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ヴォルフ公の結婚 一角獣の乙女は旦那様に過保護な愛をそそがれる 3

第三話

 


「グラディオ公爵。少しの間、彼女と話してもいいだろうか」
「はい。私どもは衝立の向こうにおりますので」
 衛兵を衝立の脇に控えさせて、グラディオ公爵と白衣の女性が下がるのを確認すると、リオンはフィオナの寝台の脇に膝を突く。
 手当てを受けた彼女は白いワンピースに着替えていた。襟元からは肩に巻いた包帯が見える。
「すまなかった。僕を庇ったせいで、こんな傷を負わせてしまった」
「とんでもありません。リオン様がご無事でよかったです」
「……助けてくれてありがとう、フィオナ」
 頭を垂れながら礼を言うと、フィオナがアイスブルーの目を見開いた。
「お顔を上げてください。私のほうこそ、救護班のもとまで運んでくださり、ありがとうございました」
「ああ。傷は痛むかい?」
「公爵様に鎮痛の魔術をかけてもらったので、痛みはありません」
「それならいいが……」
 矢を受けた彼女が苦悶に仰け反っていた様を思い出し、リオンが顔を顰めた時、フィオナの目元が赤くなっていると気づく。
 魔術の矢に射貫かれ、父親は落馬して昏睡状態だ。先ほどまで兄二人が来ていたと言うから泣いたのかもしれない。
 よく見ればフィオナの両手は細かい傷だらけだ。騎獣に振り落とされないよう手綱を強く握りしめたせいだろう。
 男装していた時と比べたら、身体つきも一層ほっそりとして見える。
 ──こんな細い身体で、フィオナはあの戦場を駆けていたのか。
 臆することなく騎獣に跨り、見事に伝令使をこなした上、身を挺してリオンを救った。
 フィオナが庇ってくれなければ、彼はあの矢で射貫かれていたはずだ。
「あの、リオン様」
「なんだい」
「陛下が亡くなられたことを、お兄様たちから聞きました。私が運んだ書簡に書かれていたのですよね」
「……そのとおりだ」
 そういえば書簡を受け取った時、リオンが呆然とする姿を彼女は誰よりも近くで見ていたのだ。
 情けないところを見られてしまったなと苦い表情を浮かべた時、フィオナが怪我をしていないほうの手を差し出してくる。
「リオン様。手を貸していただけますか」
「?」
 言われるがまま彼女の小さな手に自分の手を乗せたら、ぎゅっと握られた。
「私、なんとお言葉をかけたらいいか、分からなくて……ごめんなさい」
「いいんだよ。僕もまだ現実味がないし、皆もそうだろう」
「でも、陛下はリオン様のお父上でしょう」
 自分のやるべきことをしなくてはと動き回り、考えないようにしていた“父”という響きで心臓が鷲掴みにされた心地になる。
 唇を引き結ぶと、フィオナが眉尻を下げながら続けた。
「おつらいはずなのに天幕を回られて、こんなふうに私の様子まで見に来てくださって、本当にありがとうございます」
 重ね合わせた手のひらから温もりが伝わってきたので、思わず顔を伏せる。
 ──ああ。だから、フィオナは僕の手を握ってくれたのか。
 人の温もりは優しい。
 泣きたくなるほどの喪失の痛みが和らいだ気がして、リオンは悲哀に染まった表情を一瞬で消すと、フィオナに笑いかけた。
「僕は王子だからね。国のために戦ってくれた人たちや、命を救ってくれた人の様子を見にくるのは当然だろう」
 両手で傷だらけの手を包みこみ、今度は自分の温もりを分けるように握ると、フィオナが黙って手元を見つめた。
 まもなく、アイスブルーの瞳から大粒の涙がぽろりと零れ落ちる。
 驚いて手を離せば、フィオナが顔を背けた。
「っ、すみません……」
 ぽろぽろと溢れる涙を手の甲で拭うフィオナを見ていたら、自然と身体が動いた。
 行き場の失くした手を伸ばし、おそるおそる彼女の頭を撫でてあげる。
 大きな手のひらを頭に添えてゆっくりと動かすと、フィオナは泣きやむどころかしゃくり上げた。何故か涙の勢いが増していく。
「っ、どうしたんだ? 髪を撫でるのは、いけなかったかな」
「……いいえ、ただ……リオン様の、手が……とても、大きくて……」
 彼女はとめどなく涙を流し、か細い声で続けた。
「お父様の、手に……よく、似ていて……なんだか、緊張が、解けてしまって……」
 泣きじゃくるフィオナは戦場で勇ましく駆けていた姿とは違い、まだ幼さが残る年相応の少女に見えた。
 ──無理もないな。ずっと気を張りつめていただろうから。
 しばらく撫でてやっていたらフィオナが泣き疲れて眠ってしまう。
 あどけない寝顔を眺めながら、リオンは彼女の泣き腫らした目元にそっと触れた。
『美しい瞳だなと思ったんです』
 朝と夜みたい。
 出会ったばかりの頃、彼の瞳を見てフィオナはそう言った。
 生まれついたオッドアイを物珍しがられることはたくさんあり、不愉快に思う時が多かったけれども、そんなふうに褒められたのは初めてだったから驚き、へりくだって接してこない彼女の存在に心が癒されたものだ。
「フィオナ……」
 彼女が戦場に立つ許可を出したのはリオンだ。その重責を感じて胸が苦しくなる。
 ここで止めなければ、フィオナのように年若い少女や、未来ある子供たちまで傷つくことになるだろう。
 ──これ以上、戦いは続けられない。続けるべきではないんだ。
 フィオナの眦に残る涙を指の背で拭ってやり、最後にもう一度だけ頭を撫でてあげてから、リオンは天幕を後にした。
 優しい温もりが残る手のひらをきつく握りしめる。
 ユラノス軍との交渉に赴けば、怪我をさせたユラノス軍の王子と対面するだろうし、向こうの出方次第では命の危険を伴うかもしれない。
 交渉そのものを一蹴される可能性もあった。
 ──たとえそうなったとしても、とにかく休戦交渉は行なうべきだ。そのために考えなくてはならないことが山ほどある。
 こちらの申し出につけこみ、ユラノス側に有利な条件を呑まされそうだが、ひとまず行動しなければなるまい。
 王都へ帰れば、父を亡くした哀しみと向き合うことにもなるだろう。
 しかし心のどこかで、父が亡くなったのをきっかけに、休戦協定を結ぶという選択肢が得られたことにホッとした自分がいるのもリオンは気づいていた。
 ──僕は薄情なのかもしれない。
 父の死を悼むより先に安堵しているなんて、と、自嘲ぎみに口元を歪めた。


