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転生ブラコン令嬢ですが、塩対応のツンデレお兄様に溺愛されていたようです 3

第三話

 

 大台の誕生日が近づくにつれ、城は次第に慌ただしくなっていった。
 邸宅の大広間には近隣の所領に住む貴族や大商人のためのワイン樽が、庭には領民のためのワイン樽が用意され、祝いの日にふさわしい調度品が設置された。
 レイフィはいつ来るかわからず、アンシェリーンは日ごとに元気を失った。
 ついこの間まで「二〇歳をこえた娘が結婚していなかったら恥ずかしくて出歩けない」と言っていた父は、やつれ果てたアンシェリーンに気を使ったのか、「お前が嫌なら仕方ない」と頷き、母も不機嫌ながら小言を言うことはなかった。
 婚活シーズンが始まった一四歳の誕生日は朝早くに山羊小屋に行って滑って転んで悪臭にまみれ、一五歳の誕生日は朝早くに鶏小屋に行って滑って転んで顔を打ち、そのあとも朝早くにさまざまな不運に見舞われ、貴族の集まる大広間に行くことができなかった。
 遠くから招待を受けた貴族は「絶世の美女というのは偽りで、クライフ伯爵が奇異な娘の結婚相手を探すため、金でデマを流したのだ」と口々に噂した。
 今回は、大台の誕生日の三日前から領民がスクラムを組んでアンシェリーンを畑や家畜小屋に近づけないようにし、当日は暗いうちに母と侍女五人が寝室に突入してきて、「鶏にえさをやらないといけないわ」という言葉を封殺し、アンシェリーンを衣装部屋へと連行した。母の指揮の下、五人の侍女と衣装係が今日のために仕立てたドレスをアンシェリーンに着せ、輝く黒髪に花飾りをつけて、全身に薔薇水を振りかけた。
 アンシェリーンは姿見の前で猫背になり、「はー……」と憂鬱の息を吐いた。
 周囲からも深い息の音が聞こえ、鬱が伝染ったのかと顔を上げると、侍女も、衣装係も、母も姿見を見て、うっとりしている。
 視線の先を追うと、曇りのない姿見に月の光さえかすむ美しい女が立っていた。
 漆黒の髪は耳にかかる部分を編み込んでいくつもの小花をあしらい、残りはすべて背中に長く垂らしている。サテン地の黄色いドレスは胸元から腰にかけて精緻なフリルが巻きつき、肘から下はレースとなって優雅に手首を覆っていた。
 体つきはほっそりし、ウエストは極限まで細いが、胸元は理想的に盛り上がり、赤い唇と光を含んだ瞳は華やかさと上品さが絶妙に入り交じっている。
 レイフィに「顔だけが取り柄」と言われるだけはある。だが、スタイルもいい。
 レイフィはいない。
 切ない。
「今日が勝負よ、アンシェリーン!」
 濃いピンク色のドレスに着替えた母が勢いよく口にした。
「挨拶は独身貴族だけでいいわ。気に入った殿方がいれば、広間を退出する前に私に言いなさい。広間を退出する前だからね!」
 アンシェリーンに抵抗する気力はなく、「広間を退出する前」という母の奇妙な指令も適当に聞き流した。


 祝宴の時間が近づくと、名のある貴族や貿易商が馬車で乗りつけ、クライフ伯爵城の中心にある邸宅に次々足を踏み入れた。
 クライフ伯爵の招待に応じ、遠くから来た貴族は一九歳の誕生日のときより多かった。
 母曰く「行き遅れだから、すぐ飛びつくと思っている」そうだ。行き遅れに飛びつく男にろくな奴はいないが、たまに掘り出し物があるからね、と母は付け加えた。
 アンシェリーンの結婚は諦めたかと思ったが、何も言わなかったのは、アンシェリーンがわざと家畜小屋で転ぶのをやめさせるための方便だったのかもしれない。
 大広間の奥にある一段高い場所にクライフ伯爵夫妻が座り、その隣にアンシェリーンが腰を下ろした。出席者全員を見ることができる位置だ。
