悪役令嬢はモブでいたい 推し侯爵様の闇堕ちを阻止したら激重溺愛されました!? 1
もしも大好きな乙女ゲームの世界に転生できたら。
ベタに悪役令嬢なんかになっちゃったら。
その場合、「勝利条件」ってなんだろう。
断罪回避? 辺境でのスローライフ?
わたしの場合は──、とユリアは考える。
推しから認知されずに、ひたすらモブとして過ごすこと。どう考えても自分にとっての最適解はこれしかない。
「──う、わっ!」
突然ひどい立ちくらみがして、身体がぐらりと傾く。
藁にも縋る思いで両手をばたつかせ、目の前のなにかにしがみついた。
なんとかその場に転倒するのは避けたけれど──。
どうやら自分は、隣を歩いていた人の腕にしがみついたらしい。紺色のジャケットを着た、男性の腕。そこに身体をぴったりと密着させている。
「ご、ごめ──」
慌てて顔を上げれば、こちらを見下ろす、ぞっとするほど冷たい視線に行き当たる。
「離せ」
よほど不快だったのか、怒りをにじませた低い声が降ってくる。
けれどユリアは驚きのあまり硬直したまま動けない。
だって、この人は──。
「ヴィル……」
ぽつりとつぶやくと、彼の眉根に刻まれた皺が深くなる。
「お前は頭が足りていないのか? 愛称で呼ぶなと何度言えばわかる。そして触れるな、と言ったのも」
「あっ!」
強い力で手を振りほどかれ、反動でその場にへたり込んだ。
一体どうなっているのだろう。
混乱していた頭を整理する。
まわりを見れば、クラシカルな雰囲気の建物内にいるようだ。
手をついたのは大理石の床で、ひんやりとした温度が伝わってくる。天井には等間隔にシャンデリアが吊され、精緻な装飾の施されたアーチ窓からはたっぷりと陽が射し込んでいる。
この景色を見たことがある、と思った。
学園の廊下だ。
瞬間、ユリアははっと気づいた。
──ここは乙女ゲーム『魔法学園エーデルリヒト』の世界だ。
自分の名前は、山田百合。そのゲームが大好きだった、普通の社会人のはず。百合としての記憶は夜中の帰宅途中、車のヘッドライトに照らされたところで終わっている。おそらく交通事故に遭ってそのまま──。
(わたし、転生したの!?)
だってこの廊下の景色は、ゲームの背景グラフィックで何度も見たのと一緒だし、なにより目の前にいるこの人が──。
「脂肪の塊を押しつけられて不愉快だ。不用意に俺に近づくな」
座り込んだまま呆然とするユリアを軽蔑の視線で睨みつけると、彼はその場を去って行ってしまった。
魔法学園エーデルリヒト。通称「まほルリ」。
舞台は全寮制のエリート魔法学校という乙女ゲームだ。
ユリアはふらつく身体に鞭を打って、女子寮の自室に戻ってきていた。
「詰んだ……」
鏡台を覗き込めば真っ青な顔が映っている。
長い髪にはきついウェーブがかかり、瞳は目尻がきゅっと上がっていた。どちらも燃えるように真っ赤で、肌の白さを際立たせる。
まるでハリウッドのレッドカーペットでも歩いていそうな派手な美人だ。
ユリア・ヴェルトラム。二十歳。
エーデルリヒトに通う意地の悪い令嬢である。
(まさかまほルリの悪役令嬢に転生するなんて……)
ゲームでは、どんなルートでも主人公の前に現れて、度が過ぎた嫌がらせをしてくるキャラがユリアだ。
そして、先ほどこちらに汚物を見るような視線を向けていたのが、ヴィル──ヴィルフリート・フィンスター。ユリアと同い年の彼は、ゲームの中で悪役令嬢と組み、主人公に嫌がらせを重ねる役回りだ。
そんなヴィルフリートが、前世での最推しキャラだった。
だからこそ、悪役令嬢に転生なんて、最悪なのだ。
設定的に言えば、いつもヴィルと一緒に登場するユリアに転生できたなんて、むしろラッキーだと思うかもしれない。
しかしユリアの信条がそれを許さない。
(わたしは推しに認知されたくないの! 陰からひっそり応援したいタイプなの!!)
