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転生ブラコン令嬢ですが、塩対応のツンデレお兄様に溺愛されていたようです 2

第二話

 

 
 来たときと同じ御者の案内で馬車のもとに行くと、白いポニーが馬車の後方につながれていた。アンシェリーンは臆病なポニーにゆっくりと近づいた。
 州知事からお礼にと受け取ったものの、このポニーは州知事城で暮らす方がいいのかもしれない。そうすれば、ポニーに会うという名目で州知事城に来ることができる。
 アンシェリーンがポニーの行く末を真剣に考えていると、背後から声がかかった。
「ポニーの様子はどうですか、アンシェリーンお嬢様」
 アンシェリーンは飛び上がって驚き、慌てて振り返った。
 陽光の中でレイフィが微笑み、ポニーの首を強く叩く。ポニーは気持ちよさそうに目を細め、耳を横に倒した。お嬢様、と呼ばれ、胸のどきどきがばくばくに変わった。
「実は……、まだあまり……、というか全然懐いてないんです」
「名前はありますか」
「イチゴダイフクちゃん、です。あの、ダイフク、で」
 イチゴダイフクは前世で祖母の大好物だった。前世に戻りたいと願うことはなかったが、祖母の誕生日に食べたイチゴダイフクだけは懐かしく思い出す。
「イチゴダイフク、ですか。古代の英雄のような勇ましい響きですね。──お前の名前はダイフクだって。いい名前をもらったな。格好いいぞ、ダイフク」
 違うのだが。
「では、名前を呼びながら拳を鼻の前に持ってきていただけますか。ダイフクがにおいを嗅いだら、ゆっくり首をなでてください」
 アンシェリーンは「ダイフクちゃん、いい子でちゅねー。怖くないでちゅよー」と声をかけ、小さい拳をイチゴダイフクの鼻の下に差し出した。イチゴダイフクは拳のにおいをふんふんと嗅ぎ、アンシェリーンは背伸びをしてイチゴダイフクの首を優しくなでた。
「一緒に歩いてみましょうか」
 レイフィがアンシェリーンに手綱を渡し、自分はハミの近くをつかんで背後に立つ。心臓のばくばくが激しさを増した。
 背中にレイフィの気配を感じながら太い手綱をゆっくり引く。
 イチゴダイフクはレイフィが手綱を持っていると考えているのか、リラックスした様子で厩を取り巻く木々の中に入った。歩いているだけだが、緊張して集中できない。
 レイフィが背後からアンシェリーンをうかがった。
「少し休みましょうか。お疲れでしょう」
 レイフィが軽く手綱に力を込めるとイチゴダイフクが足を止め、アンシェリーンも止まった。この程度では疲れないが、レイフィと少しでも長く一緒にいたいから、つつましやかな貴族令嬢を装って、伏し目がちに「はい……」と答えた。
「厩舎まで馬車を呼んだ方がいいかもしれませんね」
 草地に座って談笑するつもりだったアンシェリーンは、急いで口を開いた。
「馬車は必要ないです! レイフィ様と……、ダイフクちゃんと一緒に歩きます!」
 危うく煩悩がこぼれかける。
 アンシェリーンはわざとらしくイチゴダイフクの首をなで、レイフィに訊いた。
「レイフィ様は……、州知事様のお城で暮らしてるんですか」
「レイフィとお呼びください、お嬢様」
「はい……、レイフィ……さん」
 自分も「お嬢様」ではなく、「アンシェリーン」と呼んでほしかったが、レイフィに「クライフ伯爵令嬢ともあろうものが呼び捨てにさせるなどはしたない」と思われては困る。
「普段は別の領地です。ぼくの住む領地は暑いので、今年から夏の間はここに来て州知事様のもとで馬の育成を手伝うことになりました」
 アンシェリーンは表情を輝かせた。
 夏しか会えないのは寂しいが、夏は会える──。
「私もここに……」
 来ていいですか、と訊こうとしたとき、レイフィがアンシェリーンの前に立ち、アンシェリーンを守るような格好になった。
 おもてなし会にいた従騎士たちが草地を踏みしめ、アンシェリーンたちの方へ歩いてきた。年長の従騎士が先頭に立ち、ほかの四人が距離をあけてまわりを囲む。
 一番奥からバカ息子が姿を現した。
「よくも私に恥をかかせてくれたな」
