転生ブラコン令嬢ですが、塩対応のツンデレお兄様に溺愛されていたようです 1
アンシェリーンは分厚い絨毯の上で仰向けになり、薄暗い天井をぼんやり眺めた。
どうやらベッドから落ちたようだ。後頭部がずきずきする。
えっこらせ、とかけ声をあげて上体を起こし、小さな手で後頭部を触ってみた。
血は出ていないし、こぶもない。
天蓋付きのベッドに戻ろうとしたが、足を大きく上げることができず、ずるりと絨毯に倒れ込んだ。大人用のベッドのクッションは、アンシェリーンの頭上にある。
視線を横合いに移すと、ベッドに乗るための踏み台が置いてあった。
自分はいま五歳なのだ、とやっと気づく。
さっき見た夢の中で、アンシェリーンは三一歳だった。
畳の上で滑って転んで低いテーブルの角に後頭部を打ちつけ、死亡した。
クライフ伯爵家の一人娘として生まれ変わる前の記憶だ。
アンシェリーンは踏み台を使ってベッドによじ登り、毛布に入って三一年の切ない人生を思い返した。
一〇歳のとき、父が会社の金を横領して失踪。母は激怒し、血圧が急上昇して死亡。
母の生命保険金で損失を補填したため会社は被害届を出さず、前世のアンシェリーンは犯罪者の娘になることなく、父方の祖父母に引き取られた。
高校進学と同時に祖父が肺炎で他界。
田舎の古い一軒家で、偏屈な祖母と二人、家庭菜園をフル活用し、ペット代わりに山羊と鶏とうずらを飼って生活するも、祖母が滑って転んで車いす生活となったため、就職はせず、祖母の介護に専念。
ある朝、いつもどおり祖母を起こしに行くと、祖母はベッドで目をつむり、動かなくなっていた。享年九〇。死因は老衰。
伯父や伯母に、葬式をしたいなら勝手にしろ、と言われ、火葬だけして公営墓地に埋葬した。
これからは自分で自分の人生を築くのだ! と清々しい気持ちで就職活動を始めた矢先、祖母の顧問弁護士とやらから連絡が来て遺言書があるから手続きをするよう求められ、詐欺だろうかと思いながら家庭裁判所に申し立てを行った。
遺言書の検認の場に現れた親族は数人で、伯父も伯母も来なかった。
裁判官が遺言書を開封し、前世のアンシェリーンに見せた。
遺言書の内容は「財産のすべてを、世話をしてくれた孫に譲る」だ。
祖母の財産は、祖父の生命保険金一億円、畑を売って建てた賃貸マンションと駐車場、都心の分譲マンション、大手ゲーム会社の株券、祖父のジーンズコレクション、聖徳太子が隋の皇帝に送った直筆の手紙、人魚のミイラ、ツチノコのミイラ、土偶等々……。
顧問弁護士とともに住み慣れたぼろ屋に帰ると、忙しいだの、体調不良だのいう理由で家庭裁判所に来なかった親族が次から次へと押し寄せ、口々に遺言書の無効を主張した。
さらに子どもの頃に失踪した父が顧問弁護士の手配で現れ、親族と取っ組み合いのケンカを始めた。
慌てて間に割って入り、畳で滑って転んで低いテーブルの角に後頭部を打ちつけ、三一年の人生が終了した──。
薄れゆく意識の中で願ったのは、「伯爵令嬢に生まれ変わりたい」でも、「使用人にかしずかれて暮らしたい」でもない。
確か……。
「優しいお兄様がほしい、よ」
生まれ変わったら優しいお兄さんがほしい、──前世の自分はそう願いながら死んだ。
ゆえに、生まれ変わったアンシェリーンにはお兄様がいるはずだ。
いつも味方になってくれる優しい優しいお兄様が。
「アンシェリーン様、どうかなさいましたか?」
ドアの向こうから侍女が心配そうな声をかけた。
「平気よ。ベッドから落ちただけ」
侍女が蜜蝋を灯した燭台を持って、「入りますよ」とドアを開けた。
アンシェリーンはベッドの真ん中に座って若い侍女を見上げた。
「私にお兄様はいたかしら」
「いるわけはありません。お忘れですか?」
夢の中で感じた切なさが、ずしりと胸に沈み込んだ。
死ぬ間際の願いだからといって、叶うとは限らない。
「前世の夢を見たの。私、三一歳で滑って転んで、お兄様がほしいって願いながら死んだのよ」
