武骨な騎士団長はきまじめ王女をメロメロになるまで甘やかしたい 2
「いろんな街に行ったぞ。騎士団に入れたのは豪運だったな!」
「……どうやって?」
「あぁ? 俺が用心棒やってた酒場にな! 飲みに来た奴に腕を買われたのさ!」
歌うように語る男の話は夢物語ではなく、実際に歩んできた人生らしいと、感覚で飲み込めてしまった。
本当なのか。信じたくないけど、本当なのか。ならば、自由はあるのか。
お伽噺でもない、吟遊詩人が語る物語でもない、ましてや夢物語などではなく、現実だったのか。
ああ、嫌だ。信じたくない。
それが本当なら、この男の偉業を自分が壊したことになる。浴びるように酒を飲んで大声を出す酔っ払いだけど、己で道を切り開き掴み取ってきた功績を、自分が壊してしまった。
それを、嬉しいと感じるなんて、優越感を感じるなんて、地獄に落ちても仕方のない悪い子ではないか。
「俺は強いからな! まぁ誘われるのは当然だな!」
「…………」
憎まれても仕方がない。呪われても仕方がない。この男が、ハンネローレの正体を知れば、きっと嫌いだと言うだろう。
だって、夢を壊した。道を砕いた。騎士団長になりたかった男の未来を、自分の存在が壊してしまったのだから。
きっと怒られる。怒鳴られる。叫びながら殴ってくるかもしれない。嫌われて、最低最悪の印象を持たれて、これ以上はないほど蔑まれる。
好かれるはずがない。そう思ったら、何故か心が落ち着いた。
「…………私のせいで、貴方は近衛兵になった」
仕方がないと割り切れたおかげだろうか、気が楽になる。これ以上、嫌われることはない。何を言っても、何をやっても、これ以上はない。
この男は、自分に何も求めてはこない。
「ああ?」
「………だから」
でも、どうしてかわからないけど怖かった。
この綺麗な目が、冷たく自分を睨み据えるのか。さっきみたいな大きな声で怒鳴られてしまうのか。そう思えば少し声が震える。
「私が次期国王。私の箔を付けるために貴方が犠牲になった」
「ん? あぁ~?」
男が手を伸ばしてもギリギリ届かない位置まで、ハンネローレはゆっくりと近寄った。
酒臭い。大きな樽の蓋は開いていて、どのぐらいまで減っているのかはわからないけど、酒が残っていれば酒臭いのは当たり前だろう。
まるで、部屋全体が酒に溺れているような気がする。なのに、男は目尻だけを赤く染めて、少し肩を竦めて言った。
「なんだ、嬢ちゃん。アンタ、王女サマってヤツか?」
「……ハンネローレ・フォン・クラインシュミット」
「あ? あ~? へぇ……?」
その表情と相槌がどういう意味なのか、どういう感情なのか、まったくわからない。男は少し離れたところに立っているハンネローレを爪先から頭の天辺まで眺めて、へぇとかほぉとか言っている。
「ふぅん……なるほどな。まぁ、いい! こっち来い!」
一通りハンネローレを見た後に、男はニカッと笑った。
嫌な態度を取られると思っていたのに、何故か男は笑いながら自分の膝を叩いている。こっちに来いと言いながら膝を叩くことに、何か意味はあるのだろうか。こんな態度を取られたことも、こんな仕草をする人も見たことがないから、どう返せばいいのかわからない。
「…………」
「おら、こっちだ、こっち!」
近付いていいのか悪いのかわからなくて、動かないでいたら腕が伸びてきた。
手を伸ばしても届かない位置だと思っていたのに、男の腕は思ったより長かったらしい。大きな手が腕を柔らかく掴み、少し強い力で引き寄せられる。
そして、気付いたら、男の膝に座っていた。
「……貴方は椅子になりたいのか?」
「あぁ? な~に言ってんだ?」
「椅子もソファもあるのに、どうして貴方の足に座らなければならない?」
ソファに腰かけ酒を飲んでいた男は、足を開いて投げ出している。その片方に座らされて、心の中だけで顔を顰めた。
座りにくい。足が床に届かないし、尻が温かいような気がする。
何がしたいのだろうか。椅子の真似をして、何か得になることでもあるのか。もしかして、男の人生を壊したハンネローレへの罰かもしれないと思ったけど、不快ではないから、こんなのは罰と呼べなかった。
「俺様の膝は高いからな! 光栄だろ?」
「……使用料を、払えということか」
「あ? 金なんざ要らねぇよ!」
