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悪役令嬢はモブでいたい 推し侯爵様の闇堕ちを阻止したら激重溺愛されました!? 3

第三話

 

 ヴィルはそっと隣に腰掛けた。
 不可解な行動に驚いて、ユリアは身じろぎもできない。
(どういうこと!? どうしてヴィルから近づいてくるの!?)
 ヴィルはユリアをじっと見つめる。
「まずは……謝罪させてほしい、ユリア」
(名前……!)
 名で呼ばれたのははじめてかもしれない。思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
 陰のある漆黒の瞳が、まっすぐにこちらを捉えている。
「あの魔力吸収は嘘じゃなかったんだな。姉と会っているあいだ、今までにないほど身体が楽だった。いつもの、重くのしかかってくる気怠さから解放されたようで」
「よ、よかった……! あなた自身も魔力吸収の効果を実感できていたのね! 信じてくれてありがとう!」
 彼にどう思われても構わないと思っていた。けれど、こうして理解を示してくれるのならそれに越したことはない。
 ヴィルも深く頷く。
「実は見舞いの帰り際、姉の主治医から、毎日服用している薬に呪い魔法がかけられていたと聞いた」
「は──」    
 浮かべていた笑みが凍り付く。
(なにそれ、どういう意味……)
「呪いってそんな……薬は治療のために飲んでいるものでしょう? それが良くない影響を及ぼしていたっていうの……?」
「ああ。長期にわたる服用が姉の身体をさらに蝕み、それで治療の効果が薄かったようだ」
「ひ、ひどい、誰がそんな……」
「病院側は全力で犯人を捜すと言っていた。そして解呪魔法もすぐに研究すると。──だからユリア、本当に感謝している」
「え?」
「おそらくきみに魔力を吸ってもらっていなければ、俺は怒りによる魔力の激増で暴走を起こしていたに違いないからだ」
 たしかに、昨日吸収したばかりにしては、ヴィルの纏う魔力のオーラはずっしりと重い。吸収していなかったら元から蓄えていた魔力と合わさって、暴走していただろう。
(もしかして、まほルリでヴィルが闇落ちしたのって、今の話のせい?)
 姉のお見舞いに行って、主治医から呪い魔法の話を聞く。悪役令嬢が魔力吸収していないせいで、ヴィルの魔力は暴走し、それに巻き込まれて病院関係者が多数死傷。その中には彼の姉、クラウディーテもいて──。
 そんなシナリオが容易に想像できて、ぞっと背筋が粟立った。
「よ、よかった……! 本当によかったわ!」
 闇落ちを完全に回避したのだ。そう実感して喜びが湧き上がってくる。
 思わず彼の手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
「あっ、ごめんなさい!」
 許可なく触れていると気づいて慌てて離した。
 ヴィルはその手をじっと見つめている。
「以前までのきみはたしかに、嘘をついていた。魔力を吸収すると言って反故にし、俺にべたべた触れるだけで……」
(そ、そんなことしてたの!?)
 悪役令嬢の性悪っぷりを知り、ヴィル以上に憤慨してしまう。
「しかたないわよ! それは相手を信じられなくなるってものよ、うん」
「しかし最近のきみは、中身が入れ替わったように真っ当だった。考えてみれば、言動に嘘はないし、俺の嫌がる行動はしなかった」
「そ、それが普通だから。今までが異常だったのよ」
「そんなユリアを俺は信じようともせず……」
「っ……!」