 バカ息子が憎悪のたぎった声を出す。レイフィは淡泊に返した。
「素直に負けを認めていれば、まわりはあなたがわざと負けて、ぼくに花を持たせたと思ったでしょう。そんな聡明さを持ち合わせていないご自分のバカさ加減を嘆いてください」
「なんだと!?」
 バカ息子が長剣を抜いた。いまのレイフィは武器を持っていない。
 背後にはアンシェリーンが立ち、臆病なポニーもいる。
 レイフィが六人を見たままアンシェリーンに言った。
「ここはぼくが──」
 なんとかします、と続ける前に、アンシェリーンは全速力で駆け出し、従騎士たちの間を通り抜けた。背後で笑い声が聞こえた。
「クライフ伯爵令嬢が逃げていったぞ! 馬糞臭い騎士殿に助けられたくないとさ!」
 アンシェリーンは木々の中で足を止め、胸元から大きなハンカチを出して、地面にあるものをできるだけたくさん入れ、全速力でレイフィたちのところに戻った。
 従騎士六人は長剣を構え、レイフィを取り囲んでいた。
 レイフィはアンシェリーンに気づき、怒鳴るような声を出した。
「お嬢様、どうして戻ってきたんですか!」
 バカ息子が鼻先で冷笑した。
「せめて兵士を連れてくればいいものを。愚かな娘だ。お前に何かあれば、すべて馬糞臭い厩番のせい……」
 アンシェリーンは居丈高な言葉を最後まで聞かず、あらん限りの声を放った。
「うんにょを笑う者はうんにょに泣くのよ! 馬のフレッシュうんにょを食らいなさい!」
 ハンカチの中にしまった焦げ茶色の塊を従騎士たちに投げつける。
 最初にあたったバカ息子が、ぎゃー! と叫んだ。革の服にべちゃりとついたものを手の平で叩き落とし、さらに大きな悲鳴をあげる。
 アンシェリーンは焦げ茶色の塊を容赦なく投げていき、従騎士たちが悲愴な声を響かせた。──「なんだ、これは!」「これは、馬のうん……だぞ」「やめろ、やめろー!」
「うんにょまみれになりたくなかったら、とっとと消えなさい!」
 六人の従騎士は泣きながら退散した。
 レイフィが即座にアンシェリーンの前に片膝をつき、ベルトにさした綿布で焦げ茶色の汚れを拭き取ろうとした。
「お嬢様、なんてことを……! ていうか、これは……、ただの泥、ですか」
 汚れた手を見返し、あきれたような声を出す。アンシェリーンはぜえはあと肩で息をした。
「水たまりがあったから泥をいっぱい取ってきたの。私はクライフ伯爵令嬢だから、うんにょを投げるなんてできないわ!」
 レイフィが、泥だったらいいわけでは……、とつぶやき、綿布で小さな手を包んだ。
「助けてくださってありがとうございます。次は逃げたら戻ってこないようにしてください。絶対ですよ。──お礼にぼくにできることはありますか?」
 慎重に泥を取りながら優しく言う。綿布の上から温かい指の力を感じ、走ったどきどきが、ときめきのどきどきに変化した。アンシェリーンはうわずった声を出した。
「私の……、お兄様になってもらえますか……? 私、ずっと昔から、レイフィさんのようなお兄様がほしかったんです」
 澄み切った紺碧の瞳が不安そうなアンシェリーンを映した。
 酸欠で倒れるかと思ったとき、レイフィが「わかりました」と恭しく礼をした。
 アンシェリーンの心に喜びがいっぱいに広がった。
「いまから敬語は禁止です! だって、お兄様ですもの。私のことは、ちゃんとアンシェリーンと呼んでください! 妹ですからね」
 レイフィはこれ以上ないくらい優しい笑みを作った。
「わかった。なら、きみもだ、アンシェリーン。敬語はやめるように。ぼくは兄で、きみは妹だからね」
 幸せのあまり体がぽかぽかしてきたが、きらめくばかりの微笑みを見て、お兄様になってください、と言ったことをひっそり後悔した。
 夫になってください、と言えばよかった──。

 

 

 

 真っ白な雲が大地に影を落としながら悠然と移動した。
 初夏の太陽が姿を現し、柔らかな光が降り注ぐ。
 アンシェリーンは青く茂った畝の前で片膝をつき、立派に実った空豆を背中の籠に投げ入れた。つばの広い麦わら帽子をかぶって木綿の布、──要は手ぬぐいを首に巻き、長い髪を首の後ろで三つ編みにしてシニヨンを作っている。