 翌日、ユラノス軍に一時休戦の旨と協定の交渉を申し出た。
 にべもなく追い返されると思ったが、ユラノス側は交渉の場を設けることを承諾して数日後には交渉会談が行なわれた。
 矢傷を負ったユラノスの王子とも顔を合わせて、交渉は難航するかと思いきや、意外なことにユラノス側も休戦には前向きだった。
 正式な協定締結は後日になったものの、王子は去り際、リオンに告げた。
「正直、私もほっとしています。もともと父とは意見が合わず、戦争には反対派でしたからね。まぁ、そのお蔭で前線へ行けと命じられたのですが」
 こんな戦は続けるべきではありません。
 王子は苦い表情でそう言い残し、ユラノス軍を率いて撤退していった。
 後になって知ったことだが、エルジェネとの戦が始まってから、ユラノス王は体調を崩していたらしい。
 はじめは単なる風邪だったのに、高齢のため悪化して肺炎になったのだとか。
 魔術部隊を投入するようにと命じたのち、休戦交渉に応じる頃には、すでに意識がなくて虫の息だったようだ。
 それゆえユラノス側も休戦交渉に応じると決断できたのだろう。
 老いた王と病んだ王が始めた戦争は、皮肉にもそれぞれの王が倒れたことで休戦を迎えたのだ。


