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引っ込み思案の幽霊令嬢ですが、力【パワー】で黒狼王子の愛され花嫁になります 1

第一話

 

 


 昔々。
 ある海原に、一匹の黒い海狼がおりました。
 海狼は孤独でした。なにしろ恐ろしい容姿をしておりましたから。毛並みは一面トゲのよう、赤い目は血塗られた月のよう。寄ってくるものは誰もいません。だからいらだちのままに生き物を殺し、海の中を荒らし、周囲からは余計に恐れられました。
 そんなある日、海狼は一角海獣との戦いに敗れ、怪我をしました。
 海狼が気づくと、そこはとある砂浜でした。そして銀の月の下、一人の乙女が見つめておりました。
 俺が怖くないのか、と海狼が問うと、乙女は首を横に振って微笑みました。
 ええ、とても綺麗な目をしているので。
 乙女は海狼を連れて帰り、心を込めて介抱しました。
 初めて受ける親切と優しさは、海狼の心を変えていきました。
 乙女の髪は銀の波のよう。その目は野原に咲く紫の薔薇のよう。いつしか海狼は銀の乙女に惹かれ、乙女もまた海狼に惹かれました。
 けれど人々はそれを快く思いませんでした。
 ある日、屈強な男たちがやってきて、海狼を鎖で縛り、葬列のようにして連れていきました。これまで荒らしまわった報いを受けさせると言って、火あぶりの台に据え付けました。もはやかつてと違う海狼は、大人しく頭を垂れました。逃げることで乙女に迷惑を掛けるのを恐れたのです。
 やがて火が付けられ、大きく燃え広がろうとしたその時。
 飛び込んできたのは、あの乙女でした……。


 あーッ! こんなのかわいそうすぎる! かわいそうで読んでられないわ!
 じゃあ、変えちゃいましょ! いいの、物語も未来も変えられるものなんだから!
 こんなのはどう?
 海狼を助けた銀の乙女は、実は……。


「……さま、シルフィーナ姉さまったら!」
 ハッとして、シルフィーナ・テレサ・ハイドハイヴは顔を上げた。
「んもう、ようやく気づいたんですね。さっきから呼んでるのに!」
 朝日のまぶしさに目を細めれば、一人の少年が立っている。クセのある銀色の髪、人形のように整った顔立ち。だが眼差しはいたずらっぽく、少々呆れているようでもあった。
「読書を始めると全然周りが気にならなくなっちゃうんですねえ。今日、どうしてこの森に来たのか、覚えてますか?」
 彼の言葉どおり、周囲は深い森だ。朝露の名残が春の朝日に煌めいている。その輝きを見てシルフィーナはようやく自分の仕事を思い出し、慌てて立ち上がった。
「そうだわ、薪の材料を伐らなくちゃ! ごめんなさいイェルド、すっかり忘れていて」
「だからこそお目付役として僕も来たんですけどね」
 ませた表情で言ってから、でも、と目を輝かせる。
「姉さまがぼんやりしてる隙に、ほら、こんなにキノコが採れましたよ! 見てください、この大収穫!」
 イェルドは巾着袋の中を見せる。中には大小さまざまなキノコがどっさり入っていた。まだ十五歳、シルフィーナより五歳も年下なのに、こういうところは本当にちゃっかりしている。
「今日の昼食は豪華になりそうね! それにしても『向こう』からの合図はまだ……?」
「そうですね、そろそろのはずなんだけどな」
 小型の弓を背負いなおして少年は山の向こうに目をやった。
 山深いこの地方はメッサシュトルと呼ばれ、見渡す限りシルフィーナたちハイドハイヴ家の所領だった。少し離れたところに集落があり、月に一度だけ、薪にする木を伐りに森へやってくる。一族が使う燃料を得て、ついでに楽しい散策をして帰るのがいつもの仕事だった。
 仕事、といってもシルフィーナがやるべき作業はたったひとつだけ。一族の大人たちが魔術などで準備を整えている間は暇になる。先ほどまでは花を摘んでいたが、それも飽きたので、ついつい持参した本を開いてしまったわけだ。
「しかし何度も読んだはずの本なのに、よく夢中になれますね」
 イェルドが本を覗き込む。シルフィーナは目を細めた。