 だぼついた茶色いジャケットと黒いズボン、泥で汚れたブーツを見て、ヴァヘナールでもっとも格式高いクライフ伯爵家の一人娘だと気づく者はいない。
 真っ青な空。真っ白な雲。心地よい初夏の風。心地よい汗。いい感じの疲労。
 前世で夢にまで見た健康的な暮らしだ。
 洪水や干魃、イナゴの大量発生など畑仕事は困難も多いが、生きている、と実感する。
 アンシェリーンはあとひと月で二〇歳。父母の口癖は……。
「もうあとがありません。これが本当に最後のチャンスです」
 畝を挟んで向かい側にいた領民が、突然言った。
「畑はわれわれに任せて、早く良家の子息と結婚なさってください」
 隣にいた領民が気合いの入った声を出した。
「結婚に必要なのはただ一つ。爵位と財産です!」
 二つじゃない……、と内心でつぶやく。斜め後ろにいた領民があとに続いた。
「厩番なんてもってのほかです。どんなに顔がよくて働き者でも、爵位と財産がない男とクライフ伯爵令嬢では釣り合いません! しかも既婚者でしょう」
 ずさり、と胃に激痛が訪れる。アンシェリーンはうわずった声で言った。
「既婚者かどうかは……、わかんないわよ」
「貴族に仕える男は二〇歳までには結婚します。二六歳になる厩番が結婚してないなんてありえません。あの男は間違いなく、き、こ、ん、しゃ、です!!」
 五歳のときから生ゴミにまみれて肥料を作り、家畜小屋に出入りしていたため、領民はアンシェリーンにとって実の父母であるクライフ伯爵夫妻より父母らしい存在だ。
 血のつながりがない兄ができて、一三年──。
 州知事が審査員長となった「第一回馬の品評会」は小規模ながらも大成功で、翌年の「第二回馬の品評会」にはさらに多くの馬が参加し、現在は州内の一大イベントとして各地の馬自慢が州知事領に集っている。
 イチゴダイフクは人を背中に乗せるより荷物を載せる方が好きらしく、領民とともに市場を行き来する生活だ。
 クライフ伯爵領は着実に収益を増やし、農民や城の使用人にわずかだが給金を出すようになっていた。
 アンシェリーンの暮らしが変わったのは、一四歳の誕生日から──。
 貴族令嬢の婚活シーズンの幕開けだ。
 それまでアンシェリーンのしたいことを比較的自由にさせてくれていた父母が「いい加減、ズボンを穿くのはやめろ」だの、「クライフ伯爵令嬢にふさわしい振る舞いをしなさい」だのと小言を言い、「隣の所領に子爵の息子が来ているぞ」「子爵が舞踏会を開くから行ってきなさい」とせっつくようになった。
 一四歳のときは求婚が殺到し、一五歳のときも殺到し、一六歳でも殺到したが、一七歳になると求婚の申し出が漸減し、両親は表情を曇らせた。
 一八歳の誕生日は「まだ間に合う」。
 一九歳の誕生日は「今年が最後だ」。
 ここ最近は「もうあとがない」だ。
 空豆を収穫する領民のうち、もっとも年配の女が説得するような口調になった。
「既婚者と愛をはぐくみたいなら愛人にしなさい。それはそれとして身分が高く、財産のある男と結婚するのです!」
 父母がアンシェリーンに「畑に出るな」と言わないのは、領民が自分たちよりはるかに厳しくアンシェリーンをせっついていることを知っているからだ。
 若い女が問うような顔をした。
「大体あの既婚者はどこに行ったんですか。第一二回馬の品評会には来ませんでしたし、去年は一度も姿を見かけませんでしたよ。おととしの夏も数日州知事領に来ただけです」
「州知事様によると、一身上の都合だそうだ。子どもが生まれたんじゃないか。乳飲み子がいるのに遠くの所領ですごすわけにはいかんからな」
 胃がどんどん痛くなる。
「そもそもあの既婚者はアンシェリーン様のお兄さんなんですよね? 血はつながってなくても、お兄さんとは結婚できませんよ」
 アンシェリーンは青く茂る葉をかきわけたが、手近の空豆は収穫ずみだ。
 えっこらせ、と立ち上がり、別の畝に行こうとすると領民も立ち上がった。
 背中の籠を地面に置き、休憩するふりをして領民たちとの間合いを計る。
