武骨な騎士団長はきまじめ王女をメロメロになるまで甘やかしたい 1
ハンネローレ・フォン・クラインシュミットに自由はない。
生まれてからずっとそうだった。初めて“外”に出たあとも、それは変わっていない。
でも、それは誰でも同じだろう。自由なんてない。生まれた時に進むべき道ができていて、誰もがその道を進むのだと思っていた。
商家に生まれたら商人に、農家に生まれたら畑を耕す。貴族に生まれたら貴族になり、国王から生まれたら次の国王になる。男は女にならず、女は男になれない。生きていくために誰もが食事をするように、生きていくために道を進んでいく。
それが、生きるということだと思っていた。
何にでもなれるなんて嘘だ。どこにでも行けるなんて夢物語だ。お伽噺でもなければ、好きな道を自分で選んで進むなんてできない。
だって、ずっとずっと同じことを言われていた。誰も彼も同じことを言った。
お前は次期国王だと、お前が国王になるのだと。そう言われ続けていたから、他に道はないとわかっていた。
ただ、目の前に延びる道を進む。言われた通りに生きていくしかない。疑問を抱いてはいけない。他の道を模索してはいけない。逃げられないのだから、逃げる思考を持ってはいけない。
そういうモノだと、生きるということはそういうコトなのだと、ハンネローレは思っていた。
「…………」
人気のない廊下を、息を潜めるようにして一人、歩く。
だから、国王の子供だったハンネローレは、国王にならなければならない。女だから、女王になるのだろうか。どちらでも同じことだ。
王としての教養。貴婦人としての礼儀作法。騎士の称号は手に入れられなくても、乗馬や弓ぐらいは覚えないといけない。
十三歳になったハンネローレは次期国王という肩書きを背負って、目の前にある道を歩き続けている。ただ、ただ、前へと進むしかなかった。
息をするように、心臓が鼓動を刻むように、それが当たり前で当然のことのように道を進む。
「有り得ねぇだろ!!」
大きな声に、びょんと身体が跳ね上がった。
驚いた。心臓がバクバクする。身体が強張る。何が起きたのかわからなくて、目を見開いて周りを見渡す。
「巫山戯るなっ!!」
「……っっ!?」
もう一回、びょんと跳ねながら、ハンネローレは声のする方向を見つめた。廊下には自分ひとり。他に人はいない。
誰の声なのか。こんなに大きな声を出す者が、この城にいただろうか。もう、太陽は沈んでいる。夜中という時間ではないけど、夜に大声を出すなんて非常識だ。
そう。非常識だ。やってはいけないことだ。
まるで、昔の城のようだ。記憶がよみがえり、身体が硬直したのがわかった。
煩くて、臭くて、寒かった。耳障りな金切り声が響き渡り、笑い声や悲鳴や怒鳴り声が混ざって不協和音になる。扉を壊そうとでもしているのか、恐ろしい勢いで叩かれ、ノブがガチャガチャと回っている。
息を止めて、できるだけ扉から離れて、部屋の隅で蹲っていた。
アレは、化け物だ。
部屋の外にいるのは化け物だと、“あの部屋”で生きていた時は信じていた。
でも、今ならばわかる。あの人がアレを化け物だと言った理由だってわかる。
まさか同じ人間で、しかも親族だなんて言えなかったのだろう。貴族としての矜持も忘れた彼らが酒と薬に溺れ、享楽を貪っているなんて、誰が我が子に言えるだろうか。言えるわけがない。誤魔化したくなる気持ちだってわかっていた。
だから、言われた通り、何も知らない子供を演じる。アレは化け物なのだと、納得する。だって、他に道はない。敷かれた道を進むしかできないのだから、知っていると言ったところで無意味だった。
それでも、ここ数年でこの城は変わった。
何が起きたのか知らないけど、化け物と呼ばれた人々は部屋に閉じ篭もり、あまり表には出てこなくなった。
