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ヴォルフ公の結婚 一角獣の乙女は旦那様に過保護な愛をそそがれる 2

第二話

 

 

 

 三年後──。
 エルジェネ王国の第二王子リオン・エルジェネは、焚火の薪が爆ぜる音を聞きながら宵闇に目を凝らした。
 ここ数日は休戦状態にあるが、敵国ユラノスの軍が野営する明かりが見える。
 ──戦況はよくないな。
 国境沿いの大河を越えた平原を主戦場として前線が敷かれていたが、重傷者が増える一方で戦況は膠着状態だった。
 ──人が傷つくばかりで、終わりの見えない戦だ。
 休戦に入る前の苛烈な戦模様を思い出し、リオンは顔を顰める。
 この戦の発端は、ユラノス王国による宣戦布告であった。
 ユラノス王は若い頃、理知的で外交手腕に長けた王として名を馳せていた。
 しかし、年齢が六十を越えたあたりから軍備の増強を始め、老いても息子に王位を譲らず、ついにたびたび領土争いが起きていたエルジェネ王国に狙いを定めたのだ。
 そしてリオンの父、エルジェネ王はそれを迎え撃った。
 自国を守るための正当な判断に思えるが、リオンは戦を避ける方法があったはずだと考えていた。
 ──この戦は回避できたかもしれない。ユラノス王国では反戦の声が大きく、未だに反対の声が上がっていると聞くし、こちら側も同様だ。
 ユラノス王の強固な意思によって宣戦布告はなされたようだが、返答まで猶予期間が設けられていて、周辺諸国に仲裁に入ってもらえば会談の余地はあった。
 ──平和的な解決策を模索するでもなく、総力を挙げてユラノス軍を迎え撃て、など……父上はいったい何を考えているのか。
 もしかすると何も考えていないのかもしれないと、リオンは暗い表情で思う。
 父のエルジェネ王は病床にあったが、思考はハッキリとしていて、今も戦を続けろと命じている。
 だが、たとえ防衛のためでも戦争は国を疲弊させる。
 ましてや総力戦となれば、どれだけ長引くか分からず、国民を苦しめるだろう。
 リオンは兄のメレディスとともに「戦は避けるべきだ」「まずは平和的な交渉を」と強く訴え、同意を示す重臣も多かった。
 それでも父は耳を貸さず、周りが意のままに動かないと当たり散らし、ひどい癇癪をメレディスとリオンにぶつけてきたのだ。
 今はメレディスが父に付き添い、政務と軍議をこなしているが、もしかしたら父は病に罹ってから冷静な判断ができなくなっているのではないか。
 ──僕には、この戦は“老いた王”と“病んだ王”が国民を顧みず、ただ矜持をぶつけ合っているだけに思えてしまうんだ。
 エルジェネ王国の法では、国王の命令は何を差し置いても絶対だ。
 たとえ第二王子という立場であっても、王が一度そうすると決めたのなら、それ以上は意見することが認められていない。
 だから、今はひたすら戦い続けるしかなかった。
 ため息をついて振り返ると、重傷者が天幕に運びこまれるのが見えた。
 ──地獄を見ているようだ。
 戦場となった平原には死体の山ができ、日々、兵士たちが倒れていくのを目の当たりにしている。
 リオンは二十二歳で軍略の才があり、前線に立つよう父に命じられたが、ここのところ自分よりも若い少年兵が前線に配備されるようになってきた。
 とにかく兵の数が足りていないため国内から徴兵されているのだ。
「リオン様」
 暗い面持ちで物思いに沈んでいると、静かな声で話しかけられたので、リオンはハッとして顔を向けた。
 王国軍では大佐の地位にある、アルノルド・ロレスタ侯爵が立っていた。
 厚みのある身体と厳格な顔つき、頑強な鎧を纏った物々しい佇まいから経験豊富な軍人だと伝わってくる。
 ひとたび戦場に出れば、どっしりとした存在感を纏うロレスタ侯爵はそこにいるだけで兵士の士気を上げた。