「孫がほしい、とかではなかったんですか。三一歳でしたら、四人か五人はお子様がいたでしょうに。それとも、お孫様はもう何人かいらっしゃったんでしょうか」
「孫なんかいなかったわ。結婚もしてなかったもの」
「三一歳で結婚していないなんて、さぞかし惨めだったでしょうね。おかわいそうに」
アンシェリーンが「そうでもなかったわよ……」と言う前に侍女が勢いよく口にした。
「ご安心ください! いまのアンシェリーン様が婚期を逃して行き遅れることはございませんわ! アンシェリーン様ほどお美しい方は見たことがありませんもの」
アンシェリーンは開け放された窓のそばにある姿見に目を向けた。
広いベッドに輝くばかりの美少女が座っている。
きめ細やかな肌は採れたばかりの真珠のように輝き、反り返ったまつげは長く、灰色の瞳はわずかな月光を浴びて銀のきらめきを帯びている。
漆黒の髪は滝のように流れ、毛布にこぼれ落ちていた。
ここ、ヴァヘナールで黒い髪は珍しい。大抵は金か、どんなに暗くても焦げ茶色だ。
黒髪は初代ヴァヘナール王の娘と同じ髪の色とされ、ヴァヘナールでは尊ばれている。
「しかも、クライフ伯爵家は王族につぐ由緒正しいお家柄。将来は安泰です」
「いまは全然安泰ではないけどね」
クライフ伯爵家は、四〇〇年前、ヴァヘナールの初代王が奢侈の限りを尽くす前王朝の王侯を倒したとき、兵を率いて王を支え、爵位を賜った由緒正しい家柄になる。
王族を除き、ヴァヘナールでもっとも格式が高いが、四〇〇年の間に王都が移動し、現在、周辺は貴族の別荘地になっていた。
通常、貴族の所領の運営は家令が行うが、クライフ伯爵家に家令を置く経済的なゆとりはなく、広い所領はずいぶん前から不作が続いている。クライフ伯爵家の贅沢な暮らしは先祖から受け継いだ銀の食器や異国の織物を売ってまかなわれていた。
クライフ伯爵夫妻がアンシェリーンの結婚に人生をかけるのは当然だ。
身分は高いが、財政にゆとりはなく、しかし容貌は極限まで美しい。
介護に追われ、大金を得たと思ったとたん死んだ人生とは比べものにならない豪華さだが、お兄様がいないという点では変わらない。
「優しいお兄様はいないし、今世での私の目標は一つよ!」
自分で自分の人生を築くこと。まわりの望むままに生きていくのは、まっぴらだ。
翌日、アンシェリーンは父であるクライフ伯爵のもとに行き、「図書室の本に書いてありました」と言って、前世で行っていた家庭菜園とペットの飼育で得た知識を披露した。
ヴァヘナールに特有の薄い金髪と濃い緑の目を持つ美麗な父は、若い頃、王から騎士の叙任を受けはしたが、すべて高貴な家門のおかげで、乗馬も剣も苦手。家令がいないにもかかわらず、所領の運営に一切興味がなく、アンシェリーンの提案に「領地のことを知るのも貴婦人のたしなみだ。やってみなさい」と承諾し、「ただし身なりには気をつけるように。いつ誰に見初められるかわからんからな」と付け加えた。
アンシェリーンは、父の補足を「常に美しく装うように」ではなく、「ドレスを汚さないよう農作業にふさわしい服装をしろ」という意味だと解釈し、ズボンを穿いて畑と城を行き来し、農作業の合間に優しいお兄様と戯れる妄想をして充実した日々をすごした。
栄養のある発酵飼料を与え、放牧を行うことで、牛や馬、羊は健康になり、自家製堆肥を混ぜ込んだ畑では、半年後、エンドウ豆とひよこ豆がたっぷり実り、一年後には大麦と小麦が重そうに穂を垂れた。
財政は季節が変わるごとに改善し、二年後には州知事が関心を向けるようになった。
州とは言っても、王都から離れた領地をいくつかまとめてそう呼んでいるだけで、知事に大した権限があるわけではなく、領主の中でもっとも年齢の高い者がなるのが通例だ。
現在の知事は騎士として王家に長く仕えたあと公務から引退し、クライフ伯爵領の近くの所領で馬の育成に努めている。
夏の収穫ののち、クライフ伯爵が自慢の意を込めて州知事にワインの新酒を贈ると、州知事がクライフ伯爵令嬢にと自分の所領で生まれたポニーを贈り返してきた。