「本当、自分でも不思議なのよね。お母様にもたくさん読んでもらったはずなのに」
 黒い上質なビロードの表紙には、銀の押し文字で『子供の童話』と書かれている。二十ほどの話が収められていて、小さな頃は母に読んでもらうのを楽しみにしていた。二十歳になったいまでも愛読書に変わりはない。
 中でも一番好きなのは『海狼と銀の姫』というお話だった。本来は悲しい結末なのに、母は毎回楽しい終わり方を用意していて、いつも笑顔で本を閉じることができたんだっけ。
「自分で読むよりも、やっぱりお母様に読んでもらう方が楽しかったのよね。お母様はお話づくりが上手だったから、途中で物語を変えて、すごく楽しいお話にしちゃって」
「姉さま、まだ母様のこと……」
 イェルドが心配そうな顔をする。だがシルフィーナが答える前に鋭い笛の音が響いた。合図だ。
「準備が整ったみたいですね。大事な本だし、包んでおいた方がいいですよ。衝撃波で壊してしまったら大変ですから」
「そうするわ」
 シルフィーナは丁寧な手つきで黒い本をカバンにしまうと、自分の後ろに立つ大樹の陰に隠した。
 代わりに取り上げたのは一本の剣。
「と、その前に」
 シルフィーナは鞘ごと剣を小脇に挟むと、自分の左手を見た。
 親指から小指まで、すべてに銀の指輪が嵌められている。
 どれも同じ魔術の刻印がされ、小さな紫の宝石が嵌められていた。シルフィーナの瞳と同じ色だ。
 今日は春になってから最初の薪取りだから、多めに伐らないと。それなりに力が要る。
「じゃあ三つくらいでいいかしら」
 人差し指と中指、それに小指の指輪を外す。
「全部外しちゃえばいいのに。一気に伐れますよ、来月分くらいまで」
 イェルドが左手をひらひらとさせる。彼も似たような指輪をふたつ、嵌めていた。
 確かに、全部外せば一気に凄まじい量の木々を伐採できるだろう。
 だがそれは裏を返せば、多くを傷つける力に他ならない。
「……そんなに外す必要はないわ」
 シルフィーナは冷えた声で言い、指輪を右手の指に移し替える。小脇の剣をすらりと抜き、鞘をそっと下草の上に落とした。
 細身の剣の刀身に自分の顔が映っている。イェルドと同じ銀色の髪、紫の瞳。肌が白く見えるのは朝日のせいだろう。母に言わせればシルフィーナはハイドハイヴの血が濃く、父にそっくりなのだという。でもいまでは母に似ていたら良かったと思う。そうしたら鏡の中で会えたのに。
 だめだ。シルフィーナは小さく首を振って雑念を追い払った。剣を使う前は集中しないと。それこそ、冥天から見ている母に笑われてしまう。
 もう一度、鋭い笛の音が鳴った。
「はあっ」
 シルフィーナは表情を引き締めた。剣を横に構え、朝日に煌めくそれを静かに、だが何かを切り裂くように力強く振り抜く。
 途端に空気がきしむ音を立てた。それが消えないうちに、シルフィーナの直線上にある木々が轟音を立てて倒れていく。あまりに見事な倒れぶりに、何かの魔術かと思われるかもしれない。
 木々に使っている魔術は倒れる方向を制御するものだけ。
 それ以外はシルフィーナの力……正確に言えば、横に振った剣が放った衝撃波で、文字通り木が『伐られて』いくのだ。
 一族を知らない者が見たら卒倒しそうな光景かもしれない。だがこれがシルフィーナたちの見慣れた日常であり、使い慣れた『力』だった。
 木々は地響きを立てながら、おもちゃのように地に伏していく。周囲に棲む小鳥や動物たちはすでに魔術で追い払ってあるから被害も少ないはず。よかった、今月の薪取りも無事に終わりそうだ。
 だがそこでもう一度、聞きなれぬリズムで笛の音が聞こえた。
「姉さま待って、緊急事態だ! 向こうに手旗が見える!」
 イェルドは一族の中で一番目が良い。現在の得物に弓を選んだのもその特性ゆえだ。
「……大変だ、このあたりに外の人が入り込んでいるみたい! おじさんたちの魔法陣を破ってきたって」
「なんですって!?」
 シルフィーナは愕然として木々の列の向こうを見た。倒れる勢いは弱まってきたが、まだ奥まで続いてしまう。倒木の方向に『普通の人』がいたら、ひとたまりもない。