ゲームをはじめ、アニメや漫画は好きだったから、流行の転生ものよろしく、自分が推し作品の世界に行ったら……なんて考えたこともある。
けれど何度考えてもユリアのベストな転生は「推しの部屋の壁になる」だった。
推しとの会話なんていらない。ただその生活をじっくりこっそり覗き見させてもらえれば満足なのだ。
自分の存在を知られなくてもいい、なんて生半可な気持ちではない。認知されるのは絶対拒否! なのである。
そうまで頑なな信念を抱くに至ったのは、これまでの推し活のせいだ。
アイドルや配信者を推し、握手会に行ったりスパチャを送ったりしているうちに、彼らがこちらの顔や名前を覚える機会もあった。
すると度々、他のファンからのやっかみに晒され、炎上に巻き込まれるようになった。
自分は彼らのパフォーマンスを楽しんでいただけなのに。鍵をかけた推し活アカウントで日々の感想を書き連ねながら、不満はじわじわと蓄積されていった。
ただお金を払うだけのモブでいさせてほしい。そんな気持ちから、段々と三次元ではなく二次元のキャラクターに心惹かれるようになった。
彼らはいくら課金しても、キャラクター自体がこちらを認知してくることはないからだ。
そして二次元の顔がいい男性たちに夢中になった頃、まほルリに出会った。
はじめは美麗なグラフィックや世界観に魅了され、全キャラの攻略をしようと周回プレイして。
しかし一番気になったキャラは攻略対象外の、ミステリアスなヴィルだった。
どのルートでも悪役令嬢に追従する、陰のある美形。悪役令嬢に対して好意を抱いているふうには思えないのに、彼女の言うがままに行動する不思議なキャラだ。
謎に包まれた設定に、どんどんヴィルが気になっていった。
(最推しだからこそ、ヴィルとの接点なんて持ちたくなかったのに……)
転生したらやりたいことの第一位である「推しに存在を認識されず一生ひっそりと応援する」の夢が早々に打ち砕かれてしまった。
もうこの世界でなにをすればいいのかわからない。
ユリアは寝台に大の字に寝転んだ。
(ここから存在感を消していけば……そのうち彼にとってのモブになれるかしら)
ゲームのシナリオがはじまるのは一年生が入学してくる春から。
そのとき、悪役令嬢は最上級の三年生だ。
カレンダーを確認すると、今はそのシナリオの数ヶ月前らしい。ユリアもヴィルも学園の二年生というわけだ。
これから彼とまったく接触せずに過ごす、なんて可能だろうか。
まほルリの舞台である「エーデルリヒト」という学園は、魔法のエリートたちが通う学校だ。生徒たちはほとんどが貴族の子息令嬢である。
子供でもないけれど、まだ完全な大人にもなりきれない。精神も、そして魔力も不安定な時期。
主人公たちは全寮制のこの学園で、そんな繊細な時期を過ごし、魔力のコントロールを学ぶ。
学園では魔力の相性がいいもの同士が二人一組のバディを組む。魔力が安定しないと暴走して周囲一帯を荒れ地にするほどの大爆発を起こす危険があるため、バディが魔力吸収して力を鎮める。──という設定のゲームだった。
魔力は相手に触れると吸収できる。接触必須の設定ゆえに生み出される超近距離のスチルにはきゅんきゅんさせられたものだ。
けれど今はそんな設定を恨みたくなる。
ヴィルのバディこそが、ユリアだからだ。
闇属性の魔力を持つヴィルは、幼い頃から魔力のコントロールが不得手だった。それを身につけるため学園に入り、そしてユリアと相棒になるのだ。ヴィルの大きすぎる魔力を吸収できるのは、無限に魔力を吸収できる体質のユリアだけだからである。
(だからヴィルがいつもユリアと一緒にいる理由はわかるのよね。悪役令嬢の命令するままに主人公をいじめていた理由はゲーム内で語られなかったけど。主人公に恨みがあるような描かれ方でもなかったし……)
ヴィルに関する考察は尽きない。攻略対象でない分、明かされていない背景が多すぎるのだ。
ゲーム内では主人公への嫌がらせの主犯格がユリアで、その実行犯がヴィルだった。
ユリアは魔力の吸収は得意なものの、魔法がまったく使えない。
だからヴィルを手駒として使い、魔法で主人公に怪我をさせたり、ひどいルートだと殺そうとまでしていた。
断罪イベントでは、直接手を下さなかったユリアは一生修道院で暮らすよう義務づけられるに留まるが、ヴィルは魔物のいる森に追放される。実質的な死刑だ。
そのシナリオには、未だに納得がいっていない。どう考えても命令を下したユリアが悪いはず。ヴィルには主人公を進んで害そうという態度は見られなかった。嫌がらせはなにか理由があってのことなのではと、今でも思っている。
(でも、今ならヴィルの断罪は回避できるかもしれない)
なぜならヴィルは現在、ユリアを毛嫌いしているらしいのだ。ユリアに従順だったゲームのヴィルとは様子が違う。
おそらく彼はまだ「闇落ち」前の状態なのだろう。
悪役令嬢の手駒として暗躍するきっかけになったのは、彼が自身の魔力暴走により姉を死なせてしまったからだとファンブックに書かれていた。
なぜそんな悲しい出来事を経て悪事に荷担するようになるかは不明だが、心を打ち砕かれる出来事によって、性格や考え方ががらりと変わったのだとしたら。
「悪役令嬢につんけんした態度を取っているってことは、闇落ち前よね。ゲームでは反抗的な面なんてなかったし」
つまり魔力暴走を防ぐために適宜吸収すれば、闇落ちを回避できる。そしてそのまま何事もなく卒業できる。
魔力吸収に使える便利な道具くらいの立ち位置に納まれれば、卒業後はそんなやつの存在は忘れるのでは。
そうすれば見事立派な大人になったヴィルを、モブとして陰から見守る生活がそこからはじまる──?
