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汝の仇敵を愛せよ 復讐令嬢は王太子殿下と禁断の恋に堕ちる 3

第三話

 


 それから、目まぐるしく日々は過ぎていった。
 マリアだけでなく、メイヤー伯爵とルージュもリスト侯爵家を貶めたのはおそらく三侯爵家のうちのどれかだろうと当たりをつけていた。
 だが、巧妙で狡猾な貴族の腹を探るには、表の社交界だけではなく、自らも悪のはびこる真っ黒な裏社会へ飛び込まなければならない。
 事件の真相究明のため、何よりも情報と証拠がほしい。それには避けては通れない道だった。
 ルージュは多くの貴族の顔と人間関係を覚えるために、片っ端からパーティーやお茶会に顔を出した。
 元の顔がわからない派手なメイクと、口の達者な元の性格を封印し、物静かでおっとりとした雰囲気を醸し出せば、もはやブランシュとはまったくの別人だった。
 もちろんそれだけではなく、お茶会と称して何度もブリムストン伯爵家へ遊びにいったり、個室のある飲食店で情報交換したり、密偵のやり方についてのレクチャーをブリムストン騎士団の精鋭から直々に受けたりもした。
 淑女教育の何倍も難しかったが、音を上げるわけがなく、ルージュは必死に研鑽を続けた。特に他人になりすます方法や、裏社会への出入りの方法や作法などは、みっちりと扱かれた。
 もちろん、閨に関しても、だ。
 実地はさすがにしなかったが、知識だけは詰め込んだ。
 そのおかげもあって、半年もすれば、すっかり密偵としてのルージュが出来上がっていた。
「本当、別人ね。間近に見てもとてもルージュには見えないわ」
「そう? それならよかった」
 焦げ茶色のロングウィッグをかぶり、垂れ目に見えるようなメイクをしたあと、鼻の上と頬にはそばかすを描いた。目に合わせて眉も垂れ気味で、どことなく子どもっぽいというか、意志の弱そうな雰囲気に仕上がった。
 美人でもなく、かといって不細工でもない、男性からしてみれば、落とすにはちょうどいいくらいのラインがいいのだと、マリアが言っていたとおりの出来だと思う。言葉遣いも丁寧すぎず、声は甘えるように高めにする。
「マリアも見事な変身っぷりね」
 彼女も普段とはまったく違うメイクだった。いつもは勝気そうなつんと上向きの鼻なのに、今は鼻梁を太くして、小鼻も大きめにしてある。髪も金から銀になり、別人にしか見えなかった。
「これから私はアリシアで、ルージュはローラよ」
「そうだったわね」
 気を抜けばうっかり本名を呼んでしまいそうになる。だが、これから行く場所では、絶対に名を明かしてはいけない。
 ルージュは深呼吸をして、マリアに連れられるまま、夜の街へと飛び出した。
 今日は、密偵としての初めての仕事だ。
 裏カジノへは紹介なしではいけないため、まずは人脈をつくるところから始めなくてはならなかった。
 今夜はその足掛かりとなる、第一歩。
 とある劇場で行われる仮面舞踏会へ参加し、なるべく多くの人と関わりを持つこと。そしてさらに裏社会に繋がるパーティーへの参加権を得ること。
「緊張してる?」
 マリアが小声で訊いた。
「それはもちろん」
 ルージュが頷くと、マリアはふふっといたずらっぽく笑った。
「でもまさか、あなたが自ら密偵をやるなんて言いだすとは思わなかったわ。訓練しても、途中で辞めちゃうんじゃないかとも思ってた」
「……アリシアだって」
 本来ならこんな危険な役回り、本職や部下にやらせたほうがいいに決まっている。
 だが、ルージュは自分の目で確かめたかったのだ。それに、表社会でいろいろな貴族の顔をつぶさに観察し、覚えている自分の目のほうが、誰かの報告を聞くよりよほど使えるし、信用できる。
