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汝の仇敵を愛せよ 復讐令嬢は王太子殿下と禁断の恋に堕ちる 1

第一話

 

 


 せめて民衆の目のないところで、と懇願した母の願いは、最終的に聞き届けられた。唯一よかったことと言えば、それくらいだろう。
 陽の光も届かない、薄暗い塔の地下室。
 ヴェネルギル国王とその側近たちが見守る中で、ブランシュ・リストの父であるジュール・リスト侯爵は、静かに首を刎ねられた。
 その瞳は最期の瞬間までまっすぐに国王を見つめていたという。
 首だけになった父を見て、母は泣き崩れ、妹は気を失った。男兄弟がおらず、リスト侯爵家の跡取りとして厳しくも愛情深く育てられた姉のブランシュだけが、父と同じ蒼い瞳を怒りに燃やし、ぎゅっとこぶしを握り締めながら、その惨状をつぶさに目に焼きつけていた。
「お父様……」
 ──ブランシュ、リスト侯爵家は嵌められたんだ。数百年王家へ忠誠を尽くした結果がこれだとは……。私たちは一体なんのために今まで……。すまない、ブランシュ。本当にすまない……。
 処刑前、最後に会った父がブランシュに遺した言葉だ。威厳のある偉丈夫だった父が背中を丸め縮こまり、泣きながらそう言った。あまりにも無念で、哀しい遺言だった。
 父は何者かによって、嵌められた。
 国家反逆罪という身に覚えのない罪状を押しつけられ、弁明の余地すら与えられず、あっという間に処刑が執り行われた。
 その後、リスト侯爵家は反逆者の汚名を着せられたまま取り潰された。
 幸か不幸か女だからという理由で恩赦が与えられたブランシュたちは、平民に落とされることで、なんとか死罪は免れた。
 しかし、生まれながらの貴族がいきなり平民として生きていけるわけがなく、しばらく市井を彷徨ったあと、ブランシュは母と妹のピノとともに恥を忍んで母の生家であるメイヤー伯爵家を訪ねることにした。
 メイヤー伯爵家にとっては、反逆者の身内を匿うことになるので、王家から目をつけられる可能性があったが、母の弟──ラファエル・メイヤーはそれでも構わないと手を差しのべてくれた。リスト侯爵が反逆者なわけがない、と。
 さらには、メイヤー伯爵家には跡取りとなる子がおらず、平民となり名を変えたブランシュならばぜひ養子にしたいとまで言ってくれた。
 こうしてブランシュは、齢十五にして、ブランシュ・リストから、ルージュ・メイヤーへと生まれ変わり、再び貴族として第二の人生を歩みはじめることとなった。
 助けてくれたメイヤー伯爵家には、感謝してもしきれない。
 だが、その一方で、ブランシュの心に灯った怨嗟の炎は、父が死んだあの日から、変わらずずっと燃え続けていた。
 父は冤罪だ。父を嵌め、その命を奪った犯人を、絶対に見つけ出してやる。
 そして、無実の罪で父の命を奪った愚かな国王にも、必ず──……。
「私自身の手で、復讐してみせる」
 憤懣に蝕まれ、ブランシュの心はあの日から完全に閉ざされてしまった。
 花のように美しく、温かい笑顔を見せていた彼女は、もうどこにもいない。

 

 

 