「……今、高いと言った」
「はっはっは! 高いが金は取らねぇよ!」
高笑いする男に眉を顰める。
本当にわからない。何を言いたいのか、何を思っているのか、怒っているのか憎んでいるのか蔑んでいるのかすらわからない。
「……貴方は私に怒りをぶつける権利がある」
ゆっくりと顔を持ち上げ、男の顔を見た。
腿の上に座らされているのに、随分と顔を上げないと目が合わない。背が高いというよりは身体が大きいのかもしれない。少なくとも、この城にいる執事や使用人よりも大きな身体をしていると思う。
そして、酒臭い。匂いだけで酔いそうなぐらい酒臭かった。呆れたように、男は盛大な溜め息を吐いて、言った。
「んなことは王女サマが気にするもんじゃねぇ」
「どうして?」
「ガキはガキらしく甘えてりゃぁいいんだよ!」
大きな手がハンネローレの頭を撫でる。わしゃわしゃと、撫でるというよりは擦られる。強い力のせいで、頭がグラグラと揺れた。
「まぁ、嬢ちゃんのために呼ばれたってんなら、精々、面倒見てやろうじゃねぇか」
酔いそうなぐらいの酒の匂いと、グラグラ揺れる頭のせいで、男の言葉の意味がわからない。
まず、甘えるというのは何だろう。どうして面倒を見るなんて言うのだろう。
だって、この男にとって、ハンネローレは最悪の人間だ。己の偉業を壊した悪魔じゃないのか。
何故、お前のせいだと罵らないのか。何故、お前がいなければと殴らないのか。本気で意味がわからなかった。
「……面倒など見なくていい」
「あ?」
「貴方は初の女王になる私の箔を付けるために呼ばれた」
じっと、男の瞳を見つめる。事実を伝えなければならないと、自分の犠牲になったのだと、そう伝える。
「私の横に立っているだけでいい。クロイツ騎士団の次期団長としての威光を見せつけるだけでいい」
この男は、被害者だ。
ハンネローレの面倒を見る必要なんてない。己の力で掴み取った栄光を壊されたのだから、嘆いて憎んで呪ったっていい。
だけど、どうしたって、自由を与えることはできそうになかった。
だって、自分に何ができるというのか。自分のためだけど、自分が望んだわけではない。周りが決めたことに、ハンネローレが駄目だと言えるわけもない。
道は、決まっている。
誰が隣りに並ぼうとも、誰が先に歩いていても、進む道は決まっている。ハンネローレには自由なんてなかったし、何かを言う意味も見出せなかった。
「公の場のみ貴方が必要だ。それ以外は好きにしてもらって構わないから……」
「あぁ~? クソ生意気なガキだな!」
かなり真剣に言ったつもりだったが、男には通じなかったらしい。ハンネローレなりに精一杯、男の境遇を考えたのに、酒臭い息を吐きながら笑っている。
「王女だか女王だか知らねぇがな。ガキが気にすることじゃねぇよ!」
「し、しかし……」
また頭が揺れるぐらいに撫でられて、男の笑い声を聞いていたら頭が冷えた。
悪いことをしてしまったという罪悪感。それを喜んでしまった自分への失望。地獄に落ちるような恐怖だったが、被害者である男の雑すぎる態度のせいで馬鹿馬鹿しくなってしまう。
何だろう。大らかなのか。それとも気が抜けるのか。緊張感は霧散して、知らずに強張っていた身体が緩む。
「しかしもクソもねぇ! ガキは夢だけ見てりゃいいんだよ!」
「…………」
この男の傍は心地良いと、心が叫んでいた。
安心できる。落ち着く。肩の力が抜ける。会ったばかりなのだから、信頼しているというのは変だろう。なのに、どうしてか信頼しているような気がする。
好きなのか。惚れたのか。もしかしてこれは、吟遊詩人の謳うような、恋物語なのか。
わからないのは、どう見ても好ましくない男だったからだ。
「貴方はクロイツ騎士団の次期団長だというのに貴婦人への態度がなっていない」
「うっせぇなぁ。貴婦人じゃなくてお子様だろ!」
酒臭い笑い声を上げて、また頭が揺れるぐらいに撫でてくる。
こんな乱暴な扱いは初めてだけど、少しも嫌な気分にならない。酒臭いのも嫌なのに、大きな声も嫌いなのに、どうしてだろう。
「……が、ガキではありません。十三歳になりました」
「ああ? 聞こえねぇな~?」
にぃっと笑う男が憎らしい。本当に、ただの子供のようにあしらわれて、この男にとって自分は子供なんだと認識する。