アンシェリーンは州知事の従者が連れてきた真っ白なポニーを見て感嘆の息を漏らした。まさかワインのお礼にポニーを贈ってもらえるとは思わなかった。さすがは貴族だ。
州知事の従者が神妙な声を出した。
「代わりと言ってはなんですが、五日後、王宮貴族の子どもたちをわが領地でもてなすことになっています。名高いクライフ伯爵令嬢にもぜひお越しいただきたいのですが、いかがでしょう」
王宮貴族の子どもたち、というのは、王宮に出入りを許された高位の貴族の子どものことで、夏の間、気候のいい別荘地に滞在することが多い。
前世に培われた性格により、華やかな場が苦手なアンシェリーンは「私にはもったいないお招きです」と断ろうとしたが、隣に立つ父がにこにこしながら応対した。
「ぜひおうかがいさせていただきます。ちなみにいま娘が着ているのは異国ではやりの乗馬服です。乗馬の練習を始めたところですから、ちょうどよかった」
泥のついたズボンを穿き、長い髪を首の後ろでまとめたアンシェリーンを見て、従者は感心したような息を吐き、深々と礼をした。
世間体を取り繕うことは上手なんだから、とアンシェリーンは朗らかな笑みを浮かべた父にあきれた顔を向けた。
「州知事のもとに行かないのならポニーは返す。これはあくまでお前が城に行くのと引き換えに贈られたものだ」と父に至極まっとうなことを言われ、アンシェリーンは葛藤の末、「わかったわ……」と答えた。
その日から、母に「においがつくと困る」という理由で畑に行くことは禁じられ、州知事城でのおもてなし会までの時間は、もっぱらポニーと仲良くなることに費やされた。
が、白いポニーは前世のアンシェリーン以上に臆病で、一人と一頭の距離が縮まることはなかった。
おもてなし会の当日、アンシェリーンは花模様の刺繍が施された初夏にふさわしいオレンジ色のドレスを着せられ、姿見の前で母と侍女にしつこく全身をチェックされた。
「本当になんて美しいの。二年前からあなたの言動はおかしくなってしまいましたが、美しいのだからよしとしましょう」
父と同じく濃い金髪と薄い緑の目を持つ美麗な母は、アンシェリーンの隣で満足げな笑みを浮かべた。
「このドレスじゃポニーに乗れないわ。ポニーの返礼で州知事様のお城に招待されたんだから颯爽と乗っていくのよ」
「まだ乗れないでしょう。でも、州知事城に連れて行くというのはいい案ね。いただいた馬を大切に扱うのは貴婦人のなすべきことだわ」
そんな小汚い馬、置いていきなさい、と言われるかと思ったので、アンシェリーンは安心した。
予定の時間より早く二頭の立派な馬を備えた大きな馬車がクライフ伯爵城にやってきた。白いポニーは、やっと家に帰れる、と思ったのか、二頭の馬の間に大人しく挟まった。
見送りに出た母は「州知事に招かれる王宮貴族のうち、もっともお金持ちはバッカウゼン子爵よ。バッカウゼン子爵の息子の隣に座しなさい」と言い、父は「畑や家畜の話は一切するな。控えめに微笑み、さすがです、素敵ですわ、と相づちを打て」と念押しした。
要は貴族の子ども同士の婚活パーティーだ。
領民の住む村を通って緑豊かな森を抜け、小高い丘を越えると、ほどなく州知事城にたどり着いた。切石を積み重ねて作った城はクライフ伯爵城より小ぶりだったが、城門をくぐると、幾人もの使用人が行き交い、城内は活気に満ちていた。
どこからか馬のいななきが聞こえ、馬車が邸宅を迂回した。いななきが大きくなり、全身に響く揺れがやっとのことで収まった。
中年の御者が馬車のドアを開き、昇降段を下ろして手の平を差し出した。
アンシェリーンは「ありがとうございます」と丁寧に礼を言い、御者の手は借りず、疲労で足元をふらつかせながら一人で地面に降り立った。
「まっすぐ歩け!」
背後で怒鳴り声が響き、アンシェリーンは「すみませんっ」と背筋を伸ばした。
御者がポニーを引いてきて、「お疲れではないですか」と優しい声をかけてきた。
アンシェリーンはあたりを見た。自分が怒られたわけではなかったようだ。
