戻る

陰陽皇子のやんごとなき執着愛 平安艶恋異聞 3

第三話

 

 待ちくたびれたころに、叔父がやってきた。
 叔父が供もつけず、私の房まで足を運ぶのは珍しい。それだけで、何か特別な話なのかもしれないと警戒する。
 叔父は房の中央に置いてあった円座にどっかりと座るなり、言ってきた。
「昨夜、そんなことがあったとは知らなかった。式部卿にまた来てもらうのは難しいだろうな」
「そうなりますわね。式部卿が、あそこまで目が悪いとは知りませんでしたから」
 嫌味まじりに言い返したのに、叔父には通用しなかったらしい。
 しれっとした顔で言ってきた。
「そこで千古には、別の縁談を持ちかけようと思う」
「は?」
 さすがに、それにはビックリした。
 式部卿との縁談が、昨日のことだ。それが失敗するなりすぐ、次に行くなんてあるだろうか。
 公実叔父は笏を口にあて、偉そうに居住まいを正した。
「最近、内裏が何かと騒がしい。触穢によって、御上のお出ましが滞ることもあるくらいだ」
 触穢とは、穢れに触れること。
 家中で死人が出たのみならず、出先で動物の死体などに出くわすだけでも、一定の期日、外出を控えることがある。
「内裏の騒ぎの黒幕として、とある陰陽師の名が挙げられている」
「陰陽師?」
 その言葉に、ドキリとした。
 昨夜の男のことが、頭に浮かんだからよ。
 黒猫に化けることができる、とんでもない能力を持つ男。まさにその化身を、この目で見た。
「内裏を我が物顔で闊歩し、さまざまな呪詛を仕掛けられるのは、この男しかいない。ただちにそのろくでもない仕業を止めるべきだが、証拠がなければ手が出せない」
「叔父さまでも?」
 思わず、そんなふうに聞いていた。
 公実叔父は帝に次ぐ権力を持っている。関白である叔父が手出しできない陰陽師など、いるのだろうか。
 叔父はその言葉を受けて、にやりと笑った。
 太り肉に、白髪交じりの髪。その身にまとった、金銀まじりのきらびやかな装束。
 殿上人であるこの叔父が、ろくでもない悪人だと知っている。
 父が生きているときには、愛想がいいだけの人だった。だが父の死後、豹変した。
 待ってましたとばかりに氏長者に君臨し、一族の富や権力を独り占めした。
 この望月の屋敷に乗りこみ、そこにいた家人を全て追い出したわ。
 私がここにどうにか養女として置いてもらっているのは、両親の私的な財産を乗っ取りたいがためだと、後にわかった。
 父が新たに開墾した荘園などの権利は、私に引き継がれるはずだった。だが叔父が代理となってからというもの、荘園の上がりは私の手元に入ってこない。完全に荘園が叔父のものになる前に、権利を主張しておきたいのだが。
「このわしでも手を出せない。何故なら、その陰陽師は先の帝の第七皇子だからな」
「第七皇子……!」
 叔父が言っているのは、やはり昨日出会った陰陽師のような気がした。
 とてもきらびやかで、雅な雰囲気があった。その男がまとった高貴な香の匂いが、鼻孔の奥に蘇る。
「母の身分は卑しかったから、先の帝が崩御されたときも、第七皇子であるその陰陽師の名が、帝の候補として上がることはなかった。だが、今の帝のご寵愛を受けておる。だから、いくらあやしいと思っていても、帝の手前、証拠がなければ手が出せない。逆を言えば、証拠さえあればいい」
「帝のご寵愛を受けているのに、その陰陽師は内裏を呪っているのですか?」
 私の質問に、叔父は迷いなくうなずいた。
「そやつはな、古代からの書物に精通しておる。帝の御前で失せもの占いをしたときには、まるで見えているかのようにあててみせた。もともとそやつが、わざと隠したのではないかと、わしは思っている。──式神を従え、鬼神の生まれ変わりだという噂もあるくらいだ」
「そのように能力のある陰陽師が、どうして帝に逆おうなどと?」
 公実叔父もさすがに気安く口に出せないことだったのか、笏を口にあてて声をひそめた。
「そやつは陰陽師の術を極め、呪いにも精通しているという話だ。自分が帝になりたいがあまり、呪いを振りまくこともあるだろう。そこまでは考えていなかったとしても、帝に重用されたいがあまり、あえて呪いを振りまいている、とも考えられる。皆が困り切ったころに現れて、見事呪いを解くという算段だろう。さすがにこれは、捨て置けん」
 そこまで聞いたところで、おやっと思った。
 待って。
 これは、私に縁談を持ちかける話だったはずよ。
 なのに、内裏を闊歩しては呪いを振りまいている陰陽師の話を出すってことは──。
「もしかして、叔父さま?」
 私の声が低く鋭くなった。