「まあ、私は実力主義の家系的なものもあるからね。男は騎士に、女は密偵にっていうのがうちの教育指針だから。もちろんこれは対外的には秘匿されてるけど、私だって守られているだけの人間にはなりたくないし」
 マリアの言葉に、ルージュは頷いた。
「素晴らしい教育指針だわ」
 家紋の入っていない馬車をいくつか中継し、件の劇場へと辿り着く。
 コンサートホールではなく、賓客をもてなすためのバンケット会場での開催のようだ。豪華なシャンデリアがあるが、顔を隠すためか、灯りは控えめにしてあった。そのほかの照明も、普通の夜会よりもずっと少ない。
 ドレスコードは、顔を隠す仮面のみだ。あとは自由な服装でいいとのことで、会場は色とりどりの派手なドレスの人で溢れていた。
 今回、ルージュのドレスは幼く見えるようなひよこ色のプリンセスラインだ。ただし、いざというとき動きやすいように、スカートの中はボーンではなくチュールで膨らませている。
 潜り込んだ会場でマリアとは別行動で、男性から声がかかるのを待つ。
 顔も素性もわからないところで火遊びするのをルージュは楽しいとは思わないが、周りを見ているとそうではないようだ。皆がそわそわとしつつも口には笑みを浮かべていて、男女入り交じったグループで楽しそうに歓談している。
 マリアのほうをちらりと見遣ると、すでにグループの輪の中に入り、話に花を咲かせているようだった。
「やっぱり、すごいわね……」
 ルージュとは違い、生まれたときから密偵としてのスキルを叩き込まれているだけあって、マリアの振る舞いには嘘が見えない。完璧に別人を演じている。
 自分も待っているだけではダメだ、と近くにいたグループにそっと近づいた。そしてわざと躓いたふりで男性にぶつかり、話のきっかけをつくる。
「きゃっ、ご、ごめんなさい」
「大丈夫かい?」
 転びそうになったところを、その男性が支えてくれた。
「はい。本当に申し訳ありません」
 ルージュは謝ってから、じっと男性を見つめた。値踏みするような彼の視線がルージュの頭のてっぺんから爪先まで向けられじろじろと眺められた。
「見ない顔だね」
 合格ラインだったのか、彼は薄く笑って話を振ってきた。
「ええ、私、こういうのに参加するのは初めてで」
 困っているのをアピールするように小首を傾げてみせると、男は慣れた手つきでルージュの腰に手を回した。その手が腰のラインをさわさわと撫でた。
 嫌悪感に鳥肌が立つが、振り払いたいのをぐっと堪え、ルージュは満更でもない表情をしつつ、口では「きゃっ」と小さく驚いた声を上げた。
「おや、随分と初心な反応だ」
 初物だろうと悟った男が、逃さないとでも言うようにルージュをぐっと抱き寄せた。十センチほどに迫った彼の顔を見て、ルージュは照れたふりをしながらも頭の中の情報を整理していた。
 彼の名前は確か、ロバート・コリンズ男爵令息だったはずだ。髪型は変えてあるが、薄茶色の瞳と口元のほくろが特徴的ですぐにわかった。
 マリアの情報だと、コリンズ男爵家はクロムウェル侯爵家に借金があるらしい。もしかしたら、逆らえないのをいいことに、裏社会で何か役割を与えられ、手足のように使われているかもしれない。
 最初から当たりを引いた、とルージュは内心ほくそ笑み、何もわからない風を装って、鼻の下を伸ばすロバートにしなだれかかった。
「よろしければ、ここでの作法を教えてくださいませんか?」
 ルージュの言葉に、近くにいたほかの男たちがひゅうっと口笛を吹いた。女性陣は面白くなさそうだったが、仕方がない。懐柔しやすいのは男のほうだと割り切ってもいた。
「もちろんだとも。……そうだね、まずはここでは浴びるように酒を呑まないといけないんだよ。君はどの酒が好きかな。ワイン? スパークリング? それとも、甘いカクテルがいいかな」
