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汝の仇敵を愛せよ 復讐令嬢は王太子殿下と禁断の恋に堕ちる 2

第二話

 

 

「見つめられてたわね。大丈夫?」
 メイヤー伯爵夫人が心配そうにルージュに耳打ちする。
「最先端すぎましたかしら、このドレス」
 気にしていないと首を横に振り、ルージュは答えた。
 主役のスピーチが終わったとたん、また貴族令息たちに取り囲まれる。ダンスタイムになると、次々踊りに誘われた。
 メイヤー伯爵と一曲目を踊り、その次は知り合いの伯爵令息(想い人がいるので下心はないが、ダンスが下手)と踊ることになってしまい、二曲目でもうルージュはくたくただった。
 初めての社交パーティーなので、もう少し頑張りたいところだったが、自分でも知らないうちにブランシュだとばれないかと気を張っていたらしく、それが疲労を加速させる要因になっていたようだ。
「ちょっと休憩に行ってきます」
「ああ、私たちもすぐに行くから、気をつけて。侯爵家への挨拶もあるから、それまでに元気になっておくんだよ」
 メイヤー伯爵夫妻と別れ、ルージュはひとり会場の端にあるビュッフェテーブルへと向かった。今はとりあえず、炭酸の効いたお酒で喉を潤したい。
 そのあいだにも何人かから声がかかったが、足を捻ってしまったと嘘をついて残念そうにアピールすれば、皆潔く引いてくれた。
 壁の花に徹することにして、ルージュはあちらこちらから聞こえてくる噂話に耳を傾ける。
 今、社交界の噂の的は、当然リリーだった。
 彼女は今までその美貌で幾人もの男たちを虜にし、さんざん貢がせては弄び、飽きたら捨てることを繰り返しているのだという。
 そんな恋愛遍歴のある令嬢が王太子の婚約者になれるはずがないということは少し考えればわかることなのに、人々の好奇心は多少なりとも彼らの頭を浮かれさせてしまうらしい。
 専ら、その話を肴に盛り上がっているのは、ブリムストン伯爵家のマリアだ。クロムウェル侯爵家主催のパーティーでそんなことができるなんて、よほど肝が据わっているか、頭のねじが緩いのだろう。
 しかし、観察していると、どうもマリアは前者だということがわかってきた。彼女の周りにいる令嬢たちは皆、リリーに対して不満を持っているようだった。いや、リリーというよりも、クロムウェル侯爵家へ、だ。
 あの美貌と地位、そのうえ王太子の婚約者ともなれば嫉妬されることはあるだろうが、家ごととなると話は変わってくる。
 かつてブランシュだった頃、父は後継者教育としてルージュにも貴族の勢力図というのを教えてくれていた。
 侯爵家はリスト家を含めて四つあり、リスト家と張り合っていたのは、ワーディ侯爵家とオーセント侯爵家のふたつの家門だった。クロムウェル侯爵家は、四つの家門の中では序列は一番低かったはずだ。父は歯牙にもかけずにいた。
 だが、今ではそれが逆転し、クロムウェル侯爵家が王家に次いで権力を持つ立場になっているらしい。
 リリーが王太子の婚約者になったことでそれは明らかだが、ほかの侯爵家はどうしたのだろう。
 ルージュが身を潜めているうちに、三つの家門で政治戦争が行われていたのだろうが、今のルージュでは情報が足りなすぎる。メイヤー伯爵にも頼れないため、ルージュが自身で情報収集しなくてはならない。
「聞きまして? 今度はシーカー男爵家がやられたそうよ」
 ふいに、べつの場所からも不穏な声が聞こえてきた。なんのことだと耳を欹てる。
「ああ、例の横領事件の。今日ここに来るまでに聞いたよ」
「庶民からは英雄として祀り上げられているらしいな」
「うちも気をつけなくては」
「あら、何か後ろ暗いことでもありますの?」
「まさか!」
 ははは、と皆笑ってはいるが、どことなく緊張感が漂っている。
