナがベッドから起き上がれるようになった頃には全てが様変わりしていた。
 離縁を宣言していた母親の姿は王宮から消え、父親の身分が王太子から大公へと変わっていた。そして、ラナもまた次期女王からエルメリック公爵令嬢へと変わり、ヴォルト・キーショアの結婚相手には従妹のプリシラが据えられていた。
 しかも当のヴォルトはまだ王族だったラナを連れ出した咎で実家に戻され、ラナ自身も醜聞を避けるという理由で修道院へ送られることが決定したと告げられた。
 ラナを取り巻く世界が一変して既に十年。
 厳しい教育に耐えられたのはいずれ女王となり、ヴォルトと結婚できると信じていたから。突然すべてを奪われ、「恥知らずな女の娘」と修道女に蔑まれる日々に最初の頃は泣いてばかりいた。
 だが、どんなに涙を流したところで状況は変わらない。失ったものがラナの手に戻ってくる日はやってこないのだと悟った。それからというもの、せめて母の罪を償おうと白い目で見られながらも必死で勉学に励んだ。
 十四歳で文官の試験を受けて王宮勤めとなり、二年前に宰相補へ抜擢されてからはスカラファリア発展のために必死で働いてきた。
 そしてラモルテ行きの話を受け、静かに皆の前から去るつもりでいたのに。
「どうしたらいいの……」
 途方に暮れた呟きに答える者はいなかった。

 

 ◇◆◇

 

