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陰陽皇子のやんごとなき執着愛 平安艶恋異聞 2

第二話

 

 ──え? え? え? え? え?
 新たなもう一人の登場だ。
 声を聞くのは初めてだったが、おそらくこの常識的な登場をした人物のほうが、式部卿に違いない。何せちゃんと服を着ているのが影でわかるし、声のかけ方からも良識が感じられる。
 まずはこの見ず知らずの裸の闖入者の存在を式部卿に伝えて、助けてもらいたい。その思いで必死だった。
 だが、口にかかっていた男の手は緩むことがない。それにあらがって暴れようとすると、全身に覆い被さられた。
 そんな私たちの揉み合いは、廊下にいる式部卿まで伝わったはずだ。
 御簾や几帳などで仕切られているとはいえ、音や気配は筒抜けだもの。
「千古姫? 千古姫? 何か──」
 何らかの異変を感じ取った式部卿が、焦ったようすで御簾の向こうから声をかける。早く助けて欲しくて、私は足の先をばたつかせる。
 一気に几帳が開いた。
「御免──ややっ!」
 式部卿のいるほうが、私が男に押し倒されている褥よりもずいぶんと明るい。
 しかも、今夜は望月だ。
 その月明かりに今夜、忍んできた式部卿の姿が映し出された。
 単に、指貫袴。黒袍。
 正装としての束帯よりも、少しカジュアルな宿直衣だ。
 だけど、その一瞬に目に灼きついたのは、烏帽子の下の顔だった。
 想像していたよりも、遙かに式部卿は年上だったのだ。
 一目で、五十を越えているとわかるほどのおじいさん。
 ──なぁるほど。
 その瞬間、見知らぬ男に押し倒されているというのに、私の頭はすうううっと冷静になった。
 後ろ盾をなくした私に、婿が来るだけでもありがたい。そう思ってはいたものの、突きつけられた現実の醜悪さにゾッとする。
 だが、式部卿は式部卿で、今の状況に大混乱のご様子。
 何せ婚家によって準備された、初めての渡り。
 だがその夜、忍んできた女の褥に、裸の男がいる。その二人が揉み合っているさまを、今、突きつけられている。
「そなた、間男を!」
 そんなふうに甲高い声で糾弾されて初めて、この状況はそのように誤解されるのだと思い至った。
 私としては、いきなり裸の男に乱入され、押し倒されている状況に他ならないのだが、そう誤解されても無理はない。何より私が、この状況を理解できずにいるんだもの。
「ち、……ちが……っ!」
 だが、それ以上は言えなかった。
 私の身体を組み伏している男が、私の口を塞いだからだ。
 信じられないことに、唇で!
「むぐ!」
 反射的に歯を食いしばったので、歯と歯がぶつかって、がちっと音がした。思わぬ衝撃にギョッとして口を開くと、男の唇が次は優しく重なってきた。舌まで、口の中に入ってきたわ。
「っふ、……ッン……っ」
 頭が真っ白だ。
 何せ私にとって、これが初めての接吻ということになる。
 心の準備などまるでできてはいなかった。相手は見知らぬ男だ。伝わってくるのは逞しい身体つきと、その身体がまとった、脳が溶けそうな、とても良い香の匂いだけ。
 渾身の力で突き飛ばしたかったものの、舌まで入れられて口腔内を探られていては、まるで力が入らない。そんな私の姿は、男の肩にすがるように手を回しているがごとく、見えたかもしれない。
 その光景を、式部卿はまざまざと見せつけられたのよ。
「こっ、……この縁談は、なかったことにさせていただく!」
 それだけ甲高い声で言い捨てて、式部卿が荒々しく廊下を遠ざかっていく。
 待って。行かないで! この乱暴狼藉男を追い出して……!
 そう叫びたかったのだが、私は依然として唇を塞がれているから何も言えない。
 式部卿の足音が遠くなる。
 私が助けを呼んだとしても声が届かなくなったころに、ようやく男が唇を離してくれた。