「ほれ! 腹の底から声を出してみな!」
「……貴婦人は大声を出さない」
「んん? 聞こえねぇな!」
「…………」
本当に本当に、どうしていいのかわからなかった。
誰かの膝の上に座るのも初めてだし、次期国王でなくガキと言われたのも初めてで、混乱している。自分の口調が崩れているのも、顔が熱くなるのも嫌でもわかった。
「クロイツ騎士団の次期団長というのは礼儀がなっていない」
「ははっ。いいんだよ! 俺はクラインシュミット王国の近衛兵になったんだからな!」
自嘲するかのように笑うから、酒臭い息が顔にかかる。でも、クラインシュミット王国が馬鹿にされたというよりは、クロイツ騎士団の次期団長を諦めたように聞こえた。
ひやりと、心の奥底が冷えた気がする。
多分、きっと、この男は、直ぐにハンネローレの前から消える。この城から出て行くだろう。
自分で道を作ってきた男が、意に沿わぬ道を歩くわけがない。望みだった『クロイツ騎士団の団長』という地位を壊した、ハンネローレの傍にいる理由がない。このクラインシュミット王国にいる意味など、どこにもない。
「……貴方……お名前は?」
「あ?」
「名前。聞いてない」
「ああ! 俺様の名はニクラウス! 覚えておけよ?」
ニクラウスと名乗る男を見つめて、ハンネローレは深呼吸した。
最初から嫌われている。そして、きっと直ぐに居なくなる。ずっと傍に居てほしいなんて期待しなければ、それでいいじゃないか。
でも、この男の名は忘れないだろうと、少し残念な気持ちで思った。
クラインシュミット王国は、豊かな広い領土を誇る。
他の国よりも税は多いが、事業を興せばそれ以上の収入が期待できる。
大勢の民に、行き交う旅人。王都も賑やかで人々は活気に溢れていた。
豊かな国は狙われるというが、城を守る兵も多く、常に目を光らせている。今のところは他国との諍いもなく、平和を謳歌できていた。
しかし、豊かな国だからこそ、城の中では争いが絶えなかった。
王に相応しいのは、誰だ。この富と栄誉と権力を手にするのは、誰だ。虎視眈々と周囲を窺い、隙あらば失脚させ、油断すれば陥れられる。
そうして権力を得れば漏れなく金に溺れ、贅沢に耽り、享楽に浸る。酒を飲み、薬を使い、快楽を貪る。
足りない。まだ、足りない。もっと。もっと。どんどん人は強欲になっていく。目の色を変え、見境なく手を伸ばし、倫理も道徳も正義もない。
狂乱という言葉が相応しい。
己が富を手に入れるため。己だけが栄誉を手に入れるため。己が少しでも多くの権力を手に入れるため。取り憑かれたように、己のためだけに行動する──。
それが、クラインシュミット王国の城の実態だった。政がそれなりに行われていたのが奇跡のようだ。
次期国王は命を狙われた。次期国王候補も、次期国王候補になるかもしれない者も、王族は余すことなく命を狙われた。
止める者など存在しない。
ある者は毒で殺された。ある者は階段から突き落とされた。ある者は攫われたきり、帰ってこない。
腐りきった城の中で、腐りきった状況が続き、どんどん優秀な人材が減っていく。
それでも王の子供は多かった。腹違いのきょうだいがたくさんいたし、正妃が誰なのかわからないぐらいに側室もたくさんいた。
なのに、生き延びた子供は、たった一人だった。それがハンネローレの父だ。
大勢いる側室の一人が産んだ子供だったが、幼い頃から病弱だったので部屋から出ない生活を送っていたから生き延びられたのだろう。
しかし、ただ生き延びただけ。腐敗した城の中で育った子供の精神は壊れていた。目の前で母が殺され、ベッドで一人震えるしかできない状況で、まともな心が育つわけもない。
面倒を見てくれた乳母に依存し、乳母の娘と結婚する前に子を作っていた。
国王という肩書きがなければ、きっと静かに暮らすことができたのだろう。せめて貴族でなければ、体面を保つ必要のない生まれならば、王位継承権を持つ他の誰かが生き残っていれば、そのまま慎ましやかに生きていくことができたに違いない。
だが、彼は唯一の王位継承者。
たった一人生き延びてしまった、国王の血を継ぐ子供。
そんな彼に、周囲は厳しかった。
国王としての体面を保たなければならない。教会や民が納得する国王でなければならない。
