その聖女、悪魔につき 絶倫勇者は唯一無二の深愛に囚われる 2
第二話
ウジェーヌが甘い妄想に浸っている頃、聖女エリスは多くの人々が待つ懺悔室へと戻っていた。エリスの姿を見て、人々は口々に「聖女さま」と呼び、歓声を上げる。
「お待たせして申し訳ありませんでした。再開いたしましょう。準備をしますから、少々お待ちくださいませね」
「エリス、大事なかったか」
アダンが心配そうに声をかける。聖女は自身の無事を示すように華やかに微笑んだ。
「大丈夫。でも、とても大きなお話だったわ。返事はまだ保留にしてあるけれど」
「あの男は一体何者だ。着ているものからして、貴族のようにも見えたが……」
「きっとそうでしょう。身分あるお方のようよ。そのことは後で話しましょう。今は、少しでも多くの方の力になって差し上げたいから……」
懺悔室へ入り、腰を下ろしたエリスの足元に何かが震えながら蹲っている。エリスが靴を脱いでつま先を差し出すと、それは歓喜のうめき声を上げ無我夢中でむしゃぶりついた。
エリスは喉の奥で笑う。
「まあ……そんなに。あなたの苦しみは、まだ癒えませんこと?」
エリスが優しく囁きかけると、白髪交じりで痩せぎすの中年男は、鼻息を荒らげながらかぶりを振る。ものが言えないのはエリスのつま先をしゃぶっているからだ。言葉を口にする間も惜しんで聖女の足に奉仕している。
その様子に、エリスの焼けつくような紅い唇から笑みがこぼれた。闇色の瞳はその奥に紅玉さながらの炎を揺らめかせ、もう一方の足で男の頭を踏みつけた。すると神父は歓びに震え上がり、頬を上気させた。
「お気の毒ですわ……神父さま。神よ、どうかこの者を救ってくださいませ。この哀れな迷える子羊を……」
夜と闇の娘、エリスは飽いていた。
この変わり映えのない魔界ハデスに、混沌という名の安寧に、欲望に忠実な悪魔たちに。
「エリスったら最近ため息ついてばかりね。一体どうしたっていうの」
妹のアパテーがエリスの家にやって来て首を傾げる。
エリスには幾人もの兄弟たちがいた。夜の母の暮らす西の果ての館で生まれ、今は冥界の近くにある魔界のより深い場所、数多の夢を絡ませる巨木の傍らに居を構えている。
夜の母と闇の父より生まれながらにして強大な力を受け継いだエリスは、魔界の純然たる力のヒエラルキーが影響を及ぼさないほど上の場所に、常に憤然として座っていた。
絶えず争いを見ることを好み、西に行っては数多の諍いを起こさせ、東に行ってはあふれるほど血を流させた。
飽くことなく活動し、様々な歓楽に耽ってきたエリスは、もうやることが見つからなくなってしまった。
何もかも面白くない。つまらない。
そしてそう感じる現状自体に怒りを覚えた。
エリスは知的だが無鉄砲で気分屋の、好奇心あふれる悪魔である。短気で怒りっぽいが自分の楽しみのためには地道な作業も厭わない。けれど一度飽きてしまえば、丹念にこしらえたものもすぐに放り投げてしまう。そんな悪魔がひとつの世界を見続けて満足できるはずもなかった。
「魔界に飽きちゃったのよ」
「飽きたですって。魔界に? こんなに変化に富んだ楽しいところはないのに、それに飽きてしまったっていうの」
「そうよ。いつも変化に富んでいる。いつもね。それはある種の秩序であり調和よ。魔界が平和だったことはないわ。混沌という名の不変の世界だもの」
「へえ。さすがエリスね。面白いこと言う」
アパテーは感心半分、呆れ半分といった表情で姉をまじまじと観察する。
「ピロテースも同じようなこと言ってたかも。でも、あの子はそれに満足してる。ま、日がな一日交わってれば楽しめる子だもんね」
「あの子は愛欲の悪魔でしょう。私は不和、争いの悪魔。夜と闇の間から争いを抱いて生まれたのよ。最初は戦いに明け暮れるこの場所に満足してた。でも、それさえ平和に見えてきてしまったのよ」