「あら、お兄さん、いらっしゃい」
 後方にいた別の女が軽やかな声をあげた。彼女に兄がいただろうか。
 領民の家族構成を思い出していると、領民たちがさざ波のようにささーっと引き、もといた畝に戻っていった。
 背後から土を踏む音がした。力強い響きに胃の痛みが一瞬で喜びに変わった。
 アンシェリーンは即座に振り返り、地面に置いた空豆の籠にぶつかった。ブーツのかかとが滑り、体が傾き、空が見え、瞳に陽光が差し込んだ。
 領民たちが声をあわせて、「アンシェリーン様!」と叫んだ。
 空豆畑に埋もれて死ぬ……、と思ったとき、たくましい力がアンシェリーンの腰を支え、細い首が前後に揺れた。
 麦わら帽子と首元の手ぬぐいが軽やかな風にさらわれ、髪留めとともに地面に落ちた。シニヨンがほどけ、漆黒の髪がうねりながら豊かに背中を覆い尽くす。
 ふわりとつま先が浮き上がり、大地にかかとを踏みしめた。空の青よりもっと澄んだ混じりけのない青が、アンシェリーンの心を射貫くように間近でアンシェリーンを捉えた。
 アンシェリーンは息がかかりそうなほど近くにある冷徹な表情をぼんやり眺めた。
 少女めいた容貌は、少年期をすぎて甘さが一切そぎ落とされ、男性的な美に成長した。
 襟足の長い銀の髪は子どものときと同じだが、子どものときとは違い、眉や鼻梁はやいばのような鋭さを放っている。
 どこもかしこも完璧だが、完璧すぎて、命のこもった人間ではないようだ。
 長身で、筋肉に裏打ちされた体鏸は理想的に引き締まり、長袖の白いシャツと茶色いズボン、黒いブーツは、貴人に仕える従者に見えるが、全身から醸し出される威圧的な雰囲気はとても従者には思えない。レイフィは無表情で言った。
「顔から倒れて、傷がついたらどうする。顔しか取り柄がないのに」
 レイフィがアンシェリーンから慎重に腕を外した。
 アンシェリーンはレイフィの白いシャツの上腕を握りしめた。「手を離せ」とは言われなかった。それだけで安心する。
「周辺の所領の貴族たちが、お前のことをどう噂してるか知ってるか? 身分が高く、美しいが、奇異な行動をする歌が下手な行き遅れの変人、だ」
 アンシェリーンが無言のままでいると、レイフィは取りなすような口調になった。
「いや……、『歌が下手』は俺が勝手につけた。歌が下手だからといって人間として……」
「歌はどうでもいいわ。私って顔が取り柄なんだな、と思っただけ」
 まさか「顔が取り柄」なんて言われる人生が自分に訪れるとは思わなかった。
「あの~、レイフィさんは既婚者ですか?」
 領民のうちもっとも若い女がズバッと訊いた。先月結婚したばかりで、夫ともども一六歳。まだ子どもじゃないか! と思うも、ヴァヘナールでは結婚適齢期のど真ん中だ。
 ほかの領民は空豆を収穫するふりをしながら、聴覚に全神経を集中させている。
 レイフィは新婚の女に表情のない目を向けた。
「そんな噂が立ってますか」
 言葉遣いが丁寧になる。レイフィは領民に対しては丁寧だ。
「近くの所領に住むご令嬢方が既婚者だって言ってますよ。全然なびかないから、本拠地に愛妻と可愛い子どもがいるんだって」
 派手に着飾った貴族令嬢が、自分の馬の相談という名目でレイフィのいる厩舎に行くのを見るようになったのは、アンシェリーンがレイフィと出会った翌年か、翌々年だ。
 アンシェリーンはみんなお兄様を頼りにしているんだわ、と誇らしい気持ちになりつつ、令嬢が「今度二人で遠乗りをしましょう」とか、「明日、私の所領に来て馬の様子を見てくださらない?」と誘うのを聞き、「どうして厩番と遠乗りをするんだろう」「自分の馬のことは、自分の所領の厩番に訊けばいいのに」と不思議に思った。
 レイフィは「仕事があるので遠乗りはできません」「お嬢様の馬のことはお嬢様の所領の厩番にお訊きください」と淡泊に断った。
 一向になびくことのないレイフィに、貴族令嬢は「しょせん卑しい厩番ですわ」だの、「馬のことが訊きたかっただけですのに勘違いをしているのよ」と負け惜しみを言うようになった。そのうちの一つが「あの男は既婚者よ」だ。
 レイフィが新婚の女に答えた。