 それでいて頭のきれる軍略家だから、戦の采配も侯爵が指導役となり、リオンに適切な助言をくれる。ゆえに深い信頼を置いていた。
「アルノルド。どうしたんだ」
「新しい伝令の候補者を連れてきました。リオン様に紹介したいのです」
「そうか。しかし、よく見つかったな」
 昼の戦いで、リオンと他部隊との伝令を務めていた側近の兵士が重傷を負い、代わりを探していたところであった。
「この前線で伝令をこなせる者なんて、そうそういない……」
 侯爵の後ろから進み出た小柄な少女を認めた瞬間、リオンは口を噤んだ。
「すでに面識はあると思いますが、娘のフィオナです。フィオナ、ご挨拶をしなさい」
「はい、お父様。……お久しぶりです、リオン様。フィオナです」
 フィオナ・ロレスタ。ロレスタ侯爵には子供が三人いるが、うち二人はリオンと年の近い息子で、年の離れた末っ子は娘だ。
 フィオナは男装し、長かったはずの黒髪を肩のあたりで切り揃えていた。
 ともすれば少年と見間違えそうだが、その口から放たれた高めの声は年若い少女のもので、淑女らしいお辞儀までしてみせる。
 呆気にとられていると、ロレスタ侯爵が神妙な面持ちで告げた。
「フィオナは後方での支援活動を行なっていましたが、伝令としてお役に立てるのではないかと思い、私が連れてまいりました」
「本気で言っているのか」
「もちろん本気です。娘もやる気でおります」
「リオン様。私に伝令を務めさせてください」
 フィオナがアイスブルーの目でリオンを見つめ、毅然として言った。
 ロレスタ侯爵家の次男ジェイドと友人であるリオンは、侯爵家の屋敷へ通っていた時期があり、ジェイドの妹フィオナとも親しかった。
 だが出会った当時、フィオナはまだ十三歳だった。
 あれから三年が経ったとはいえ、十六歳になったばかりのはずだ。
 身の丈も小柄で、身長が百九十センチ近くあるリオンや屈強なロレスタ侯爵と並んでいると、実年齢よりもさらに幼く見える。
「君はまだ十六歳だろう。前線で伝令をするなんて、危険すぎる」
「年齢は関係ありません。少年兵も配備されていると聞きました」
「いや、しかし……」
「リオン様。フィオナは騎獣に乗ることができます。いざという時は敵兵を蹴散らして、戦場を離脱することも可能です」
 騎獣は人を乗せることのできる一角獣だ。馬よりも速く長距離を走り、その強靭な脚で踏みつければ相手はひとたまりもない。
 軍事利用されることもあるが、魔獣の研究が盛んな国や、騎獣の文化が伝わっている国でない限り、乗りこなせる者は一握りしかいない。
 特に平地の多いエルジェネ王国には、山間部を好む一角獣の棲み処がほとんどなく、西の国境沿いにある自然保護区まで足を運ばなければ出会えない。
 そのため騎獣を目にする機会もほとんどなかった。
「フィオナ。ここに“アネモス”を連れてきているのか?」
「はい、リオン様。救護班の天幕の近くで待機させています」
 アネモス。ロレスタ侯爵家の厩舎におり、フィオナに懐いていた一角獣だ。
 ──確かに、騎獣に乗れば伝令はこなせるだろう。
 しかれども伝令使は矢が飛び交う戦場を駆け抜けなければならず、命の危機と隣り合わせの役目だ。
 ましてや他に騎獣がいなければ、目立って的にされる可能性も高い。
 いくら兵の数が足りていないとしても、十六歳の少女を死地に立たせるわけにはいかなかった。
 リオンは熟考したのちに低い声で応じた。
「やはり、僕は反対だな」
「……私が十六歳で、女だからですか?」
「それもあるが、もっと重要なのは標的にされる危険性が高いからだよ。ただでさえ伝令は狙われることが多い。その点、フィオナは兵士の訓練を受けていないし、戦う術だって持っていないだろう」
 冷静に危険性を説明したら、ロレスタ侯爵が重々しいため息をつき、娘に小声で「連れてこい」と指示を出す。
 こくりと頷いたフィオナがリオンに一礼し、野営地の中へ消えていった。