エリスは闇の目の奥に紅蓮の炎を燃やす。胸元に刻まれた争いの悪魔の象徴である黄金の林檎の痣が疼く。何か、新しいことがしたかった。まだ足を踏み入れていない場所に不和の種をばらまき、騒乱を起こしたい。その欲望で体中がむずむずとするようだ。不和の悪魔、争いの悪魔であるエリスは平穏な日常が耐え難い苦痛だった。心を焼くような喧騒の中に常に身を置いていなければ、溜まりに溜まった不満で爆発してしまいそうだ。
欺瞞や不実の悪魔アパテーは、嘘つきで不実な悪魔たちとの交渉に今のところ退屈はしていない。けれど、エリスの主張も理解できる。新鮮味がないと一度でも思ってしまえば、もう同じ場所で楽しむことはできないだろう。
「それじゃ、人間の世界に行ってみたらいいんじゃない」
「人間界に? あんなところ、魔界より退屈なんじゃないかしら」
これまであの場所に行こうと思ったことはなかった。人間界は魔界と天界の狭間にある場所。天使と悪魔双方の干渉を受け、弄ばれるばかりの脆弱な生き物の住む場所だ。
「少なくともエリスの言う調和はない場所じゃないの。平和もあれば戦争もある。ずっと戦ばかりではないし平穏が永遠に続くこともあり得ない。過去から学ばず時が経てば忘れてしまうの。人間は愚かで面白い玩具よ。あたしも興味あるわ」
「そうね……。ここであくびばかりしているよりは、新鮮なことがありそう」
これまで考えてもみなかった選択肢だけれど、確かにアパテーの言う通りだ。今エリスは同じ場所で変化の乏しい毎日に停滞することに憤りを覚えている。それならば、まったく新しい世界に飛び込んでしまえばいいのだ。
とはいえ、天界はあり得ない。あそこにいるのは仇敵ばかりである。魔界は神を見限って堕天した者たちが棲み着いた場所。エリスの求めるまったく違う環境があるとはいえ、楽しい世界でもない。
エリスは腹を決めるとすぐに漆黒の翼を広げ、人間界へと旅立った。闇と夜の髪に争いの炎を傲然と滾らせ、燃え立つ不和の情熱の塊となって、雷鳴轟く不吉な暗雲の懐へと分け入った。
(さて、人間たちでどんな風に遊ぼう。ひとまず平和な場所に行って争いでも起こさせようかしら。美しい信頼、友情、愛情、絆で結ばれた者たちを分断してやろうかしら。どうやって? 私がとことん楽しめる仕掛けを作らないといけないわ)
考えるだけでワクワクしてくる。
こうしてひとつの恐ろしい災厄が人間の世界に降り立ったとき、その国では夜が白々と明けようとしていた。
季節は秋の入口だ。涼やかでもの寂しげな風が赤く色づいた木々の葉を揺すっている。
魔界に四季はない。空には絶えず雷鳴が轟くが雨も降らない。降るとすれば毒の雨で、弱い悪魔はたちまち融けてなくなってしまう。
地底の国に陽は差さず、動物も植物も鉱物も自らが光を発する。そのため、柔らかな曙色に染まる夜明けの空はエリスの目に奇異に映った。
悪魔は夜を好む。無論、この世界の夜が魔界に似ているためだ。明る過ぎる太陽の光を憎悪する者もおり、魔力も日が出ている内は落ちる傾向にある。
けれど、日が昇る直前の一瞬の焼けつくような烈しい黄金色の光はエリスの心を躍らせた。争いの悪魔にはそれが戦場を燃やす炎のように見えたからだ。
ふと気づけば、すぐ目の前に道半ばで行き倒れた格好の死骸があった。すでに白骨化していて、元々どんな姿をしていたのかは知る由もない。しかし、その骨が纏っている衣には見覚えがあった。
「まあ、これは幸先のいい……」
と、エリスは思わず呟く。それは神に仕える人間たちの着る衣服である。そして、エリスの頭には愉快な考えが閃いた。
そうだ、この衣を着て、修道女になってやろう。そして教会に潜り込み、神や天使どもがどうやって無知な人間どもに説教を垂れているのか笑いに行ってやるのだ。
エリスはこのアイディアに有頂天になった。悪魔が神に仕える者に化けるとは、あまりにも素晴らしい悪徳ではないか。