「ルージュ、今夜はいよいよデビュタントだね」
 朝食の席で、メイヤー伯爵が言った。
「はい。楽しみにしています」
 父の処刑から二年、ルージュは十七歳になり、今日からようやく社交界への参加が認められる。
 もともと淑女としての教育はこなしていたが、ルージュになってからはますます己を磨くことに邁進し、今では家庭教師すら何も教えることがないと恐縮するほど完璧な貴族令嬢になった。
 作法はもちろん、流行や政治の話にも精通しており、メイヤー伯爵家を訪ねてきた者たちはルージュの聡明さに舌を巻く。まだデビュタントを迎えていなかった頃から、「ぜひうちの息子を」と、婚約の話がいくつも舞い込んできていたほどだ。
 もちろん、メイヤー伯爵の実子でないことは周りにも知られている。ただ、その正体がブランシュ・リストだということは、徹底的に伏せられていた。裏工作として、同時期に孤児院から赤毛の孤児を引き取り、ブランシュと挿げ替えたので、書類や特徴を調べたくらいでは誰も疑えないようにもしてある。
 別人になりきるため、リスト家の者に特徴的な白銀の髪の毛も、今はメイヤー伯爵と同じ赤茶に染められている。蒼色の瞳だけはどうしようもなかったが、この国ではさほど珍しい色ではないので、特に問題はないはずだ。
「今夜のパーティーには王太子も参加されるそうだ。本当に大丈夫か?」
 そう訊いたのは、ブランシュだとばれはしないかと不安になっているのではなく、ルージュの精神的な面を心配してのことだろう。メイヤー伯爵は母に似て心のやさしい人だ。
 だが、あえてルージュは間違った意味に捉えたふりで、返す。
「大丈夫ですわ、お義父様。私の顔を覚えている人間は、ほんのひと握りです。それに、その人たちも、髪色と化粧が変われば私だと気づくのはほぼ無理でしょう。以前の私は貴族とはろくに交流もしていませんでしたから」
 父が娘を可愛がりすぎて、年頃になるまでは男どもにアプローチされてほしくないと、ブランシュもピノも、ほかの貴族の目に触れることはほとんどなかったのだ。まさに箱入り娘だった。まさか父の過保護がこんな形で功を奏すとは、皮肉なものだ。
 それでも、親族とは関わりがあったし、その親族からの情報で、ブランシュは絶世の美少女と専ら噂されていた。リスト侯爵家が取り潰しになった際、ブランシュの去就を嘆く者も多かったと聞く。
「まったくもう。ラファエルがそういう意味で訊いたわけじゃないとわかっているでしょうに」
 笑いながら、メイヤー伯爵夫人が言った。
 メイヤー伯爵はやさしいが、少し押しの弱いところがある。夫人はそれを補うように、気丈で闊達な人柄だ。だがべつに怖いというわけではない。常に堂々としていてかっこいい、と慕う貴族女性も多い。
 姉妹は昔からこの叔母が大好きで、特にピノは今も叔母というよりは年の離れた姉のように慕っている。
「そうよ。すっかり偏屈になっちゃって」
 夫人と一緒にルージュを咎めるのは、実の母だ。名目上はピノ同様メイヤー家の使用人ということになっているが、扱いは伯爵と同等だった。だからこうして朝食の場にも一緒にいる。
 この二年で、母には少しずつ笑顔が戻ってきていた。はじめの半年は、ろくに食事も喉を通らなかったようだが、今ではすっかり元通りだ。
 ただし、それが表面的なものだというのは、ルージュもわかっている。
 ルージュも周りには吹っ切れて第二の人生を歩んでいるように見せているのと同じだ。
「私は本当に大丈夫です。王太子が来たところで、べつになんとも思いませんし」
「まあ、あのとき王太子は国外に留学していて、蚊帳の外だったしね」
 母が放った一言に、食堂の空気が重くなった。
 皆があの惨劇を思い出し、それぞれが胸に秘めた想いを噛みしめているのがわかった。
 スプーンを握っていた手に力が入り、ルージュの手のひらにくっきりと爪の痕がつく。
「もし少しでも嫌な思いをしたら、すぐに私たちのところに戻って来るんだよ」
 メイヤー伯爵がそう言って、心配そうに眉尻を下げた。まったく、兄弟でもないのに父も義父も過保護なところが似すぎている。
「うまく立ち回りますから、そんなに心配なさらないでくださいな。小さな子どもじゃあるまいし、義両親に泣きつくわけにもいきません」
「ルージュ……」
 メイヤー伯爵が、今度は残念そうな顔になった。
「あなたがしっかり者だっていうのはわかるんだけどね、もう少し甘えてほしいのよ、ラファエルも、私も」
 夫人が言い、「ねえ?」と母に同意を求めた。母は困ったように肩をすくめるだけで、口を開かなかった。
「十分に甘えていますよ」
 ルージュはそう答え、薄っすらと微笑んだ。
 ──そう。十分に甘えている。
 メイヤー侯爵夫妻に助けてもらった恩があるにも拘らず、彼らの人の好さに付け込んで、ひそかに復讐の計画を練るくらいには。