 庶民から英雄視されているというのを聞き、ルージュは「あの事件のことか」と顎に手を当てた。
 近頃、貴族の悪事を暴き、新聞社に垂れ込む組織があるそうなのだ。先ほど話題に上ったシーカー男爵の前は、クロップ子爵、その前はイェンス男爵の密輸や人身売買が暴かれ、市民の暴動が起きるまでになっていた。
 結局、それらの貴族は降格、または奪爵という重い罰が下されることとなり、それによって暴動も収まったという。
 闇を抱える貴族たちは戦々恐々としているらしく、このところ貴族による横暴で理不尽な出来事は噂に聞かなくなった。
 メイヤー伯爵家はというと、リスト家に倣い、領民への待遇を厚くしているし、圧政を敷いているわけでもなく、領民からは慕われているほうだ。だから心配はないのだが、ルージュにはひとつ気がかりなことがあった。
 今回、シーカー男爵家が標的になったことで、今まで悪事を暴かれた貴族たちに共通点が見えてきたのだ。
 ──それは、三家は皆、クロムウェル侯爵家と相対する派閥に属しているということ。
 まさか、クロムウェル侯爵家が裏で手を回して、貴族たちの悪事を白日の下に晒しているのだろうか。
 だが、クロムウェル侯爵は貴族主義の思想が強い男だと聞いている。たとえ政敵だとしても、貴族の地位を下げて民衆の味方のようなことをするとは考えにくい。
 まだ断定するには早いか、とルージュはほかの話にも耳を傾け続けた。
 そのうち、そろそろ主催のクロムウェル侯爵に挨拶をする番だとメイヤー伯爵夫妻がルージュを迎えにきた。
「気になる男性はいたかい?」
 そわそわしながら、メイヤー伯爵が訊いた。
「疲れてしまってそれどころじゃありませんでした」
「初めてだと楽しむ余裕はないものね」
 夫人がそう言い、よしよし、と背中を撫でてくれる。
 ふたりとも、本当にルージュに甘い。甘やかされるたび、反対にルージュの心は閉ざされていく。彼らにこれ以上心を預けてしまえば、もしものときにつらくなる。
 だから、ルージュは張りぼての笑顔を返すのだ。
「ラファエル・メイヤー伯爵、並びにミレイ・メイヤー伯爵夫人、ルージュ・メイヤー伯爵令嬢にお越しいただきました」
 名前が呼ばれ、三人はクロムウェル侯爵の前に出た。
 心臓が、どくどくと音を立てる。
 ルージュは覚えていないが、まだ赤子だった頃、クロムウェル侯爵には会ったことがあるらしい。髪の色も違うし、成長した今、顔立ちもまるで違う。ばれるわけがないのに、緊張で喉が渇く。
「この度は王太子殿下とリリー嬢のご婚約、心よりお祝い申し上げます」
 婚約のお披露目はすでに済んではいたが、婚約以来クロムウェル侯爵家でのパーティーは初めてだ。メイヤー伯爵がお祝いの言葉を述べると、クロムウェル侯爵は立派に蓄えた顎髭を撫でながら、頷いた。
「養女を迎えたそうだな。この子がそうか」
「ええ。孤児院から引き取りましたが、聡明な子です」
 孤児院、という単語に、侯爵夫人があからさまに顔をしかめた。隣のリリーも同様に、汚いものを見るように眉をひそめる。王太子だけが、表情を変えずにじっとメイヤー伯爵を見つめている。
「そう、平民を引き取るなんて、随分と思い切りましたね、メイヤー伯爵」
「ははっ、この子があまりにも母に似ていたので、縁を感じてしまって。ほら、ルージュ、挨拶なさい」
「お初にお目にかかります。ルージュ・メイヤーです」
 自分のことはどうでもいいが、恩人であるメイヤー伯爵を馬鹿にされるのは腹が立つ。
 ルージュは微笑むと、完璧なカーテシーを披露してみせた。
 平民のくせに貴族然とした振る舞いが板についているのが気に喰わなかったのか、リリーはさらに機嫌悪く片目を細めた。
 だが、お手本のようなカーテシーに文句はつけられないようだった。あとはメイヤー伯爵が招待への御礼を述べ、つつがなく挨拶を終えた。