 謁見から一ヶ月後、スカラファリア王国の王女とラモルテ皇国の皇太子の婚姻が正式に発表された。
 近隣諸国からも続々と祝いの書状が届けられ、国内でもラモルテと強固な繋がりを得られることに大きな盛り上がりを見せている。
 ただ、中には唯一の王女を国外へ嫁がせるのはいかがなものかと不満を持つ者もおり、国王が誰を後継者として指名するのかという点に大きな関心が寄せられていた。
「――それでは、持参品はこちらのリストを基に手配いたします」
「えぇ、お願いね」
「承知いたしました」
 王妃マデリンとの打ち合わせを無事に終え、ラナはテーブルに広げていた書類を手早くまとめた。一秒たりとも無駄にはできないと言わんばかり、早くも同行した文官に次々と指示を出す姿を王女とよく似た緑色の瞳がじっと見つめている。
「ラナ、ちょっと」
「はい殿下、お呼びでしょうか」
「貴女、ちゃんと休めているのかしら?」
 あまりにもストレートな質問に一瞬言葉に詰まった。眼鏡の奥で目が泳ぎそうになるのを寸前で堪え、咄嗟に唇へと淡い笑みを乗せる。
「問題はございません。ご心配いただき感謝いたします」
「そう、ならいいのだけど……」
 マデリンはまだなにか言いたそうにしている。気遣わしげな眼差しの理由には心当たりがあった。普段から忙しくしている宰相補に、他国へ急に嫁ぐことになった娘の婚礼準備を任せているのを申し訳なく思っているのだろう。
 だが、これはラナが望んで引き受けた仕事なのだから罪悪感を抱く必要はない。これ以上の長居はよくないだろうと王妃の部屋から素早く退散した。
 廊下を進みながら、ラナは髪を直すふりをしてこめかみを指先で押さえる。少しは頭痛が和らぐかもしれないと試したものの、残念ながら期待するような効果は得られなかった。部屋に戻ったら薬を飲まなくては。
 仕事を理由に自分の健康管理を疎かにする癖は宰相からよく注意を受けているが、今の状況では仕方がないと黙認してくれている。なにせプリシラの輿入れは国を挙げての慶事、手落ちがあってはいけないのだ。
「エルメリック様、こちらの件ですが……」
「ラモルテから急ぎの書状が届いております」
「先ほど仕立屋から連絡がありまして、プリシラ殿下の採寸を……」
 執務室に戻るなり待ち構えていた者達が口々に相談や報告を上げてくる。椅子に座る時間ももどかしく緊急の件に次々と指示を出し、部屋を出る時に空にしておいた箱に溜まった書類の束を取り上げた。
 緊急度の高い仕事を片付けたタイミングで文官達を帰し、ようやくラナがひと息つけたのはそれから更に三時間後だった。
 椅子の背もたれに体重を預けると、目の奥からじわじわと痛みが湧き上がってくる。
 仕事に集中している時だけは全てを忘れられる。仕事さえしていれば、遥か昔に手放したはずのものが戻ってくるという戸惑いから逃れられた。但し、絶え間ない頭痛と倦怠感という代償を払わねばならないのだが。
 ようやくラナはグラスに水を注ぎ、抽斗の奥から取り出した痛み止めを飲んだ。薬瓶の中身はここ一週間ほどで急激に数を減らしている。そろそろフィリニへ補充を頼まなければと思いつつ、余計な心配を掛けてしまいそうで躊躇っていた。
 どう言い訳しようかを考え始めると、芋づる式に次々と懸案事項が浮かび上がってくる。それと同時に痛みが酷くなってくるのを感じ、ラナはよろめきながら応接スペースへと移動した。
 少し休めば薬が効いてくるだろう。眼鏡をテーブルの端に置いてから髪紐を取り、緩い三つ編みにしていた髪を雑な手付きで解いた。ブラウスのボタンを上から二つ外して首元を緩めながらソファーに深く身を沈める。努めて無心になり目を閉じていると、あまり間を置かず意識が急激に沈んでいった。
「ん…………」
 ちょっと休憩するだけのつもりだったのに、どうやら本格的に眠っていたようだ。薄暗い部屋の中、壁に掲げられたタペストリーを眺めつつ今は何時だろうと覚醒途中の頭で考える。
 頬に掛かった髪を払おうとした瞬間、ラナは身を強張らせた。
 ブランケットの類は掛けていなかったはずなのに、何かに覆われている感触がある。
 それだけではない。
 寄り掛かっているのはソファーではなく、温かくて弾力のある――。
「少しは休めましたか」
 どうして、彼がここに?
 公爵家の当主であり、宰相補という立場でありながら情けない姿を晒してしまった。落ち着いた声で問いかけられたというのに、羞恥と動揺でラナの鼓動は激しくなる一方だった。
 慌てて傾いでいた身を起こすと肩を重みのある布が滑り落ちていく。手触りから判断するにこれはマントだろう。床に付きそうになったのを急いで手繰り寄せようとしたが、隣から伸びてきた手に素早く取り上げられた。
「申し訳ありません。お見苦しい姿を……」
 ヴォルトはソファーで眠り込んでいた宰相補の醜態を隠してくれたのだろう。肩に未だに残る感触を振り払うように乱れた髪へ手櫛を通す。緩めていた襟元を閉めようとした手がなぜか素早く制された。
「働き過ぎです。お送りしますので今日はこれくらいにしましょう」
「ですが、プリシラ殿下の輿入れ準備が予定より遅れています。もう来週には、ラモルテから礼儀作法を教える女官が……」
「そんなものは些事ではありませんか」
 ――そんなもの?
 プリシラは国王の一人娘であり、皆から愛される女王になるに違いないと将来を楽しみにされていた。「スカラファリアの薔薇」と称される王女の輿入れを、専属の騎士であるヴォルトがまるで取るに足らない出来事のように言い捨てるなんて。