「便利道具からのモブ作戦。これで行きましょう!」
ユリアは上体を起こすと大きく頷いた。
理想とは遥かに遠いけれど、やれることをやるしかない。
生徒は毎朝、男女に分かれた寮にて朝食を終えると、授業を受けるために校舎棟へと移動する。
いくつもの尖塔が印象的なレンガ造りの校舎は、まるでお城かと見紛うほど荘厳で大きい。
一目散に朝の準備を終えたユリアは、学園の正門でヴィルを待ち構えていた。
学園では制服の着用が義務づけられている。
男女ともに紺色のブレザー風ジャケット。その下は女子がスカートで、男子がスラックスだ。どことなく日本の高校生風だが、ブラウスにはフリルがあしらわれていたりして、貴族らしい優美さのあるデザインである。
そして外套として、女子は腰までの短いケープ。男子は足首まである長いローブを着用すると決められている。室内での着脱は自由だが、校門前では登園してくる生徒がみな、この外套を身に纏っている。
もちろんユリアもそうだ。
ゲームプレイ中もこの制服がかわいくてずっと憧れていた。
けれど今はそれどころではない。
きょろきょろとあたりを見回して、お目当ての人物を捜す。
(いた!)
人波の中に、少し猫背になって歩く長身を見つけた。
「ヴィルフリート、その……おはよう」
おずおずと声をかける。予想通り、鬱陶しそうな態度を隠そうともせず、ヴィルがこちらを睨みつけてくる。
柔らかくウェーブした長めの黒髪。前髪も長く、視界を遮る様はまるで自分と世界とを切り離そうとしているかのようで。
その奥に、光のない黒い瞳が覗いている。
よく見るととんでもない美形だ。肌の白さも相まって、まるで作り物めいている。
長いローブがよく似合い、ミステリアスな雰囲気がさらに増していた。
ヴィルからは近づくなオーラがまき散らされている。周囲では生徒たちが挨拶をして一緒に校内へ入っていくが、ヴィルは徹頭徹尾一人だ。
ヴィルのイメージといえばダウナーで一匹狼でとにかく陰のある性格。
今のヴィルはまさにゲームそのままのキャラではないか。
(これこそわたしが見たかったヴィルだわ)
どうやら彼の性格は闇落ちによって変わったものではないらしい。
闇落ち前のヴィルが明るく社交的だったりしたら事実を受け入れられるか不安に思っていたが、杞憂だったようだ。
見蕩れていると、ヴィルがその横をさっさと通り過ぎようとする。
「あっ、ま、待って! ごめんなさい、話があるの」
「……名前、ようやく覚えたようだな」
「へ?」
「何度言っても愛称で呼ぶのをやめなかったのに。どうも頭の足りない女だと思っていたが、やっと多少の知能を身につけたらしい」
氷のような冷ややかな眼差しで睨まれる。
(ヴィルって嫌みとか言うのね……)
ヴィルフリートは寡黙なキャラだった。他のキャラと会話している場面なんてゲームでもほとんどない。
そんな彼が一言言いたくなるくらいには、ユリアの行いは目に余ったらしい。
(闇落ち前のヴィルってここまで悪役令嬢を嫌っていたんだわ)
新事実に驚きつつ、ユリアは頭を下げる。
「い、今までごめんなさい。これからはあなたが不快に思う行いはしないと誓うから──」
「そんな手に乗るか」
「え?」
「騙して俺を言いくるめようとしているのだろう」
こちらに向けられる怒りが強くなる。
「ち、違うの! ええと、だから、今後は必要最低限の接触しかしないと伝えにきたのよ。わたしはあなたの魔力が暴走しないよう吸収する。それ以外は関わりをもたないわ」
胡乱な目つきは変わらずだ。どうやったら信じてもらえるだろう。
「だ、だから、わたしのことは不要な魔力をぽいっと捨てるだけのゴミ箱くらいに思ってくれればいいのよ。挨拶もいらないし、もちろん感謝する必要だってない。必要なとき以外は無視すればいい。それなら問題ないでしょう?」
ヴィルがユリアに求めるのは、魔力吸収という力だけのはず。
ユリアはヴィルの前で存在を主張したくないし、これは彼にとってもかなりいい提案だろう。