 そのころには強引に思い知らされた口づけの甘さに、私の身体の力は抜けきっていた。
 だけど、唇から入りこんできた新鮮な空気に、ハッとしたわけ。
「乱暴もの……! あなたは、いったい何! 誰!」
 口元を拳で拭い、男の下から抜け出しながら、きつい声で詰問する。式部卿は帰ってしまわれたし、この西の対屋にいるのは私だけだ。一人で立ち向かうしかないと、覚悟を決めたわ。
 暗闇に慣れた目が、ようやく男の姿をとらえた。
 今までは顔が近すぎて、造形なぞわからなかった。だが、憤慨した式部卿が調度をあちこちずらしたまま去ったせいで、外からの月明かりが男の姿をまともに照らしだす。
 裸の肩。引きしまった身体つき。
 長くさらさらの髪が、結いもせずに肩まで流れ落ちている。
 男の目は涼やかに切れ上がり、鼻梁の形も整っていた。その唇には、楽しいいたずらをした直後のような笑みが浮かんでいる。
 えっ、ちょっと待って。これは何?
 あまりにも秀麗な美貌に、目が吸い寄せられてしまう。
 私、こんな人に押し倒されたり、口づけされたりしていたの?
 全体の印象からすれば、かなり若い。私よりは年齢を重ねているだろうが、おそらく二十代だと思わせる顔つきに、肌の張り。
「あなたは、……誰?」
 立ち上がることもできず、床に手をつけたまま尋ねると、男は笑みをさらに濃くした。
 口づけをした気安さがあるのか、口調は柔らかだった。
「活きのいいお姫さまだな、千古姫。わからないか? さきほど抱き上げて、褥まで運んでくれたというのに」
「えっ?」
 何を言っているのだろう。
 私が、この人を抱き上げた? こんなに上背のある人を?
 運べるはずがない。私が運んだのは──。
 ハッとした。
「あなた、まさか……」
 房全体を見回す。
 庭で拾った黒猫ちゃんの姿は、今やどこにもない。
 彼の長くて艶々とした黒髪が、さきほどの黒猫の毛並みと重なる。それに、涼やかに切れ上がった目の形も。
 だけど、猫が人になるだろうか。それでも、人が鬼になるぐらいだから──。
「まさか、うちの庭にいた猫ちゃん、ってことは、ないでしょ?」
 おそるおそる尋ねてみると、男は目をすうっと半月の形に変えた。
「匿ってくれて、助かった。あのときは強い結界に触れて、まともに動けなくなっていたからな。少し休ませてもらったので、すっかり良くなった。──さきほどのは、おまえの情夫か?」
「……式部卿との縁談は、これで完全におしまいよ」
 からかうような男の言葉に、私は天を仰いで大きくため息をついた。
 あの状況では、誰でも私が間男を引き入れたと誤解するに違いない。
 式部卿にしたら、面子丸つぶれ。二度と、こんな女のところに通おうとは思わないわ。
 だけど、驚くほど悲しくなかった。式部卿が五十すぎのおじいさんだったからだ。
 内裏で顔を合わせている公実叔父が、式部卿の年齢を知らないはずがない。
 ってことは、叔父にとってこれは、納得済みのことだったってわけ。
 行き遅れではあっても、若い女をあてがってやることで、式部卿に何らかの貸しを作るとか、便宜を通してもらうとかするつもりだったってことよね。
 にしても、目の前の全裸の男の存在は腹立たしい。
 女性にとって一生を決めるかもしれない大切な日を、ブチ壊しにされたんだもの。
 その憂さ晴らしに、私は顔を袖で隠して形だけ悲しげなフリをしてみる。
「情夫もなにも、今日は初めての訪いの日だったわ」
「ん?」
「あなたが邪魔をしてくれたおかげで、縁談はこれでおしまいなの。初めての訪いの夜に、間男を招き入れていたと内裏で噂になったら、二度とまともな縁談は来ないかもしれない」
「そ、そうか」
 男はつぶやいて、畳の上で居住まいを正した。
 さすがに裸なのが気になったのか、そのあたりに打ちかけてあった衣を手に取り、肩に引っかける。それくらいの良識はあるのよね。