 伏せた顔を上げ、その場を去ろうとしたとき、ふと王太子の赤い瞳がこちらを見つめているのにルージュは気づいた。
 何か不審な点があっただろうかと不安が胸を掠め、今度は微笑もせず視線を逸らす。
「見たかい、侯爵夫人のあの顔」
 会場の隅のひと気のないところに来た途端、メイヤー伯爵がそう言って肩を震わせた。
「ルージュの完璧な立ち居振る舞いに面食らってたね」
「娘のほうがもっと悔しそうな顔だったわよ」
 メイヤー伯爵夫人も続けた。ふたりとも、クロムウェル侯爵のことは好きではないらしかった。
 というよりも、そもそもふたりはあまり侯爵家というものが好きではない。リスト侯爵家が断罪されるのを黙って見ていた家門たちなのだから、当然だろう。
 むしろ、政敵だっただけに、もしかしたらリスト家を嵌めたのは三つの家門のうちどれかかもしれなかった。口には出さずとも、ルージュもそう考えている。リスト家が潰れて一番得をするのは、同格の侯爵家たちなのだから。
 それにしても、普段はやさしいメイヤー伯爵夫妻だが、他家には結構辛辣なところがあるのは意外だった。
 この家の養女になって二年、やさしいだけではないふたりの顔を見るにつけ、ルージュは何度も驚かされた。
 貴族という立場なら、やさしいだけでは生きていけないというのは重々承知ではあったが。
「挨拶も済んだし、どうする、ルージュ。もう少しここに居て知り合いをつくっておきたいかい?」
 メイヤー伯爵がわざとらしく大きな声で言った。周囲から、ちらちらとこちらを窺う視線を感じる。ルージュとお近づきになりたそうな下位貴族が、こちらの動向を窺っているようだ。
「そうですね。ダンスは遠慮したいですが、お喋りならまだまだし足りませんし、もう少し残ろうかと」
 ルージュがそう言うと、さっそく近くにいた同格の伯爵令嬢が話しかけてきた。その周囲には取り巻きのように三人の令嬢たちがいた。
 だが、威圧的な雰囲気ではなく、本当にただお喋りがしたいだけのようだった。いじめられる心配もなさそうだ。
 メイヤー伯爵夫妻に許可を取り、ルージュは同年代の令嬢たちと歓談することにした。ビュッフェ近くのソファには、すでに五、六人集まっていて、その中にはリリーを悪く言っていたマリアもいた。もしかしたら、勢力を拡大するのに必死なのかもしれない。
 この中に入っていれば、情報収集ができそうだと踏んで、ルージュは自己紹介を済ませると、マリアの斜め向かいに座った。
「あなた、元平民ですってね」
 さっそくマリアが話しかけてきた。
 少し棘のある言い方だったが、ルージュが敵対心もなく、
「やさしい義両親に救われました」
 と説けば、すぐに嫌味を言う気力も殺がれたらしい。
「あのおしどり夫婦のことは存じておりますわ。メイヤー伯爵は、夫人を愛しているから子どもができなくても妾を持たず、血の繋がっていない養子を引き取ることにしたんですってね」
「あら、まあ! 素敵」
 ほかの令嬢たちがうっとりとした表情で言った。
「メイヤー伯爵夫妻は恋愛結婚でしたから。今でも仲睦まじくて、あまりの熱愛っぷりにときどき目のやり場に困るほどなんです」
 内緒話のように人差し指を唇に当てながら言ったルージュに、きゃあきゃあと姦しい声が飛んできた。
 皆、貴族の娘だから政略結婚がほとんどだろうし、覚悟もしているのだろう。だからこそ、メイヤー伯爵の恋愛話には憧れる。
 そこではたと気づいた。マリアはこれが目的でわざと最初きつい言い方をしたのかもしれない、と。
 そしてルージュがうまく切り返しができるかどうか探ったのではないか。