「その陰陽師と、私を?」
 ろくでもない企みとしか思えない。
 叔父はいったい、私に何をさせるつもりだろうか。
 だが、叔父は待ってましたとばかりにうなずいた。
 仰天したものの、もしかしたら昨夜の男とは別の陰陽師かもしれない。
 そう思い直した私は、まずはそこから確認してみた。
「その陰陽師というのは、どんなお姿ですか? 式部卿ほどの年かさでは……」
「安心しろ。姿よく、年齢も若い。もののけとも見まごうほどの美青年だ」
 ややや、やっぱり。
 昨夜の男の端整な姿が、脳裏に鮮やかに浮かびあがった。
 鋭い眼差し。雅やかな顔。すんなりとした身体つきに、白い清浄な肌。
 何より私は、その陰陽師と濃厚な口づけまでしているのだ。
 だけど、いきなりその男と縁を結ぶというのは、ぶっ飛びすぎている。
「名は、清隆。清隆親王だ。そやつをそなたの婿にするから、あやしい行動がないかどうか、探れ」
 さすがに、言葉が出なかった。
 式部卿と破談になったばかりだというのに、この変わり身の早さにはついていけない。
「昨夜も内裏でもののけ騒ぎが起こり、帝から直接、わしに『どうにかしろ』というご命令が下った。さすがに、対処せねばならぬ。内裏では昨夜、黒いあやしげな悪霊が現れ、それを見た大勢の女房が泡を吹いてぶっ倒れた。逃げ出そうとしてケガをした者もいる。その近くで、清隆を見たという話もある」
 まさにそれが昨夜、私が気配を察した内裏での騒ぎだろうか。
「黒いあやしげな影とともに、清隆の姿もかき消えたそうだが。あやつが悪霊を操っているに決まっている。だから、その証拠さえつかめばいい」
「具体的には、……何をすれば?」
「簡単だ。清隆が内裏でしている何らかの悪事の、証拠をつかめ。あの男が、ろくでもない呪いを振りまいているという証拠さえあればいい。呪いの札でも、呪いの人形でも何でも」
 叔父の言葉に、私は知らず知らずのうちに全身に力をこめていた。
 昨夜の男は黒猫に化けるというあやしげな術を、目の前で見せた。
 あれが清隆だったら、何をしていても不思議ではないかもしれない。
 結果的には壊れて良かったものの、私の縁談を台無しにした代償も払ってもらいたい。
 だけど、叔父にはもう私の縁談を利用させはしない。私は目に力をこめた。
「私がそれをしたら、叔父さまは何をしてくださいますの?」
 式部卿のような老人と縁づけてもいいと思われるほど、私は軽んじられている。だから、このような屋敷にも叔父一家にも未練はない。
 必要なものだけ取り戻して、とっとと去りたい気持ちがあった。
 怒りを押し殺して、叔父に冷静に取引を持ちかける。両親の遺産を少しでも取り戻せば、生きていけるはずだ。
「どういうことだ?」
「姿よく、年齢も若く、もののけとも見まごうばかりの美青年というのなら、その夫に私が夢中になるとは思いませんの? それなのにあえて、私が叔父さまに忠実であるには理由を与えていただきませんと」
 私の脳裏に、昨日見た清隆の美貌が蘇った。
 月明かりの下でさえ、あれほどまでに輝いて見えた。明るい光の下で見たら、見とれるほどの男っぷりだろう。
 ギョッとしたかのごとく、叔父は目を剥いた。
 だが、見直したような顔で私をしげしげと眺める。
「そなたはあくまでも理が勝つ女だから、夫の面相などには惑わされないと思っておったわ。だが、……考えてみれば、そうじゃな」
 ──理が勝つ女?
 叔父がそんなふうに、私を評価していたとは知らなかった。おとなしくしてきたつもりなのに。
 だけどその責任の一端は、この叔父にもある。しっかり交渉しなければ、ろくに必要物資も融通してくれない吝嗇だもの。
 餓えたり、冬に寒い思いをしたりするのは御免だわ。そういえば、茂子の歌会についていく条件として、甘葛煎をかけた削氷をひと夏分、所望したこともあった。そのことを、ここまで根に持っているのかしら。
 だったら、「理が勝つ女」として、とことん交渉してやるつもりになった。
「山添の荘園をくださいませ」
 ずずいと切りこんでみる。
 そこは、父が私的に所有していた荘園だ。
 新しく開墾した荘園のあがりは、一定期間、国庫ではなくそれを切り拓いた貴族に入るという決まりがあった。その所有権は切れておらず、両親の死後、私に移ったはずだ。
 それを正式に取り戻したい。
「清隆親王を失脚させたなら、その妻である私の名も穢れるはず。ろくでもない噂が回って、今後の縁談は望めないでしょう。ですから、そうなった場合でも心安らかに寿命を全うできるように、山添の荘園を私のものにしていただきたく」