本来、婚姻というのは、教会に認められて夫婦となるものだ。それから子をなす。順番を間違えてはいけない。それが普通であり当然のことだった。
だから、壊された。お前は国王になるのだからと、彼の全てが壊される。
今まで、誰も助けてくれず、何も言わず、何もしてくれなかったのに、いきなり次期国王だからと言われても困る。子供が子供を作るなんてと罵られ、こんな子供しか残らなかったのかと嗤われて。
大きな部屋に移動しろ。身形を整えろ。次期国王だという自覚を持て──。
何を言われているのかすら解らずに彼は困惑する。
心身共に追い詰められ、咳き込み熱を出し倒れて寝ている間に、寄り添ってくれた乳母と乳母の娘は城から追放された。
そして泣くことしかできない赤子と二人、取り残される。
次期国王という肩書きが重く圧し掛かり、それを巡って城内の派閥争いは激化した。
信心などなくても、教会の教えを守っていると示すため、司祭に認めてもらうためだけにあてがわれた新しい妻は直ぐに殺された。お前に新しい妻ができたと言われて三日後には死んだと言われ、名を呼ぶどころか顔すら合わせず消えていった。
何が起きているのだろうか。この城は、どうなっているのだろうか。身体が弱く、すぐに寝込んでいたから、何もかも全てが靄の向こうにあるようで、解らない。
どんな思惑があったのか、どんな派閥があるのかも知らない。けれど彼の周りには、ひっきりなしに人が現れた。欲に狂い、快楽に溺れ、貪るばかりの単純な人々が。
富と栄誉と権力。金と快楽と贅沢。それが欲しいと息を荒くする。
連日のように、部屋に忍び込んでくる女達。新しい妻の末路を知らないわけではないのに、王の血を継ぐ子供欲しさに部屋の扉を叩く。気持ちの悪い笑顔で珍しい食事を差し入れてくる者達。身体にいいからと、怪しい薬を持ってくる者もいる。
豪華で広い部屋の隅で、赤子を抱えて震えるしかできなかった。
だって、誰を信じればいいというのか。赤子の世話をする乳母ですら、数日で入れ替わる。親戚を名乗る者が有り得ないほど増えていく。
誰も信じられない。何も信じたくない。信じられるような状況ではない。
それなのに、次期国王という肩書きは、とうとう国王という肩書きに変わったのだった。
慰めも逃げ場も失い、失わずにすむモノを本能で探す。
誰ならば、自分を殺さないのだろうか。誰ならば、消えてなくならないのだろうか。誰ならば、ずっと傍にいてくれるのだろうか。
そして、目の前にいる小さな赤子を見て、この子ならば大丈夫だとようやく安心した。
お前が次期国王だと、まだ泣くことしかできない赤子に言う。自分は唐突に言われて困ったから、お前は最初から覚悟しておくといいと言う。
簡単に心を許してはいけない。だって、いついなくなるか解らないのだから。あっという間に消えてしまう者と親しくなると悲しくなる。世界は不条理で、誰も優しくない。覚えておかなければならないことは一つ。国王になることだけ。それだけを覚えておくといい。それ以外の道はない。それだけが、お前が歩む道だ。
壊れていても、国王は国王。部屋の中で飯事のような育児をして、一日の大半をベッドの中で過ごしていても、国王という肩書きはそのままだった。
だが、まともに執務などできるはずもない。パーティーに顔を出すこともなければ、狂乱に加わることもないまま、時が過ぎ。
ようやく良識のある者達の派閥ができた。
民からの税収に、街の整備。他国との交流に、城の警備に防衛。国王がやるべき仕事が多いと解ったのか、それとも面倒なことは他人がやるべきだと思っているのか、欲に溺れた者達はその派閥を認めた。
堅実に国を動かす者達を、つまらないことをする愚か者と決めつけ、ただただ楽しいことだけを繰り返す。酒を飲み薬を飲み色香に溺れ、快楽を求めることこそ尊い行為だと嘯いて、やがて自滅していった。
一人消え、二人消され、そうやって減っていったのは地位が高い者が多かった。良識派はある意味では雑用係と思われていたのかもしれない。
しかし、最終的に多く残ったのは良識派のほうだった。
良識派の面々は、この国は終わりだと嘆く暇もなく、大国が一つ潰れる損害を考えて奔走する。そして政をなんとかこなしながら、名ばかりであったが、国王はどこにいるのだろうか、と気付くのだった。ようやく自由に動けるようになったのだからと、皆で国王を探し始めた。