少し離れた場所に立派な厩があり、広い馬場が隣接している。馬場では黒や茶のサーコートを着た一〇代半ばの少年たちが年齢と体格に不釣り合いな軍馬を懸命に操っていた。
今日招待された王宮貴族の子どもだ。全員で六人いる。
みなりからして騎士となる訓練を受けている従騎士だ。
少年の一人がひときわ大きな軍馬にまたがり、「主人の言うことを聞け!」と大声をはりあげ、手に持った鞭で馬の尻を叩いた。
先ほどアンシェリーンの背後で居丈高な声を発したのは、この少年だ。
薄い金髪は木漏れ日のように輝き、緑色の瞳には神経質そうな色が宿っている。
太陽の逆光のせいで顔立ちはよくわからないが、整っているのは間違いない。
軍馬が怒りで黒い目をつり上げ、耳を後ろに倒して従騎士の少年を振り落とそうとした。
厩から少年が走ってきて、歯をむき出しにした軍馬の頭絡を片手でつかみ、「ごめんな。もう大丈夫、大丈夫だ」と声をかけ、反対の手で長い首筋を強く叩いた。
ほどなく軍馬は落ち着きを取り戻し、後方に絞っていた耳を前に戻した。少年が言った。
「鞭は苦痛を与える道具ではありません。使うときには十分お気をつけください」
汚れた木綿のシャツとよれたズボンからして厩番にちがいない。少年ながら馬の扱いに長けている。
従騎士たちより体は小さく、服も貧相だが、声の調子や仕草は気品に満ちていた。
馬上の少年が頭絡を持つ厩番の少年を不快そうに見下ろした。
「無礼者が。私はいずれバッカウゼン子爵位を継ぐ身。貴様ごとき、いくらでも罰することができるのだぞ!」
う……、とアンシェリーンは喉に声をつまらせた。母の言っていたバッカ……なんとかはこの少年のようだ……。ないな、とアンシェリーンは早々に決断を下した。
バッカなんとかの息子、──略してバッカ息子が腰に帯びた剣を抜き、厩番の少年に振り上げた。
「危ない!」
アンシェリーンはドレスのスカートをつかみ、二人の間に割って入ろうとした。
が、厩番の少年にドレスのうなじをつかまれ、軍馬のそばから引き離された。バッカ息子はバランスを崩してあっけなく落馬した。五人の従騎士がバッカ息子のもとに慌てて駆け寄り、四人がかりで起き上がらせ、一人が落ちた長剣を取って持ち主の手に返した。
バッカ息子は顔をどす黒く染め、厩番の少年を睨みつけた。
「卑しい厩番め! そこにひざまずき、許しを請うがいい!」
アンシェリーンは厩番の少年にドレスのうなじをつかまれたままバッカ息子に言い放った。
「厩番さんを卑しいと思うなら自分の馬の世話は自分でしなさい! 馬の世話は従騎士の仕事でしょう」
高位の貴族令嬢らしく居丈高な声を出す。
バッカ息子が、つま先立ちになったアンシェリーンを見て目を細めた。
「知らない顔だな。底辺貴族の田舎者が、自分の娘を王宮貴族と結婚させるため州知事殿に金を積んで、ここに招待させたというところか。私の妻になりたいのだろうが、どれだけ着飾ろうと、卑賤な血筋を隠すことはできんぞ」
クライフ伯爵家がほしいのは、血筋じゃなくて、お金よ! と言いたいが、自分を洗濯物のように吊り下げている少年に聞かれたくないからぐっとこらえた。
背後から重厚なブーツの音が聞こえてきた。厩番の少年がアンシェリーンのドレスから慎重に手を放し、靴音に顔を向けた。少年につられ、アンシェリーンも顔を向けた。
焦げ茶色のサーコートを着て、あごひげをはやした壮年の男が近くまで来て足を止め、バッカ息子、五人の従騎士、アンシェリーンを順繰りに見た。
州知事だ。高位にある者特有の威圧感が全身から放たれている。
州知事が厩番の少年に訊いた。
「剣の模擬試合はあとの楽しみに取っておくつもりだったが。何かあったか、レイフィ?」
レイフィと呼ばれた少年は冷静に答えた。
「バッカウゼン子爵のご子息殿が、クライフ伯爵令嬢を、爵位を金で買った卑賤な娘と呼び、そんな者を城に招待するなど州知事も落ちぶれた、と言ったのです」
どうやらレイフィはアンシェリーンのことを知っていたようだ。