「何をさせるつもりなんだ」
「アネモスを連れに行かせました。フィオナが騎獣を乗りこなす姿を、リオン様に見ていただきたいのです」
「……本当にフィオナに伝令をさせるつもりでいるのかい? そもそも彼女が戦場に来ていること自体、僕は知らなかったんだが」
 エルジェネ王国では貴族でも、王立学校で軍の訓練を受ける。
 有事には従軍することになるし、戦時中は女性も救護班や後方支援に加えられた。
 今回の戦争は国民が総動員されているため、たとえ貴族であっても、女性が志願して戦地に来ることは珍しくなかった。
 とはいえ、その多くが年嵩の夫人であり、大抵の家は若い令嬢を戦地へ送るような真似はしない。
 ロレスタ侯爵は娘が去ったほうを見ながら声量を落とした。
「フィオナが望んで従軍したのです。私と二人の兄が出征し、国民も徴兵されているのに自分だけ何もせず、王都にいるわけにはいかないと言い張りましてね。誰が説得しても折れませんでした。あんなに頑固だとは思いませんでしたよ」
「頑固? フィオナに対して、そういう印象は抱いていなかったんだが。どちらかというと素直なほうじゃないのか」
「フィオナの母親が頑固だったんですよ。穏やかなのに芯が強く、一度そうすると決めたら曲げなかった。その気質を受け継いでいるんでしょう」
 もう十六歳ですから、と侯爵が憂いを交えて呟く。
「自分で考えて行動できる年齢になり、フィオナには度胸もあります。父親として心配ではありますが、本人の意思が固いですし……なにより、今はそんなことを言っている状況ではないでしょう」
 ロレスタ侯爵の視線がユラノス王国の野営地のほうへと向けられた。
「戦況は思わしくありません。兵の数も足りていない。王都からの援軍も、あと数日はかかります。先刻の軍議でも話したように、この前線を落とされたらユラノス軍は王都まで攻め入るでしょう。それは避けなければいけません」
「ああ、よく分かっている」
「なればこそ、私の娘をお使いください。伝令の仕事は誰よりも早く、確かな情報と命令を運ぶこと。フィオナならばこなせるでしょう」
 侯爵が険しい表情を浮かべながら押し殺した声で言った。
 戦況と軍の兵士不足を鑑みて、彼は自分の娘を前線へ送ると決断したのだ。
 リオンは苦々しい表情でかぶりを振ると、それ以上は言い募らずに、焚火の炎を見つめてフィオナを待った。
 ほどなくしてフィオナがアネモスの手綱を引いて戻ってきた。
「お待たせしました」
「うむ。ここで乗ってみせなさい、フィオナ」
「はい、お父様」
 フィオナがアネモスの首を撫でて何かを話しかけると、騎獣は乗りやすいように身を屈める。
 すかさず鐙に足をかけ、誰の手も借りずにひらりと跨った彼女は足踏みをする騎獣を宥めて、瞠目するリオンを見下ろしてくる。
「走る一角獣を矢で射貫くのは難しいと思います。瞬きを数度しただけで、いつの間にか視界から消えている。乗り手が振り落とされそうになるほど速いんです」
「…………」
「それに私は小柄なので、身を屈めれば的になるのは避けられます」
 フィオナは説明しながら、焚火の近くにある広場でアネモスを歩かせた。
 漆黒の騎獣に少女が乗っている様に惹かれたらしく、休憩中の兵士たちも集まってきた。
 彼らは口々に「たいしたものだ」とフィオナを褒め、感心したそぶりで「こんな近くで騎獣を見るのは初めてだ」と話している。
 戦況が悪いのを察知してか、今宵の野営地は暗い空気だったが、騎獣と少女が現れただけでいくらか明るくなった。
 仲間を呼びに行く兵士までいて、その光景を観察していたリオンは顎に手を添える。
 ──騎獣の存在は空気を変えるのか。ましてや少女が乗りこなしていれば、兵士たちも鼓舞されるかもしれない。
「士気が上がるでしょう」
 ロレスタ侯爵がぽつりと言った。
 軍人の顔になって考えていたリオンは心を読まれたかと思い、どきりとする。