 叔父とは何度か、父が所有していた荘園について交渉してきたが、ずっとはぐらかされてきた。
 だからこそ、ここぞとばかりに叔父に突きつける。
「山添の荘園だと?」
「ええ。父の荘園の全てを返せとは言いません。せめて山添の荘園だけは、私のものに」
 そこは私にとって特別、思い入れのある場所だった。幼いころに預けられていたからだ。
 都からそう遠くなく、豊かな実りがある。その荘園の管理を行っていた地方の豪族も、心優しくおおらかな人たちばかりだった。
 その荘園さえ取り戻せたら、暮らしが安定する。都の文化は好きだったけれど、後ろ盾なく、大した財産を持たない私が、今後、心安らかに都で過ごせるはずもない。
 だったら、ひなびた田舎でのんびりと暮らすのもいい。
 まだ、都の華やぎというものに、どこか未練を持ってはいた。でもね。叔父やその家族から婚姻のことで笑いものにされていたとわかってしまっては、すっかり拗ねた気持ちにもなるわ。
「しかしな……」
 叔父は山添の荘園を返すのが惜しいらしく、ううう、とうなった。
 だけど、叔父が山添の荘園のあがりを入手するのは不正行為なのよ。
 まがりなりにも律令国家だから、「おそれながら」と御上に訴えることもできる。それを今までしてこなかったのは、関白である叔父の権力に配慮して、律令が曲げられる可能性があるからだ。
 ならば、叔父と交渉して山添の荘園を取り戻すのが一番。そう思って気合いを入れた。
「山添の荘園は、そもそも私のものでしょう? 叔父さまが、便宜上、管理してくださっているだけで」
 まずはそこから確認していく。そこまで踏みこむとは思っていなかったらしく、叔父はたじろいだ顔を見せた。
 ここは『匂わせ』の世界。婉曲に婉曲を重ねて、なかなか核心に踏みこまないのが政治的配慮というもの。だけど、その手でずっとはぐらかされてきたのだから、やるしかないわ。
「山添の荘園は、い、いずれ、そなたが成長したら、渡そうと思っていた」
「私は裳着を済ませ、成人した身。いくつになったら、成長したと見なしていただけますの?」
「身元の確かな男と……婚姻を結んだら」
 その言葉に、私はにっこりと笑った。
「でしたら、清隆さまと婚姻を結んだら、山添の荘園の管理を私に戻してくださいますね。一筆書いていただけます? それさえあれば、私は叔父さまのために働きますが」
 山添の荘園を返してくれるのならば、婚姻がからんだとしても、私としてはそう悪い取引ではなかった。
 だって、相手はあの清隆というふざけた男。
 どんな悪事を働いているのかはわからなかったが、きっとどこかで尻尾を出すに決まっている。その証拠さえつかめば、私は清隆と別れて、山添の荘園に引きこもる。
 もううんざりだった。
 この屋敷から出て、都からもおさらばしたい。
 きっと後宮も、都の寵愛を巡ってのどろどろでいっぱいだわ。入内する茂子に公実叔父が私をつけて、後宮詰めの女房にさせようなんて思わないうちに身を引きたい。
 だけど、一つだけ心残りがあった。
 両親の死は、父への悋気にかられた母が、鬼と化して父を呪い殺し、自身もこと切れたという形で片付けられているのだが、本当はどうだったのか知りたい。
 だって、母はほわほわとした優しい人だったもの。
 夢見がちで、父のことが大好きだったのよ。
 そんな母が鬼になるまで追いつめられたなんて信じられない。母は何らかの手によって鬼になるまで追いつめられた、もしくは何かとんでもない陰謀が隠されているような気がするの。
 少なくとも呪いに精通した人間──つまりは陰陽師による手助けがなければ、たぶん人は鬼にはなれないはず。
 だから、まずは陰陽師の知り合いを作り、それを足がかりにどの陰陽師が母の事件に関わっていたのか知りたい。その陰陽師を突き止めて話を聞いたら、両親の事件が読み解けそうな気がするの。
 そのためになら、清隆に近づいてもいい。
 叔父はしばらく無言だった。
 山添の荘園を返したくないのだろう。だけど、てこでも動かないつもりで、私も無言を貫いた。
 叔父が了承するまでは何刻でも待つつもりだったけど、四半刻の半分も過ぎないうちに叔父は根負けした。
「わかった。山添の荘園をそなたに渡す代わりに、しっかりと役割をはたしてくれるというのだな」
「ええ」
「ならば、証拠の品と引き換えに、そなたには山添だけではなく、相河の荘園を手渡してもいい」
「え?」
 それにはビックリした。
 吝嗇な叔父がそんなおまけまでつけてくるということは、それだけ清隆が邪魔ってことよね。
 これは……気合いを入れなければ。
 私は深くうなずいた。