 復讐など、彼らに甘えていないと考えられるわけがない。たとえ計画でも、見つかれば即座に父と同じく反逆罪で捕まる危険なものだ。ルージュが捕まれば当然メイヤー伯爵家もただでは済まない。取り潰しや処刑だってあり得る。
 そんなものに巻き込んでおいて、これ以上甘えるという選択肢は、ルージュにはなかった。
「お姉様は甘えるよりも甘やかしたいタイプですものね! お義父様もお義母様も、もちろんお母様も、お姉様を甘やかせないぶん、私を存分に可愛がってくださいな」
 ピノがそう言って、みんなの笑いを誘った。
 ピノは姉に比べて勤勉ではないし、抜けているところがあると思われがちだが、実際はわざとそう振る舞っているのだとルージュは知っている。
 勉強嫌いなのは本当かもしれないが、人の心を読んだり掌握したりする能力は、ピノのほうがよほど高い。今もルージュが困らないよう、さりげなく助け船を出してくれたのがその証拠だ。
 もしかしたら、ルージュよりもピノのほうが上に立つ者として向いているかもしれない。自分はどちらかと言えば陰で支えるほうが得意なタイプだと思っている。
「さあさ、朝食を食べ終えたら、さっそく支度にかからないとね。夜までにルージュを国一番の美女に仕立てあげなきゃいけないんだから」
「そうね。この日のためにとっておきのドレスと宝石を用意したもの。さらに美しくなったルージュはきっと会場中の男性の視線を釘付けにするわよ」
 母が言い、それに夫人も同意する。
「あまり目立ちたくはないんですけれど」
 ふたりはやる気に満ち満ちているが、ルージュにとっては、派手に着飾って悪目立ちするのは都合が悪い。
 なんせ、社交界への進出を機に、こそこそと裏で動き回らなくてはいけないからだ。
 父の無念を晴らすため、父を陥れた犯人の尻尾を必ず掴む。そのためには、顔を覚えられすぎてはいけなかった。
 壁の花になるくらいに地味に──と考えて、しかしもうすでにメイヤー伯爵の知己には顔が知れ渡っていることを思い出す。
 彼らは信頼のおける人たちばかりで、義父の顔を立てるためだと交流はしてきたが、だったらいっそ彼らと会っていたときのような派手なメイクで元の顔をわからなくしてしまったほうがいいかもしれない。
 裏の顔は裏の顔で、そちらをかなり地味にする。そう決心してしまえば、食後、母たちに好き勝手されるのも受け入れられた。
 湯船に浸かり、全身をくまなく磨かれ、マッサージを受けたあと、母たちが化粧師にあれこれ注文をつけながら、メイクを施されること一時間。
 出来上がったドレス姿のルージュに、メイヤー伯爵家一同が、ほう、と感嘆のため息を洩らした。
「まあまあ! 絶世の美女の名に相応しい出来だわ!」
「我が娘ながら思わず見惚れちゃうわね」
 腰まである長い赤茶の髪の毛はハーフアップに、メイクは眉を凜々しく太く、目力を強調するようにアイラインは濃いめに入れてある。陰影もはっきりさせるためシャドウをつけ、逆に頬紅は薄く刷く。
 この国では、美女の条件は目鼻立ちがくっきりしていなければならないという。だからメイクも濃いめで派手な人が多く、むしろルージュの現状のメイクではまだまだ控えめなほうだった。
 鏡に映る自分を見て、ルージュは少しげんなりした。すっぴんの顔とあまりに違いすぎる。これを美女と思う感性は、ルージュにはない。それに、おしろいをつけすぎると肌に悪いし、汗を掻いたらすぐにどろどろになるため、細心の注意を払わなければならない。だからメイクは苦手なのだ。
 それでも家族が褒めそやすので、ルージュは出来に納得することにして、デビュタントに出掛けるため用意された馬車に義両親とともに乗り込んだ。
 今夜のパーティーは、メイヤー伯爵家よりも家格の高い、クロムウェル侯爵家が主催している。クロムウェル侯爵家には、ルージュよりもふたつ年上のリリーという令嬢がいて、彼女は王太子であるカイネル・ヘスキア・ド・ヴェネルギル殿下の婚約者だ。
 それゆえ、今夜のパーティーには、王太子がリリーのパートナーとして参加することになっている。
 王太子に直接会ったことはないが、一度会った女性をすべて虜にするほどの美貌の持ち主らしい。王族にしか現れないという赤い目も神秘的だとか。
 ただ、性格は冷淡で愛想笑いのひとつもしないと聞いている。そのクールさがいいのだと女性陣は口を揃えて言うが、王族だということも相俟って、ルージュにはそのよさがわからない。
 顔よりも性格や能力のほうが大事に決まっている。それとも、彼の美貌を一目見れば、この考えも変わるのだろうか。
「そろそろルージュも結婚相手を探さないとね」
 まだ会場に着いて馬車を降りたばかりだというのに、煌びやかな若者たちを目の前にした途端、メイヤー伯爵が物悲しげな表情で呟いた。
「もう、あなたったら。気が早いうえに勝手に想像して泣きそうになるのはやめてくださいよ」
 夫人に注意され、メイヤー伯爵は気合いを入れ直すようにしゃんと背筋を伸ばす。