 国葬の日、無事に王都に戻ってきたリオンは城内の礼拝堂にいた。
 祭壇の前には棺が置かれて、防腐処理をされた父の亡骸が横たえられており、白く透ける布で覆われていた。
 すでに父との別れは済ませたものの、複雑な心地で棺の前に立っていたら、背後から兄の声がした。
「リオン、そろそろ時間だぞ」
「兄上……」
「別れを惜しむのは分かるが、父上の棺を運び出さなくてはならないからな」
 喪服姿でやってきた兄のメレディスは短めの金髪で、リオンと同じくらい背丈があるが、肩幅が広くて体格がいい。
 リオンも日頃から身体を鍛えているけれど、メレディスと並ぶと痩せ型に見える。
 ただ、メレディスの穏やかそうな目元や顔立ちはリオンとよく似ており、両目は父譲りのロイヤルブルーだ。
 リオンの右目のシルバーは、すでに他界した王妃から遺伝したもので、オッドアイなのもリオンだけだった。
 メレディスが隣に並んできたので、リオンは首を傾げる。
「時間じゃないんですか、兄上」
「時間だが、もう少しくらい構わないだろう」
 兄が瞑目したのを見て、リオンも倣って瞼を伏せる。
 しばし黙祷を捧げていると、メレディスがぽつりと呟いた。
「お前には苦労をかけたな、リオン」
「いきなり何です。苦労って、まさか今回の戦のことを言っていますか?」
「ああ。だが父上が亡くなり、これからはもっと苦労をかけるかもしれない」
「僕は慣れているので平気ですよ。兄上は気にしなくていいんです」
 リオンは軽い口調で応じたが、メレディスが物憂げなため息をついた。
「……私の即位を快く思わない連中がいる。此度の戦も、私は前線には赴かなかった。お前が軍を指揮して休戦協定を結んだことで、お前を国王にと望む者たちがいるようだ」
「それは、なんともくだらないですね。国王には兄上がなるべきだ」
「お前のほうが王にふさわしいかもしれない」
「何を言い出すかと思えば、笑えない冗談ですよ」
 父の棺の前で、兄と肩を並べながら、リオンは両手を後ろに回して目を開けた。
「僕は武器の扱いに長けているだけで、一国の指導者には向いていません。あなたほど優秀でもない」
「お前は優秀だ、リオン。努力家だし、何でもそつなくこなす」
「でも、どれも兄上には勝てません」
 誇張でも何でもなかった。メレディスは天才肌で記憶力がよく、何をやらせても短時間で身につけてしまう。
 細かいところを気にしない大らかな気質や、鷹揚な態度も王にふさわしい。
 その点、リオンは何ごともそつなくこなすが、すべて努力に裏付けられている。
 書物は兄の何倍も読みこまないと理解できないし、ひたすら反復練習しなければ武術を身につけられなかった。
 そのせいで幼少期から兄の才に嫉妬し、どうして自分はこれほど出来が悪いのかと落ちこむこともあった。
 王立学校に在学中、兄を疎ましく思い、城へ帰るのが嫌になった時期がある。
 リオンが王子だからという理由で媚びへつらう者たちにも辟易として、少しばかり心が荒れていた。
 ちょうどその頃、変わり者のジェイドと知り合った。それがきっかけでロレスタ侯爵家に足を運んで、フィオナとも出会い、彼らの仲がいいのを見て「兄弟仲がいいのも悪くないのかもしれないな」と思えるようになったのだ。
 戦の最中も、王都に残った兄とは密に連絡を取り合い、今はもう才能の差に悩むのが馬鹿らしくなってしまった。
 ──僕には兄のような才はない。それに王になりたいわけじゃないんだ。
 戦場で生活をし、前線で戦いながら気づかされたことだ。
 有事の際は最前線で軍を指揮し、信頼できる指導者のもとで動くほうが性に合っている。
 ──今回の戦争で思い知った。王は命令一つで、国をどうにでもできてしまう。情けないと言われるかもしれないが、僕はそれを重責に感じる。その点、兄上は違う。
 いざという時、メレディスは王として国のためになる決断を下せるだろう。
 黙りこむ兄を一瞥して、リオンは苦笑した。
「兄上。父上の葬儀が終わって、戴冠式も終わったら、僕はしばらく王都を離れようと考えています」
「なんだと?」
「僕がいなければ、勝手に持ち上げようとする連中も静かになるはずです。その間に、兄上は国王としての地位を盤石にすればいい」
「しかし、王都を離れると言っても、どこへ行くつもりなんだ」
「……このところ西の国境沿いで魔獣が出没し、人を襲っているようです。軍では腕利きの者を集めて、魔獣討伐の専門部隊を編成し、遠征するという案が出ています。今は人手不足ですし、僕もそこに参加しようかなと」
 遠くを見ながら言うと、メレディスがぎょっとしたように目を見開く。
「リオン、お前……この状況で、その発想が出てくる時点で、やはり軍人の才があるな」
「ここで感心している時点で、兄上は軍人を使う王の才がありますよ」
 普通なら心配するところですからね。
 リオンは呆れ顔で付け足し、兄とともに父の棺へと一礼すると踵を返した。
 棺を運び出すのは衛兵に任せて、城の二階にあるテラスへ移動する。
 そこからはロータリーに集まった貴族一同を見渡すことができ、城門が開け放たれているので国葬に詰めかけた国民が見える。
 メレディスが哀悼の意を述べるために皆の前へと進み出た。
 リオンは兄の斜め後ろに控えたが、どこからか視線を感じてロータリーを見回す。
 喪服を着た友人ジェイドがいて、その隣にいるフィオナと目が合う。まだ傷は完治していないだろうが、葬儀に参列できるほどには回復したらしい。
「皆の者、よく集まってくれた」
 メレディスが堂々とした佇まいで口火を切れば、あたりが一斉に静まり返り、皆が兄を注目し始める。
 ──ここで父を見送ったら、僕は僕のやり方で国のためになることをしよう。
 たとえ自分という存在が、輝かしい兄の影に霞んだとしても構わない。
 ただ、もし一つだけ……と、リオンは晴れた空に目線を向ける。
 ──どこでもいい、何でもいい。いつか僕が誰にも負けず、一番になれる場所が手に入るのなら、それはきっと僕にとって何よりも大切なものになるだろう。
 その時、またしても視線を感じた。
 皆が兄を見ているはずなのに、リオンを見ている者がいる。
 なにげなく目をやれば、また快晴の空とよく似たアイスブルーの瞳とかち合った。
 ──フィオナ。
 リオンはわずかに目を細めると、後ろに回した両手をぎゅっと握りしめる。
 どこでもいい、何でもいい。
 たとえば“誰かにとっての一番”でもいいのだ。
 メレディスの語りが終わるまで、リオンはずっとフィオナの視線を感じていた。


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