 

 

 

 叔父は首尾よく、清隆を釣りあげてくれたようだ。
 まずは、叔父の息のかかった貴族たちが、仕事などで清隆と顔を合わせたときに、せっせと「千古姫」がどれだけ素晴らしいか、噂を流すところから始まった。
 才色兼備。性格もよく、夫には甲斐甲斐しく尽くす性格。何より公実叔父の養女だから、その後ろ盾にも期待できる。
 もちろん、それらがどれだけ脚色されたものか、私と顔を合わせたことのある清隆にはわかるはずなんだけど、要は自分に、とある女性についての噂が意図的に流されていると、ピンとくることが必要なの。そのような噂を流されているのは、自分が婿として望まれているからだと伝わるから。
 このような匂わせに敏感でないと、内裏では出世できない。
 親王として内裏の中で育てられた清隆はその匂わせを感じ取ったのだろう。出会った望月の夜から二週間ほどが経ったころ、私に文を寄せてきた。
 とても良い匂いのする香を焚きしめた、高麗の緑の紙。この紙は大陸からの渡来品で、お洒落で高級な品よ。そこに、流れるような筆跡。文を結んだ枝の形もよく、花の選択も最適で、その文が届いたときには、しばらくぼうっとして眺めてしまったほどよ。理想通りの文の姿だった。
 和歌自体は、私に探りを入れる内容だったけど。

“やたらと周囲のものが、あなたと私との縁を結ぼうとして、さえずり始めているようだよ。あなたはこの件について、どう考えているの?”