翼を畳んで背中に収め、エリスは屍から衣を剥ぎ取ってその身に纏った。白い指で表面をひと撫ですれば、それは汚れも時間の経過も失い、作られたばかりの頃の姿を取り戻す。黒ずんだ銀のロザリオも同様に輝きを放つ新しいものとなった。物体の記憶を消したのだ。そうすると、それは生まれたばかりの頃に立ち返る。
ベールを被って豊かな燃える髪を隠し、そして赤い紐で腰を縛った。体を覆い隠す聖なる衣は、たちまちエリスのみだらな肉体の隆起をあらわにし、蠱惑的な修道女が現れた。
修道服を纏い、ロザリオを胸にかけたエリスを悪魔と思う人間はいないだろう。何しろ、人はこの十字架が邪悪な存在を退けると考えているのだから。
(そもそも私たちは天に棲んでいた者。神と同義でもあるのに、なぜこんなものが効くと思えるのだろう)
人間たちの伝承は数多あり、言い伝えによってはエリス自身女神と呼ばれることもある。その気性に従って棲む場所を選んでいるというだけで、神も悪魔も天使も違いは曖昧だ。人間が宗教によって信じるものが違うように、国によって文化が違うように、天界と魔界に分かれているだけという話である。
それでも、この衣服と装飾品はある種の効果があった。それは、人間が信仰する神を冒涜してやっているという快楽である。この聖なる衣に身を包まれているだけで、心地よさにオーガズムに達してしまいそうだった。清らかとされるものを汚す瞬間の慄きの、なんと甘美なことか。
エリスは『神のお導き』に感謝し、恍惚としながら先を急いだ。この先に人間たちの気配がある。怠惰で、濁っていて、流れの滞留した不満あふれる人間の地だ。
果たして、少し歩いて辿り着いた小さな村は、皆淀んだ目をしてただ死を待っているかのような、生気のない集落だった。
怠惰を何より嫌うエリスはこの村の空気に吐き気すら催す。動け、戦え、と一人一人の尻に蹴りを入れて回りたいくらいだ。
そしてこんな場所にすら、神を信奉するあの場所があった。村の中心に建てられているのだろう。貧しい家々を睥睨するような尖塔が村の入口からでもよく見える。
(けれど……確かにここに感じるわ。秘められた闘志を持つ者……争いの中心となり、屍を踏みつけて歩き、やがて頂点にて剣を振るう人間の魂を)
魔界でならばさして珍しくもない気配だが、人間の中にこれほどのものが埋もれているとなると、それはひどく興味深い。
貧しい家々の間を歩き、その魂へと近づいてゆく。
それは村の奥、森へ少し入った場所にいた。
まだ年若い青年だ。錆びついた斧を振るい、薪を割っている。
エリスは木陰から青年を観察する。
(確かに、荒ぶる魂を持つのはあの人間。けれど、なんと脆弱な精神。肉体は素晴らしく逞しいけれど、この男は戦いを忌避している。心がまるで頑なな盾のように燃え立つ魂を押さえつけている)
長身の上に体は鎧のような筋肉で覆われている。斧を振るう度に隆起する背中、太い腕に浮いた血管、引き締まった臀部のすべてに甘美な雄の誘惑をたたえている。
青年は顔色ひとつ変えず薪を割り続け、かなりの量になったものを軽々と肩に担ぐ。そしてひと呼吸置いて、エリスのいる木陰に視線を投げた。
「そこにいるのは誰だ」
男はエリスの気配に気づいていたらしい。怒りでも恐れでもない平坦な声で訊ねられ、エリスは抗わずに姿を現した。
「盗み見るような真似をして、申し訳ございません。私は旅の修道女でございます」
「修道女……」
青年は怪訝な目でエリスを見つめた。
美しい男だ、とエリスは思った。栗色の髪は優しいウェーブを描き、どこか悲しげな緑の瞳は物憂げにエリスに向けられている。肉体の凶暴なほどの逞しさを裏切るような甘い顔。
人間の外見の美しさは悪魔にとっても魅力的だ。一般的な人とは美しさの価値観が異なるかもしれない。悪魔はその魅惑を鋭い五感で感じ取る。憂いを帯びた青年からは悩ましいほどの香しい魅力が立ち上っていた。