 うまく話を広げられたら、ルージュの頭のよさも測れるし、ルージュ自身も溶け込むきっかけになる。切り返せなければそこまでの人間だと見切りをつけられていただろう。どのみち、このくらいで泣き言を言っていたら、貴族社会には馴染めないのだから。
「こういう場で素敵な殿方と出会いたいものです」
「でも、結局は親の決めた婚約者と、ですもの」
「あら、条件のいい方ならご両親も認めてくださいますわよ」
「そういえば、聞きまして? クロップ子爵のところのご令嬢、例の事件のせいで婚約破棄になったそうなの」
「ええっ、でも、まあ当然ですわね……」
「次はどの家が狙われるんでしょう」
 いつの間にか、恋愛の話から例の事件の話へと移り変わっていった。やはりここにいる令嬢たちも、自分の家も無関係でないことはわかっているようだ。
「たとえ後ろ暗いことがなくても、警戒しなければいけませんわ」
 マリアが言った。
「だって、罪が捏造されることもあるかもしれませんもの」
「そんな……」
「でも、国王直属の機関が調査するんでしょう? 間違いなんてあるはずが……」
 ほかの令嬢たちが戸惑っているのをよそに、
「ないとも言い切れません」
 と、マリアはやけにきっぱりと言った。そしてルージュをじっと見つめ、「ね?」と同意を求めてきた。
 どこまでわかっているのだろうと、背筋が凍る。
 だが、敵ではないかもしれない。今の言い方だと、まるで国王が間違うこともあるかのような口ぶりだ。下手をしたら不敬とも受け取られかねない。
 国王への忠誠心のない者を炙り出そうとしているようにも捉えられるが、その本心は見えそうになかった。
 わかるのはただ、マリアが只者ではないということだけだ。
 何もわからないふりをして、ルージュは小首を傾げて微笑んでみせた。
 警戒したまま令嬢たちとの歓談は進み、やがてメイヤー伯爵が迎えにきた。もう帰る時間らしい。
 ほっとしてルージュは緊張を解き、礼を言って辞そうとした。
 すると、マリアがこそっと耳打ちした。
「メイヤー伯爵家がその気なら、ブリムストン伯爵家はいつでも力になりますわ。今度ぜひうちにいらしてくださいな」
 その一言で、真意がわかった。
 マリアは味方だ。
 そして、おそらくマリアにはルージュがブランシュだということはばれてはいない。だが、少なくとも王家への反発心を持っているのはばれている。
 ただ、マリアが間違っているのは、それがメイヤー伯爵家ではなく、ルージュ個人だということだった。
 正確には、メイヤー伯爵家も王家への不信感はあるだろう。だが、復讐までは考えていない。母への恩赦を与えてくれたことには感謝もしている。
 だからこそ、この繋がりは願ってもいないことだった。
「ええ。ぜひ」
 伸ばされたマリアの手をぎゅっと両手で握り、ルージュはにっこりと微笑んだ。


「ブリムストン伯爵家の令嬢と仲良くなったようだね」
 帰りの馬車で、メイヤー伯爵が言った。
「はい。とても親切にしてくださいました」
「うん。いいと思う。あの家はうちとも良好な関係だし」
「そうなんですか? 今まで交流がなかったものですから、実は少し警戒していたんですけれど」
「表立っては、ね」
 意味深にメイヤー伯爵が微笑んだ。
「それは、どういう……」
「あそこの家もね、うちと同じで侯爵家や王家をよく思ってはいないんだ。だから、もし何かあったら、力になってくれるんじゃないかな。特に、ルージュが必要としている情報、とかね」
 バチン、と気障ったらしいウインクが飛んでくる。
「お義父様、まさか……」
 ──気づいていたのか。
 ルージュは驚きに目を見開いた。隣の夫人にも視線を送るが、彼女もすべてわかっていたような顔で頷いた。
「私たちも同じ気持ちだからね。でも、君や姉さんに危険が及ぶようなら、深く探るのはやめておこうと思っていた」
「私は……」