化け物がいないので、部屋の外に出ることができた。
そして規則正しい生活が始まった。静かに、理性的に、人間らしく生きることを教えられた。走ってはいけない。大声を出してはいけない。そう何度も何度も言われていた。
「俺を誰だと思っている!!」
「……………」
ならば、この声の主は誰なのだろうかと、ハンネローレは廊下に立ちすくむ。
聞いたことのない声。でも、この城の全ての人と話をしたわけではないから、自分が知らないだけなのかもしれない。
使用人だろうか。誰かの客だろうか。まさか、化け物が部屋から出てきたのか。震える唇を噛みながら首を捻っていると、更に大きな声が聞こえてきた。
「クロイツ騎士団の次期団長だぞ! 俺様は!」
「……………」
その一言で誰なのかわかった。怒鳴るように名乗るからわかった。
そういえば、誰かが言っていたような気がする。
クラインシュミット王国初の女王となるハンネローレのために、箔を付けなければならない。懇意にしている騎士団から、誰かを連れてこよう。できるだけ地位の高い者がいい。目立つ者がいい。それだけの者が仕えているのだと、国民にも、周辺国にも見せつけなければならない。
そう言っていたのを思い出した。
その箔を付ける役目を負ったのが、この声の主なのだ。
「俺様が近衛兵だと!? こんなつまんねぇ国を守らなきゃなんねぇだと!?」
悲痛な怒鳴り声が廊下に響き渡る。悔しいと、口惜しいと、憎しみの篭もった声に、ハンネローレは小さな溜め息を吐いた。
そうか。そういうことなのか。可哀想に。
騎士団というのは、大きな団であれば一つの国にも喩えられる。それほど大きな力を持ち得るのだ。騎士団の団長ならば、一国の王にも等しい。
小さくとも一国の王になれるはずだったのに、クラインシュミット王国ごときに引き抜かれたと嘆いているのか。
一国の主と、一国の近衛兵。いくらクラインシュミット国が大国だといっても、この差は大きい。
でも、そういうこともあるのかと、ハンネローレは声が聞こえてくる方向を見つめた。その部屋の扉は細く開いている。閉め忘れたのかもしれない。
声の主の道は、生まれた時に決まっていなかったのだろうか。目の前に延びる道は、騎士団の団長という道ではなかったのだろうか。
それとも、ハンネローレの目の前に延びている道が、あの男の道を壊してしまったのだろうか。
ぞわりと、背筋に悪寒が走る。ちりちりと、首の後ろが粟立つ感じがする。
「家飛び出して騎士団入って! それで行き着く先が近衛兵だと!? 笑えねぇな!!」
大きな声で自分の人生を語る男に、ハンネローレは目を丸くした。
貧しい土地を耕す農家に生まれ、家を飛び出し各地を回る。盗人になったこともあると言う。用心棒をしたこともあると言う。そこから騎士団に入り、次期団長にまで上り詰めたと叫んでいた。
「飲まなきゃやってらんねぇだろ!」
「…………」
何て言えばいいのかわからない。何を思えばいいのかもわからない。
そんなの嘘だろう。そんな馬鹿な話はない。
だっておかしいだろう。騎士団の団長の子供ではなく、農家の子供なのに騎士団に入ったというのか。
目の前に延びる道を進むのではなく、分かれ道を自分で選び、行き止まりを乗り越えたというのか。それとも、目の前に延びている道を歩くのではなく、自分で道を作ったとでもいうのか。
嘘だ。そんなの嘘だ。
ずっとずっと言われていた。国王の血を継ぐ者として、お前が次の国王になるのだと言われていた。
だから道は一つしかない。自由なんてない。決められた道を、ただ真っ直ぐ歩くことが、生きるということ。誰もが、皆が、全員が、そうやって生きているのではないのか。当たり前で、当然で、それが、用意されている道が、目の前の道を歩くことが。