 そっと手が伸ばされて、唇に触れる。
 噛みつかれた、あの腫れている場所だ。
「きみにひどい態度を取った。突き飛ばして、挙げ句の果てに噛むなどと……」
 ヴィルの表情が苦しそうに歪んでいる。
「すまない。本当に、俺は愚かだ。すまなかった……」
「もう謝らないで。あなたの行動は当然だと思うもの。むしろこうして考えを変えてくれて、ありがたいくらいよ」
「ユリア……どうしてきみはそんなに優しいんだ。まるで聖母のようだ」
(聖母?)
 そんなことをヴィルが言うのは意外だけれど、本人はかなり反省しているらしい。そしてユリアが無害だと信じてくれた。
 これで今後は魔力吸収がしやすくなった。それはかなりの前進だ。
「あ……」
 不意に、彼の触れたところが、水滴でも落ちたかと錯覚するほどに冷たくなる。
「驚かせてしまったな。闇属性の魔法は、冷たさを伴うらしい」
「え……あれ?」
 彼の指先が離れていき、自分でも触れてみる。
 さっきまで腫れぼったかったはずの唇は、いつも通りに治っていた。
「簡単な治癒魔法だ」
「すごい……! ありがとう」
「礼なんて。きみの受けた心の傷はそんなものではないだろう」
「大丈夫よ。傷を治してくれたんだから、これで帳消しにしましょう?」
「いや、自分で自分が許せない。きみの薔薇のような唇を傷つけるなんて」
(薔薇のよう……?)
 ヴィルは親しくなるとポエミーになる性分なのだろうか。先ほどから想像もしていなかった語彙が飛び出てくる。
(でも、誠実な人よね)
 こうして真っ向から謝ってくれた。今まで嫌いだった人間に、なかなかできることではないと思う。
「わたしは本当に大丈夫だから。もう謝るのは禁止、ね?」
「いいのか?」
「もちろん」
 にっこり笑うと、ヴィルは逡巡したあと、口を開いた。
「……きみの気持ちは、以前と変わっていないだろうか、ユリア」
「え……」
 今度はユリアのほうが考える番だった。
(気持ちってなに……ああ、なるべく関わらないって言ったことね!)
 彼にとって自分は魔力をぽいっと捨てるためのゴミ箱でいい。便利だから利用する。そんな関係で構わない。
 以前の宣言について言っているのだろう。
(なるほど。今回わたしを邪険にして、これから利用していくのが申し訳ないって思ったのね)
 ユリアは真剣な表情で向き直る。
「もちろんよ。わたしの気持ちはあのときからまったく変わっていないわ」
「本当か……!」
 緊張の面持ちだったヴィルは、ぱっと笑顔を浮かべる。
 彼の柔らかな笑みなんて見たのははじめてで、それが本当に嬉しそうで、ユリアは思わず見蕩れてしまう。
 そんなユリアの手を取ると、──ヴィルは指先にそっと口づけを落とした。
「……な!?」
「嬉しい……きみがまだ俺を見限らないでいてくれて」
「へっ!? は!?」
 いや、落ち着くべきだ。手にキスくらいは日常茶飯事な世界観かもしれないのだから。
 しかし硬直しているあいだに、ヴィルは何度もそこへ口づけを落としている。
 指先から手の甲。果ては手首の内側にまで唇を寄せられる。
「こんな愚かな俺を、ユリアはまだ恋人に望んでくれるのだな」
 蕩けそうに甘い声音で言葉を紡いだ唇がそこに吸い付く。
 ちりっとしたわずかな痛みとともに、赤い痕が残った。
「本当はその薔薇の唇にも触れたいところだが……我慢しよう。歯止めがきかなくなりそうだから」
 視線はずっとユリアを捉えていた。上目遣いの色香にくらくらしてきそうだ。
 まるで乙女ゲームのワンシーンみたいだな、なんてユリアはまるで他人事のように思った。