 文をもらったところで、その気がなければ無視してもいい。やんわりと断るつもりなら、女房に代筆させる手もある。全ては『察する』文化なの。
 だけど私に代筆してくれる女房はいないし、公実叔父から『清隆を探れ』と婚姻をゴリ押しされている最中だから。
 下心アリアリの状態ではあったけれど、文をもらった途端、ときめいたのも事実よ。
 だってその香の匂いを嗅いだだけで、あの夜の清隆の端整な姿が蘇ったもの。
 彼と顔を合わせたときのときめきすら蘇って、そんな自分にビックリしたわ。
 私にとって、恋はずっと絵空事だった。
 なのに、急にそれに鮮やかな色彩が加わった気がしたわ。何せ、清隆の実体に触れている。しかも、裸の状態で。
 届いた文を何度も眺めてはドキドキし、どんな返事をすればいいかと思い悩んだ。
 返信するためにかける時間も、その気があるかないかを伝える重要な指針でもある。だから、グズグズしてはいられない。
 すぐさま、気合いをいれて返信した。

“あなたに直接会ったこともないのに、噂を聞いただけで恋してしまいそうよ。はたしてあなたは、あの日、出会った猫ちゃんなのかしら?”

 和歌は得意だ。
 だから、清隆以外に読まれても意味がわからないように技巧を凝らす。もちろん、歌を記す和紙にも筆跡にも、結ぶ枝にも、細心の注意を払う。ここは教養を伝えるところよ。
 もちろん、清隆に恋するつもりはなかった。
 何しろこの婚姻は、私が山添の荘園を手に入れるための仕事でしかないもの。そんなふうに割り切っていたはずなのに、こういう手順を踏んでいるだけでやたらとドキドキするのも事実。
 一日千秋に感じられる中、適度な間を置いて返事があった。
 またしても、いい枝にいい匂いのする和紙が、美しくくくりつけてある。
 何より焚きしめられた香が、たまらなく心をくすぐった。思わず顔の前に枝を近づけて、深呼吸してしまったほど。
 ときめきながら、文をほどいたわ。

“あの日は月明かりしかなかったから、今度はしっかりとあなたの花のかんばせを拝んでみたいな。おそらく望月よりも、輝いてみえることだろう”

 うっわー。
 きざ。きざ。きざすぎる。
 だけど、それがまた素敵。乙女はこの甘さに逆らえない。
 思わず文を持って、倒れ伏すところだった。


 てなふうに、清隆と文を交わすこと一ヶ月半。
 その間も、内裏では黒い影だの、怨霊だのが跳梁跋扈しているようだった。だけど、今の時点で私にできることは、何もないわ。
 そんな中で、私の房に清隆が忍んでくる手はずがついた。
 その夜は屋敷中が、清隆が忍んでくるのを承知していた。
 私は自分の房で、清隆がやってくるのを待った。
 今夜も望月だということに、ふと気がつく。式部卿とのあの夜から、ちょうど二ヶ月が経ったのだと思うと感慨深い。
 もしかして、清隆はあえて二人の出会いであるこの望月の夜を選んだのかしら。
 だんだんと夜が更けていく。
 空には、見事な望月がぽっかりと浮かんでいる。
 待っている間、ひどくドキドキしていた。遠く牛車の轍が軋む音が聞こえたような気がして腰を浮かせたり、清隆だったら猫に化けて現れるのかしら、と庭に目を凝らしてみたり。
 正直言って、式部卿のときとは比較にならないぐらいだった。
 清隆と文を交わすたびに、その豊かな情感のこもった歌や、美しい字の形にメロメロになっていたのだもの。
 教養のある風流な男に、私は弱い。
 それに、清隆の顔も声も知っている。
 歌をもらったときには、その顔と声で読み上げる姿がありありと浮かんだし、焚きしめた香の匂いが恋しく思えて、何度和紙を顔にくっつけたかわからない。
 今夜は思う存分、その香の匂いを嗅げる。
 そう思うと、ドキドキが頂点に達して、気が遠くなるほどだった。
 今夜はどこまで関係が進むのかしら。その装束に顔を埋めるところまでいくのか、それとも、几帳ごしに少しお話をしただけで終わるのか。
 何度も何度も幻の足音を聞いて浮き足だっては座り直し、緊張のあまりどうにかなりそうになったとき、密やかな足音が聞こえた。
 え、来た? ついに? この足音は、幻ではないわよね。
 密やかな話し声も聞こえてくる。
 それはおそらく、案内をしている家人とのやりとりの声だ。
 それが房の御簾の前で止まり、家人だけが立ち去っていく気配がある。
 心臓がやかましく騒ぎ立てて、それに耳が塞がれる。
 私と清隆を隔てている御簾の向こうに、目を凝らしてみる。
 やっぱり、いると思うわ。
 宿直装束の、公達が。
 まともに声も出ないほどの緊張に襲われながらも、ずっと準備していた歌で呼びかけてみた。