自分の中の、何か、大事な何かが、壊れたような気がした。
「……うそ」
ハンネローレは小さな小さな声で呟く。
嘘吐き。吟遊詩人だって、そんな嘘は語らない。でも、だけど、もしも、それが本当ならば凄いと思った。
嘘じゃないなら、本当なら、羨ましい。本当に、本当ならば、素晴らしいことだと思うし、憧れてしまう。
じわじわと、指先が痺れるように熱くなってきた。
だって、自由に生きている者がいる。自由を掴み取った者がいる。目の前に延びる道ではなく、己で道を作り選び取り、そして生きている者がいる。
その道を。自分で作り上げた道を。その偉業を。
ハンネローレが、壊した。
「…………」
国王の子供だから国王になる。女だから王女で、クラインシュミット王国初の女王になることが決められている。
もしも、ハンネローレが男だったら、箔を付けるために誰かが犠牲になることはなかったのかもしれない。せめて、初の女王でなければ、誰にも頼らなくて済んだのかもしれない。
「………で、でも」
どうしてだろう。気持ちが悪い。心臓が跳ねる。全身に鳥肌が立って、震えるぐらいの悪寒を感じたのに体温が上がったような気がした。
痺れているような指先を握り込んで、ハンネローレは浅い呼吸を繰り返す。
これは、恐ろしいことだと思う。いいのだろうか。駄目だろう。どうしようもなく、とんでもないことをしてしまった気がする。ハンネローレ自身が壊したわけではないけど、ハンネローレが歩くべき道が他人の道を壊した。
それが、どれだけ恐ろしいことなのかわかっている。どれだけ酷いことなのか、悪いことなのかわかっている。
謝らなければならない。懺悔しなければならない。憐れまなければならない。
そうしなければいけないとわかっているのに、どうしてか少し嬉しかった。
なんて悪い子なのだろう。自分が歩めなかった自由という道を壊したのに、優越感を抱くなんて。
自分が酷く穢れたような気がする。あの化け物のような、悪魔のような、悪いモノになってしまったのかと不安になった。
でも、だけど、嘘かもしれない。この大きな声を出す人は、嘘を吐いているのかもしれない。
そうだ。嘘ならば問題はない。自分に、こんな醜い心があるなんて気付きたくなかったけど、嘘ならば神様も許してくださるだろう。
確かめなければと、ハンネローレはゆっくりと歩き出す。細く開かれた扉に隠れるように、そっと部屋の中を覗いてみた。
「…………」
薄暗い廊下と違って、中は蝋燭に照らされ明るい。客間なのはわかっていたけど、初めてこの部屋の中を見た。
暖炉にベッド。小さなテーブルに二人並んで座れる程度のソファ。敷物がないから寒々しく感じる。何だか随分と狭いような気がしたけど、テーブルの横に置かれた酒樽がいけないのかもしれない。
そして、ソファに座る、知らない人。
初めて見る、知らない男の人。
「……んあ? なんだ、嬢ちゃん」
「…………」
癖のある黒い髪を後ろで乱雑に纏めている。茶色の瞳。恐ろしく酒臭くて、目尻だけうっすら赤く染まっている。
怖いぐらいに色っぽい。騎士として恵まれた立派な体鏸なのに、座っていても大きいとわかるのに、ドキドキするような色気を感じた。
格好良いと思う。いや、格好良いのだろうか。誰かと比べたことはないし、他人の顔をこんなに見つめたこともないからよくわからない。
けど、こういう男を、大人の色気があると言うのだと思う。天使様みたいに全身がキラキラしているように感じて、眩しくて直視してはいけない気がして、少しだけ目を細めた。
でも、何だろう。
「迷子か? それとも夜這いか?」
「…………」
あっはっはと、大きな声で笑い出す男に、ハンネローレは心の中で眉を寄せた。
酒に焼けたような声はざらついている。夜なのに大きな声で笑うから、礼儀がなっていないと少しムカムカする。