 出席者からもアンシェリーンが見えるが、アンシェリーンは鬱々とした気分に苛まれ、ずっと猫背で、うつむいていたから、どちらからも顔を見ることはできなかった。
 少し離れた場所に州知事がいる。一三年経ったいまも州知事で、アンシェリーンが州知事城の厩に行くといつも歓迎してくれる。
 あとでレイフィのことを訊いてみようか。レイフィに関する質問に州知事が答えてくれたことはなかったが、大台の誕生日なのだから、特別に教えてくれるかもしれない。
 肉切り係がパセリと金箔で縞模様にした仔牛の丸焼きを丁寧に切り分け、それぞれのテーブルに置いていった。いつもながらおいしいようには思えず、スパイスの香りと湯気が広間に充満すると、気分が悪くなってきた。
「どうした、アンシェリーン、元気がないな。そういうときは蜂蜜入りの甘いワインだ」
 父の目配せで、給仕係が銀のゴブレットを持ってきて蜂蜜を垂らし、シナモンスティックでかき混ぜた。
「アンシェリーン、この中でほんのちょっとでも気に入った殿方はいる? 逆に絶対に嫌な殿方はいる?」
 母がにこりともせず訊いた。大広間は早くもアンシェリーンの夫探しという目的を忘れ、酔った出席者が自慢話の競争をしていた。
「ワインはいらないし、気に入った人もいないわ。あえて言うならみんな嫌よ。私、退席していいかしら。日々の家計のやりくりで疲れてるの」
「二〇歳にもなれば疲れが残る。寝なさい、寝なさい」
 父が愛想よく言い、背後に立つ衛兵にあごを上げた。母が諦めたような声を出した。
「みんな嫌ってことなら、裏を返せば誰でもいいってことよね。行ってらっしゃい。滑って、転ばないように」
 アンシェリーンは自慢話に余念のない客人にひっそり礼をし、見覚えのない二人の衛兵について行った。
 いつのまにか太陽は消え、広い廻廊はいくつもの蜜蝋で照らされていた。庭から領民の楽しげな笑い声が聞こえてくる。いつもならズボンに着替えて騒ぎに飛び込むところだが、いまのアンシェリーンに飲み食いする元気はない。
 二階の突き当たりにある寝室に行くと、衛兵の一人がドアを開き、アンシェリーンは「ありがとう」と言って中に入った。
 背後でドアが閉まり、アンシェリーンは室内を見回した。
 誕生日だからか朝までと違い、分厚い絨毯に赤い薔薇の花びらが敷きつめられていた。
 いつもならあちこちに灯されている燭台はドアのそばとベッドの角にしかなく、普段は開け放されている木の窓が、雨でもないのに固く閉ざされ、錠前がかかっている。
 窓を開けていたら、領民のどんちゃん騒ぎで寝るどころではないから気を利かせてくれた、とか。
 ベッド脇の丸テーブルには、陶器の皿に大粒のぶどうとイチジク、何枚もの金貨が入っていて、別の皿にはウサギの丸焼きが盛られていた。
 大量の金貨は誕生日のお小遣いだろうか。
 窓にかかった錠前の鍵はどこにもなく、アンシェリーンが鬱のあまり窓からダイブする危険を遠ざけたのかもしれない。
 アンシェリーンは炎の中で揺らぐ品々をしみじみと眺めた。
「金貨のお小遣いなんて初めてだわ……」
 ぶどう、イチジク、ウサギの丸焼き。何か共通点がある気がする。なんだったか。
 そういえば、ドアを閉めてから、二人の衛兵の足音が去っていない。
 ドアの外に立っている、ということだ。
「足湯につかりたいわ……。侍女も使用人たちのパーティーがあるから、お湯は自分でわかさないとね」
 アンシェリーンは薔薇の花びらを踏みしめながらドアまで歩いて取っ手をつかみ、「あ!」と叫んだ。
 ぶどうとウサギは多産の象徴だ。イチジクの花言葉はズバリ「多産」。
 金貨は結婚式の持参金として花嫁に渡されるもの。まさか……。
 頭から血が引いたとき、手の中の取っ手がアンシェリーンが意図したのとは逆方向に回り、ドアが開いた。