「結婚相手は自分で探しますのでご心配なさらず。変な相手は困りますし、それを見極めるとなると、まだまだ結婚は先になりそうですが」
 ルージュの返答に満足したのか、メイヤー伯爵に笑みが戻った。
「そうだよねぇ、まだまだ先だよね」
 このままだと鼻唄でも歌いだしそうな様子に、ルージュは夫人と顔を見合わせた。
 会場は、クロムウェル侯爵の本邸だ。
 前庭から屋敷までも、馬車がないと辿り着くのが大変なほど、広大な敷地だ。その真ん中には、侯爵家という家格に相応しい煌びやかな屋敷があった。
 この国の貴族は、ほとんどが地方に領地を持ち、一年の三分の二は領地で過ごしている。社交シーズンになると、王都へやって来て、それぞれが王都の別邸で過ごす。
 だが、かつてのリスト侯爵家がそうだったように、クロムウェル侯爵家も政治の重要な役職を担っているため、本邸は王都にある。代わりに領地を統括するのは、侯爵の血縁者だ。
「さすが、クロムウェル侯爵家は規模が違うわね。リスト元侯爵家の本邸にも随分驚かされたけれど」
 華美に飾りつけられたエントランスを見て、メイヤー伯爵夫人が小声で呟いた。
「うちはここまで派手ではなかったですけどね」
 それにルージュも小声で返す。
 リスト侯爵家は、金にものを言わせて飾り立てるようなことを好まなかった。屋敷は威厳が損なわれない程度であればいい、というのが父の方針で、質素といかないまでも、倹約を常としていたのだ。余った私財は、飢饉などがあればすぐに領地の民のために使えるようにしてあったし、学校や病院の増設や交通路の整備にも充てていた。
 そんな父を、ルージュはとても誇りに思っていたのだ。
 それを思い出し、そっと唇を噛む。
「やっぱりルージュは注目の的だね」
 ふいに、機嫌がよさそうな声でメイヤー伯爵が言った。はっとして周りを見れば、確かに視線が集まってきていた。
「あまりの美しさに見惚れている男もいるみたいだ」
「やだわ、お義父様。きっとお義母様が用意してくださったこのドレスが珍しいから、気になっているんですよ」
 裾を軽く持ち上げて、振る。
 ルージュが着ているドレスは、夫人が王都の有名デザイナーに依頼してつくってもらった最高級品だ。まだまだふんだんにレースをあしらった重たくてかさばるドレスが主流の中、あえて身体のラインを出すマーメイドのようなこのドレスは、人目を引くに違いなかった。
 身体のラインを見せるなんてはしたない、との批判もあるだろうが、デザイナーの名前を出せばきっと皆手のひらを返すだろう。そして数ヶ月もすれば、こちらのほうが主流になっているはずだ。
「奮発したドレスもネックレスも、君の前では霞んでしまっているけれど」
 肩をすくめて、メイヤー伯爵が言う。
 しかし彼が言うとおり、ルージュが目立っていたのはドレスのせいだけではなく、その美しさゆえというのは、少し経てば理解できた。ドレスに興味もないだろう若い男たちからひっきりなしに声がかかったからだ。メイヤー伯爵夫妻はそれを見て微笑むだけで、助けてはくれなかった。
 社交界というのは、思った以上に面倒だと、会場に来てさほど時間も経たないうちからげんなりしてしまった。
 ルージュの美貌を褒めそやし、歯の浮くような言葉の数々を囁かれているあいだに、やがてパーティーの主役たちが現れた。
 クロムウェル侯爵夫妻と、リリー、それから、カイネル王太子殿下だ。
 リリーはこの国でいう、理想的な美女だった。
 目鼻立ちがはっきりしていて、凜々しい太眉に、ぱっちりとした意志の強そうな瞳。メイクをせずとも、おそらくは派手な顔つきなのだろう。メイクをしないとどちらかと言えば地味顔のルージュとは正反対だ。
 地味顔のおかげで、メイクによっていろんな顔をつくれるぶん、むしろ得だとは思っているが。
「噂どおりの方ね」
 リリーを眺めていたルージュの裾を、夫人が引いた。どうやら夫人はリリーよりも、隣にいる王太子のほうが気になるらしい。
 噂の王太子は、確かに令嬢たちが騒ぐだけのことはあって、まるで宗教画の神々のような美貌の持ち主だった。
 漆黒の髪に、ルビーのごとく赤い瞳。高い鼻梁と、薄い唇。それから、その顔に相応しい、逞しい長身。どれをとっても芸術品のような美しさだ。
「──……っ」
 さすがのルージュも、一瞬見惚れてしまった。
 そのときふと、王太子がこちらに視線を寄越し、パチリと目が合う。ドキッとして顔を逸らせずにいると、王太子は何かを探るように目を細めた。
 まさか、ブランシュだとばれたのでは。
 そんな考えが浮かび、ひやりとしたものが背中を伝う。
 だが、ブランシュ時代、王太子には一度も会った覚えがない。今日はメイクも素顔がわからないほどに濃いし、きっとこの珍しいドレスに興味を抱いただけだろう。
 ルージュは動揺を抑え、王太子にそっと微笑み返した。王太子の視線も、それでようやく途切れた。