ドキドキとムカムカが合わさって、何を思えばいいのかわからなくなってきた。
やっぱり、さっき大声で怒鳴っていたのは嘘じゃないだろうか。自分で自分の道を作り出し、選び取って歩んできたという、偉業を成し遂げた男には見えない。
何ていうか、下品だと思う。野卑というか、ならず者じみているというか、品がなくて盗賊のようだというか、城の中にはいないタイプの男だと思う。
「どうだ? アンタも飲むかい?」
大きな手に持った大きな木のジョッキを掲げ、男は楽しそうに笑った。
酒を飲んで酔っ払っているから、楽しそうなのだろう。さっきまで愚痴を叫んでいたのに、まるで太陽のように笑っている。
酔っ払いに話しかけるのは初めてだ。あの部屋を出てから、ハンネローレは酔っ払いを間近に見たことがない。
「あの……先程の話は、本当、でしょう、か?」
「は?」
目を丸くする男に、そんなに酔っていないのかと不思議に思った。
あんなに大きな声を出していたのに、ハンネローレの質問に男は真顔になる。目尻が少し赤くなっている程度だから、そうやって笑うのをやめると、途端に普通の男の人に見える。
ああ、でも、少しだけ目を潤ませている。どうしてなのかわからないが、とても綺麗な瞳だと思う。キラキラと硝子みたいに光ってみえた。
「さっき? 何の話だ?」
「……………」
物凄く印象がぶれる。天使様のようで、ならず者のようで、混乱してきた。
だけど、やっぱり嘘だろう。
どう考えても、自由を掴み取った男とは思えない。
「……農家の生まれだった、と」
嘘だと言って欲しくて問いかけたのに、だらしなくソファに座る男はにやりと笑った。
「なぁんだ。俺様の武勇伝を聞きたいのか!」
大きな声で笑い出した男に、身体の芯が冷たくなったような気がする。
いや、でも、まさか。化け物には見えないけど、酔っ払いを信じるのは難しい。嘘に嘘を重ねているのかもしれないと、この男の言葉を嘘にしたい自分がいる。
そう思い込みたいぐらい、目の前の男は特別に見えた。
「ほれ、こっち来い!」
「…………」
ソファに座ったままの男は、自分の膝を叩いている。どうして叩いているのかわからないけど、無視して笑う男の目を見つめる。
少しだけ静かな時間が流れてから、男は苦笑して頭を掻いた。
「あ~、こっからずーっと西の方にある国だ。乾いた風が吹く、どうしようもなく痩せた土地だったな」
膝を叩くのを止めて、男は肩を竦める。酔っ払っているなんて思えないぐらい、低く落ち着いた声で語り出す。
その声に誘われるように、ハンネローレは少しずつ部屋の中へ入っていった。
でも、男には近付かない。男の座るソファを見ながら、開いた扉の近くから動かない。
「家を飛び出したのは七つの頃だ」
「…………ななつ」
男は手に持ったジョッキを樽の中に突っ込んで、ワインを汲んでいた。
ハンネローレの目を見てからジョッキを呷る。どれだけ飲むのだろうと不思議になるぐらい飲んでいる。
「何も持たねぇで、身ぃ一つで走ったのさ。馬すらなかったからな」
「……親は?」
「知るかよ。俺は俺の夢を追い求めたのさ!」
楽しそうに笑いながら叫ぶ男は、自信に満ち溢れていた。
嘘を吐いているようには見えない。ワインを飲んで酒臭い息を吐いて、まるで悪人のように笑うのに、どうしてか嘘じゃないような気がする。
目が、違う。かつての化け物たちと比べてはいけないのはわかっているけど、瞳は濁ってないし強い光があるように見えた。
どうしよう。嘘じゃないのかもしれない。いや、確かめなきゃいけない。
自由に生きているなんて信じたくない。敷かれたレールを進まなくていいなんて信じられない。
自分だけではなく、誰もが同じだと思っていたのに。
ハンネローレは無意識に男に近寄っていった。