 正面に立派なちょびひげをはやした背の高い男が、社交的な笑みを浮かべて立っていた。白いサーコートと白いズボンは真新しく、両手に大粒の宝石がはまった指輪をこれでもかとつけている。
 年齢は三〇代の後半と言ったところで、目も鼻も唇も過剰に大きく、暑苦しい。
 ちょびひげの男は金色の長い髪を三つ編みにして胸の前に垂らし、緑の瞳に根拠のなさそうな自信をみなぎらせていた。
「あなたは、ちょび……男爵様……」
 ちょびひげと呼びかけ、危ういところで踏みとどまる。
「私のことをご存じでしたか」
 頭上から思いのほか甲高い声がかけられた。
 ドアの両脇に二人の衛兵が立っている。アンシェリーンに背を向けた姿は、「寝室で何が起こっても知りませーん」と言っているようだ。
 アンシェリーンは用心しながら口を開いた。
「父と懇意にしてくださっているとうかがっております。お部屋をお間違えのようですね。侍女を呼んで案内させますわ」
 瞳だけで呼び鈴を探すが、ない。朝起きたときはベッドのそばにあったのに。
「間違ってはいません。あなたと二人きりでお話するため、ここにやってまいりました。二〇回目の誕生日、おめでとうございます。私からの心ばかりの品をお受け取りください」
 ちょびひげが自分の顔よりわずかに小さい漆黒の箱を差し出した。わざわざ「二〇回目」と言うところに悪意を感じるのは気のせいか。贈り物を拒絶する正当な理由はなく、アンシェリーンは左手でドアを開けたまま、「ありがとうございます」と右手を伸ばした。
 ちょびひげは重い箱をアンシェリーンに押しつけ、「せっかく来たのですから、失礼しますよ」と強引に寝室に入ってきた。慌ててドアから手を放し、重い箱を抱きかかえると、衛兵が申し合わせたようにドアを閉めた。
 アンシェリーンはちょびひげの背中に厳しい声を放った。
「お待ちください、男爵様! クライフ伯爵家の娘がこのような時間に殿方と二人きりになるわけにはまいりません。お引き取り願います」
「ご安心を。クライフ伯爵の承諾は得ています」
 父親がいいと言っても、本人が嫌がっとるんじゃい! と怒鳴りたいが、父がいいと言ったのであれば、ヴァヘナールではいいことになる。
 ちょびひげはアンシェリーンに向き直り、自信満々に微笑んだ。
「どうぞ、開けてみてください」
 アンシェリーンはちょびひげから距離を取り、用心しつつ箱を開いた。
 楕円形の置き鏡が入っている。アンシェリーンの顔と同じぐらいの大きさで、鏡枠にいくつもの水晶がはめ込まれていた。鏡に映った容貌は、自分でも見とれるほど美しい。
「お美しい鏡ですね。早速使わせていただきますわ。では、これで──」
「美しいのは、鏡ではなく、あなたですよ、アンシェリーン嬢」
 ちょびひげはアンシェリーンの言葉を無視して、熱い視線を送り込んだ。
「先日、クライフ伯爵領の視察に行ったとき、木陰で休息を取っていたあなたのお姿を拝見し、一目で心を奪われました。ズボンを穿き、畑を耕す変人だと評判でしたが、すべてその美しさを隠すためだったのですね」
「そういうわけでは……」
「これまであなたに釣り合う男がおらず、その年になったのでしょうが、私は爵位も、財産も、容姿も、あなたが望むすべてを備え持っています。その鏡は私の愛のあかし。未来永劫、私の妻としてその鏡の中にとどまり、私の愛のひと突きを受け止めてください」
 アンシェリーンは、うげ、と小さな声をあげた。
 欲望のたぎる視線がしなやかな体をなで回す。気持ち悪くて吐きそうだ。
「先ほど父の承諾は得ているとおっしゃいましたね。つまり、父はあなたとの賭け事に負けて借金を作り、そのカタに私を差し出した、ということですか」
「クライフ伯爵の借金とあなたとの結婚は別ですよ。ただし、あなたが男爵夫人になれば、クライフ伯爵家の借金は男爵家の借金になりますから帳消しですな」