「騎獣は畏怖と憧れの対象です。単騎で戦場を駆ける姿を見れば、きっと兵士たちも鼓舞されるはずです」
「…………」
 フィオナがアネモスに乗ったまま近づいてきた。
 以前もよくやっていたようにリオンへと角を突きつけようとする騎獣を宥めると、穏やかな口調で言う。
「リオン様。私は戦う術はありませんが、この子に乗って走ることができます」
「……いくら速く走れたとしても、流れ矢に当たるかもしれない。剣で刺し貫かれ、騎獣から振り落とされる可能性だって捨てきれない。それでも構わないと?」
 低い声で問いかけたら、フィオナがしばし瞑目してから首肯した。
「誰かがやらなければならない役目なのでしょう」
 覚悟はできているんです、と彼女は目を閉じたまま続ける。
「救護班でたくさんの負傷者を見ました。この前線が落とされたら、王都で同じことが起きるんですよね」
 リオンが長い沈黙をおいて「ああ」と答えると、フィオナは瞼を上げた。
「だったら、私を使ってください。必ずお役に立ちますから」
 雲一つない蒼天のようなアイスブルーの瞳で射貫かれる。覚悟はできているという言葉どおり強い意志が伝わってきた。
 フィオナと黒い騎獣を何度か見比べたのちに、リオンはとうとう折れて、ため息交じりに「分かった」と応じる。
「試しに、君を伝令に使ってみよう。ただし僕が危険だと判断したら、すぐに後方へ下がってもらうよ」
「はい! ありがとうございます、リオン様」
 フィオナが溌溂とした声で礼を言い、硬い表情を崩して微笑んだ。
 翌日には戦闘が再開し、彼女はアネモスに乗って伝令として戦場へ出た。
 漆黒の騎獣と一体となり、馬では追いつけない速さで戦場を駆け抜ける少女の姿にエルジェネ軍は沸き立った。
 一方のユラノス軍も騎獣を見慣れていないのか、突如として現れた一角獣の存在に戦々恐々としていた。矢で狙おうとしても難しく、近づけば鋼のごとく頑丈な脚で蹴り飛ばされて深手を負う。
 苦い土埃と血臭が漂い、死の気配に満ちた戦場の空気をがらりと変える、一陣の風が吹いたかのような──目には見えないが、それこそ戦況を覆すことができそうな変化をリオンは肌で感じた。
 フィオナは各部隊長の間を行き来して、戦況や命令を正確に伝達した。
 それはリオンが想像していた以上の働きで、軍内の士気を大きく高めたのである。


 フィオナが伝令となった二日後。エルジェネ軍の猛攻により、ユラノス軍は平原の端へと後退しつつあった。
 リオンは迫ってきた敵兵を斬り捨て、攻めの手を緩めないよう指示を飛ばした。
 飛んできた矢を避けたところで、戦場を駆けてくる騎獣に気づく。
「リオン様!」
「フィオナか」
 リオンは馬の手綱を引いて護衛兵に背中を任せながら、敵の攻撃が届かない後方へと移動する。
 フィオナがアネモスを急停止させ、息を整えてから報告してきた。
「右陣を指揮する父、ロレスタ侯爵から伝令です。ユラノスの野営地を見に行っていた斥候が戻ってきました。どうやらユラノス側に援軍が来たようです」
「援軍の規模はどのくらいなんだ」
「小隊が三つ。でも、そのうち一つが魔術師で構成されています。身なりや佇まいが明らかに他の小隊とは違ったそうです」
「魔術師ということは、医療部隊なのか?」
「いいえ。装備を見る限り、そうは見えなかったと」
「つまり攻撃部隊ということか」
「その可能性が高いです」
 利発に受け答えするフィオナを険しい表情で見つめると、リオンは押し戻しつつあるユラノス軍のほうを睨みつけた。
「そこまでしてくるのか、ユラノス王は……」
 魔術とは『人の営みを補助するために使われるもの』と定義されている。
 この大陸の国々は【戦争において魔術による攻撃を行なわない】という国際的な協定を結んでいた。
 魔術を用いれば、通常は当たらない距離から矢で射貫くことができたり、巧妙な罠を仕かけることができたりと、特異な戦法がまかり通った。