 ロバートがパチンと指を鳴らすと、ウェイターが数種類の酒を持ってすぐにやって来た。言われるがままに酒を選ぶことになり、ルージュはピンク色の可愛らしいカクテルを手に取った。
「やっぱりね。それを選ぶだろうと思ってた」
 ロバートが肩をすくめて言った。言い方がいちいち気持ち悪いが、ルージュはそれをおくびにも出さず、「どうしてわかったんですかぁ?」と頭の悪そうな言い方で訊く。
 ロバートはおそらくこういう女のほうがタイプだろう。
 最初の接触からして、女は思うように動かしたいタイプだというのが窺えた。そういう男には、自尊心を満たしてやることが一番効く──と密偵教育で習った。
「君は若いし、まだ酒に慣れていないだろう? 渋みのあるワインや刺激の強いスパークリングは苦手そうだからね」
「すごい! そんなことまでわかるんですね」
 本当は、ルージュは酒豪だ。この国では十三歳を過ぎれば酒が呑める。その歳から呑んでいる女性は多くはないが、ルージュは父に付き合って、毎晩のようにワインを呑んでいた。おかげで銘柄はある程度当てられるし、その美味しさもわかっているつもりだ。
 それに、どちらかと言えばカクテルのような甘い酒は苦手だった。大概濃すぎて、胸やけするのだ。
 それから酒を呑みつつ、そのグループで遊びに興じることになった。トランプやサイコロゲームで、負けた者には罰として勝者が何かしら命じ、拒否してはならないというくだらない遊びだった。
 しかし、その罰というのが想定外だった。
「では、敗者は勝者に祝福のキスを」
 そんな命令が初っ端から下されたのを聞いて、ルージュは目を見開いた。しかし、周りは笑うばかりで、驚く様子はない。
「しょうがないわね」
 と言いながら、負けた淑女が勝者の男に熱烈なキスを仕掛けた。しかも、頬などではなく、唇へ。
 それにはさすがにぎょっとして、ルージュは唇の裏側をそっと噛みしめた。
 緊張で、手のひらに汗が滲む。
 キスなんて、したことがない。
 何事にも動揺しないように特訓してきたつもりだが、知らない人間とキスをすることになれば平静ではいられないかもしれない。
 キスへの歓声が起こり、盛り上がったまま次のゲームへ。
 絶対に負けられない、と意気込んで何戦かしたところで、とうとうルージュに負けが回ってきてしまった。勝者はロバートだ。
「うーん、どうしようかな。君は初心そうだし、最初からハードなのは可哀想だよね」
 やさしい笑みを浮かべて、ロバートが言った。それにほっとしたのも束の間、彼の手がぐいっとルージュの顎を掴んだ。
「ディープキスじゃなくて、バードキスで許してあげよう」
「えっ、ちょっ」
 咄嗟に胸を押し返すが、びくともしない。
「ダメだよ。君は敗者なんだ。勝者の僕には逆らえない」
 その台詞に、周りの人間が沸き立った。口笛まで吹かれ、ルージュは泣きそうになった。このままだと本当にキスをされてしまう。
 ──ファーストキスは、好きな人としたかったのに。
 だが、その思考に、ルージュは自分が案外乙女チックな妄想を捨てきれずにいることに気づき、笑いだしそうになった。
 復讐を誓った女に、幸せなど考えている暇はない。
 父の汚名を晴らすためには、手段など選んでいられない。キスくらいなんだというのだ。ただ唇と唇をくっつけるだけではないか。
 だんだんと近づいてくる男の顔に観念して、ルージュは目を閉じた。
 ──しかし。
「おっと。この唇には先約があってね」
 違う男の声がしたかと思えば、顎を掴む手の感触が突然消えた。
「え……?」
 目を開けるとそこには、背が高い金髪の男が立っていた。ロバートを押し返し、キスから守ってくれたようだ。