それはさておき、レイフィの言葉には微妙に違うものが混ざっている気がする。
バッカ息子があからさまに動揺した。
「偽りを申すなっ。私は州知事殿が落ちぶれたなどと言っていない!」
「クライフ伯爵令嬢を卑賤な娘と呼んだのは事実ということか」
州知事の言葉に、バッカ息子は声をつまらせた。州知事がレイフィに視線を移した。
「お前はバッカウゼン子爵に会ったことがあったな。確か子爵がその馬をここに連れてこられたときだ」
かたわらの軍馬をあごで示す。レイフィが「はい」と優雅に頷いた。
「末のバカ息子に馬の扱いを教えてほしい、と言われ、バカには教えられない、とお答えしたところ、お前が息子だったらよかった、と嘆いておいででした」
バッカ息子、──さらに略してバカ息子が怒りと屈辱で顔を赤くしたが、州知事の前で何も言えず、唇を噛みしめた。
州知事がアンシェリーンに目を向けた。
「きみがクライフ伯爵家のアンシェリーン嬢か。噂にたがわず愛らしい。私が招待した者の無礼な振る舞いを心よりお詫びする。従騎士たちよ、ここでのことはすべてお前たちのお父上に報告するゆえ、そのつもりで」
アンシェリーンは洗練された仕草で礼をし、バカ息子を含む六人の従騎士は背中を縮こまらせた。
「説教はここまでだ。庭に軽食を用意させているから食べながら話をしよう」
州知事が全員を促し、アンシェリーンは後方を振り返ってレイフィを探した。
厩番の少年は少し離れた場所で白いポニーの首筋をなでていた。
アンシェリーンはレイフィの……、──ポニーのそばに駆け寄った。
「この仔をあなたのもとへ送って正解でした」
美麗な容貌がアンシェリーンを見下ろした。短く切った銀の髪が初夏の太陽を反射してまばゆいきらめきを放ち、紺碧の瞳は空よりも深い色を湛えている。
秀麗な眉と長いまつげは双眸の輝きを際立たせ、鼻は不自然にならない程度に高く、ほんのりと赤い唇は少年らしい爽やかさと少女らしい愛らしさの両方を兼ね備えていた。
お兄様だ。
アンシェリーンが何度も夢で見た理想のお兄様……。
「レイフィ、早くアンシェリーン嬢をお連れしろ」
州知事が遠くから声をかけ、レイフィはポニーの手綱を近くの使用人に渡し、「どうぞあちらへ」とアンシェリーンに微笑んだ。
白いマグノリアの咲き誇る庭に大きな丸テーブルが置かれ、州知事、バカ息子と舎弟五人、アンシェリーンが間隔をあけて腰を下ろした。
丸テーブルには、鴨肉のパイや香草を練り込んだ甘いパン、アーモンドミルクを使ったライスプディングなどいかにも軽食といった食べ物が並んでいる。飲み物は、少年たちには水で薄めたぶどう酒、アンシェリーンには桑の実のジュースだ。
てっきり男女を同数にし、交互に座らせ、自己紹介から始めるかと思ったが、底意地の悪そうな貴族令嬢はおらず、本当にただのおもてなし会らしい。
レイフィは州知事の右手の後方に立ち、さらに後ろに何人もの使用人が控えていた。
州知事がアンシェリーンに言った。
「アンシェリーン嬢よ、今日きみを呼んだのはクライフ伯爵家の所領について訊きたいことがあったのだ。クライフ伯爵領ではここ最近ずいぶん収穫が増えているそうな。クライフ伯爵にうかがうと、図書室の本に書いてあるとか。どの本かぜひ教えてほしい」
「……どの本かはお父様に訊いていただけますでしょうか……。私は……、難しいことはわかりません」
悪魔の使者とみなされ、火あぶりにされたら困るため、年にあわないことはすべて父がやっている設定にしている。
州知事は首をひねってレイフィを見た。
「レイフィよ、お前は何年か前、私の従者としてクライフ伯爵城に赴いたとき、図書室を見せてもらっていたな」
レイフィが頷いた。
「私が一〇歳のときですから三年前です。立派な図書室でしたが、どの本も埃をかぶっていました。クライフ伯爵夫妻に訊くと、読書はなさらないとか。読書をする習慣のない大人が、ある日突然読書家になるとは考えにくいと存じます」
子どもならさておき──、と付け加える。