早速、魔力を吸収してあげよう。
そう思って彼の手に触れようとする。
しかし直前で、ばっと振り払われてしまった。
「触れるな!」
「えっ」
「気味の悪い女だ……お前が自分をゴミ箱扱いしろだと? 俺の魔力を毎日吸収する? 嘘をつくな」
「え、ちょっ──」
そう吐き捨てると、ヴィルは校舎へと向かって行ってしまった。
遠くで予鈴の音が聞こえる。
こんなメリットしかない提案を突っぱねるなんて──。
「なにをしたらあれほど嫌われるのよ、ユリア・ヴェルトラム……」
人気のない校門前で、ユリアは途方に暮れてしまった。
教室の様子は、日本の学生が通うそれと大きな違いはない。
四十人ほどが使用する部屋の中には木製の机がそれぞれ独立した形で並べられている。
ただし、やはりそこは貴族の通うエリート校。
机の天板に手を滑らせると、重厚な木のぬくもりが伝わってくる。かなりの高級品だろう。
教室の天井は高く、廊下と同じようにアーチ窓からたっぷりと日光が射し込む。
ユリアの席は窓側の一番後ろだ。
その斜め前にヴィルの席がある。
横顔をこっそり観察するが、授業態度が真面目だということ以外、特に有益な情報は得られない。
ヴィルは教卓に上がる教師の説明を熱心に聞き、ノートをとっていた。
今は魔法実践学の授業中だ。魔力を魔法に変換する際、体内でどんな反応が起きているだとか、転じてどうすれば魔法を低コストな魔力で発動させられるかについての学問である。この仕組みを理解していないと、実際に魔法を使うときに苦労するらしい。
魔法の使えない自分にはあまり関係のなさそうな授業だと、内心思った。
(でも、この授業面白いわね。先生の説明がうまいのかしら)
男性教師は二十代半ば頃だろうか。砂色の髪を後ろで一つに括り、メタルフレームの眼鏡をかけた優しそうな雰囲気。名前はフェリクスというらしい。
(眼鏡の奥は緑色の瞳なのね……眼鏡を外すと結構なイケメンじゃないかしら。ゲームには出てこなかったのがもったいないわね)
もしまほルリに続編があったなら、彼も攻略対象キャラだったりして、なんて考えてしまう。
午前の授業が終わるとお昼休みだ。生徒たちは次々に教室を出て行く。
ユリアはヴィルに魔力吸収させてもらえないか、その機会を窺う。しかし机上のものを片付けたヴィルも、一人でさっさとどこかに行ってしまった。
(人を拒絶するオーラが消えないわね)
朝、機嫌が悪かったのは低血圧のせいかもしれないという希望は打ち砕かれた。ヴィルのあの態度は平常運転だ。
ひとまずこちらも普通の学園生活を送るしかない。
(……そういえば、わたしっていつも誰とランチしていたのかしら)
ユリアに声をかけてくる人は、朝から誰もいない。
考えてみれば、ゲームでもユリアがヴィル以外とつるんでいるところを見たことがない。
(まさか……わたしって友達がいないの!?)
悲しい事実に気づいて愕然としてしまう。
せっかく推しゲームの素敵な世界観の中で生活できるのに、ぼっちだなんてありえない。
ユリアの前の席では、女の子三人組が集まって、カフェテリアに行こうと誘い合っている。
ユリアは思わず声をかけていた。
「ねえ、わたしも一緒に行っていいかしら」
なるべく感じ良く話し掛けたつもりだったが、女の子たちは一瞬ぽかんとしたあと、困ったように笑い合った。
「でも……いつもはヴィルフリートさまと一緒じゃ……?」
「え、そう……だったかしら?」
どうやら、ユリアはヴィルとランチタイムを過ごしていたらしい。けれどヴィルは頑なに単独行動している。
「きょ、今日からは別々に過ごすの。だから──」
「ごめんなさい、わたしたちが使ってるのは三人席だから」
無理やり会話を切り上げ、女の子たちは行ってしまった。
三人席ならしかたない。そう思おうとしたけれど、しっかり傷ついてしまう。
仲良しグループと行動したいのはわかるけれど、少しくらいの交流も許されないのだろうか。
(それとも……わたし、だから?)