 ルージュの家族の安全を優先してくれていたメイヤー伯爵に対して、自分は復讐のことばかりを考えていた。それがどんなに危険かわかっていたにも拘らず、構わずに計画を練り続けていた。
「ルージュがそうするのは当然だ。私はあくまでリスト侯爵の義弟に過ぎない。だが、君にとっては最も敬愛する父君だからね。私だって、自分の父が冤罪で処刑されたら、絶対に犯人を許さないと思う」
 なんと答えればいいのか、わからなかった。そんなルージュに、メイヤー伯爵は苦笑しながら言った。
「君の好きにするといい。もし復讐がしたいのなら、私も協力しよう。可愛い姪っ子がひとりで頑張っているのを見るのは忍びないからね」
「でも、本当にいいのですか? もしばれたら、伯爵家がどんな目に遭うかわからないのに……」
 ルージュが訊くと、メイヤー伯爵夫妻は揃って首を横に振った。
「どのみちうちは君以外に跡継ぎもいない。正直なところ、この家がどうなろうと知ったことではないんだよ。家名を存続させたいとか、そういう願望も特にない。領地だって、誰が治めてもそれほど違いはないしね」
「そうね。だったら、ルージュの好きなようにやらせてあげたいわよね。もし何かあったら、国外逃亡でもなんでもすればいいし」
 冗談めかして言っているが、夫人の出身地は隣国の男爵家だ。
 勉学のためにと留学してきたところに、伯爵と運命的な出会いを果たしたと聞いている。だから伝手はしっかりとあるのだろう。
 それに、きっと罪人を匿ったからといって国際問題になることもない。この国よりも隣国のほうが巨大で軍事力も高いため、難癖をつけられないのだ。
 それをわかったうえで、提案している。
 ──ああ、自分はなんて世間知らずで傲慢な子どもだったのだろう。
 メイヤー伯爵夫妻が気づいていないものだとばかり思って、どこかで侮っていた。
 しかし、全部ばれていたのだ。
 それなのに、今まで知らないふりをしていてくれた。危険分子だからと排除もせずに、ただ安らぎを与えようとしてくれていた。それどころか今は、危険を冒してまで、ルージュに協力しようと手を差しのべてくれている。
 この家に引き取ってくれるだけでも、ものすごく勇気のいる行動だったはずなのに。
 ──私は何を見ていたのだろう。この人たちの強さにも気づかないで、どうしてひとりですべて解決できると思い込んでいたのだろう。
 甘すぎた自分が、恥ずかしい。
「……いいんでしょうか、本当に」
 隠してきた気持ちが明るみに出て、ルージュの目からつうっと涙が零れてきた。それをそっと、夫人が拭ってくれた。嬉しそうな顔だった。
 きっと、これまでのルージュが分厚い仮面を被っていたことも知っていたのだ。ルージュが自分の前で泣いたことが、彼らにとっては特別なことなのだろう。
「むしろ、我々は待っていたのかもしれないね。君が私たちに心を開いてくれる日を。そして君が、父の仇を打とうと決心するこのときを」
 メイヤー伯爵の目が、いつもと違い、力強く燃えている。
「私が動くとすぐにばれる可能性がある。だから君が主体で動くことになる。それでもいいかい?」
 ルージュの覚悟を問うように、伯爵が訊いた。
「はい。元よりそのつもりでした」
「だったら、やはりブリムストン伯爵家の力添えは必須だ。遊びにいくなら、手紙を書いておこう」
「ありがとう存じます」
 ルージュは深く頭を下げ、久しぶりに心の底からの笑みを浮かべた。

 

 

 

 マリアに招待され、家に伺った日、メイヤー伯爵からの手紙を渡すと、予想以上にブリムストン伯爵は喜んでくれた。
 ブリムストン伯爵家は古くは騎士の出で、戦争が激しかった時代に叙爵し、武の功績だけで伯爵まで成り上がってきた家門なのだそうだ。そして二十年前に起こった隣国との戦争の際、先代伯爵が己の命と引き換えに敵将を葬ったらしい。それにより戦争は我がヴェネルギル王国の勝利に終わった。