 ふと、祝宴の前に母がしつこく言った言葉が耳元に蘇った。──気に入った相手がいれば、広間を退出する前に言いなさい。
 広間を退出すればちょびひげとの初夜が待っているから、その前に気に入った貴族がいれば、ちょびひげとの縁談は断って、そっちの縁談を進めてやる、という意味だったのだ。
 父と違って、わずかながらアンシェリーンの意向を尊重した形だが、みずからの罪悪感を紛らわせるのが目的のような気がしなくもない。罪悪感があるだけ、まだましか。
 アンシェリーンは緊張を悟られないよう、柔らかく微笑んだ。
「男爵様、わたくしは今日の星占いで、鏡をプレゼントしてくださった殿方と夜をともにすれば、殿方が死ぬ、と出ましたので、あなたの妻にはなれません。男爵様のお命のためです」
「私は占いは信じませんが、あなたのためなら死んでも本望です」
「本当ですか」
「はい」
 ちょびひげが自信を込めて頷いた。
「では、望みを叶えてさしあげます!」
 アンシェリーンは置き鏡の入った箱を両手で持ち、ちょびひげの頭部に勢いよく叩きつけた。
 ガラスの割れる音がし、ちょびひげが、ぎゃあっ! と聞き苦しい悲鳴をあげ、絨毯に尻餅をついた。アンシェリーンは重い箱を放り投げ、ドアに向かって走り出した。
「男爵様が滑って転んで、鏡に頭をぶつけました! 早く医師を呼んでください!」
 叫んだ直後、うつ伏せに倒れたちょびひげにドレスの裾を引っ張られ、絨毯の上に倒れ込んだ。
 ちょびひげはアンシェリーンのドレスを鷲掴みにしたまま衛兵たちに怒号を放った。
「私はぶじだ! 誰も部屋に通すな! 私の言葉に逆らった者は死罪だ!」
 アンシェリーンは絨毯の上で腰をひねり、憎悪にまみれたちょびひげを見た。
 長い金髪が乱れ、額に血が垂れているが、期待するほどのダメージはなさそうだ。
「少しばかり美しいからと図に乗りおって。年増の容色に大した価値はないっ。この私が相手にしてやるのだからありがたいと思え!」
「ありがたいとは思いませんので、ぜひ価値のある若いご令嬢のもとに行ってください!」
 先端がきれいにカールしたちょびひげの中心をブーツで蹴りつけてから、うつ伏せになって絨毯に爪を立て、ちょびひげから逃れようとする。
 そのとき、ガッ、ガッと何かが窓に叩きつけられ、轟音とともに厚い板が砕け散った。
 直後、ぎゃあ、というちょびひげの悲鳴と、ごん、と何かにぶつかる音がした。
 ドレスのスカートが解放される。
 背後を見ると、ちょびひげがベッドの前で仰向けになり、大きく顔を歪めていた。
 後頭部にベッドの支柱がある。誰かがちょびひげをアンシェリーンから引き剥がし、ベッドに投げつけたのだろう。
 壊れた窓から夜風が吹き込み、灯りを揺らす。眼前で重い音が絨毯に落ちた。斧、だ。
 燭台に照らされた人影がアンシェリーンのそばで腰を折り、箱から飛び出た置き鏡を片手で拾い上げた。銀の表層に大きなひびが入っている。
 人影が誰かはもうすでにわかっていた。
「こういうときは、平らな面じゃなく、枠の部分を使うんだ」
 官能的な甘い声がアンシェリーンの鼓膜を震わせる。
 ちょびひげが瞳に憤怒をたぎらせ、ふらつきながら立ち上がった。
「きさま……、私を誰だと思って……」
 人影が片手で置き鏡を振り上げ、水晶がまき散らされた鏡枠をちょびひげのこめかみに叩きつけた。壮絶な雄叫びが寝室に轟いた。アンシェリーンのときとは明らかに違う衝撃が頭部ごとちょびひげを吹き飛ばし、巨体が絨毯に沈み込んだ。
「男爵様、どうなさいましたか!」
 衛兵がドアを叩くが、ちょびひげは頭から血を流し、仰向けに倒れたきり動かない。
 死んだかと思ったが、指が小刻みに動いている。大丈夫、だろう。
 アンシェリーンはすぐそばに立つ愛しい姿を見上げた。銀色の髪が炎を浴びて赤く光る。夜の陰りを浮かべた瞳がアンシェリーンをまっすぐ見下ろした。