他者との交流を拒否しているのではなく、ユリア・ヴェルトラムだから断った?
もしかしてヴィル以外にも嫌われているんじゃ、と考えて背中を嫌な汗が伝った。
推しに認知されたくないだけで、友人は普通に欲しいのに。
一体ユリアは今までどんな行いをしてきたのだろう。頭が痛くなってくる。
賑やかなカフェテリアで食事する気分になれなくて、ユリアはハムとチーズの入ったライ麦パンのサンドイッチを買うと、中庭に出た。
こちらでも生徒が数人談笑しているが、混み具合はカフェテリアよりマシだ。
どこに座ろうか、ぐるりと中庭を見回したユリアは慌てて近くの生け垣の陰に隠れる。
(どうしよう、なんでいるのよ……!)
視線の先には、丸いガーデンテーブルでなにか分厚い本を読んでいるヴィルの姿があった。
考えてみれば、彼も人ごみは苦手な部類。うるさい場所を避けてここにやってきたのだろう。
(しかたないわね。見つかったらまた嫌な顔をされるでしょうし、ここで食べましょう)
ヴィルは長い足を組んで、真剣にページに視線を落としている。それを捲る指もすらりと長い。
何気ない仕草がとても美しい。ある意味ここは特等席だったようだ。
ユリアはヴィルを凝視したままサンドイッチをかじる。さながら張り込み中の刑事のようだが、こんな姿誰も見ていないのでよしとしよう。
しかし──。
「きゃっ、素敵」
「まるで絵画のようだわ」
ひそひそ声が聞こえてきて視線を右にやると、女生徒が二人でヴィルを見ていた。
彼女たちも生け垣に隠れてヴィルを観察しているらしい。
(なるほど、ヴィルの顔がいいのは、知る人は知ってるわけね)
彼女たちもユリアと同じスタンスで推し活しているのだろうか。それとも、話し掛ける勇気が出ないだけで、認知されたいタイプ?
大人しそうな雰囲気の子たちだから後者かもしれない。
どっちにしろ、ヴィルに軽々しく突撃しないのは懸命な判断だろう。
絶対嫌われるからだ。
(わたしもあなたたちみたいに、彼にとってのモブに転生できてたら良かったんだけどね……)
それに友人がいるのも羨ましい。
そう心の中で涙する。
結局、学校にいるあいだはヴィルに話し掛けることはできなかった。
その夜、消沈したユリアはサロンを訪れていた。
エーデルリヒトの寮には、男子寮と女子寮のあいだにサロン棟と呼ばれる建物がある。
その中にあるいくつもの小部屋がサロン。各バディに与えられる部屋だ。
それぞれの寮は異性の立ち入りを禁じているが、サロン棟だけは男女ともに利用でき、主に校舎外で魔力吸収をする必要のあるときに使用される。だが使用目的は限られていないため、ユリアは少しでも気分転換しようとそこへ向かったのだった。
六畳ほどの部屋には、シンプルながら瀟洒な調度品が置かれていた。
床にはふかふかの絨毯が敷かれ、部屋の中央にはローテーブル。その上にはステンドグラスのルームランプが鎮座している。
テーブルを挟むように、二人掛けのソファと二脚のスツールも配置されていた。
壁際の本棚には分厚い本が数冊。これはヴィルの私物だろうか。
窓は小ぶりで、シャンデリアもない。
室内は月明かりとルームランプの明かりだけで、薄暗かった。
しかしそれが却って落ち着く。
ユリアはソファに腰掛けた。
サロンはそれぞれのバディにあてがわれており、この部屋を使えるのはユリアとヴィルのみだ。
なんだか秘密基地みたい、だなんてユリアは考える。
もしも本がヴィルの私物なら、ユリアのものも置いて構わないだろうか。お茶のセットなんかがあると嬉しいのだが。
(でもヴィルの機嫌を損ねてしまうかもしれないわね)
ユリアが苦笑したとき、がちゃりと部屋の扉が開いた。