「行きましょう!」
 言うが早いか、たんっ、と地面を蹴り上げる。次の瞬間にはもう、シルフィーナの身体は森の木々を飛び越えていた。待ってー、と叫ぶイェルドの声が遥か後方に聞こえる。
「『普通の人たち』は力が弱いから……誰も怪我しなければいいけれど……」
 祈りつつ、信じられない身体能力で梢を渡り、風のように森を飛び越えていった。
 やがて倒れていく木々の列に追いつく。
 軽々と着地した彼女の前で、まさに今、一本の木が倒れようとしていた。
 その下には、一人の男性が横たわっている。
「危ないっ……!」
 間一髪、シルフィーナは倒れてくる木を片手で支えると、わずかに力を込めて軽々と放り投げた。木は勢いをつけて飛び、ずぅん、と地響きを立てて地面に倒れこむ。自分の力に思わずため息が出た。指輪を三個外しただけでこんな怪力になってしまうなんて、気付かないうちにまた強くなっていたのかも。
 それにしても、と倒れている男性を見つめる。
 群青の軍服に金ボタン、鍔の尖った帽子は海軍のものだろうか。この森から海は遥か遠い。どうしてこんな山の奥へ……。
 彼が身じろぎした。帽子が転がり落ち、顔が露わになる。年齢はシルフィーナよりも少し上くらい。日に焼けているが端整な顔立ちで、うっすらと開いた目が赤い。シルフィーナはドキッとした。
「きみ、は……」
「ひゃっ」
 話しかけられてとっさに飛び退ってしまう。どうしよう、一族以外の人と話すのは本当に久しぶりで、恥ずかしくて、でも相手は怪我をしているし……!
 言葉を選んでいる間に、彼はまた、すっと目を閉じてしまう。
「あっ、大丈夫ですか!? しっかり!」
 シルフィーナは慌てて駆け寄り、その手をしっかりと握りしめた。
「姉さま、危ない!」
 イェルドの言葉にハッと振り向くと、すぐ後ろで叫び声が上がった。いつの間にか黒い影が立っており、その肩にはイェルドの矢が深々と突き刺さっている。
 影はよろめき、矢を引き抜いてから短剣を構える。
「くそっ、邪魔しやがって……なんだお前たちは!?」
 その構えは素人のものではない。森への見知らぬ侵入者……しかも武器を持っている。
 敵だ。
 シルフィーナは内心の動揺を一瞬で収め、丁寧な仕草で立ち上がった。臨戦態勢に入れば、もはや身体も心も一分の隙もない。そのように訓練してきたのだ。
「私たちはこの地を護る名もなき一族です。あまり争いは好みませんから、すぐに立ち去っていただけるとありがたいのですが」
「ここまで追ってきたんだ、そうやすやすと帰れるかよッ!」
 仕方がない。シルフィーナはつかつかと、先ほど倒れた大木に近づいた。
「すみません、お話の最中ですが失礼して」
 片手で幹を掴み、なんなく持ち上げる。身長の五倍はあろうかという大木は軽々と持ち上がった。
「できれば穏やかに、話し合いで解決したいのです。私も戦いに自信はありませんので……」
 そのまま両手を掛け、メキッと幹を握りつぶす。
 大木はその部分だけ木っ端みじんになり、残った両側がズゥン……と重い音を立てて地面に落ちた。
「あ……えっ……?」
 相手はあんぐりと口を開けてシルフィーナと木を見比べた。何が起きたのか、すぐには理解出来ないのだろう。
 だがバサッと鳥が飛び立ったのを合図に、男は急に表情を引き攣らせた。
「な、なんだこの女は!? 化け物だッ……!」
 飛び退るように逃げていくその影を見ながら、シルフィーナはホッと息をついた。よかった、無駄に人を傷つけずに済んだ。
 同時に胸が少しだけ痛む。化け物、か。
「姉さま、いまさら気にしない方がいいですよ。僕たち一族は全員、ご先祖様のころからそんな感じですし」
 イェルドの軽口が心に優しい。シルフィーナは微笑んだ。
「大丈夫よ。ありがとう、イェルド。それより……」
 倒れた男性の脇にしゃがみ込み、眉をひそめる。額には血がにじんでいる。膝から下にも大きな傷があり、下穿きから血が滴っていた。重傷だ。
「この方をお運びしないと。怪我をなさっているわ」