レイフィはいま一三歳だ。ふむふむ、と脳裏に刻んでから、三年前に思いをはせた。
三年前のアンシェリーンは、普通の四歳で、図書室の本が読める年齢ではない。
貴族の子どもが文字の勉強を始めるのが五歳だから、いま本を読んでいるとすれば、アンシェリーン以外にいない、と考えるのは理にかなっている。
アンシェリーンは用心しながら答えた。
「私が文字の練習を始めるようになってから、父が図書室に出入りし、自分で読んで、教育上役に立つと思った本を渡してくれるようになりました……」
モゴモゴと口ごもるアンシェリーンを見て、バカ息子が鼻先で笑い、自信たっぷりな顔をした。
「クライフ伯爵領では市場のゴミと石ころを畑に混ぜ込んでいると聞きました。とてもまともな運営とは思えません。収穫量が上がったというのは、季節がよかったのでしょう」
「石ころは土に空気を含ませるため畑には必要ですし、生ゴミを肥料として使う方法は、王宮の庭師が薔薇園で行っています。ただ、このあたりでは聞いたことがないので、誰かから教わったのかと思いました」
レイフィが言う。厩番なのにどうして王宮のことを知っているのか不思議だが、州知事の従者として出かけるのかもしれない。
「クライフ伯爵領の民人はみんな楽しく働いているとうかがいました。何か秘訣がありますか」
「領民は怠け者です。楽しく働くなどということはありません」
レイフィの質問に、バカ息子がすかさず口を挟んだが、アンシェリーンは無視した。
「一日の働く時間を短くし、お休みの日を作りました。また、年二回の収穫期がおわったあとは、食べ放題、飲み放題の宴を開いています。去年からは採れた野菜の品評会も行うようになりました」
「品評会?」
レイフィが秀麗な眉を軽く寄せた。
「所領をいくつかの区画にわけて、できのいい作物を出品します。城の使用人や市場の人に投票してもらい、一番票が多かった区画の人たちに賞品を出します。優勝者が決まれば、どんな工夫をしたかを発表して、次の収穫に生かします」
バカ息子の舎弟たちが「野菜の品評会だと?」「バカバカしい」と口々に言った。
州知事が思い出したような顔をした。
「そういえば、今日はここにいる従騎士たちのお父上に息子の剣の腕を鍛えてくれ、と頼まれていたのだった」
険悪な空気が一瞬で吹き飛び、六人全員が州知事に好奇の目を向けた。
「模擬試合をして、勝者にはわが城で育てた馬を褒美に与えてほしいそうだ。剣術の稽古はこじつけで、自分が馬を手に入れたいだけだろう」
従騎士たちが自分の勝利を想像し、瞳に興奮を滲ませた。
バカ息子は勝利を確信した笑みを浮かべた。
「あくまで剣術の模擬試合だ。みずからの名誉のため正々堂々と戦うがよい」
州知事の言葉で、使用人たちが試合用の木剣を持ってきた。六人の従騎士が木剣を受け取り、テーブルのそばにある砂地に立った。
審判役の従者が来て、従騎士たちがくじを引き、勝ち抜き方式で勝者を決める。
子ども同士の模擬試合に興味はなかったが、レイフィがいるため、アンシェリーンは模擬試合を楽しむふりをして行儀良く食べ物を消費した。
従騎士たちは懸命に木剣を振るい、最後はもっとも体の大きな従騎士の木剣を二番目に体の大きな従騎士が吹き飛ばした。勝者は、バカ息子だ。
バカ息子は息を切らすこともなく、州知事のもとに来て片膝をついた。
「見事だった。バッカウゼン子爵はすでに自分の馬を決めているから、お前に渡すのはバッカウゼン子爵の選んだ馬になる」
州知事が斜め後方のレイフィに軽く視線を投げ、レイフィが馬を連れてこようとした。
「せっかくですので、そちらの厩番殿と勝負させていただけませんか。騎士の馬の世話をするなら剣の心得があった方がいいでしょう」
ライスプディングを食べながら優しいお兄様の妄想に耽っていたアンシェリーンは、バカ息子の言葉でわれに返った。
従騎士が厩番に剣の試合を申し込むなど、むちゃにもほどがある。
バカ息子が楽しそうに唇を歪めた。