 

 

 

「おはよう、ユリア」
「えっと……おはよう、ヴィルフリート」
 いつもと同じく寮から校舎へと登園すると、正門でヴィルが待ち構えていた。
 微笑みをたたえて挨拶されるなんて、なにかの間違いだろうか。しかしヴィルはまっすぐにユリアを見ている。ほかの人間なんて目に入らない、とでも言いたげな盲信的な眼差しだった。
(やっぱり昨日のことは夢じゃないのね……?)
 ヴィルに甘い言葉を囁かれた気がしていたが、部屋に戻ってからどうしても信じられず、白昼夢だろうと決めつけた。しかしあれは現実だったらしい。
 今までとまるで様子の違うヴィルを、脳がなかなか事実として認識してくれない。だって、こんなヴィルを見るのは、ゲームを含めてもはじめてで。
「あ、そうだ。ひとまず日課の魔力吸収だけはさせてもらえる?」
 こちらに対する嫌悪感はなくなったようだから、魔力吸収は楽になったはず。
 ユリアは片手を差し出す。
「ああ、もちろんだ」
 ヴィルが隣に並び、さっと手を取られる。そして指を絡められた。
(……ん?)
 ヴィルが当たり前みたいな顔で歩きはじめて、ぽかんとしたままついて行く。
 これは握手じゃない。
 手を繋いでいる。しかも恋人繋ぎだ。
「えっと、どうして……?」
「だめか?」
 おずおず問いかけると、たちまちしょんぼりされてしまう。
 そんな態度を取られては、こちらが悪いと錯覚しそうだ。
(……きっと効率化ね。歩きながらのほうが時間を無駄にしなくて済みそうだもの)
 不可解な行動を無理やり納得させる。だってそう考えないと辻褄が合わない。
 校舎に入れば、廊下で生徒たちがたむろしている。
 そのあいだを恋人繋ぎのまま通り過ぎれば、案の定、珍しそうにこちらへ目を向けられた。
(恥ずかしい……)
 思わず俯くユリアと対照的に、ヴィルはまるでそれが当たり前だとでも言いたげな態度で廊下を進んでいく。
 見た目はほっそりとしているヴィルの手は、こうしてみると大きく、長い指も筋張っている。
 男の人の手、なのだと意識してしまって顔に熱が集まっていった。
「あ、あの、もうこの辺で」
 教室の前までやってきて、ユリアはさっと手を離した。
 魔力は充分に吸収できたはずだ。
 ヴィルもこくんと頷く。
「わかった」
「じゃ、じゃあね」
 教室後方の自席へ向かうと、そのあとを当然といった顔でヴィルがついてくる。彼の席はユリアの斜め前なのだが。
 ユリアが席につくと、ヴィルはその右隣の男子生徒に声をかけている。
(ああ、なんだ。クラスメイトに用事があったのね、珍しい)
「おい」
 不機嫌そうな声音に、丸眼鏡の大人しそうな男子生徒がびくりと肩を跳ねさせる。
「え、ぼ、僕?」
「そうだ」
 先ほどまでは柔和な雰囲気だったというのに、彼を見下ろすヴィルの目は冷たく、声も尖っている。
 男子生徒は見るからに怯えていて、彼らが親しい友人でないのは明らかだった。
「席を替われ」
「えっ」
「ちょ、ちょっと」
 横柄な命令に、思わず割って入っていた。
「ど、どうしたのよ。いきなりそんなこと言われたって彼も困るでしょう?」
「だめか?」
 ユリアに向ける顔は男子に向けるそれとは違う。わずかに眉を下げて請うような表情に思わず心臓を打ち抜かれる。
(そんなかわいい顔もできるなんて反則なんですけど……!)
「俺たちはバディだ」
「そうだけど、別に席順とバディは関係ないし……」
「ユリアの隣を独占する権利をなぜこいつに譲らないといけない?」
「あの、とりあえず、クラスメイトをこいつって言うのやめましょうか」
 隣の男子生徒が困惑の表情でこちらを見ている。巻き込まれて気の毒だけれど、ユリアとてなにがどうしてこうなったのかわからない。
 教室に予鈴の音が響く。
 ユリアはひとまずヴィルの背をぐいぐいと押して自席に座らせた。
「授業がはじまっちゃうから、なにか話があるならあとで聞くわ!」
 そうして一時限目の歴史学がはじまったのだが──。
(も、ものすごい殺気を感じる……)
 ちらりと斜め前を向けば、ヴィルが鬼の形相で男子生徒を睨めつけている。