 ラナは呆気に取られたものの、彼の言わんとしたことに遅ればせながら思い至った。
 ずっと一番近くで護り、慈しんできたプリシラが異国からやって来た男に突如として奪われたのだ。愛する王女の嫁入り準備など失敗すればいいと思っていても不思議ではない。
 そんな複雑な心情に気付かず不用意な発言をしてしまった。ラナは俯き、「申し訳ありません」と小声で謝罪した。
 ようやく掴まれていた腕が解放される。指先で手の甲を名残惜しげに撫でられ、その感触に小さく肩が跳ねた。薄闇に包まれているせいではっきり見えない。だが、ラナの肌へと滑らされた手はいつもの手袋を着けていなかった。
 陽の落ちた部屋は寒さを覚えるほどなのに、どうして外しているのだろう。理由を探そうとした思考は頬に触れたものによって止められた。
「あの……どう、されましたか?」
 顎を持ち上げられ、ごく弱い力だったというのになぜか抗えない。ラナは堪らず声を上げたがヴォルトは無言のまま。顔をじっくり見つめられるうちに段々と呼吸がうまくできなくなってきた。
「なるほど。眼鏡のフレームで誤魔化していたのですね」
 親指で目の下をすうっと撫でられ、入念に隠していたはずの隈をいとも容易く指摘される。もしかして化粧が剥げている? そんな恥ずかしい姿を見られているのかと思うと更に落ち着かなくなってきた。
 距離を取ろうと引きかけた身体は腰に回された手によって阻まれる。これはいくら婚約の可能性がある仲とはいえ、あまりにも近すぎるのではないだろうか。ラナの焦りに気付いているはずなのに、ヴォルトは構うことなく更に引き寄せてきた。
「貴女は自身を蔑ろにし過ぎている」
「自覚は、しております」
「いずれは女王となる身なのですから、無理はなさらないでください」
「……その件はまだ、正式決定ではありません」
 だから離れてほしい。言外に伝えたはずだが拘束が緩む気配は感じられない。
 頬に添えられていた手がゆっくり後ろへと滑っていく。指に髪を絡ませながら後頭部を優しく、だけどしっかりと押さえられてしまった。
 これ以上の接触は止めなければ。ちゃんとわかっているというのにどうしても強く拒めない。ラナは戸惑いつつも必死で抗おうとした。
「どうか、これ以上のお戯れはご容赦くだ……」
「ラモルテから返事がありました。こちらからの提案は受け入れられないそうです」
「えっ……」
 ラモルテ皇国は、皇太子妃となるプリシラの産んだ子をスカラファリアの後継として渡せないと言ってきた。
 それは、つまり――。
 目を大きく見開いたまま動きを止めたラナは、一縷の望みがあえなく散ったことを報せた男の腕に閉じ込められる。左耳に寄せられた唇から熱い吐息を吹きかけられた。
「これで、スカラファリア王族を存続させる方法は一つだけとなりました」
「第一子は無理でも、その次の子であれば……」
「王位継承者の不在が続けば、民を不安にさせます」
 ヴォルトの言い分は何も間違っていない。後継が決まらなければ無為な争いが引き起こされる危険があるのは、いくつもの歴史が物語っている。宰相補という国政を担う立場からすれば、至極当然の流れだと言い切るだろう。
 だが、ラナ・エルメリックという一個人ではどうしてもその事実を認められなかった。
「わ、たくしには、王などとても務まりません」
「どうして、そう思われるのですか?」
 低い声での問い掛けが耳朶を揺らし、思わず肩を竦める。ヴォルトに拘束されている理由がわからないもののラナは主張を続けた。
「王位継承者としての教育がまったく足りておりません」
「以前ひと通りは受けていらっしゃいますし、今の貴女であれば何も問題ないでしょう」
「母の件もあります。きっと保守派は猛反対します」
「そんなものは大した障害ではありません。古い考えに縛られている者は、いずれ淘汰されます」
 ヴォルトはラナの懸念を取るに足らないものだと一蹴する。必死で築いた防波堤をいとも容易く打ち砕かれ、遂には黙り込んでしまった。
「他にはありますか?」
 これまで挙げたものはたしかに重要な理由ではある。だけどそれらはほんの一部で、かつ建前として出すものに過ぎない。ラナが国王の命令を拒む最大の理由は誰にも打ち明けられない。
 特に――王女の専属騎士には。
 早く教えろと言わんばかりに耳朶を柔く食まれ、唇をきゅっと引き結んだ。沈黙が答えだと捉えられたらしい。
「貴女は王籍に復帰し、王位継承権を得る。明日には正式な勅令が出されます」
 勅令はそんなに短期間で出せるものではない。ラモルテから回答が届いたばかりだというのに即実行できるのは、おそらく水面下で準備をしていたのだろう。混乱を最低限に抑えるためとはいえ、当人の意志とは関係なく事を進められていたと暗に明かされ、胸に痛みが走った。
 だが、悲嘆に暮れている場合ではない。せめて最悪の事態だけは避けなければ。ラナが言葉を唇に乗せるよりほんの少し早く、低い声が鼓膜を揺らした。
「勅令と同時に、私との婚約も発表されます」
「同時に、ですか……?」
 王位継承者が女性である限り、辺境伯との盟約を果たさなくてはならない。たとえそれが一度は婚約内定が反故になった、決して良好な仲とは言えない相手であったとしても。
 ラナの退路は完全に断たれてしまった。瞼を閉じて目の縁にせり上がってきたものを必死で堪えていると、腕の力が強められた。
「お待ち、ください……っ」