「こんな森の中に珍しいですね……ああ、ちょうどみんなも来た。おーい、こっちです! 怪我人がいますよ!」
 一族の者が集まってくる間に、シルフィーナは青年の顔をまじまじと見つめた。久しぶりに見る、外部の人。こうして近くにいるだけで恥ずかしいはずなのに、なんだか気になってしまって……。
 見つめる視線の先にふと、海の薫りが漂ったように思えた。


 世界の東に位置するエテラ大陸。
 シルフィーナたちの住むオルトシュトルム王国は、その北方に位置する小さな国だ。中継ぎ貿易と木材の輸出が主な産業であり、三つの大国と国境を接する絶妙な位置にある。
 といっても、シルフィーナは大陸や他の国との関係を、地図でしか確認していない。この国から一度も出たことがないからだ。
 それどころか、一族の住まうメッサシュトルの森から出たことさえほとんどない。
 メッサシュトルをずっと南に下るとやがて平野になり、ヤヌール海と呼ばれる海がある。大海原にはいくつもの島々、大陸があると言われているが、どれも見たことはなかった。
 実際に海を、その先の世界を見てみたい。
 それは海狼の童話を知ってから、シルフィーナの密やかな願いになっていた。
 そんな憧れの薫りのする人が、この森にやってくるなんて。
「シルフィーナです、いま戻りました!」
 集落の真ん中、大きな三角屋根を持った屋敷がハイドハイヴ一族の本館であり、シルフィーナの家だ。玄関ホールではすでに多くの人が慌ただしく立ち働いていた。シルフィーナ一行に先じてイェルドを走らせ、よそ者の怪我人のことを伝えてもらったのだ。
「まあまあシルフィーナ、お帰りなさい! あなた方には怪我はない?」
 ホールの階段を小走りで下りてきたのは叔母のマリクル。こちらの前に立ち、丸っこい手で頬を撫でてくれる。シルフィーナはもう大人だし背もずっと高い。なのに、マリクルは相変わらず子供のころと同じように優しく心配をしてくれる。その心遣いが嬉しく、少し気恥ずかしくて、わずかに頬を赤らめた。
「大丈夫です、マリクル叔母様。私たちがいつも通り木を伐っていたら、この方と……もう一人、怪しい影が走りこんできて」
「怪しい影?」
「ええ、こちらに襲い掛かってこようとしたんです。私の力を見たら逃げてくれたけれど」
「よかった。あなたも、向こうの方も傷つかずに済んだのね」
 マリクルはホッと息をついた。
「じゃあその影は、この方を追って……?」
 ちょうどそこへ大人たちが木の枝と布で作った簡単な担架を運び込んできた。その上に横たわる青年を見てマリクルは目を丸くする。
「海軍の制服ね。どうしたのかしら、こんな山の中へ……しかも誰かに追われていたのでしょう?」
「私たちも何がなんだか」
 イェルドが眉をひそめて覗き込む。
「僕らもとっさに助けはしたけれど、まさか怪しい人じゃないでしょうねえ? もしかして犯罪者とか!」
「こら、まだ分からないのにそんなこと言っちゃダメ!」
「来訪者だって? こんな山奥に珍しいものだね」
 低く優しい声が階段の上から聞こえてきた。
 途端に周囲の大人たちが姿勢を正す。
「当主、おはようございます」
「ステファン様、おはようございます」
 皆の挨拶につられるようにシルフィーナも背を伸ばし、頭を下げて小さく礼をした。
「お父様、朝からお騒がせしてすみません」
「いやいや、朝からお仕事ご苦労様、おはようシルフィーナ。ところで……その方は起きているのかい? 気を失っている?」
「大丈夫、気を失っておられますわ。恥ずかしくはないですよ」
「よかった、それなら姿を見せても恥ずかしくないね……」
 ホッと安心したように息をつき、階段の上から長身の人影が下りてくる。
 端正な容貌の中年男性で、優雅な物腰も落ち着いたビロードの服もまさに紳士そのもの。豊かな銀髪は群青のリボンで結ばれ、瞳の色はシルフィーナよりも青みがかった紫色をしている。鼻の形も目の印象もそっくりだから、血の繋がりは誰の目にも明白だろう。
 左手の指にはシルフィーナと同じような銀の指輪を嵌めていた。ただ、数は少なく三つだけ。中指の指輪だけが大きく、他のモノとは違って青紫の大ぶりな石が輝いている。