 それは女物の衣装だから不釣り合いなはずなんだけど、美貌の男だからこその、ぞくっとするようななまめかしさが漂った。
 だけど、得体の知れないことに違いはないわ。
 さっさと出て行って欲しかったのに、男は腰を落ち着けて、ぐるりと室内の調度を見回した。
 几帳は色あせてボロボロだし、御簾も古くて、ところどころの板が欠けている。そんな様子が、月光の下でも見て取れる。
 このような古ぼけた調度に囲まれている娘に、もともと良縁などないだろ、とでも言いたいのかしら。まぁ実際のところ、その通りなんだけど。
「あなたはどんな人だ、千古姫。ここは、望月の屋敷だが──」
 口調がややあらたまる。
 殿上人の名ならいざしらず、その家族の構成員まで、男は承知していないのだろう。
「私は先の左大臣、望月右近の一人娘よ。だけど両親が死んだから、公実叔父の養女になって、この屋敷の一角に住まわせてもらっているの」
「先の左大臣の……」
 そこまでの娘だとは思わなかったのか、男は居住まいをさらに正した。
「それは申し訳なかった。誰かの世話になるつもりはなかったんだが、動けずにうずくまっているところを、あなたに房に引きこまれ」
 本当に黒猫だという話を、続けるつもりなのかしら。
 だったら、その話に乗ってやるしかない。
「今は、動けるの?」
「ああ。しばらく休んだおかげで、良くなった。こうして、人の姿にも戻れたし」
 人が猫に化けるなど、聞いたことがない。だけど、人は鬼になる。動物が祟ったらあやかしになるし、物ですらあやかしに化けることがある。
 だとしたら、人が猫に化けることもあるのかしら。そもそも、猫と人とどちらが正体なの?
 そこまで考えたとき、ハッと気づいた。
「あなた、陰陽師なの?」
 大内裏には陰陽寮があり、そこにいる陰陽師はあやしげな術を使うという。
 紙に命を吹きこんで動かしたり、雨乞いをしたり、鬼神を退けたりもするらしい。
 その陰陽師であれば、黒猫に化けても不思議ではないかもしれない。
 男は肩をすくめるように笑った。
「今日は失敗した。内裏をいろいろと探っているうちに、かつての陰陽師が内裏に仕掛けていた罠に触れてしまったんだ。そんな失敗をしたのが知られると恥ずかしいので、今夜のことはあなたの胸の裡だけにとどめておいてくれるとありがたい」
 口止めされたことで、逆に警戒心が増した。今夜、大内裏が騒がしかった。あれは、もしかしたらこの人を探していたのではないかしら。
 あやしいわ。
 内裏は帝がおわすところ。その内裏を守るように、大内裏が配置されている。
 帝は絶対権力者であり、逆らうことなど考えられない。望月家にどれだけ権力があろうとも、それは摂政や関白として、帝のおそばに侍らせていただいているからに他ならない。
 だから、口止めされてもそれはできない、と断ろうとした。
 だが、男は私のすぐに答えられずにいたのを、承諾だと勝手に誤解したらしい。
「ありがとう、千古姫。決して、悪いようにはしない」
 その言葉の後で男は口の中で呪文のようなものを唱え、私の前で黒猫に姿を変えた。
 ビックリした。
 さすがにそれを目撃してしまったからには、その化身を認めるしかなくなる。
 絶句した私の膝に、黒猫はごろにゃんと頭を擦りつけた。
「……っ」
 その可愛らしさに、思わず撫でたくなって手を伸ばす。だが、その手をすり抜け、黒猫は房から走り出した。
 あ、猫ちゃん……!
 庭を横切っていく黒猫の艶々とした毛並みを、私は見守るしかない。
 人が猫になるのなら。猫が人になるのなら。
 だったら、人が鬼になるというのは、やっぱりあることだわ。
 私は膝に戻した手を、ぎゅっと握りしめた。
 男の存在が幻ではなかった証拠に、さきほどまでまとっていた衣が人の形を残している。
 それをしばし眺めてから、そっと手に取ってたたみ直した。