 真っ黒な烏のような仮面をつけている。本来なら、視界の確保のために開いているはずの目の部分には、薄いガラスが嵌まっていて、その奥はよく見えない。鼻の部分も嘴がついており、見えるのは口元だけだ。
 だが、彼の雰囲気は清廉としていて、それだけで魅入られてしまいそうになる。
「おい、邪魔をするなんて無粋だぞ」
 ロバートの言葉に、烏の男はふっと笑って言い返した。
「それでは彼女の代わりに俺からキスを差し上げよう。もちろんバードキスなどと言わず、それ以上でも構わないが? 俺のキスは腰が抜けるほどいいと評判だ。味わってみたいなら遠慮なく言ってくれ」
 その一言で、さらに周りが沸き立った。ルージュを庇うように一歩前に出た男に、ロバートは一瞬気後れしたようだ。
「残念だが男は趣味じゃないんだ。わかったわかった。レディ、今回は唇ではなく、手の甲にキスでいいよ」
 舌打ちをして、ロバートが手を差し出した。
「は、はい。では」
 彼の手を取り、ルージュは手の甲に一瞬唇をつけ、離した。これで罰ゲームが終わったのだとほっと胸を撫で下ろす。
 覚悟はしていても、嫌なものは嫌だったから、助かった。
「残念」
 と、烏の男が肩をすくめた。
「俺はキスしてもよかったのに」
 そしてそのまま彼はルージュの手を引き、テーブルから離れた。ルージュもこれ以上あそこにいても得られるものはないと、連れられるまま会場の隅に向かった。
「あの、ありがとうございました」
 ふたりきりになり、ルージュが礼を言うと、彼は口元に笑みを浮かべた。
「可憐な女性が困っているのを見て助けないわけがないよ」
 歯の浮くような台詞とともに、ルージュの手を取ってその甲にキスをする。その動作は流れるようで、止める暇もなかった。
 驚いて固まっているルージュに、彼は苦笑した。
「すまない。これも嫌だったかな」
「あっ、いえ。こういった挨拶にあまり慣れてなくて」
 婚約者がいる令嬢ならまだしも、親しい男性のいないルージュは、こうして挨拶されたことはほぼないと言っていい。
「君ほど美しい人に婚約者がいないなんて」
 大袈裟に驚いた声で、彼が言った。お世辞だということはわかっていたので、ルージュはふっと薄く笑ってスカートの裾を上げた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄ですわ」
 しかし、今度は彼のほうが固まる番だった。
「あの?」
 ルージュが声をかけると、彼ははっとした様子で首を横に振った。
「いや、あのテーブルにいたときと随分印象が違ったから、びっくりした」
 それを聞いて、ルージュはしまった、と唇を引き結んだ。あそこにいたときは、馬鹿なふりをしていたのだった。喋り方も今とは全然違う。
「ああ、お友達をつくりたかったので、ちょっと甘えさせていただいたんです。はしたなかったですね」
「そんなことはないが……。では俺はその友達づくりに水を差してしまったかな」
「いえ。ああいったことは私にはまだ早かったので、助けていただいて本当に感謝しています」
 話しているあいだも、ルージュは烏の男を観察した。
 金髪にこの身長。ミュシュラン子爵家の次男か、それともバナード伯爵家の長男か。
 しかし、以前パーティーで見かけた彼らとは明らかに纏うオーラが違う。いくら思い返してみても、似た雰囲気の男性は思い浮かばなかった。
 これほどの雰囲気や余裕から見るに、きっと貴族でもかなり位の高い家だろう。もしくは、古くからある名門か。
 どちらにせよ、繋いでおくに越したことはない。おいおい彼のことも調べる必要がありそうだ。そして、使えるならば使いたい。
「お名前をお聞きしても?」

 


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