 普通なら、その功績を讃えて陞爵されるべきだが、なぜか報奨金だけが贈られることとなったという。
 これには父を失い、急遽跡を継いだ現伯爵も納得がいかなかった。調べてみると、リスト侯爵家を除く三つの侯爵家が、陞爵に激しく反対していたという。自分たちと同格の家門が増えるのが許せなかったというくだらない理由だ。リスト侯爵はむしろ陞爵を支持していたらしい。
 それから、ブリムストン伯爵家は侯爵位の三家門を嫌うようになった。
 そしてあのリスト侯爵家の断罪事件が起こった。
 国王に忠誠を誓い、自分に不利益になるだろうに唯一ブリムストン伯爵家の功績を認めてくれていたリスト家が反逆など考えるはずもない。そう思ったブリムストン伯爵は、リスト家に関わる家門を調べてみたそうだ。
 そして、母の生家であるメイヤー伯爵家のことを知った。リスト侯爵家の親族であるこの家は間違っても三侯爵家とはつるまないし、その点は信用できるかもしれない。今後、何かあったときのために、味方は多いに越したことはない。ブリムストン伯爵はそう思ったのだという。
 だからこそ、マリアはあの場でルージュを試すようなことを言ったのだろう。
 ブリムストン伯爵家の情報網もなかなかだが、彼女の頭の切れ具合と豪胆さはただの令嬢にしておくのはもったいない。
「だから私は、今の侯爵家は大嫌いなの。特にクロムウェル侯爵家は」
 ふたりきりになり、アフターヌーンティーを楽しんでいる途中、マリアがパーティーのときよりも感情を乗せた声で切り出した。どうやらこちらが素のようだ。
 ルージュよりひとつ年上とのことだが、十八歳という年齢相応の喋り方が可愛らしい。
「どうしてですか? クロムウェル侯爵家は今序列が一番上だから?」
 ルージュが訊くと、マリアはふるふると首を横に振った。
「リリー嬢が気に喰わないの」
「遊んでるって噂があるから? でも、さすがにそれが事実なら王家も婚約者にはしないんじゃ……」
「って思うじゃない?」
 マリアがにやっと笑い、焦らすように紅茶のカップに口をつけた。
 ここで続きを催促しても、きっと彼女は余計に焦らす。そんな気がして、ルージュも黙って紅茶を飲んだ。
 ブリムストン伯爵家のオリジナルブレンドだというこの紅茶は、後味がオレンジのような香りで、とても飲みやすい。ミルクとの相性は微妙だが、ペストリーのチョコレートケーキにはよく合う。
「リリー嬢が遊んでいたのは、表の社交界じゃなくて、王家の手が入らない裏カジノだって噂もあるの。素顔は仮面で隠して、一夜の夢を見る。そんな場所があるのよ」
「一夜の夢……?」
 意味がわからず訊き返したルージュを、驚いた様子でマリアが見つめる。
「まさか、わからないの? ええっと、つまり……、ワンナイト・セックスを楽しむ場所ってことよ」
 小声で囁かれ、ルージュは思わず繰り返した。
「ワンナイト・セ……ッ!?」
 自分が何を口走りそうになったかを途中で理解して、慌てて口を塞ぐ。だが、羞恥がじわじわと押し寄せ、顔が真っ赤に染まってしまった。
 それを見て、マリアが声を立てて笑った。
「やだ、ルージュ嬢ったら、意外と初心なのね」
「そんな……はしたないことをする場所が、本当にあるんですか?」
「あるわよ」
 当たり前のようにマリアが頷いた。彼女もまだ婚約者が見つかっていない立場のはずなのに、随分と経験豊富そうなことを言う。
 一方で、ルージュは恋に現を抜かしている場合ではなかったのでそういった経験はもちろんないし、未だに閨についての教育も受けていない。母に教わることになっているのだが、婚約者が見つかってからでいいという方針だった。
「ルージュ嬢ってしっかりしてて落ち着いてるから、そういうことの知識もあるんだと思ってた。私みたいに耳年増じゃないのね」