 階段を下り切ったところで彼はシルフィーナに笑顔を向けた。
「おかえりシルフィーナ、ご苦労だったね。すまない、私の力が弱ってきたばかりに、当主代行のような役目をお願いしてしまって」
「いえ、気になさらないでください。とても楽しんでいますから!」
「ありがとう、しっかり者で助かるよ」
 微笑みを重ね、ステファンは周囲を見回した。
「何者かに襲われたと聞いたが、本当かな? みな無事かね?」
「はい、私たちは怪我もありません。ですが……」
 シルフィーナは再び丁寧に状況を話した。薪取りの作業中に、見知らぬ青年が入り込んできたこと。怪我をしていたので助けようとしたら、黒い影が襲い掛かってきたこと……。
「僕が矢で威嚇したんですよ! 立ち去れ、ってね!」
 イェルドが興奮気味に口をはさむ。ステファンは軽くおでこを突っついた。
「至近距離から射ったと聞いているぞ。危ないことをしてはダメだ。お前はシルフィーナほど力がないのだから」
「でも私はイェルドの矢に助けられたのです。あれがなかったら相手を傷つけてしまっていたと思います」
 シルフィーナの弁護にイェルドはえへへ、と誇らしげに笑う。ステファンは目を細め、父親らしい仕草でシルフィーナとイェルドの頭を撫でた。
 だが視線を移すと、強く眉根を寄せた。
「……この方が、怪我をしていたと……」
「この方?」
 視線の先、下ろした担架の上には先ほどの青年が寝かされている。
 いや、と言ってステファンはすぐに表情を戻した。
「……いや、軍服からすると海軍少佐だからね。他意はない。しかし奇遇だね。少し前にもう一人、海軍の服を着た若者が駆け込んで来ているんだ」
 その言葉が終わらないうちに、どた、どた、と荒々しくも奇妙な足音が聞こえてきた。
「ぼ、坊ちゃま……じゃなかった、アレックス様! ご無事で!」
 大きな影が叫び声を上げてシルフィーナの横を走り抜けると、そのまま青年に駆け寄っていく。他の大人たちとシルフィーナは慌てて大男を制止しようとした。
「よい、行かせてあげなさい。彼の……トマスの上司なのだそうだ」
 ステファンの言葉に大人たちが戸惑っている間に、大柄な男は青年にすがりつく。
「少佐、目を覚ましてください! よくご無事で……」
 だが青年は頭を垂れたまま目を開かない。トマスと呼ばれた大男は、恐る恐る青年の額に手を当て、目を丸くした。
「ね、熱があります! 傷が膿んでいるのでは!?」
 だがシルフィーナは安心させるように首を振った。
「大丈夫です、そんなにすぐに傷は膿まない。おそらくどこか骨を折ったのでしょう。その熱はすぐに来ることがあるから」
「そ、そんな……すぐに治りますか……?」
「すぐは無理だと思うけれど、きちんと治ります。うちの一族には魔法の治癒師も薬草師もいるので……」
「それなら安心だ! よろしくお願いします!」
 とにかく、とステファンは一同を見回した。
「青年はすぐに奥の治術室へ運びたまえ。外から帰ってきた者はそのまま外壁の持ち場について外を警戒しなさい。交代で休憩を取りながらね」
「承知しました!」
「治癒術の心得がある者は少佐と共に治術室へ。消毒を念入りに」
「了解です」
 ステファンの的確な指示に一同が頭を下げ、すぐに玄関ホールは大騒ぎとなった。
「僕はキノコを調理場に置いたら行きます」
「ちょうど良いわ! イェルドは戻るときにお湯を沸かして持ってきて! 私は薬草庫へ行ってくる!」
「いや、シルフィーナはこちらへ」
 ステファンに呼ばれ、シルフィーナは目を瞬かせた。
「でも」
「お前は次期当主だ。私と共に話を聞き、こんな時はどう対処するか、指導者として考えてみよう」
「……はい」
 だがステファンの言葉に一番驚いたのはトマスのようだ。
「この、妖精みたいに綺麗なお嬢さんが……次期当主!?」
 その言葉に恥ずかしくなり、シルフィーナは思わず俯いた。慌ててスカートにつけられたポシェットからレースのかぶり布を取り出し、頭にかぶる。事態への対応に必死で、顔を隠すのを忘れていた! 