 

 

 

「えっえっ、何それ、面白いわ。もう一度言って?」
 はしゃいだ声と笑い声が、室内に響き渡る。
 貴族の女性がこんなふうに大声を上げてはしゃぐなんて、決して推奨されることではない。
 普通ならば御簾の中に引きこもり、十重二十重に立てかけられた几帳の奥に姿を隠し、身内にすらまともに顔も見せず、返事以外の声を出すのも極力控えるというのが、貴族の女性のありかただ。
 だけど、私の従妹にあたる茂子は、ちょっとズレたところがあった。笑いたいときには笑うし、泣きたいときには大声をあげて泣く。遠慮なく言葉を口に出す。
 そんな茂子の『空気を読まない』ところを、公実叔父が常に苦々しく思っているのは知っていた。
 茂子がこんなふうでさえなかったら、おそらくとっくに后妃として入内させていたはずだもの。
「で? 式部卿はそのままカンカンになって帰っちゃったの?」
 昨夜、私の元に婿が渡る、というのは、屋敷中では公然の秘密だった。
 だからその翌日、茂子の房に呼び出されて、様子を聞かれた。三つ違いの従妹もいい年頃だもの。婿取りに興味を持っていても当然だ。
 昨夜は三日夜餅も、公実叔父から婿に手渡されるはずの新しい装束も準備されていたらしい。
 だけど、それらも全てぶっち切って、式部卿はお帰りになられたそうだ。
 そのことが屋敷で噂になっていた。理由を茂子に尋ねられて、説明したところだ。
 もちろん庭で拾った黒猫が美青年に化け、それに押し倒されていた光景を式部卿に見られ、間男を引き入れたと誤解されたなんて話せるはずもない。
 だから、思いっきり脚色したわ。
 庭で弱っていた猫を拾った、ってところまでは、ちゃんと話した。その猫を介抱して一緒に眠っていたところを式部卿に見られたのだが、いくら望月といえども薄暗い夜のこと。男を引き入れていると誤解されて帰られた、ってなふうに。
「だけど、普通なら猫を人と間違えるはずはないでしょ! 式部卿ったら! あー……! おっかし!」
 さんざん笑った後で、茂子は身体を乗り出した。
 袴をつけた単に、袿を重ねた姿。それに、床にまで届く長い髪。
 服装自体はさして変わらないのだが、その袿の豪華さが私とは段違いだ。
 有力者である叔父の元には、仕官や昇級を求めて、何かにつけ貴族たちが訪ねてくる。そのときに、贈り物が持参される。
 そうやって集まった豪華な衣装を、茂子はまとっているのだ。
 だが、公実叔父はとても吝嗇家だったから、北の方や茂子の衣装であっても必要な分しか渡さない。山と積まれた反物や贈り物をどんどんお金に換えていっているみたい。
 だから、私が身にまとう衣装は、全て茂子のお古だった。それも、かなりのお古。色あせて、元の色彩とはだいぶ違ってしまってからのものばかり。
 いくら養女といったって、実の娘の茂子とはそういった歴然とした差があるの。
 そんな叔父の振るまいにはたいがい慣れていたから、今はどうとも思わないけど。
 屈託なく笑い転げた後で、茂子は顔をぴたりと私に向けた。
「面白いから、もう一回、話してくれる? 褥の中にいたのは、猫ちゃんだったのよね? だけど、人と猫とではだいぶ大きさが違うでしょ? それでも間違えたの?」
「そうよ。式部卿は、だいぶお目が弱っていらっしゃるから」
 何気なく言い返したものの、そこに私は一つの問いかけを秘めておいた。
 公実叔父は、式部卿の年齢をご存じだったはず。はたして茂子まで、式部卿の年齢を知っていたのかどうか。
 茂子はさらにヒーヒーと笑い転げながら言った。
「そうね! 式部卿、お目目まで弱っていらっしゃるから……!」
 それを聞いて、私は心穏やかではいられなかった。
 式部卿がご高齢だったことを、茂子も知っていたってことだわ。
 心がスンとなる。
 貴族の婚姻がさまざまな思惑の上に成り立っていることは、理解しているつもりだった。
 叔父一家は、私には『良縁』だと言っていた。だけど、式部卿の年齢については何も知らせなかった。
 だけど、茂子は知っていた。それはきっと叔父が式部卿の年齢を話して、笑いものにしていたってことだわ。
 蚊帳の外に置かれたどころか、悪意すら感じ取って、目の前が暗くなる。
 だけど、こんなことはわかっていたはず。
 両親を失い、後ろ盾を失ったとはこういうことだ。
 それでも、公実叔父に邪魔もの扱いされることがないように、何かと気を遣って暮らしてきたつもりだった。
 人手が必要なときには女房に交じって働いたし、教養が身につかない茂子に学問や歌の手ほどきもした。茂子が公の席に出るときには代わりに歌を詠み、面目を保てるようにしている。
 それでも、そんな私の頑張りなどまるで評価されてはいないのだ。
「お父様、あなたが式部卿に引き取られれば、食い扶持が減っていいなんて言ってたわよ!」
 無邪気な茂子の言葉が、私の心にぐさぐさと突き刺さる。
 通常なら男性が女性の元に通い、そこで衣食住などの世話をしてもらう。だけど女性側に何らかの事情がある場合には、男性の元に引き取られることもある。
 つまり、叔父さまはとっとと私をこの屋敷から追い出したかったってわけね。
 自分は役に立っていると思っていたから、その状況も今、初めて理解した。
 それなりに世間を知っているつもりでもあったけど、まだまだ二十歳の娘。自分が青臭かったんだと思い知らされて、ドーンと落ちこむ。
 そんな茂子の声を聞きつけたのか、どたどたと足音を響かせながら公実叔父がやってきた。
「どうした? 賑やかだな」
 私は叔父に強ばった顔しか向けることができなかったが、茂子が笑いながら昨夜の出来事を説明する。
 その話を受けて、公実叔父も屈託なく大声で笑った。
 私にとっては、まるで楽しくない時間だ。
 だってこの二人は、私の婚約の成功を祝うことより、それが失敗したことを愉快に感じているのだもの。
 ──は……。
 心の中で、深いため息を漏らした。
 こんなところ、出て行ってやりたい。なのに、どこにも行く場所がないのが悔しいわ。
 歌の才を生かして宮仕えをしたくても、こういうのはコネ採用だから、関白である叔父の許可なく、勝手に進められるものではない。それに、両親の私的な財産は全て叔父に没収されている。
 さんざん笑った後で、叔父がのっそりと丸い身体で座り直した。
「おぬしには、またあらためて話がある。後ほど房に行くから、待っていろ」
 ──は?
 そのときの、何か企みがありそうな表情によって、何だかろくでもない話のような気がしたわ。
 だけど、叔父と茂子はこれから行う屋敷内での行事について、楽しげに話し始める。私は立ち上がって、房に戻って待つしかなかったの。