 情報を集めていたら、いろいろすごいことも聞くのよ、とマリアは意味深な顔で笑ってみせた。
 その言葉に、ルージュはきゅっと唇を噛む。
 恥ずかしかったのには違いないが、それは男女の営みについての無知を指摘されたせいではない。これから復讐を企てているのに、裏の世界のことをちっとも知らない自分の無力さと傲慢さを知られたからだ。
「マリア嬢は、侯爵家をどうしたいと思っているのですか?」
 ルージュが訊くと、マリアは「べつに」と肩をすくめた。
「どうもしないわ。ただ、いつ目をつけられるかわからないから、弱みを握っておきたいとは思ってるけど。あなたはどうなの? ただの養子にしては、私の話に乗ってくるなんて、侯爵家に対してよほどの感情があるとみているんだけど」
 訊き返され、ルージュは黙った。
 完全に信用するには、まだマリアとは付き合いが浅い。メイヤー伯爵のお墨つきがあるものの、ここで正直に打ち明けていいのか判断がつかない。
「ルージュ嬢?」
 じっと見つめられ、背中に汗が浮かんだ。
「迷っているのね、私を信用するか」
 ふう、とため息をつき、マリアが言った。
「あ……、その……」
 ここまで言われたら、自分が何を言おうが言うまいが同じことだろう。
 それに、先に自分たちの情報を開示してくれたのだから、今優位に立っているのはどちらかといえばルージュのほうだ。それをマリアの誠意と受け取ることにして、ルージュは観念した。
「実は、私には絶対にほかの人に言わないでほしい秘密があるのです。私がどうしてあなたを味方につけたいかという理由に繋がることなのですけれど」
「わかったわ。誰にも言わない。ブリムストンの誉れ高き騎士に誓って」
 真剣な目で、マリアが頷いた。その目を見つめ返しながら、ルージュは言った。
「……──私の本当の名は、ブランシュ・リスト。二年前に国家反逆罪の濡れ衣を着せられ、冤罪で処刑されたジュール・リスト侯爵の娘です」
 さすがに想定外の答えだったのか、マリアは目を瞠って息を呑んだ。
「平民に落とされたと聞いていたけれど、生きてたのね。お母様や妹君は? 大丈夫だったの?」
 続いたその一言に、ルージュは警戒心がすっと解けていくのを感じた。マリアは、ルージュだけでなく残りの家族の行方も案じてくれている。
「ええ。三人でメイヤー伯爵家にお世話になっています。私は髪の色と名前を変え、跡取りとして養子にしてもらいましたが。母も妹も何不自由なく暮らしています」
 ちなみに、ルージュの替え玉として引き取った子どもも、メイドとして雇い、今はピノの話し相手になっている。
「よかった」
 ほっと胸を撫で下ろし、マリアが微笑んだ。
「それで合点がいったわ。あなたはリスト侯爵を陥れた人間を探し出し、復讐するつもりなのね」
 その質問に、ルージュははっきりと頷いた。
「ええ。そして間違った烙印を押した、王家にも」
「気に入ったわ」
 突然、マリアが立ち上がった。
「リスト侯爵を嵌めたのはどうせ侯爵家のどれかに決まってる。以前から三侯爵家は気に入らなかったけれど、王家に対しても不満が募っていたのよ。お祖父様の功績への過小評価も、見た目だけで中身がスカスカなあばずれ女を王太子妃にしようとしていることも、何より家臣にいいように動かされている馬鹿な国王も」
「マリア嬢……」
 握り締められたこぶしを見て、ルージュは彼女の本気度を知った。
「いいわ。私……いえ、ブリムストン伯爵家はあなたに全面的に協力する。あいつらの不正を暴いて、お父様を侯爵にしてみせるわ! だから、絶対に犯人と王家に目にもの見せてやりましょう!」
 伸ばされた手を、ルージュはパーティーのときよりもしっかりと握った。
「ご助力感謝いたします。これからどうぞよろしくお願いいたします、マリア・ブリムストン伯爵令嬢」