「ええと、その布は……?」
「うちの一族は恥ずかしがりだからね、外の人に対応するときは、いつもこの銀レースを被るんだ。しかし緊急事態だから私も忘れていたよ」
 ほら、とステファンもレースを取り出し、かぶって見せる。外部の人に顔を見られるのは、ハイドハイヴ的にはとてもとても恥ずかしいのだ。
 その姿を見て、あっ、とトマスが目を丸くした。
「もしかして……ここは幽霊侯爵と名高いハイドハイヴ家の……!? あっ、えっと悪口じゃないんです! すみません!」
 慌てて口を押さえたトマスにステファンはにっこりと笑う。
「おや、我らも有名になったものだねえ」
 いかにも、と頭にレースを掛けたまま、ステファンは恭しく優雅なお辞儀をした。
「不思議な力を持つが引っ込み思案で人に会いたくない一族、幽霊侯爵ハイドハイヴの所領へようこそ。さて……なぜこんな山奥に踏み込む羽目になったのか、そちらのお話も聞かせてもらえると嬉しいのだが」
「えっと……」
 トマスは困惑したようにステファンを、それからシルフィーナを見たが、すぐにうなだれてしまった。
「すいません、俺の口からはなんとも……まだ、詳しいことは話せないんです」
 でも、と勢いよく顔を上げ、まっすぐにステファンを見つめる。
「これだけは信じてください! 悪いことは何もしてないんです。そう、俺も、アレックス坊ちゃんも!」
「アレックス坊ちゃんね……なるほど」
 ふむ、とステファンは息をつき、シルフィーナの方を見る。
「お前ならどうする、シルフィーナ。素性の知れない若者が二人、何者かに追われて所領に迷い込んできた。二人とも大怪我をしているが、詳しいことは言えないらしい……当主の取るべき道は?」
「まず助けます」
 シルフィーナはすぐに答え、紫の目で二人を見た。
「助けて、食事を差し上げて、傷が癒えるまで看病します。それから、時間が許す限りゆっくりと打ち解けて、その上で話を聞きます。私たちは見ず知らずの相手同士。そんなにすぐに大事なことを話すわけにはいかないでしょう。すべては……お互いを知ってからで良いのではないでしょうか」
「お、お嬢さん……っ!」
 トマスが感動したように目を潤ませる。ステファンが満足げに頷いた。
「良い回答だ。私も同じ意見だよ。というわけでトマスくん、詳しい話は君たちの傷が癒えてから聞こう。私たちも最大限に協力をするから、まずは回復に努めなさい。治術室へ行き、君も怪我を治療してもらうといい」
「あ、ありがとうございますっ!」
 トマスは海軍式の最敬礼をして、びしりとかかとを打ち鳴らしたが。
「いったたたたた!」
 うずくまる大男に、マリクルが、あらまあ、と眉をひそめる。
「骨折しているのよ、無理はだめ! 早くあなたも奥の部屋へ!」
「ま、まことに申し訳ないっ」
 小さいが力強いマリクルに支えられ、トマスは片足を引きずって奥の部屋へと向かった。
「シルフィーナ、それにイェルドも、服を整えてきなさい。必要なら飲み物や軽食を摂り、それから次の作業に移るんだ。まずは自分自身を落ち着けて、ね」
「お父様も治術室に向かわれるのですか?」
 イェルドの言葉に、いや、とステファンは首を振る。
「少し考えなければならないことができた……マリクルとヨーゼフ、それにヘドリックとヨハンナ姉妹を私の部屋へ呼んでおくれ」
「分かりました」
 マリクルはステファンの実の妹、ヨーゼフはその夫で、他の面々も一族の年長者ばかりだ。何を相談するのだろう。だがシルフィーナはまだ、それを知る立場にない。
 ステファンは再び階段を上りかけたが、ふと気づいたように二人へ笑顔を向けた。
「良くやってくれた。それにお疲れ様。二人とも優しくてしっかり者だね。父として嬉しいよ」
「はいっ」
 イェルドの元気の良い声を聞きながら、シルフィーナはわずかに頭を下げた。その視線の先を、あの青年が運ばれていく。黒い髪に閉じた瞼、浅く日に焼けた肌。
「気になるんですか?」
 イェルドに言われ、跳ね上がった鼓動を胸の上から手で押さえた。
「そ、それは、もちろん。私が助けた怪我人ですもの」
「ふうん。いつもぼんやりの姉さまにしては珍しいですね」
「んもう、変な顔してないで、はやく自分の務めを果たしなさい!」
 シルフィーナの言葉にイェルドはくすくす笑いつつ退散していく。まったく、こういうところばっかり耳年増なんだから!
 二人で話している間に、青年は治術室へ運ばれていったようだ。それが少しだけ残念に思えて、シルフィーナはおかしな感情を振り払うように慌てて首を振った。