どれだけ欲に溺れていても、国王と呼ばれる者が一番の権力を持っていると解っていたのか、良識派の者達は随分と長い間、国王に接触することができなかった。
ひっそりと隠されるように閉じ込められていた国王の部屋の扉が開かれた時、泣くしかできなかった赤子は八歳になっていた。
国王は、自分の子供しか認識しない。
お前は次期国王なんだよ、と。そればかりを繰り返している。
ハンネローレ・フォン・クラインシュミットは、次期国王になるために育てられた。
◇◇◇
ハンネローレが八歳の頃、小さな世界に大勢の人が雪崩れ込んできた。
そして、この小さな世界は間違っていると、大勢の人が言った。
欲に溺れた者達のせいで、この国は滅茶苦茶になっている。今こそ変わらなければ。
今までの常識は捨てなさい。あなたの父はもう壊れてしまった。だが、国王という肩書きは他の者には務まらない。血筋だとか、継承権だとか、そういった伝統を重んじないと、国民が納得しないからと。
そのために、ハンネローレは次期国王として教育を受けなければならないと言った。
大勢の人が父は壊れたと言うのに、その父と同じことを言う。
間違っている世界でも、本当の世界でも、ハンネローレは次期国王にならなければいけないらしい。
ならば、そういうモノなのだろう。大勢の人に、父に返していた言葉を言う。
わかりました、と。覚悟はできております、と。
一応、貴婦人としての勉強はしていた。小さな世界で生きていた時、昼間に訪れる執事の中にハンネローレに語りかける者がいた。
これは貴婦人として、国王の正当な血筋の者として、当然の義務である。
色々と学ばなければならない。まずは読み書きを覚えて本を読みなさい。そう言って、たくさんの本を置いていった。
父も読み書きは教えてくれたので、本で学んだ。計算も、国の仕組みや仕事も学んできた。
だから、勉強は問題ない。だけど、貴婦人としての所作や言動が問題だった。
皆は言葉を濁すけれど、年齢の割に小さくて細くて貧相だと思われている。父が食事は危険だと言って、あまり食事を取らなかったせいだろう。それに、じっと動かず無表情で、話し方が事務的で柔らかさがないと言われた。
そう言われても、どういう意味なのかわからない。
何が普通の言動なのか、何が貴婦人として相応しい所作なのか、それがわからない。
だって、貴婦人を見たことがないのだ。扉の隙間から豪華なドレスを着た女性を見かけたことはあるけど、叫びながら踊っていたからあれは貴婦人ではないと思う。怒鳴りながら扉を叩いて服を脱ぎ出すのも、貴婦人ではないと思う。それに、読みなさいと言われた本の中には貴婦人は出てこなかった。
でも、それを口に出して言うことはしなかった。
言っていい言葉と、言ってはいけない言葉があるのを知っていたから。
唯一の話し相手だった父は、間違った言葉を返すと癇癪を起こした。病気のせいなのか、聞きたくない言葉を聞かないためなのかわからないけど、いきなり怒り出して倒れることもあった。
泡を吹いて倒れる姿が目に焼き付いている。悲鳴のような声を上げてから咳き込み、熱を出して寝込む姿が忘れられない。
それに、何を言っても意味はないのだ。
あの扉の外に出てみたいなんて、言っても出られるわけではない。窓から見える森の中に行ってみたいなんて、望んだって叶わない。
母という人は存在しているのか。どうして次期国王にならなければならないのか。疑問を口に出したって、要望を告げてみたって、どうしてそんなことを言うのかと怒られるだけだった。
怒られても、やらなければならないことは変わらない。言えば嫌な顔をされるとわかっている。ならば言う必要はないだろう。何も変わらないのなら、何も言わずに指示されたことだけをやった方がいい。
言われた通りに言葉遣いを変えて、口角を引き上げ笑顔を作る。貴婦人やお姫様が出てくるお伽噺を読む。
次期国王として相応しいドレスというのは苦しい。髪を結い上げるのは痛いし、宝石や金でできた装飾品は重たい。ダンスは足が縺れるし、馬に乗ると尻が痛い。
それでも何もかも飲み込んで、目の前に延びる道を歩いていく。夢や希望はお伽噺の中にしかないし、自由なんて存在しないと、知りながら。