“あなたを思いながら待っていたとき、すだれが秋の風によって揺れたわ。それにドキッとしてしまうぐらい、恋してしまったの”

 ほんの少し間を置いて、返歌が聞こえてきた。

“婚姻の夜が待ち遠しくてたまらなかった。もしかしたら、私の魂だけでも、先に行こうとしていたのかもね”

 元の歌を踏まえた返歌の冴えに、ますますときめきが膨らんでいく。
 これこそ、宮廷の恋だわ。こういう歌のやりとりがしたくてたまらなかった。恋の歌は、こういうとっておきのときのためにあったのだわ!
 荘園を取り戻し、都から離れようと決意していたはずなのに、どうしても鼻息が荒くなる。
 その息の荒さを悟られないために深呼吸をしていると、すっと御簾を上げて廊下にいた公達が入ってきた。
 単に指貫袴。黒袍。
 あらためて目にした清隆は、やはりとんでもない美男子だった。
 前回は裸だったが、こうして衣装を整えて登場されると、絵巻物から抜け出してきたような華麗さに見とれてしまう。
 身につけた衣装は、黒色に見えて艶やかに月光を弾く銀糸の細やかな縫い取りの入ったもの。公実叔父の衣装のごとく、ギラギラとはしていない。
 親王であり、今の帝とも親しいと聞いている。陰陽師としての才覚に優れており、公実叔父であっても簡単に手を出せない相手。
 清隆は房の中央まで進み、無造作に私の前にあった几帳をずらして、ストンと円座に腰を落とした。
「千古姫。また会えたな」
 懐かしそうな眼差し。長いまつげ。ぞくっとするほどの艶っぽい流し目を受けて、私は震え上がる。
 たった二ヶ月しか空いていなかったが、私にとって清隆はどこか懐かしく、昔からよく知った相手のような気がした。それほどまでの気安さがある。
 なのに、周囲の空気が急に希薄になったように感じられた。
 清隆から視線が外せない。
「あなたから、あのような熱烈な文をもらうとは思わなかった」
 その言葉に、どきんと鼓動が跳ね上がる。
 最初こそ探り合うような文のやりとりだったけれど、私の中にははち切れそうなほど恋の歌がぎっしりと詰まっていたの。だから、それを片っ端から使ってみたいという衝動が先走っていたのは否めない。
 あなたの面影が昼間、何度も蘇るとか、あなたのことを思うと眠れなくなって、白々と夜が明けてきちゃう、とか。
 つまりは文学少女にありがちな、表現過剰な歌ばかり詠んで悦に入っていたというわけ。
 さすがにそのことを指摘されると、顔が真っ赤になって、いたたまれなくなってくる。
 夜に詠んだ熱狂的な恋文を、昼間に読み返すようなものよ。
 ぐうの音も出なくなって、わわわわわと畳に思わず倒れ伏した。
「ごめんなさい、……つい、……ついつい」
「何を詫びる? それだけ、私のことを想っていてくれたのではないのか?」
 そんなふうに言いながら、清隆はすぐそばまでにじり寄ってきた。
 顔を上げられずにいると、そっと手首をつかまれる。その接触に、私は石になるしかない。清隆の全身から、とてもいい香の匂いがして、夢見心地になりそう。
「あなたが式部卿との縁談に失敗したのは、私のせいだ。黙っていてくれたら、悪いようにはしない、とも言っただろ」
「え……っ」
 ずっと忘れていたが、思い出してみればそんなことを言われたような気もする。
 もしかして、するすると縁談が進んだのは、もしかして?
 私はようやく顔を上げて、清隆の姿を見た。

 

------
ご愛読ありがとうございました!
この続きは12月17日頃発売のティアラ文庫『陰陽皇子のやんごとなき執着愛 平安艶恋異聞』でお楽しみください!