「失礼。勝負というのは言葉のあやです。先ほど馬の扱い方を教えていただいたので、今度は私が剣の扱いを指南しようというだけ。手加減しますからご安心を」
州知事はさして悩むことなく、「よかろう」と首肯した。
「あくまで剣の稽古だ。どちらが強いということではない。よいな」
バカ息子がすかさず言った。
「練習用の剣は普段使っているものと長さが違うため、うまく間合いが定まりません。真剣でお願いできますか。真剣の方が手心を加えやすいので」
バカ息子が横柄な口調になる。
州知事はレイフィをちらりと見たあと、後方にいる使用人にあごを上げた。
仕事熱心な使用人はささっと走って抜き身の長剣を持ってきた。レイフィの体にあわせているため、バカ息子が持っているものより少し短いが、本物だ。
レイフィは困った顔をしたが、州知事は気にしなかった。
「おやめください、州知事様、あれでは怪我をしてしまいます!」
アンシェリーンは丸テーブルに上体を乗り出した。州知事がなだめるように微笑んだ。
「ちゃんと審判がいるから、ひどいことにはならん。安心するがよい」
レイフィは使用人から剣を受け取り、両手で重さを確かめた。剣術のことはわからないが、心得はあるようだ。
州知事の従者が手の動きでレイフィとバカ息子に向かい合うよう命じ、「始め!」と声をかけた。バカ息子が大きく足を踏み出した。
振り上げた剣先がレイフィの眼前をかすめ、アンシェリーンはぎゅっとまぶたを閉じた。
そろそろと目を開くと、バカ息子が持つ長剣をレイフィが右に左にとよけている。従騎士たちが「逃げるな、卑怯者!」「正々堂々と戦えっ」と罵声をあげた。
ほどなくバカ息子の動きが鈍くなってきた。
レイフィを威圧するため必要以上に剣を振り上げ、体力を使い果たしたようだ。
「戦う気が、ないなら……、姑息な手は使わず、負けを、認めろ……!」
バカ息子が息を切らしながら言い、レイフィが州知事にちらりと視線を走らせた。州知事が少しだけ頷いた。
直後、レイフィが足を踏み出し、重い長剣をはじき飛ばした。
バカ息子がかかとを滑らせ、砂地に尻餅をついた。レイフィが疲れ切った従騎士の喉元に剣先を突きつけた。バカ息子は肩を上下させながら「まいりました……」と小声で言い、レイフィは息を乱すことなく、従者に剣を返した。
直後、バカ息子が背中の陰で地面の砂を握りしめ、レイフィの顔に投げつけた。
「危ない!」
アンシェリーンが声をあげたのと同時にざっと大きな風が吹き、一握りの砂が投げた本人に直撃した。バカ息子が苦悶の声を響かせた。
レイフィはいつのまにか風上にいる。剣をはじく一歩が大きく、勝負が一瞬だったのは、剣を受け流しながら風上に移動していたためだ。
使用人が水の入った桶を持ってきて、バッカウゼン子爵の子息のそばに置いた。バカ息子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、レイフィを怒鳴った。
「きさま、卑怯だぞ! まともに戦いもせず勝利を得るなど、騎士として恥ずべきことだ!」
五人の従騎士が親分にひっそり軽蔑のまなざしを向けた。卑怯な手を使って勝ったならまだしも、負けたのだからどうしようもない。
「州知事殿、試合をやり直させてください! 騎士たちとの模擬試合で疲れていたのですっ」
砂のことには一切触れず、懇願する。州知事が言った。
「余興はおわりだ。レイフィよ、ほしい馬を選ぶがいい」
レイフィは敗者には目もくれず、州知事の前で片膝をついた。
「州知事様、馬は必要ありません。代わりにクライフ伯爵令嬢がおっしゃった品評会を馬で行うことはできますか。優勝した馬は高値がつくでしょうし、馬の所有者は騎士の大好きな栄誉が得られます。優勝した馬の育て方を広めることで、わが国の馬の育成に役立ち、ひいては軍事力の向上にもつながります」
州知事は思案げに頷いた。
「なかなか面白そうだ。馬が集まるかどうかはわからんが、宣伝するだけなら構うまい」
「ありがとうございます」
レイフィが深々と礼をし、おもてなし会はお開きになった。