「妻も子どももいませんが、ずっと昔、夫になってほしいと言われたことはあります」
「何それ、プロポーズじゃない! いつの話よ!」
 大人しくしていたアンシェリーンは、くわっと表情を変え、レイフィを睨んだ。
「お前に兄になってほしいと言われた翌年だ。そういうのがはやりかと思った」
 年配の領民が訊いた。
「なんて答えたんですか?」
「私も、子どもでしたから」
 承諾した、ということだ。現在、妻も子もいないのだから気にする必要はないはずだが、胃痛と衝撃は収まらない。
「先ほど旦那様がちょびひげ男爵のもとからお戻りになりました。ずいぶん機嫌が悪そうでしたから、レイフィさんは消えた方がいいですよ」
 若い領民が朗らかに言った。
「ギャンブルに負けたんですね」
 レイフィが遠慮なく口にする。ちょびひげ男爵、──略してちょびひげは、去年クライフ伯爵領の隣の所領を買い上げたちょびひげのある男爵のことで、やたらと父をカードゲームに誘う。秋には元々の所領に戻るだろうから、父のギャンブルもいまのうちだけだと思うも沼にはまると厄介だ。
「ひと月後にアンシェリーン様が大台の誕生日を迎えますから気が焦って賭け事に逃避してしまうんです。レイフィさんも、とっとと結婚しろってアンシェリーン様に言ってください。優しいお兄さんの言葉だったら、いくらだって聞きますから」
「お……、大台ってほどじゃないわ……」
 領民を睨んでやりたいが、パワハラになるから我慢する。
「私は優しくないですから何を言ってもむだでしょう」
 レイフィが無表情で返答した。レイフィに「結婚しろ」と言われたら、どう返そうか悩んでいたから全身で安堵した。
 それはさておき──。
「今年の夏は州知事様のところにいるのよね? 去年はどうして来なかったの?」
 アンシェリーンが一九歳を迎える誕生パーティーにレイフィはいなかった。パーティーと言っても、領民とともにごちそうを食べ、踊り明かす、要はどんちゃん騒ぎだ。レイフィとどんちゃんできる日はそう多くないから、アンシェリーンにとっては大事な時間だ。
「去年は一身上の都合だ。今年も一身上の都合で、もうここを去る。次にいつ来るかはわからない」
「去るって……、どういうこと? もう来ないの? 二度と?」
 ショックのあまり、みるみる涙が盛り上がる。アンシェリーンはまぶたを極限まで開き、落涙の危機を乗り越えたが、喋ることができずうつむいた。
 領民が感心したような声を出した。
「もしかしてそのことをアンシェリーン様に伝えにわざわざここまで来たんですか? レイフィさんはまめですねえ」
「違います」
「アンシェリーン様のことを気にかけてないふりをして、いつもひっそり気にかけてらっしゃいますよね。転びそうになったら、いつもつかまえるし」
「気にかけてません」
「いつ来るかはわからんっていうのは、ここに来たいけど、一身上の都合でどうなるかわからないってことですよね。そんなんじゃ可愛い妹様が泣いてしまいますよ」
 半泣きになっていたアンシェリーンは、驚きと喜びでレイフィを見上げた。
 そういうとらえ方もあるのか、と満足する。レイフィがため息交じりの声を出した。
「まあ……、ここにはダイフクがいますからまったく来ないというわけにはいきません」
「ダイフクは市場ですよ。最近は市場の厩番がダイフクの様子を見てくれています」
 若い男が無邪気に笑い、アンシェリーンは「パワハラに注意すべし」という雇用主の心得を忘れ、むっと男を睨みつけた。
 レイフィがシャツの袖をつかむアンシェリーンの指に手を重ねた。わずかに触れた温かさと自分を覆う大きさにどきりとする。
 乾いた手が自分のシャツからアンシェリーンの手をゆっくりと離した。
「……また来るんでしょう?」
 レイフィはアンシェリーンには答えず、領民に礼をした。
「では、失礼します」
 アンシェリーンを見ることなく空豆畑を出て、木の柵につないでいた漆黒の馬にまたがった。厩番が乗るたぐいの馬ではないから、州知事に借りたのだろう。
 レイフィは踊るような優雅さと力強さで、クライフ伯爵領をあとにした。