「レイフィ……、会いたかった……」
 レイフィは白いシャツと黒いズボンに加え、背中に長剣を負っていた。
 大きな手の平が差し伸べられ、誘われるように手を出すと、強い力で手首をつかみ、アンシェリーンを抱き寄せた。熱い瞳が絡まった。
「お父様が来たら殺されるわ。私と……、駆け落ちしてくれる?」
「駆け落ちはしないが、結婚する。行くぞ」
「ん? え? あ? えええ……!」
 訊き返す前にレイフィがアンシェリーンの腰に手をあて、軽々と抱き上げた。視界が回り、端麗な顔が間近に来る。
「しっかりつかまってろ」
「はい!」
 勢いよく返事をし、レイフィの首にしがみついた。レイフィがアンシェリーンを片手で抱いて窓辺に行き、板のなくなった窓枠をまたいで、城の外壁にある出っ張りの上に立った。アンシェリーンは命も体も人生もすべてレイフィにゆだねた。
 レイフィがあいた方の手で何かをつかんだ。三階の窓から眼前に太い荒縄が下りている。荒縄のところどころに結び目が作られ、小さな足場となっていた。
 レイフィがアンシェリーンの腰から手を離し、両手で荒縄をつかんだ。アンシェリーンはレイフィにしがみつき、固くまぶたを閉じた。結び目にあわせて、断続的に衝撃が訪れ、何度か続いたあと、ふわりと体が傾いた。落ちて死ぬ、と思った次の瞬間、柔らかな感触が全身にぶち当たった。仰向けに倒れたまま目を開くと、乾いた藁の中に埋もれている。
「大丈夫か」
 立ち上がったレイフィがアンシェリーンの手首を引き上げた。
 荒い鼻息が間近で聞こえ、呆然としたまま視線を向ける。イチゴダイフクが楽しげに口をモゴモゴ動かしていた。
 イチゴダイフクの後ろに大きな荷車がついている。藁をここまで運んできたようだ。
「ダイフクちゃん、ありが……」
 イチゴダイフクに礼を言おうとしたとき、今度は鋭いいななきが聞こえた。
 背後を振り返ると、真っ黒な軍馬がいる。馬車用の馬より一回り大きく、明るい月光を反射して見事な輪郭を夜の底に浮き上がらせていた。
「早く乗ってください!」
 年配の女が軍馬の脇に立ち、両手で手綱を握っていた。何人もの領民がイチゴダイフクの首をなで、城の正面をのぞき込み、衛兵が来ないか見張っている。残る領民はアンシェリーンたちの声が大広間に聞こえないよう宴のふりをし、懸命に騒いでいた。
 アンシェリーンの胸に喜びがこみ上げた。レイフィとの結婚を散々反対していたのに。
 最後はアンシェリーンの気持ちを一番に考えてくれる。
「早くしろ!」
 レイフィが軍馬にまたがり、アンシェリーンを引き上げて自分の前に座らせた。
 シャツの長袖に包まれた腕がアンシェリーンの両脇から伸び、洗練された仕草で手綱を操る。心臓の鼓動が、幸せと興奮で最高潮に到達した。
「あとは頼むぞ!」
 レイフィが命令に慣れた声を出し、領民たちが口々に叫んだ。
「アンシェリーン様、望まぬ結婚をする前に一夜の思い出を作るのです! ちょっとぐらいバレません!」
「楽しんでくださーい!」
「……」
 レイフィとの逃避行を手助けしてくれたわけではないようだ……。
 父母にバレたら領民たちがどうなるか心配だったが、父母とも自分たちの生活は領民のモチベーションの上に成り立っていると理解しているから、ひどいことはしないだろう。
 レイフィが馬首を城の裏口に向け、丸太のような腹を鐙で軽く刺激した。
 忠実な軍馬が勢いよく走り出す。
 夜は始まったばかりだ。

 

 

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ご愛読ありがとうございました!
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