 その一方、人道的な面で問題が生じる。
 敵軍の食糧自給を断つため、住民が生活用水として使う川や、作物がとれる田畑を毒の魔術で汚染させたり、虜囚に苦痛を与える魔術をかけて尋問をしたりなど、非倫理的な手段が使えてしまうからだ。
 魔術による毒は水質や土壌ごと汚染し、大規模な浄化の魔術をかけない限り、未来永劫そこで人の営みは行なえなくなる。
 悲惨なのは、魔術で尋問を受けた者たちだ。受けた傷や痛みは自然治癒しない。
 医療魔術による治療を受けられなければ、死ぬまで苦しみ続ける。
 エルジェネ王国にも魔術師の部隊はあるが、医療魔術に特化しているため後方支援に徹していた。
 国際協定を順守しているので、前線で戦う訓練を受けた魔術師もいない。
 とはいえ、あくまで協定は合意したという意思表明にすぎず、指導者に倫理観がなければ意味を成さなかった。
 リオンは空を仰いだ。すでに太陽は西へと傾いている。
 日が落ちると休戦状態になるが、魔術部隊が合流したのならば気が抜けない。
「フィオナ。各部隊を回り、敵軍に魔術師の攻撃部隊が合流したと伝えてくれ。日が暮れて休戦状態になっても、決して気を抜くなと」
「はい!」
 フィオナが騎獣の手綱を操り、あっという間に土埃の向こうに消えていく。
 彼女の姿が消えるまで見送って、リオンは冷ややかな表情で思考を巡らせた。
 ──敵軍の総指揮を執っているのはユラノスの第一王子だ。次期ユラノス王と言われているが、軍隊の采配もうまい。前線で戦う気概も持ち合わせている。
 何度か遠目に見かけたこの王子を、魔術部隊の攻撃が始まる前に討ち取るか、せめて深手を負わせられたらユラノス軍の陣形は崩れるだろう。
 リオンはオッドアイの双眸を冷たく光らせ、衛兵の一人に命じて後方の陣営を任せている小隊長を呼びに行かせた。
 ほどなくして馬に乗った小隊長がやってくる。
「リオン様、お呼びですか!」
「そちらの隊から腕利きの兵士を数名、僕のもとへ連れてきてくれ。それから飛距離のある弓矢も用意してほしい」
 指示を出すと、リオンは大隊を指揮する中佐にその場を任せ、しばし前線を離れて支度を整えた。
 小隊長が用意した弓矢は飛距離が出るぶん、弦が重くて狙いを定めるのが難しい。
 馬から下りて、試しに何度か弓を引いてみると、上背があって武器の扱いに長けたリオンならば使えそうだった。
 弓を放つ練習をしてから、リオンは外套のフードを目深に被り、衛兵と精鋭の兵士を連れて前線へ戻った。
 ──前線を預かる立場上、単独で動くのは避けていたが、この戦を早く終わらせるためにやれることはやろう。
 太陽はだいぶ西の空へと移動していて、土煙の向こうに見える空は橙色だ。
 リオンは身を低くして戦場を駆け、両軍が激しく衝突する境界線まで出て行った。
 あたりは土埃が立ちこめ、あちこちで剣戟の音がする。
「リオン様、これ以上はユラノスの陣営に入ります!」
 衛兵に制止されて止まると、遠目にユラノス軍の指揮を執る王子が見えた。戦況を見極めながら周りを衛兵で固めて前に出すぎないようにしている。
 目測としては遠いが、試す価値はあるだろう。
 衛兵たちに周りを守るように指示をし、リオンは背負っていた弓矢を構えた。渾身の力をこめて重たく硬い弦をぎりぎりまで引き絞り、目測で軌道を計算しつつ上のほうに狙いを定める。
 十秒ほど制止した直後、勢いよく矢を放った。
 放物線を描いて飛んでいった矢は戦う兵士たちの頭上を掠め、周りを囲む護衛兵をもすり抜けて、王子の肩へと命中する。
 ユラノス軍の陣営でどよめきが上がったのを確認すると、リオンはすばやく馬の手綱を引いて、その場を離脱した。
 フードを外しながら肩越しにユラノス軍を窺ったら、兵士たちが明らかに動揺して、みるみるうちに統率が乱れていく。