 ありったけの力を振り絞って拘束から逃れる。おそらくヴォルトが手加減してくれたお陰だろうが、今はそんなことを気にしていられない。ソファーの端まで後ずさると膝の上で両手をきつく握りしめた。
「明日の朝、国王陛下に時間を取っていただきます」
「残念ながら、勅命はもう各所に手配済みです」
「えぇ、わたくしは勅令を拒む権利など持っておりません。ですが、婚約の方はまだ間に合う可能性が残されています」
 盟約はいずれ果たさなくてはならない。だが、これまでプリシラに尽くしてきたヴォルトが嫌いな相手と結婚するのは、どう考えても褒賞ではなく罰だ。陞爵と補償金、そして本人の希望があれば最悪の事態は避けられるかもしれない。
 これはヴォルトのためでもあり、同時にラナ自身のためでもある。今すぐにでも国王の侍従へ言伝を頼もうかと思った矢先、ヴォルトの纏う空気が一瞬にして冷たいものへと変わった。
「貴女は、それほど私との結婚を避けたいのですか」
「……え?」
 その低い声は獣の唸りを連想させる。思わず身を強張らせるとソファーの軋む音が薄暗い部屋に響いた。膝のすぐ傍の座面が沈むのを感じたと同時に腰を引き寄せられる。
 俯いていたラナは反射的に顔を上げ――紫の瞳に囚われた。
 もしかすると、これほど近くで見つめ合ったのは初めてかもしれない。昔の記憶にあるものよりも色に深みがある気がする。ヴォルトの強い眼差しに意識を搦め捕られ、ラナは息をするのも忘れてただひたすら見入っていた。
 ばさりと重い布の音と共に、突如として視界が深い闇に包まれる。事態を理解するより先に被せられたマントごと身体が浮き上がった。
「キーショア様っ……ちゃんと、歩けます……!」
 ヴォルトは何も答えない。扉が開かれた音で廊下に運び出されたのだと悟り、声をひそめて王女の専属騎士の名をもう一度呼んだ。
 廊下を進むヴォルトに駆け寄ってくる足音がある。こんな遅い時間に大荷物を抱えて歩いていれば不審に思われるのは当然だろう。妙な噂を立てられるのでは、とマントの中で身構えるラナの予想は見事に外れた。
「宰相補殿はお疲れの為、今夜は王宮で休んでいただく。公爵家に使いを出せ」
「承知いたしました」
 ヴォルトが命じるとすぐさま足音が遠ざかっていく。歩く速度は緩められることなく静かな夜の廊下を運ばれていった。
 しかし、ラナをどこで休ませるつもりだろうか。疲労が積もりに積もっている自覚はあるが医者にかかるほどではない。尋ねようにも周囲の状況がわからない以上、声を出すのは躊躇われた。
「もう少しだけ辛抱してください」
 囁くように告げられ、ラナは戸惑いながらも小さく頷く。
 いくら歩くのが速かったとはいえ、こんなに医局は近かっただろうか。扉の音がやけに重々しく聞こえる。どうやらラナの予想とは違う場所に連れて来られたらしい。
 静かに降ろされた場所は適度に柔らかく、人が身体を休めるのに適した弾力がある。手が触れたシーツの滑らかさは明らかに治療を目的とした場所のものではなかった。
 掛けられた時とは打って変わり、そっとマントが外される。乱れた髪を整えながら周囲の様子を窺う。部屋の造りから判断すると客間のようだが、それにしては調度品の装飾が控えめな気がする。
「あの、ここは……?」
「私の部屋です。婚姻の準備で忙しくなるからと陛下が用意してくださいました」
 ラナは王女に関する事柄の一切を取り仕切っている。それなのに教えられていないのは、これがプリシラの専属騎士としてではなく、次期女王の伴侶としての待遇だからだろう。
 とはいえ、その「次期女王」にも知らされていなかったのだが。
 専用の部屋といい勅令といい、この件に関してラナは完全に蚊帳の外に置かれているのだと痛感する。自分に関する事柄なのに自分ではコントロールするどころか何も把握すらできていないのだ。仕方がないとはわかっているが、気が付けば両手が固い拳を作っていた。
 すぐ隣でベッドが沈み込むのを感じ、ラナははっと我に返る。ここで自己嫌悪に陥っていても状況は変わらない。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。わたくしの不調は心配いただくほどのものではございません。どうかキーショア様は気にせずお休みください」
 薬が効いてきたらしく、痛みの芯が微かに残っているものの頭痛はすっかりよくなっている。これ以上はラナに負けず劣らず多忙なヴォルトの時間を浪費させられない。執務室の机上は惨憺たる有様ではあるが、今日は諦めて屋敷に戻るとしよう。
 ボタンを留めようと襟元に手を遣り、部屋を出るべく立ち上がろうとしたのだが――。
 浮き上がりかけた腰を強く引き戻され、バランスを崩した身体がベッドに倒れ込んだ。慌てて肘をつき、身を起こそうとしたラナに深い紫の瞳が迫る。
「キーショア、さ……っ」
 腕に手を添えて制しようとした瞬間――唇になにかを押し当てられた。
 ヴォルトに同じものを重ねられたと気付き、咄嗟に肩を押したがびくともしない。逆に抵抗した罰といわんばかりに下唇に歯を立てられ、腰のあたりからぞくりとしたものが駆け上がってきた。
 初めての感触への戸惑いと息苦しさがあいまって思考が鈍くなってくる。抵抗しようにもうまく力が入らない。拒絶が弱まっていくにつれ、ヴォルトとの距離が更に縮められた。

 

 

 

 

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