 そのせいで隣の彼は冷や汗を流し、縮こまって授業を受ける羽目になっていた。
 ふとヴィルと目が合う。
 途端に彼はぱっと顔を輝かせた。
 ゲームの空虚な表情のヴィルしか知らなかったけれど、そんなに表情を変えられるのかと感心すらしてしまう。
「あの……勝手なお願いだとわかっているのだけれど、次の授業からヴィルフリートと席を替わってもらえないかしら」
「もちろんだよ。こっちからお願いしたいくらいだ」
 泣き出しそうな男子生徒との交渉が成立し、授業の終了とともに、ヴィルがユリアの隣に陣取る。
「これでいいのよね? お願いだからもう彼を睨みつけたりしないで。かわいそうよ」
「もちろんだ。もうユリアしか見ない」
 いや、そこは黒板を見る、だろう。
 指摘する前にヴィルは自分の机をこちらのそれとくっつけようとしている。
 本来教室の座席は一人ずつ独立して配置されているのだが、その隙間をなくそうとしているのだ。
「ど、どうしたの?」
「テキストを忘れた。見せてくれ」
「じゃあしょうがないわね……」
 次の授業は魔法実践学だ。机の真ん中にテキストを置いたとき、彼の机にまったく同じものがあることに気づいた。
「あるじゃない!?」
 そこへ教室前方の扉からフェリクスが入ってくる。
「おや、ユリアくんにヴィルフリートくん。どちらかがテキストを忘れてしまったんですか? 予備がありますよ」
 教壇で余ったテキストをひらひらさせているフェリクス。ヴィルは彼の声など耳に入っていないかのように振る舞い、ひたすらユリアをうっとりと眺めている。
「いやっ、その、今日は二人で一冊を使いますので」
「そうですか? ならいいですけど……」
 フェリクスは不思議そうな顔をしつつ、授業に入った。
(なんだかわたしがテキストを忘れたみたいになってない!?)
 不本意である。しかしあのままだとヴィルはフェリクスに対しても不遜な態度を取りかねないので仕方がない。
 ユリアはこっそりとヴィルに耳打ちする。
「ヴィルフリート、テキスト見ていいわよ。今日だけだからね」
「そんな他人行儀な呼び方はやめて、ヴィル、と。そう呼んでくれ」
「いいの?」
「もちろんだ」
 周囲は授業中だ。大きな声では話せない。
 自然と声を潜め、それに伴って互いの距離が近くなる。
「……じゃあ、ヴィル」
 前世から呼び慣れていた愛称を囁くと不意にふわりと微笑まれて、心臓が痛いくらいに跳ねた。
(ああ、ずるい。そんな顔)
 画面越しでは一生見られなかった表情。きっとモブとして過ごしていたら自分には向けられることのなかった顔だ。
「嬉しい。恋人同士なのだからそう呼ばれたかった、ユリア」
 硬直していると、机の上に置いた手に、彼の大きなそれが重なりまた指を絡められた。
 そのまま親指で手の甲をすりすりと撫でられる。
(こ、恋人……)
 どうやら完全に認識違いが起きている。
 そういえばヴィルはサロンでも、まるでユリアが恋人になるのを望んでいるらしき発言をしていた。もちろんユリアにそんな記憶はない。
「ヴィル、あの……、っ!」
 手を引っ込めようとすると、ぎゅっと指に力を入れられ、さらに付け根をくすぐるように刺激される。
 うなじにぞくりとしたものが走って、わずかな吐息が漏れた。
「かわいい」
 愛おしげに目を細める顔は、たしかに恋人に向けるもの以外にはありえない気がした。
 攻略キャラではなかったヴィルだけれど、きっと彼のルートがあったのならこんなふうに愛を囁いてくれるんじゃ、なんて思わせてくるそんな顔──。
 するりと手を解いたヴィルにほっとしていると、その手は机の下に潜り込み、スカートの上からユリアの太腿を撫でた。
「っ……!」
「きみがかわいすぎて、もっと触れたくなる」
 肌の輪郭を確かめながらゆっくりと彼の手がそこをさする。
 きわどいところまで触れられそうになって、ユリアは唇をきつく引き結んだ。
 声が出そうになる。けれど授業中にこんなことをしているだなんて、まわりにバレるわけにはいかない。

 

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