 ──今が好機だ。日暮れ前にたたみかける。
 最前線で指揮をする大隊の中佐と合流し、剣を抜いて、今が攻め時だと声を張り上げようとした時だった。
 馬蹄よりも大きな蹄の音が聞こえて、視界の端に黒いものが飛びこんでくる。騎獣に乗ったフィオナだ。
「リオン様! 王都からの書簡です!」
「書簡は後でいい! 君はここを離れろ、これから一気に攻撃に……」
「火急の書簡です! 今すぐあなた様に届けろと!」
 汗だくになったフィオナが叫びながらアネモスを止めて、肩にかけた小さな鞄から書簡を押しつけてきた。
 火急の書簡。リオンは胸騒ぎを覚えて、すぐに後方へと下がった。
 文面に目を通した瞬間、心臓がどくりと鈍い音を立てる。
「!」
 書簡は兄、メレディスからのものだ。
 よほど急いでいたらしく、乱れた筆跡で記されていたのは【父の病状が急変し、今朝がた息を引き取った】と──。
 ──父上が亡くなった。
 エルジェネ王の病はいつ悪化してもおかしくない状態にあった。だから遠くない未来に“その時”がくるのはリオンも覚悟していた。
 そうだとしても、今このタイミングで訃報を知らされて思考が停止してしまう。
 一気に身体の力が抜けて呆然としていた時だった。
「リオン様!」
 衛兵の呼び声が鼓膜を貫き、ハッと我に返った。
 土煙の向こうから不気味な紫色に光る矢が飛んできて、リオンを守る衛兵たちが呻き声と共に落馬していく。
 唖然としている間に、立て続けに放たれた矢が衛兵という盾を失ったリオンめがけて飛んできた。
 ──これは避けきれない。
 反応に遅れたリオンがそう思った瞬間、近くにいたフィオナがアネモスの腹を蹴って勢いよく彼の前へと飛び出す。
 リオンの心臓を狙ったと思われる矢がフィオナの右肩に突き刺さり、彼女が小さな悲鳴を上げて後ろへ仰け反った。
 華奢な肢体が騎獣の背から落ちそうになるのを見て、リオンは咄嗟に腕を伸ばす。
「フィオナ!」
 落ちかけたフィオナを抱き留めて自分の馬へと引き上げた。
 近くで空を見上げていた兵士が、リオンに向かって声を張り上げる。
「リオン様! おかしな矢が飛んできます!」
「あれは魔術師が放った矢だ! 皆に撤退しろと伝えろ! 落馬した者たちにも手を貸してやってくれ!」
 兵士にそう命じると、リオンは馬を駆ってその場を離れる。
 興奮して足踏みしていたアネモスが匂いを嗅ぐ仕草をし、後から追いかけてきた。
 ──僕としたことが、父の訃報に動揺して飛んでくる矢に気づかなかった。
 まだ狼狽して手が震えていたが、腕に抱えた少女の重みが呆然自失となりそうなリオンを現実に引き戻す。
 ──しっかりしないといけない。何をするべきなのかを考えるんだ。
 今、ユラノス軍は王子が負傷して混乱している。
 本来であれば好機だが、エルジェネ王の訃報が届いたとなれば、すぐにでも王都にいる兄と連絡を取って今後の方針を決めなければならない。
 それに──と、リオンは意識を失ったフィオナを見下ろした。
 彼女の肩に刺さった矢は不気味な紫色の光を帯びている。
 ──これは、何らかの魔術がかかった矢だ。
 盾になってくれた衛兵たちも、この矢を受けて落馬していった。
 おそらく王子の負傷を知った魔術師の攻撃部隊が前線に出てきたのだろう。
 ──今は撤退するしかない。
 すでに薄暮が迫りつつあった。
 夜陰に紛れて紫色に発光する魔術の矢が降り注いだら、味方の軍は阿鼻叫喚になるかもしれない。
 そんな状態は避けなければならないと、リオンは撤退の命令を出しながら、奥歯を噛みしめて馬を走らせた。


 エルジェネ王の訃報は一気に駆け巡った。
 ユラノス軍も王子が手傷を負ったため布陣が崩れ、日暮れとともに撤退していった。
 エルジェネ王国側の天幕では各部隊の隊長や、王都から書簡を届けたメレディスの側近を交えて軍議が行なわれていた。