「ならば教会にでも行けばいい。だがここはやめておけ。少し歩くが隣村へ行ってそこの教会の戸を叩け」
「いいえ、この村が私を呼んだのです。神のお導きに従ってここへ参りました」
「そうか。……ならばもう何も言わん」
男はエリスと話すのに疲れたのか、どこかへ立ち去ろうとする。
「お待ちください」
「何だ」
「あなたにこの村のことを教えていただきたいのです」
「他を当たれ。俺は人と関わりたくない」
まるで世捨て人のようなことを言う。他者との関わりを断っている孤独な空気が青年を包み込んでいる。
悪魔から見ても十分に魅力的な外見であると自負しているエリスは、若い男に袖にされたことがなく、この青年の自分への無関心ぶりに内心驚いていた。もしかすると人間はこの姿を醜いと思うのだろうか。
しかし、エリスは青年を諦められなかった。せっかく楽しめそうな魂を持っているのだ。みすみす見逃すわけにはいかない。
「いえ、あなたがいいのです。どうか、お願いします」
追い縋る修道女に青年は怪訝な眼差しを向けた。その目には猜疑心が深く根ざしている。
「……なぜこんな何もない村に来た」
「何もないからこそでございます。私は困っている人々を助けたいのです。それが神の教えなのですから」
「神、ね。こんな村に導く神がいるものなのか」
「この村にも教会はございますでしょう」
「さっきも言ったが、ここの教会はやめた方がいい。随分昔から腐っていて使い物にならない」
青年はにべもなく教会を否定した。人間不信の様子だが、神にも不信感を覚えているのか。結構なことだが、ここの教会で一体何があったのだろうか。
「まあ。あなたは信仰心がないのですか」
「さあな。だが、ここの教会こそ信仰心のない場所だ。間違っても訪れたりしない方がいい。あそこには、神などいない」
「神はいらっしゃいます。必ず私たちを見守っておられます」
そう口にすると、嫌悪と憎悪と快楽で体の奥がゾクゾクと震える。さも心から信じているような顔で偽りを口にすることの、なんという快さ。妹と同じような欺瞞の悪魔たる素質が自分にも少しはあるらしい。
信仰心の厚い修道女を前に、青年は無感動な目をしている。
「神がいるのならば……早く俺の父を楽にしてもらいたいものだ」
「ご病気なのですか」
「もう数年起き上がることができていない。最近はひどい苦痛で絶えずうめき声を上げている。無駄に頑丈だった体が仇となって、衰弱して死ぬこともできない」
「お医者さまには」
「治す術はないと言われた。痛みを麻痺させる薬もあるそうだが、継続的に使い続けねばならない。そんな金はうちのどこにもない」
それでこの青年は疲れ切った顔をしているのか。彼自身はまったくの健康体に見えるが、心労や父のうめき声で夜もろくに眠れていないに違いない。
「神がいるというのなら、あなたが神を呼んで父を苦痛から解放してやってくれ」
「承知いたしました」
二つ返事で引き受けたエリスを、青年は少し驚いた様子で凝視する。
無論エリスにとって病の父親などどうでもよい。ただこの青年の側にいて、どうにかしてその猛々しい魂をあらわにしてやりたい、その一心である。
「本気か。そんなことができるのか」
「私には何もできませんが、神のご慈悲できっとお父上は救われます」
神のご慈悲ね、と失望したように青年は呟く。何かもっと具体的な方法があると思ったのだろう。
「……まあ、せいぜい祈りを捧げてやってくれ。少しは親父の心も軽くなるかもしれない。あの人は俺よりは信仰心があるからな」
「それでは、神のお言葉もよく届きましょう。信じる者は救われるのですから」
エリスのひたむきな眼差しに、青年は少々呆れ顔でため息をつく。
「名も言っていなかったな。俺はアダンという。アダン・レサル」
「私はエリスです。さあ、それでは参りましょう、お父上のところに。これが私がここに辿り着いた意味かもしれません」