「メレディス様は休戦の交渉を行ない、撤退するべきとの意向を示しておられました」
「僕も兄上と同意見だ。父上……陛下の訃報で軍内の士気が低下している。休戦協定の交渉を行なうべきだ。僕が使者としてユラノス軍の陣営に赴こう」
 今日の戦いで、右陣の指揮を執っていたロレスタ侯爵の部隊が急襲を受け、侯爵自身も深手を負って治療中だ。
 兵は足りておらず、先陣を切れる指揮官が不足し始めている。
 ユラノス軍を総力で迎え撃てと命じた王が崩御した今、新王が即位することで国民を安心させ、自国内の安定に努めなければならない。
 リオンの言葉に異を唱える者はいなかった。
 この状態で戦いを続行するのは現実的ではないと皆、分かっているのだろう。
 ──今は哀しみに浸る暇はない。やるべきことをこなさなければ。
 前線を任された身なのだからと自分を奮い立たせ、リオンは兄宛ての書簡を綴った。
 リオン自ら交渉に臨むこと、休戦協定における条件のことなどを記し、王都へ使者を送る。それから衛兵を連れて天幕を後にした。
 向かったのは、怪我人が運びこまれる救護班の天幕だ。
 広い天幕の中には多くの負傷兵がいたが、重苦しい雰囲気に満ちていた。
 リオンは哀しみを表に出すことなく彼らを労い、白衣の女性に指示を出している赤毛の男のもとへ向かった。
「グラディオ公爵」
 エルジェネ王国の魔術部隊の長であり、医療魔術に長けた魔術師、アラン・グラディオ公爵が振り返る。
 リオンを見るなり、グラディオ公爵は恭しくお辞儀をした。
「リオン様。軍議に出席できず申し訳ございませんでした」
「気にしなくていい。軍議は無事に終わった。休戦交渉に赴く運びになりそうだ」
「恐れながら、賢明なご判断だと思います。陛下のことで、軍内の士気も低下していますから」
 グラディオ公爵が暗い面持ちで告げて、天幕をぐるりと見渡したあと、リオンについてきてほしいと促した。
 連れられて行った先は隣の天幕で、重傷を負ったロレスタ侯爵だけでなく、矢で射られた衛兵も手当てを受けていた。
 リオンは彼らに一人ずつ声をかけて、意識のないロレスタ侯爵の寝台の横に立つ。
「アルノルドの容態は?」
「腹部を斬られても戦い続けたそうですが、途中で落馬して頭を打ったようです。まだ意識が戻りません」
「傷は深いのか」
「はい。ですが傷は縫合して治癒力を高めてあります。命に別状はありませんので、いずれ目を覚ますでしょう」
「それならよかった」
 ほっと安堵の息をついた時、グラディオ公爵が「リオン様」と呼び、手にした矢を見せてくれた。
 禍々しい紫色の光は消えていたが、ユラノス軍の魔術師が放った矢だ。
「私のほうで回収した矢です。リオン様がおっしゃっていたとおり魔術がかけられていました。特定の標的めがけてまっすぐに飛んでいき、肉と骨を貫通する。しかし、それ以上のことは分かりません。王都へ持ち帰って調べてみるつもりです」
「よろしく頼む」
「念のため、部下に命じて野営地の周辺に結界も張らせました。何らかの魔術が使われたら、すぐ感知できるようになっています」
「そのあたりは任せた。僕も魔術は専門外だからな」
 リオンは静かな天幕を見渡してから眉根を寄せた。
「フィオナはどこにいるんだ」
「こちらです。先ほどまでロレスタ侯爵のご子息たちがいて、侯爵の側に付き添っていたのですが、少し休んだほうがいいと説得しました。今は横になっています」
「ジェイドたちが来ていたのか。すれ違いになったな」
 友人のジェイドと、侯爵家の長男ルトランは右陣の部隊にいたので、野営地以外で顔を合わせることは少なかった。
 女性の怪我人用の天幕がないため、奥に衝立が置かれてスペースが確保されている。
 覗きこむと寝台にフィオナが横たわっており、白衣の女性が付き添っていた。
 リオンと目が合った途端、フィオナが起き上がろうとしたので「そのままでいい」と手で制し、ゆっくりと歩み寄る。